第4章:国家の防壁と非課税の神殿
財務省の地下資料室に響く足音は、まるで歴史の深淵へと吸い込まれていくかのように重たかった。
蛍光灯の低いハムノイズの中、一人のキャリア官僚が、国家の資産運用政策をまとめた分厚い法規集と、民間の投資信託が描き出す複雑なリターンのグラフを並べて冷ややかに見つめていた。
「なぁ……」
背後から、経済政策チームの補佐官が疲労の色をにじませた声を投げかける。
「世間の個人投資家たちは、自分たちがNISA口座を使ってネット証券でインデックスファンドを買い付けているとき、どこかで『国がこの資産形成を直接バックアップしてくれている』という安心感を抱いている。だが、実際のところ、国家はこの個人の投資に対してどこまで踏み込んでいるのだろうか? もしかしたら、いつの日かこの私的な運用に対しても、直接的な補助金や手厚い助成の手が差し伸べられる日が来るのではないかと期待している者さえいる」
官僚は冷ややかに鼻で笑い、手元の法規集の一節を万年筆の金属質なペン先でコツコツと叩いた。
「甘い幻想だな。そんなお伽話がまかり通る余地は、日本国の法律と財政の仕組みには一ミリたりとも存在しない」
男は椅子に深く腰掛け、国家と金融を隔てる「制度の防壁」の正体について、凍りついた声で語り始めた。
一、補助金という幻想と「自己責任」の鉄則
「まず大前提として刻み込んでおくべきことは、政府や自治体が、特定の金融商品――たとえそれがどれほど国民に普及していようとも、投資信託や株式の購入に対して直接現金や補助金を支給するような施策は、法制度の建前上、絶対にあり得ないということだ」
補佐官はわずかに眉をひそめた。
「しかし、国はこれまでも様々な産業やエコカー、あるいは住宅購入に対して補助金を出してきたではありませんか」
「それは実体経済の生産活動やインフラ投資の話だ」
官僚の声には、一切の妥協を許さない冷徹な響きがあった。
直接の補助・助成は「原則ゼロ」
金融商品はあくまで個人の自己責任――『セルフ・レスポンシビリティ』に基づく私的な資産運用の領域に属している。もし国家が、個人の株式投資やファンドの購入に対して直接現金を給付したり、損失を公金で補填したりするような真似をすればどうなるか? 投機的な失敗のツケをすべて国家財政が肩代わりさせられることになり、市場はモラルハザードの極限に陥り、国家財政そのものが一瞬で破綻する。
唯一の武器:税制上の優遇(非課税という名の庇護)
「では、国は完全に冷淡に市場を放置しているわけですね?」と補佐官が問う。「いや、完全に放置しているわけではない。直接の現金を配る代わりに、国が用意した究極のツールが『税金を免除する(非課税にする)』という間接的な政策的優遇だ。それが、日本中を席巻しているNISAであり、iDeCoという名の国家的な税制支援インフラなのだよ」
二、NISAという名の検問所:排除されるデリバティブとオプション
「だがな……」
官僚のトーンが一段と鋭くなった。
「その国が用意した『非課税の神殿』であるNISAの門をくぐれるのは、あらゆる金融商品が無条件で許されているわけではない。国が『国民の安定的な資産形成にふさわしい』と厳格に認めた、極めて健全な王道の器だけだ」
男は、金融庁が定める冷徹な除外規定のリストを指し示した。
NISAのつみたて投資枠はもちろん、比較的自由度の高い成長投資枠であっても、以下の商品は容赦なく対象外として弾き出されている。
デリバティブ取引を積極的に用いたファンドの全面排除
「市場の暴落から資産を守るための純粋なリスクヘッジ」という極めて限定的な目的を除き、積極的にプットやコールといったオプション取引や複雑なデリバティブの仕組みを組み込んで超高リターンや特殊な値動きを狙う投資信託は、「ハイリスクであり、構造が一般市民にとって複雑怪奇すぎる」として、NISAの対象から完全に除外されている。
毎月分配型ファンドの締め出し
元本を削りながら見せかけの高い分配金を配るような、短期の目くらまし的なファンドもまた、非課税の恩恵を受ける資格を剥奪された。
信託期間の壁
ブームに乗っかって短期間で消えていくような、信託期間が20年未満の短命なファンドもすべて神殿への立ち入りを禁じられている。
「つまりだ……」
官僚は資料をバタンと閉じ、補佐官をまっすぐに見据えた。
「オプションの権利売買や、プレミアムの掠め取りをダイナミックに組み込んで大きなリターンを狙うような投資信託は、国民が税金優遇を受けて買うことは一切できない。国が税制のパイプを使って後押しするのは、あくまで『長期・積立・分散』を愚直に守る王道のインデックスファンドや、一部の伝統的なアクティブファンド等、極めて行儀の良いおとなしい商品に限られているのだ」
三、制度の防壁の向こう側にある「国家の限界」
地下資料室の冷たい静寂の中に、二人の息づかいだけが微かに響いていた。
補佐官は手元の資料から目を外し、暗い天井を見上げながら呟いた。
「……つまり、私たちが用意したこの非課税の防壁は、個人の資産形成をミクロに管理するためには完璧だが、マクロ経済の巨大なうねりや構造的な危機の防波堤としては、あまりにも無力だということですね」
官僚は薄暗い光の中で不気味な笑みを浮かべ、答えの代わりに分厚いファイルを引き寄せた。
「その通りだ。だからこそ、この制度の防壁の裏側で――誰も気づかない深層で、別の歯車を回す必要があるのさ」




