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第二九話 ゆいなの誕生日

 犀川先輩のグラスの中で、最後の氷が音を立てて溶けきった。場に落ちた沈黙の中で、彼女はまるで凄惨な事件現場でも目撃したかのように、呆然と固まっている。


「…これが、ゆいなに起こったすべてです」


「懐かしいね。ちょっと、胸が痛くなるけど」


 エリが言葉を選びながら話し終えると、私は意識を過去のよどみへと沈めてみた。あかねを追い詰めてしまった事実は消えない。今日まで、誰の目にも留まらないような影の薄い生活を徹底してきた私は、果たして彼女に正しく贖罪できているのだろうか。


「ゆ、ゆいなぁ〜っ!」


 過去の輪郭をなぞっていた私の思考は、突如として遮断された。隣に座っていた先輩が、耐えきれないといった様子で私の肩に顔を埋めてきたのだ。その瞳には、今にも溢れ出しそうな大粒の涙がたまっている。


「ちょ、ちょっと!犀川先輩!?」


「うわぁ〜ん!ゆいなにそんな過去があったなんて、なんで教えてくれなかったんだよぉ!」


「いや、教えたらこうなるじゃないですか。今はもう、大丈夫ですから。ね、離れてください!」


 ネオジム磁石のようにぴったりと密着して離れない先輩を、私は必死に引き剥がそうとする。けれど、目の前のエリまでもが膝の上で拳を握りしめ、肩を震わせてうつむき始めた。


「ほんとに…ゆいなが、元気でいてくれてよかった…」


「なんでエリまで泣くの…もう、収集つかないじゃん」


 空になったグラスに涙を注ぎそうな勢いの彼女をなだめようとするが、犀川先輩の腕の拘束は、まるで、もうどこへも行かせないと主張するように強まっていく。


 私の不祥事のはずなのに、なぜこの人たちがこんなに悲しむのか・・・理屈では納得がいかない。けれど犀川先輩達と過ごす時間の中で、私の頑なだった心が少しずつ、外側へ向かって開いていることを否定しきれなかった。


「…ゆいな。あなたのことは私が守るから。絶対に、安心していいからね」


「余計なお世話ですよ…」


 自慢の柔らかな胸を私の頬に押しつけてくる先輩に、文句を言いながらも身を預けてしまう。するとエリが唐突に、椅子を引いて彼女へ深く頭を下げた。


「ありがとうございます、犀川先輩。私の代わりに、ゆいなを守ってくれて」


 急な感謝に目を丸くした先輩だったが、すぐにエリへ向けて、太陽のような笑みを返した。

「当たり前だよ! 私の大事な、かわいい後輩なんだもの」


「私の知らないところで、勝手に変な絆を芽生えさせないでくださいよ」


 深いところで繋がってしまった二人にため息をついていると、先輩は流れるような動作でスマホを取り出し、エリの目の前へ突き出した。画面には、連絡先交換の二次元コードがでかでかと光っている。


「よし、エリちゃん。私たち、連絡先を交換しよう!」


「はい! 犀川先輩!」


 意気投合した二人は、迷いのない手つきで縁を結んだ。学園の人気者である犀川先輩の連絡先を手に入れ、エリは宝物でも手にしたかのようにスマホを眺めている。


 その様子を横目に、私は自分のスマホを操作し、彼女の前に差し出した。


「…はい、エリ」


 画面には、私自身の二次元コードが表示されている。それを見たエリは、一瞬だけ動きを止め、それからおどけるように、けれど酷く臆病な眼差しで私の顔を覗き込んできた。


「…いいの? ゆいな」


 今にも泣き出しそうな、許しを請うような声。かつて私は彼女を拒絶した、だからこそ今度は、私の方からその溝を埋めるべきなのだ。


「うん。今の私に、君を拒絶する理由なんてないし。また…昔みたいに、遊ぼうよ」


「…うん。絶対だよ、ゆいな」

 

 宝物を噛み締めるようにゆっくりと、エリは私のコードを読み込んだ。追加の通知を確認し、私は彼女に、精一杯の微笑みを送る。


「そういえば! ゆいなに渡したいものがあったんだ!」


「私に…?」


 エリが鞄をかき回し、取り出したのは一通の封筒だった。促されるままに端を破り取ると、中から可憐な花々が描かれたカードが顔を出す。


「これって、図書カード?」


「うん。ゆいな、そろそろ誕生日でしょ?いつか会えたら渡そうと思って、ずっと持ち歩いてたんだ」


 手の中で照明を反射するカードを見つめる。私が今でも純文学を愛していることを、彼女は覚えていてくれたようだ。


「あ、ありがとう!大切に使わせてもらうね」


「うん、ハッピーバースデー!まだ数日早いけど!」


 親友と仲直りの契約を交わしたところで、店の奥から申し訳なさそうな顔の店員が近づいてきた。


「すみません、お客様。ラストオーダーの時間となりますが…」


「いえ、もう出ますので。ありがとうございます」


 メニューに目を落とす間もなく、犀川先輩がスマートに断りを入れた。店員が戻るのを見送って、私たちは伝票を手に、温かな店内の空気から夜の街へと踏み出した。


 ファミレスの外は月が天高く昇り、冴え冴えとした光を放っていた。冬の終わりの肌寒さに身を縮めると、隣を歩く犀川先輩が当然のように私の肩を抱き寄せる。


「じゃあね〜!ゆいな、元気でね!」


「うん!ありがとう、エリ!」


 反対方向へ進むエリの背中が見えなくなるまで手を振り、私たちは自宅への道を歩き出す。街灯が等間隔に夜道を刺す中、先輩が不意に私をさらに引き寄せた。


「ゆいな…プレゼントに、何か欲しいもの、ある?」


 彼女は私の目を見ようとせず、前方を見つめたまま尋ねてきた。日々、奢ってもらったり世話を焼かれたりしている私にとって、これ以上望むものなど思い浮かばない。


「えぇっ? そんな、申し訳ないですよ。先輩から誕生日プレゼントなんて」


「へぇ…私にはそんなふうに遠慮するのに、エリちゃんにはしないんだね」


 嫉妬だろうか・・・頬を膨らませる先輩に私は少しだけ戸惑い、それから本音を呟いた。


「犀川先輩がくれるものなら、なんだって嬉しいですよ。…本当に、それだけです」


 その一言をきっかけに、私たちは言葉を失った。気まずいわけじゃない。ただ夜の空気が少しだけ濃密になり、重なる足音だけが鼓動のように響いていた。最後に見た先輩の背中は、月の光を反射して、いつもより少しだけ特別に見えた。


 二月十八日、私の誕生日を迎えた。登校して早々、私は二人の先輩に行く手を阻まれることになった。


「甘野さん、お誕生日おめでとう」


「めでたいね、甘野さん」


 仁王立ちしているのは、珍しく髪を下ろして大人びた雰囲気の姫山先輩と、いつも以上にキザなオーラを纏った白崎先輩だ。朝からあまりに眩しい視線に、居心地の悪さが胸を突く。

「あはは…ありがとう、ございます」


 視線を泳がせていると二人は顔を見合わせ、仰々しい包みを差し出してきた。


「私たち二人からのプレゼントよ。ぜひ、受け取って」


「…なんですか、これ」


 姫山先輩から受け取った包みを剥がすと、二枚の紙が現れた。


「私のバイト先のクーポン券よ!」


「僕の、秘蔵セルフィさ!」


「燃やしときますね」


 メイドカフェのチェキ券と、恍惚とした表情の自撮りという、くだらない紙切れ・・・反射的に毒づくと、二人は慌てて手を振った。


「待って、冗談だから!」


「そうそう、本気じゃないよ!」


「まったくもって、笑えない冗談ですね」


 紙切れを投げやりな手つきでポケットに突っ込む。すると二人はひそひそと打ち合わせをした後、今度は本命らしき、ずっしりとした箱を手渡してきた。


 疑いながらも蓋を開けると、そこには艶やかに黒光りする万年筆が、静かに横たわっていた。


「…万年筆、ですか」


「ええ。書く人間にとって、筆記具はお守りになるでしょう?」


「噂では、永井荷風が使っていたものと同じ系統の骨董品らしいよ」


 姫山先輩の財力と、白崎先輩の執念に近い行動力から考えて、これがとんでもなく貴重な品であることは想像に難くない。私には分不相応だと感じたが、二人の真っ直ぐな好意を無下にする言葉は出てこなかった。


「…大切にします。ありがとうございます、お二人とも」

 

 万年筆を鞄にしまうと、二人は満足げに微笑んだ。そして、姫山先輩がふと思い出したように背後を気にする素振りを見せる。


「あとは、あの子のプレゼントも貰ってあげてね」


「あの子って、犀川先輩ですか?」


 帰り道の会話を思い出す。彼女が私に何を用意しているのか、期待と少しの不安が混ざり合う。


「ああ。今日は両手からはみ出るほどの大きな包みを持っていたからね。君に渡すのを、朝からずっと楽しみにしていたみたいだよ」


 その言葉を最後に、二人は去っていった。授業中もどこか心ここにあらずで、放課後になると、私は吸い寄せられるように図書館へと足を急いだ。


 いつもの場所にたどり着くと、椅子に座って足を揺らしていた犀川先輩が、パッと顔を輝かせた。


「あっ、ゆいな来た!」


 駆け寄るなり、先輩の手が私の頭をわしゃわしゃと激しく撫で回す。驚愕する私をよそに、彼女は楽しげに笑った。


「誕生日おめでとう、ゆいな!これでまた一歩、大人に近づいたね〜」


「そう言いながら、子供扱いしないでください!」


 満足したのか先輩はしゃがみ込み、足元にあった巨大な箱を持ち上げた。


「はい!これ、プレゼント!」


 投げ落とすような勢いで渡された箱を受け止める。見た目は舌切り雀の大きなつづらのようだが、驚くほど軽かった。


「開けても…いいですか?」


「うん!どうぞどうぞ!」


 期待に満ちた先輩の前で、丁寧にラッピングを解く。中から現れたのは、ふわふわとした毛並みをなびかせる、一匹の熊だった。


「これは…テディベア、ですか?」

 

 両手で抱えるほどの大きさの、愛らしいぬいぐるみ。先輩はその頭を慈しむように撫でた。

「そう!街で見かけて一目惚れしちゃって。なんだか、ゆいなに似てるなぁって」


「…嬉しいですけど、どこが私に似てるんですか?」


 私にこんな愛嬌があるとは、微塵も思えないが。


「ほら、このふわふわした感じとか」


「私は犬か何かですか…?」


 私の頭と熊の頭を交互に撫でる先輩の姿に、私は唇を尖らせた。けれど、胸の中にすとんと落ちるような、確かな重みがある。


 この年齢でぬいぐるみを贈られることなど想像もしていなかったが、先輩からの贈り物だと思うと、不思議と特別な価値を持って脳に刻まれた。


「ねえ、これを私だと思って、抱いて寝てほしいな…」


「やめてください! なんか卑猥です!」


 テディベアの胸あたりを揉みながら、自身の胸を寄せてくる先輩。純粋なぬいぐるみを使って何を誘惑しているのか。私は目を逸らしながらも、腕の中の熊をぎゅっと抱きしめてみた。


 中綿の弾力が、さっきまで私を撫でていた先輩の腕の感触を思い出させる。人肌のような温もりさえ感じるような錯覚だった。


「そういえば、林間学校ってもうすぐだよね?」


「はい。この週末からです」


 金曜日から三日間、私はこの街を離れて山奥の施設に隔離される。一年生にとっては一大イベントだが、影の薄い私にとっては、クラスメイトとの共同生活など地獄でしかない。


「そっか…ゆいなと、ちょっとだけ会えなくなるんだね…」


 しゅんと耳が垂れ下がったような、落胆した先輩の顔。たった三日間なのに、まるで永遠の別れのような重苦しさだ。


「安心してください。ちゃんとお土産、買ってきますから」


 その言葉を聞いた途端、先輩の顔がパッと明るくなった。本当に、この人は分かりやすい先輩だ。


「お菓子!お菓子がいいな!」


「はいはい、地域限定のものを探してきますね」


 ポケットには万年筆、両手には巨大なテディベア、私の誕生日は、多くの人の温度を感じながら幕を閉じた。


 自室に帰り、ベッドの上に鎮座する巨大なぬいぐるみの置き場所に困りながら、私はそのふわふわとした毛並みに、こっそりと顔を埋めた。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!

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