第32話 仮面の奥に隠したもの
聡は、真紀のことが好きだった。それは、彼女の完璧さや美しさだけが理由ではない。 初めて彼女と話した時、聡は彼女の瞳の奥に、深い悲しみの影を見つけた。まるで、暗い水底に閉じ込められた光のような。 真紀は、いつも完璧だった。生徒会長として、誰よりも冷静で的確な判断を下す。クラスメートの悩みにも、感情を挟まずに論理的な解決策を提示する。まるで、人間ではないみたいに。
「真紀はすごいな。まるで、ロボットみたいだ」
聡が冗談めかして言うと、真紀は一瞬、眉をひそめた。その一瞬の隙に、聡は彼女の心の奥に潜む、微かな怒りと、そして深い傷を感じ取った。
「私は、ただの道具だと言いたいの?」
その言葉に、聡は慌てて首を振った。
「違う!違うんだ。君は、誰よりも人間らしいよ。感情を隠すのが上手いだけで、本当は誰よりも優しい。僕は、そんな君が好きだ」
真紀は何も答えず、ただ静かに聡を見つめた。その瞳の奥の光が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。聡は知っていた。彼女が家でどんな扱いを受けているか、どんな運命を背負っているか、噂で聞いていたから。だからこそ、彼は彼女を救いたいと思った。この町の呪いから、彼女を解放してやりたいと。
真紀の方も、本当には、聡を拒みきれずにいた。
その日の放課後も、聡は何でもないことのように、温かいココアの紙コップを差し出してきた。「顔色、悪いよ。少し、休みなよ」。ただ、それだけ。けれど真紀は、その湯気の温かさを両手で包んだまま、しばらく動けなかった。指先から、忘れていたはずの温もりが、じわりと染みてくる。——これが、欲しかった。ずっと、ずっと、これだけが。
だからこそ、その夜、真紀は自分を罰した。
自室の机に向かい、白い紙に、同じ字を書きつける。「拒絶」「拒絶」「拒絶」。ペン先が紙を裂きそうなほど、強く。昼間に芽生えた温もりを、一文字ごとに、自分の手で握り潰すように。
それでも、紙コップを包んだ指先には、まだ、ココアの温もりが残っていた。それが、たまらなく怖かった。温かいものが、自分の体に染み込んでいくことを、真紀は許せなかった。
やがて「家」「義務」と書き連ね、しまいには、紙が湿った。
最後の一文字は、ペンを握りしめ、紙を裂く勢いで書きつけた。
——家。
涙が乾くより早く、襖が開いて和子が入ってきた。何も言わずに紙を取り上げ、廊下の先の仏間で、蝋燭の火にかざす。けれど紙は、燃えなかった。涙で湿った和紙は、炎の上でただ、じわじわと黒ずんでいくだけだった。
「真紀」
和子の声は、頭ひとつぶん高いところから降ってきた。
「お前は十八で、聡君を水に捧げる。決まっていることを、ぐらつかせるんじゃありません」
言葉は静かだった。けれど、逆らえない重さがあった。
「お母様みたいになりたいの。涙さえ流せない、乾いた人形に。あれが、愛を選んだ女の成れの果てですよ」
真紀の手の中で、書きかけの「聡」の一文字が、滲んで読めなくなった。涙だったのか、夜の湿気だったのか、自分でも分からなかった。
翌朝、学校で聡と顔を合わせると、真紀の口は、機械のように笑顔を作った。そして心の奥に、細い針のような言い聞かせを仕舞い込む。——彼が私を本当に好きになる前に、私が彼を本当に好きになる前に、終わらせる。
けれど、その針は、何度も鈍った。聡が不調を察して水筒を差し出した日。雨に濡れた肩に、彼が自分のタオルをかけた日。生徒会室で、二人きり、肩を寄せて書類を捌いた日。そのたびに、心の奥で誰かが叫んだ。
——逃げて。逃げて。今ならまだ、間に合う。
真紀はその声を、毎晩、布団の中で噛み殺した。噛み殺すたびに、自分の中の柔らかい部分が、ひとつずつ、乾いていくのが分かった。




