第80話 背負う者
『おいで』 『一緒になろう』 『永遠に』
無数の声が、重なり合って響いてくる。それは、松姫、和子、真紀…歴代の巫女たちの声だった。それは甘美な誘惑であり、破滅への囁きでもあった。
香織の表情が、恍惚としたものに変わる。まるで、夢遊病者のように、一歩、また一歩と穴に近づいていく。 「香織ちゃん!」 翔太の声で、我に返った。 「大丈夫?」 「うん。でも、もう抵抗できない。体が、勝手に」 「僕もだ」 翔太の目を見ると、瞳の色が変わっていた。茶色だったはずの瞳が、深い青色に。水の色に。
二人は、穴の縁に立ったまま、しばしの間、互いの顔を見つめ合った。 これが、最後の時間。 人間としての、最後の時間。 「怖いか?」 翔太が尋ねる。 「ううん。でも…」 香織は、翔太の繋いだ手を見つめた。 「あなたがいれば、どこへでも行ける」 その言葉に、翔太は静かに微笑んだ。 「僕もだ。君がいれば、どんな場所でも」
香織は、ふと制服のポケットの中の、固く小さなものに触れた。銀色の鈴。あの禊の夜、和子がそっと香織の掌に握らせたものだった。
『これは、亮介さんがわたしにくれた、音無神社のお守り』そのとき和子は、幾重にも重なる例の声ではなく、ただ年老いた一人の女の、掠れた声で囁いた。『五十年、手放さなかった。これだけが——水が、唯一、恐れた音だから』
意味は、分からなかった。それでも香織は、その鈴を握りしめ、闇の底へ連れていくことにした。
二人はロープを命綱に、石の梯子を降り始めた。 一段降りるごとに、人間から遠ざかっていく感覚。でも、恐怖はなかった。むしろ、帰るべき場所へ向かっているような、奇妙な安心感があった。 本堂の天井が閉じる音がした。もう、戻れない。 でも、それでよかった。 これが、自分たちの選んだ道なのだから。 地下への降下が始まった。深く、深く、水の記憶の底へ向かって。




