私はお母さん
先生との会話の中で、私は卑しい考えを少なからず持った。──もし先生と結婚したら、共稼ぎなどしなくても暮らしていけるんじゃないか、と。
もちろん明確な先生の収入を知っているわけではないが、シュウより稼いでいることに間違いはない。博士号を持っていると聞き、漠然と将来的にも有望だろうと思った。先生が今の仕事を続けているかぎり、生活に困ることはないはずだ。
……汚い女だ。この時の私は、そんな不透明な未来を作り上げることができるという根拠のない自信に満ちていた。
将来に対して──退院後の生活に対しての不安感と、理由もわからず疎遠になっているシュウへの疑念とが、私の考えをあらぬ方向へ飛躍させていた。
帰りの駅。このあとに聞く先生の言葉も知らず、私は先生との関係を進展させることだけを考え、勝手に気持ちを盛り上げていた。
「今日はとっても楽しかったよ♪ ありがとう、先生!」
「喜んでもらえて良かったよ。治療もあと少しで終わるし、退院できたらしっかり頑張っていくんだよ」
そんな先生の言葉に若干の違和感を感じたが、私はそれを無視して話を進めた。しかしそれは、安っぽいドラマの始まりだった。
「退院かぁ……。そしたら先生にも会えなくなっちゃうね」
「ん? はは、そうだね。喜ばしいことじゃん」
(──え?)
「……なんで?」
「だってさ、退院してからも会うことになったら、治ってない証拠だろ?」
「それは……そうだけど……」
「今日だって、早く良くなるように俺のおすすめの店に連れてったんだから。これで退院できなきゃ報われないよ!」
あはは、と笑いながら言う先生。私は何も言えなくなってしまった。
しばらく黙っていると、私の気持ちを読むように「実は……」と先生が静かに話し始めた。
「……実は、君が俺に好意を持ってくれてることは気付いていたんだ。だから、俺と話したりこうやって出掛けたりすることが、病気への不安を少しでも和らげるなら、と思ったんだけど……」
先生は私の反応を窺うように一旦そこで言葉を切ったが、まだ何も言えない私の様子を見て、さらに声のトーンを下げて話を続けた。
「まさか、こんな短期間でそこまで想ってくれるようになるなんて思わなかった。……余計なことしちゃったね。ごめん」
謝られて、さらに私はどうすればいいのかわからなくなった。先生の目を見られない。先生のいるほうへ、顔を向けられない……。
「でも……俺は純粋に、早く治ってほしいと思ったんだ。とくに君のガンは、ほとんど前例のない珍しいガンだ。抗ガン剤は思いのほか効果的だったかもしれないけど、放射線はまだ効果がわからない。その前にこういう機会が持てたから──君がその機会を作ってくれたから、俺は自分の受け持った患者さんのために、できることをしようと思ったんだよ」
……患者さん……。
(そっか……そうだよね……。何、勝手に盛り上がってたんだろ……)
本当に、どうしようもない馬鹿な女だ。勘違いしていたのは先生ではなく、初めから私のほうだった。自分の思い込みの激しさに赤面し、涙がこぼれそうになった。
「俺は──」
「先生!」
また何か話そうとした先生の言葉を遮る。
「ありがとう。ホントに今日、楽しかった。……退院できたら、再発しないように頑張るよ!」
「……うん。頑張って、応援してるよ。何かあったら、いつでも相談してきていいからね」
(……先生、嬉しいけど……これ以上、恥ずかしい思いしたくないから……)
このままでは本当に泣いてしまいそうだ。私はしっかりと先生のほうへ向き直り、弱い気持ちを押し込めるように言った。
「大丈夫だよ。私、子供二人もいるお母さんだもん! 母は強し!」
(──そうだよ。こんなことしてる場合じゃない)
「ははは、そうだったなぁ。子供のためにも頑張らなくちゃね!」
「うん。じゃあ……帰るね! あ、明後日の照射って先生だっけ?」
「いや、違うよ。だから今日出掛けたってのもあるんだけど」
ほっとしたが、少し残念な気持ちがあったことは否定できない。
「そっか……。じゃあ病院のどこかでばったり会わなかったら、今日で最後だね。──ごちそうさま! ありがとね、先生!」
「うん、こちらこそ。しっかり頑張っていくんだよ」
「は〜い。先生も今日の夜勤、頑張ってね! バイバイ!」
「バイバイ」
最後まで気遣ってくれて、私の病気に対する不安を少しでも取り除いてくれようとした、小泉先生。あとにも先にも、ここまでしてくれた先生は他にはいない。
それだけでなく、今回の私の行動の浅はかさや、何が一番大事なのかも気付かせてくれた。──本当に、ありがとう。
(さて、と! 帰って晩ごはん作ろっ!)
私にとって、一番大事なことは……母親であること。ユヅキとジョウを笑顔にさせること。それを、ずっとずっと続けてゆくこと。そのために、私は頑張ってガンと闘っていかなければ。
(う〜、さむっ! 早く帰ろ〜)
さっきまでは感じなかった空気の冷たさが、急に体に凍みだした。どこか別の世界へ行っていた心が、ようやく自分の中に戻ってきたようだった。