第二章 最低だった婚約者
湯に肩まで浸かると、張り詰めていた身体が少しずつほどけていった。浴室には湯気が満ち、侍女たちの足音が濡れた壁に柔らかく響いている。何も考えずにいようと目を閉じたのに、空色の布に続いて浮かんできたのは、もう一年近く会っていない男の顔だった。
「・・・ライエル」
口に出した途端、メリルは眉を寄せた。よりによって今日、元婚約者を思い出すことはないではないか。しかも昔の彼は、懐かしむのにふさわしい相手とは到底いえなかった。
ライエル・フォン・ヘルリッヒ。王国西端を守る辺境伯家の嫡男で、メリルより二つ年上だった。本人も辺境伯を継ぐ前から男爵位を持ち、いずれは王国随一と評される領兵を率いる身である。騎士の家系らしく恵まれた体格、家柄と将来性だけを見れば、公爵家に生まれた令嬢の婚約者として不足はなかった。
ただ問題は、それ以外のほとんどすべてにあった。
社交界へ初めて顔を出した日の彼は、女性と見れば見境なく声を掛け、断られても相手が恥じらっているだけだと信じていた。ついには給仕の娘まで困らせ、翌日には王侯貴族たちの笑い話になった。それでも本人は、女が放っておかないのだと胸を張っていたのだから、反省を期待するだけ無駄だった。
髪も服もろくに整えず、食事の作法も荒い。メリルと会えば当然のように肩を抱こうとし、身を引くと不満を隠そうともしなかった。胸元へ向ける視線には遠慮がなく、婚約を盾にすれば何でも許されるとでも思っているようだった。
メリルは幾度となく、開いた扇の陰で息を整えた。自分の身体に触れるかどうかを、自分で決められない。その不快さを、彼は一度も理解しようとしなかった。
「よく耐えたわね、私」
「何かおっしゃいましたか、姫様」
「いいえ。お湯がちょうどいいと思って」
キャリーに取り繕いながら、メリルは湯の中で指を握った。耐えられたのは、あの婚約がいつか終わると知っていたからだ。
ヘルリッヒ辺境伯家には、亡き王弟の娘セシリアが預けられていた。王家を取り巻く事情から、まだその血筋を公に扱うわけにはいかず、辺境伯夫妻が娘同然に育てていたのである。けれど、いずれ王族として迎えるなら、それにふさわしい教育が必要だった。
その役に選ばれたのがメリルだった。王宮の慣習を知る公爵令嬢であり、年齢も近い。礼法を教えるだけでなく、相談に乗り、将来の社交界へ導くこともできる。ただし、公爵家の娘が理由もなく何度も隣国との国境に近い辺境伯領を訪ねれば、かえって人目を引いてしまう。
そこでライエルとの婚約が結ばれた。未来の嫁ぎ先を訪ね、義妹になる少女と親しく過ごす。それなら誰も怪しまない。両家と王家、それにごく一部の関係者だけが、その裏にある目的を知っていた。
当のライエルには、少なくとも婚約を結んだ当初、何も知らされていなかった。口を滑らせかねない彼に秘密を預けられなかったのだ。本人はただ喜び、メリルは自分の妻になるのだと、聞かれてもいないのに触れ回った。
欺いているという後ろめたさが、まったくなかったわけではない。だが、会うたびに不快な振る舞いを重ねられると、その気持ちは簡単に薄れた。これはセシリアのためで、いずれ円満に解消される婚約なのだ。メリルはそう言い聞かせ、長い道のりを通った。
セシリアとの時間は楽しかった。礼の角度を何度も直し、舞踏で足を踏まれ、失敗すると噴き出して、二人で笑う。あの少女が王立学院を卒業し、正式に王族へ戻れば、自分の役目は終わる。その先にはイルヌスがいる。そう思えば、ライエルとの茶会にも笑顔で座っていられた。
彼の悪評はやがて彼が学院に通う頃に決定的となった。入学からたった一日での退学処分。詳しい事情を尋ねる気にもなれず、メリルは噂を聞いたとき、ただ疲れたため息を吐いた。領民や使用人への横暴まで耳に届くにつけ、この人と将来を共にすることはない絶対にないと、強く心に誓ったものだ。
それからしばらくして、ライエルが事故に遭ったという知らせが来た。
命に別状はないと聞き、メリルは予定どおり辺境を訪ねた。見舞いの挨拶をすれば、きっと大げさに甘えられる。そんな覚悟をしていたのに、出迎えた彼は、いつものように距離を詰めてこなかった。
「長旅で疲れただろう」
少し困ったように笑ったその男は、驚いているメリルに、ごく当たり前のことのように告げた。
「俺に付き合う必要はない。少し休んだら、セシリアのところへ行ってやってくれ」
あなたが来てくれることを妹は楽しみにしていた、と告げて、早々に席を立つ彼をメリルは黙って見送るしかできなかった。用意していた見舞いの言葉も、喉を通る前に終わってしまった。顔も声も間違いなくライエルなのに、その口から出た言葉だけが、知っている彼のものではなかった。
ライエルは、転生者です。事故で前世の記憶が蘇ったという設定です。




