第97話 時計は、止まらない
町はすっかり様変わりし、田辺家の屋敷も、廃寺の存在も、人々の記憶から薄れかけていた。かつての廃寺跡地は公園となり、子供たちの遊び場になっていた。
ある雨の日、公園で一人の少女が雨宿りをしていた。その傍らには、恋人らしい少年が寄り添っている。 少女がふと、地面にできた水たまりを見つめる。水面に映る自分の顔が、一瞬、別の誰かの顔に見えた。長い黒髪の、美しくも悲しげな女性の顔に。
『選びなさい……』
どこからか、声が聞こえた気がした。それは威圧的な命令ではなく、静かな問いかけだった。 少女は首を傾げたが、すぐに恋人との会話に戻っていった。
その日の夕方、少年と少女が帰った後、公園の片隅で、子供たちが地面に足を濡らしながら、楽しそうにわらべ歌を歌っていた。
「水はどこへ行く?水はどこへ行く?愛しいあの人 迎えに 水は水底へ カランコロン 水の時計が カチコチと 花嫁水に浮かびます 涙を流して お別れよ またね、またね、水底で」
子供たちの無邪気な歌声は、雨音に混じり、どこまでも遠くへ響いていった。
呪いの連鎖は、完全には断ち切れていない。しかし、そのあり方は変わった。抗いがたい運命から、選択を迫る問いへと。 螺旋階段のように、同じ場所を回りながらも、少しずつ違う場所へと向かって。
静かな決意と、新たな水牢へ
そんなある日、真紀は故郷の町へと戻ってきた。六十六歳になった彼女の姿は、肌の張りも髪の艶も損なわれぬまま、ただ生気だけが抜け落ちた美しさを保っていた。
彼女は、一人で廃寺の裏手にある、朽ちた祠の裏の穴へと向かった。そこには、源三郎が命と引き換えに見つけた、唯一の脱出経路があることを知っていたからだ。 しかし、真紀は脱出するためではなかった。 穴の中へと入っていく彼女の背後には、若い男の影があった。
彼は、彼女が東京で「選んだ」、新たな犠牲者だった。
真紀は、穴の奥へと進んでいく。彼女は、自ら選んだ「永遠の牢獄」を、再び満たすために戻ってきたのだ。 彼女の唇は、微かに動いていた。あの歌を、口の中で繰り返しながら。
「……水は水底へ、カランコロン……またね、またね、水底で……」
誰もいなくなった廃寺の最深部。かつて時を支配した水時計は、もう、ただの瓦礫だった。砕けた水盤の破片が、苔と泥に半ば埋もれている。あの夜、香織と翔太の手で、大元の装置は確かに壊されたのだ。表面に彫られていた無数の顔も、もう苦悶の表情を浮かべてはいない。ただ、穏やかに目を閉じているように見える。
それでも、真紀が新たな犠牲者を従え、その瓦礫の前に静かに跪くと、どこからともなく、低い脈動が地下空間に響きはじめた。
どくん……どくん……
それは、砕けた水時計から響いているのではなかった。真紀の、胸の奥からだった。
どくん、と打つその脈動の奥に、耳を澄ませば——百五十年前のあの夜、地下にこだましていた、狂気の槌の音が、微かに混じっている。カン、カン、カン、と。
二度の儀式を経て、彼女の肉体そのものが、ひとつの小さな水時計と化していたのだ。心臓の代わりに、冷たい水の脈動が時を刻む。大元の装置が壊されてもなお、呪いは真紀という器に乗り移り、彼女の体の中で、勝手に、永遠に回り続けていた。
あの夜、この呪いから抜け出せたのは、香織と翔太だけだった。人でも水でもない境界の存在となって、二度と戻らぬまま。
けれど、真紀は抜け出せない。砕けた装置の前で、彼女はただ、自分の体の芯を打つ脈動に耳を澄ましていた。それだけが、誰にも止められない、彼女ひとりの時計の音だった。
真紀の瞳から、一筋の水の涙が流れた。「…ぽちゃ、ぽちゃ、ごぼり……」彼女の耳に聞こえるのは、自分の体内で時を刻む、その音ばかりだった。
壁に刻まれた無数の文字が、じわりと濡れる。
『助けて』 『愛してた』『忘れないで』 『ありがとう』 『さようなら』 『また会おう』
新しい文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
『私たちは、ここにいる』
そして、どこからともなく、新しい水音が響き始める。 ぽたん。 それは、赤ん坊の産声のようでもあり、止まったはずの時計が再び時を刻み始めた音のようでもあった。あるいは——次の誰かの、終わりの始まりを告げる音のようにも。
その水音に応えるように、跪いた真紀の体に、異変が起きはじめた。
彼女は、自らの手をかざして見た。皺が、染みが、たるんだ皮膚が——まるで時を逆さまに巻き戻すように、すうっと消えていく。白い髪は艶やかな黒へ。骨ばった指は、しなやかな少女のそれへ。砕けた水盤の破片に映ったのは、六十六歳の蝋人形ではなかった。十八歳。最初の儀式を遂げた、あの日の真紀の顔だった。
顔だけではなかった。身にまとっていた上等な衣服が、肩から裾へと、水に溶けるようにほどけ、織り直されていく。やがて現れたのは——あの日の、高校の制服。かつて聡を、浩介を油断させるために袖を通した、白いセーラー服だった。数十年分の装いが、たった一着の制服へと巻き戻されていた。
体内の水時計は、ひとつの生贄で「満たされる」たびに、針を振り出しへ——十八の春へと巻き戻すのだ。聡を沈め、浩介を沈めてまで真紀が欲した、永遠の美。それを、彼女はとうとう手に入れた。生気のない、若い、若い、人形の美しさを。
だが、その若さの内側には、何もなかった。注ぐべき喜びも、誰かを想う温もりも、とうに水に溶けて消えている。永遠に若いままの器だけが、満たされることのないまま、ただそこにあった。
水鏡の中の少女が、ふと、泣きそうな顔をした。器の奥に閉じ込められた本物の真紀が、二度目の儀式のあの夜、最後にそうしたように。
その一瞬、真紀は確かに悟っていた。この牢獄に鍵をかけた者は、ほかならぬ自分自身だったことを。香織は、逃げて、燃やして、突き放して、それでも最後に手を離さなかった。けれど自分は——抗うことを最初から放棄し、愛するふりで男たちを水へ沈め、この永遠を買ったのだ。
だが次の瞬間、その後悔は、表に滲み出るよりも早く、冷たい水の底へと沈んでいった。少女の顔には、何の感情もない、完璧な微笑みだけが残った。
そうして彼女は、また十八歳から、同じ時を刻みはじめる。永遠に。永遠に。——誰に強いられたのでもない、自らの手で鍵をかけた牢獄の中で。
公園のベンチでは、雨宿りをしていた少女が立ち上がる。 「行こうか」 恋人の少年が傘を差し出す。 「うん」 二人は傘を分け合いながら、雨の中を歩いていく。その足元の水たまりに、一瞬、四つの影が映った。二組の恋人たちの影が、重なり合うように。
どこかで、微かな鈴の音が聞こえた。 ちりん…… それは、五十年前、亮介が和子に贈った小さな銀色の鈴の音のようでもあり、 新しい巫女の誕生を告げる、運命の鐘の音のようでもあった。
そして、その鈴の音のもっと奥で——遠く、ほんの微かに、誰かが、もう一度、『選びなさい』と、ささやいた気がした。
(了)




