一話 亀裂の瞬間、好都合
パンッと、弾かれる音が庭園に響き渡った。
王侯貴族が集うアルテミア王立学園には似つかわしくない暴力の音。
「近寄るな! 今すぐ目の前から消え失せろ!」
若い男の怒声が聞こえてきた僕は、音が聞こえてきた方を覗き見た。
赤い薔薇の生垣が広場を囲むように植えられた庭園の真ん中には一人の少女の姿。紺地のスカートに白のジャケット着た彼女はこの学園の女子生徒だ。
彼女は金の長い髪を繊細に編み込み一塊にした髪型で、片側だけ乱しながら呆然とした様子で誰かを見つめていた。
僕は彼女を知っている。彼女はマリアンナ・フェルディマンド、公爵令嬢。兄の婚約者。
「ギ、ギルバート様……」
「聞こえなかったのか、さっさと失せろと言ったんだ」
相手の声は兄上だ。
じゃり、と砂を踏む音が聞こえる。
マリアンナは赤くなった手の甲を抑えながらくるりと向きを変えると、僕の方に向かって走り出した。気付いていないのか、颯爽と風が脇を通り抜ける。
マリアンナがいなくなった後、兄はうっとりと目を細めると僕からは見えない方に顔を動かした。
「すまない、君を怖がらせて……ミリー」
「い、いいえ。殿下」
可愛らしい、鈴虫が鳴いたような声。
僕はほうと呟いた。
なるほど、兄上は転校生にうつつを抜かしているらしい。
頬が上がる感覚に、僕は口元を押さえた。沸々と湧き上がるのは怒りではなく、高揚感。
(ああ、やっとだマリアンナ……今度は手放さないよ)
少し顔を出し、兄が転校生の髪を優しい手つきで撫でるのを見る。
アルテミア王国第一王子、ギルバート・フォレクシア。婚約者のマリアンナに手を挙げ、別の女の虜になっている愚かで哀れな第一王子。
あの女の魅力に囚われているのも、彼女が放つ魅了の呪いの力であることにも気付かずに、婚約者を突き放す愚か者。
僕は足音を立てず踵を返すと、マリアンナが走った先を追いかけた。彼女はきっと、庭園の隅で泣いている。なぜわかるかって? 涙脆いことを僕は知っているからだ。
「……フッ、神は僕に味方した」
ああ、マリアンナ……アン、君は僕のものだよ。
今度はもう手放さないから。
やり直された世界で今、君との二度目の恋を始めよう――。
校舎の壁に向かってしゃがみ込む背中を見つけた。乱れた髪を直すこともなく、彼女は小さく肩を震わせていた。
見つけた、アン。
僕はたまたま居合わせた体で彼女に声をかけた。
「おや? そこにいるのはフェルディマンド嬢じゃないですか」
「あ……セオドール殿下……?」
「こんなところで何を、て、フェルディマンド嬢! どうされたんですか、その手は。なんて痛々しい」
「あの、セオドール殿下。なんでもございませんわ。周囲の物に、ぶつけてしまって」
言い訳をする彼女の顔は赤らんでいて、僕に泣いていたことを悟られたくなくて必死にごまかす姿が愛らしい。おっと、ここで笑顔を見せてはいけない。アンの瞳に僕だけが映るのを堪能しつつ、彼女の血がうっすらと滲む手をそっと取った。
「セ、セオドール殿下」
「よかったらこれでも巻いていて。部屋に戻れば君の執事がいるのかな? それまでこれで隠しておいて」
「あの、その、こんな物をお借りするわけには」
「気にしないで。この後もそのまま使ってくれていていいから」
僕は胸元のポケットから滑らかな照り具合のある白いハンカチを取り出すと、彼女の手に巻きつけた。解こうと身を引きそうになったマリアンナを、手を掴んでこの場に縫い付ける。
「そんな、いただけません!」
「ならいつか返しておくれ。僕としては、ずっと持っていてくれても構わないのだけど」
キツくないように優しく巻きつけ、だが解けぬように結び目はきっちりと。
彼女の体に僕の物が触れている。今はまだ、僕の兄・ギルバートの婚約者である彼女の手に。
「部屋まで送ろうか、フェルディマンド嬢」
「い、いいえ、結構ですわ。私といるところを見られては、セオドール殿下の評判にかかわりますもの」
まるで自虐するような物言い。そんな風に言わなくていいのに。
「そう? 帰り道は足元に気を付けて。これ以上愛らしい君の肌に傷が付いたら大事だ」
「お、大袈裟ですわよ殿下……。ありがとうございます。後日、お返しいたしますわね」
「うん。楽しみにしているよ。あ、くれぐれも兄上に渡そうなんて考えないで。それは兄上のじゃなくて、僕のだから。僕が君に巻いてあげたんだから……ね?」
兄を経由して返却なんてことをしてみてごらん。あの愚兄は転校生ミリーことミリエラにお熱だ。転校生をいじめているらしいと悪評が付いた婚約者から渡された物は勝手に処分してしまうだろう。
だから絶対に僕に返しに来てね、そう念を押す。
「わ、わかりましたわ……セオドール殿下」
「では、フェルディマンド嬢。また明日の授業で、かな」
「し、失礼いたします!」
目の前を彼女が通った時、さわやかな自然の香りが通り過ぎていく。ふわりと鼻の奥をなでた香水の匂い。巷のレディたちが好むような甘いフローラルな香りではなく、瑞々しく生えた草の香り。
彼女の靴音が聞こえなくなる。
「……ああ、許せないなぁ」
独り言が壁に跳ね返り、鼓膜をゆすった。
彼女は兄の婚約者。
マリアンナは僕の物だった。僕……いや、前の『俺』の物だった。
僕はかつて、あの愚兄だったーー。
悪女の呪いにたぶらかされ、愚かにも『俺』は彼女を突き放し、あろうことか破滅の魔女の名を背負わせた。愚かで情けない第一王子。
僕の前世はギルバート・フォレクシア。
愛していた婚約者の命を奪った極悪王子。ミリエラの呪いに負け、婚約者を死に追いやった同情のしようもないクズ。
前世では隣国からの帰り道、崖から転落した馬車に押し潰されて死んだ。意識が遠ざかっていく中で解けた悪女ミリエラの呪いは、死の間際で『俺』に現実を突きつけた。
婚約者のマリアンナを追い詰め、その命を奪ってしまったという事実をーー。
僕は死んで、生まれ変わった。
今の僕はセオドール・フォレクシア。アルテミア王国第二王子でギルバートの双子の弟。
僕がギルバートだった時にはセオドールなんて弟はいなかった。同じ過去を繰り返しているわけではないらしい。
過去に遡った世界で、幼いマリアンナと再会した僕は大いに喜んだものだ。今度こそ幸せにしてみせるよ、もうあの女に誑かされたりなんてしない。今度は君を一生守り抜くと。だけど父王の取り決めは僕を地獄の谷底に突き落とした。
マリアンナはギルバートの婚約者に決まったのだ。セオドールのではない。
当たり前だ、前でも彼女は公爵令嬢で第一王子の許嫁だったんだ。
「……兄上にミリーをあてがえば、アンは僕の物」
兄がかつての僕だろうが関係ない。
アンへの愛は負けていない。
今の僕なら、彼女を最期まで愛することができる。
あの悪女が今回もギルバートを手籠めにしようとしているなら都合がいい。
くつくつと笑いがこみあげてくる。
ああ、アン。
今度こそ幸せにしてみせるよ。




