26_損な性格
エイダンは、わずかに肩を回した。その仕草は気軽なものに見せかけているが、抜ききれない緊張が指先に残っている。ひとつ息を吐き、視線を伏せたまま、低く口を開いた。
「……もし、殿下が神獣に選ばれてたら、こんな状況にはなってないっすよね」
ぽつりと零れたその言葉は、軽口の体裁を取りながらも、芯の部分ではまっすぐだった。冗談に逃がす余地のない、率直すぎる本音。
ルーザスはすぐには応じなかった。杯を持ち上げ、ゆっくりと口に運ぶ。その一連の動作はいつもと変わらず穏やかで、感情を外へ漏らす気配はない。それでも、ほんのわずかに視線が曇ったように見えた。
「……楽にはなるだろうな」
短い返答だった。だが、その簡潔さゆえに、含まれているものの重さが際立つ。
エイダンは鼻から息を抜き、小さく笑った。だがその笑みは長くは続かない。
「魔獣討伐だって、もっと効率よく回せるはずですし……何より、兵の消耗が違うっすよ」
言葉を選びながら続ける声音は、明らかに抑え込まれている。それでもなお、奥底に溜まった焦燥が滲み出ていた。
「あれだけの数、正面から当たり続けてたら……勝ってても、減るのはこっちだけじゃないですか。押し返しても、次が来る。その繰り返しで」
一度言葉を切り、奥歯を噛む。
「それなのに――」
わずかに顔を歪めたまま、吐き出す。
「第二王子は王都で遊び回ってるだけで、黒の領土が広がってるのも、気にしちゃいない」
押し殺していたはずの感情が、その一言にだけは滲み出た。
ルーザスはそれを咎めなかった。ただ、机の木目に視線を落とし、指先でゆっくりとなぞる。長い時間をかけて刻まれた木の筋を辿るように、静かに。
「……声を落とせ」
やや遅れて、形式だけのような注意が入る。
エイダンは肩を竦めた。
「分かってますって。こんなとこで大声出しませんよ」
軽く言いながらも、すぐに続ける。
「でも、思うじゃないっすか。なんで、よりによって――って」
その先は言葉にしなかった。だが、沈黙の中で、言いかけた内容はむしろはっきりと形を持つ。
ルーザスはそれ以上踏み込まない。短く息を吐き、ただ一言だけを返した。
「……選ばれるものに、理屈はない」
覆しようのない、世界の前提だった。
机の下で、イグニアはじっとそのやり取りを聞いていた。
暗がりに身を潜めながら、交わされた言葉の一つ一つが、静かに胸の内へと沈んでいく。
(……そうだよね)
小さく、心の中で呟く。
神獣に選ばれる。
それは理屈ではない。
誰が望もうと、どれだけ備えようと、そこに意味や順序は存在しない。ただ一方的に与えられ、選ばれた者だけが、その事実を受け取ることになる。
それが、この世界の前提だった。
理不尽であることも、不公平であることも、誰もが知っている。それでもなお、それを疑うことなく受け入れてきた。そうしなければ成り立たないほどに、神獣という存在は絶対的だったからだ。
だが――
(私は)
胸の奥にある確信は、微塵も揺らがなかった。
自分が神獣であるということ。そして、自分の主がアルディスであるということ。
それは説明を必要としないほど、明確な感覚としてそこにあった。言葉よりも先に、理屈よりも深く、身体の内側に刻み込まれている。
疑う余地など、どこにもない。
だが、それを――
(言えない)
その一線を越えることだけは、どうしても選べなかった。
喉元まで言葉は上がってくる。だが、形を成す前に、何かに押し留められるようにして消えていく。
頭では分かっているのだ。
自分が名乗り出れば、この状況は確実に動く。少なくとも、今のような歪んだ均衡が続くことはないだろう。王都で祭り上げられている存在の真偽も、いずれ明らかになる。
それがどれほど大きな意味を持つかも、理解している。
それでもなお、踏み出せない。
心が、追いついていなかった。
転生して、目覚めて、神獣だと告げられた。
その一連の出来事を、理解はしている。受け入れているつもりでもある。だが、それが“自分である”という実感だけが、どこか遠いままだった。
まるで、誰かの話を聞いているような距離感。
自分のことのはずなのに、どこか現実味を伴わない。
その違和感の正体を探ろうとすると、決まって別のものに行き当たる。
前世の記憶だった。
貴族の娘として育てられた日々。身に染みついた礼儀や価値観。家の名に恥じぬ振る舞いを求められ、それに応えようとしてきた時間。
そして、戦場。
剣を握り、命のやり取りの中に身を置いていた日々。勝敗の先にあるものを考える余裕などなく、ただ目の前の敵を斬り伏せることだけに集中していた感覚。
血の匂いも、鉄の軋む音も、今でもはっきりと蘇る。
あの時の自分は、確かに“自分”だった。
迷いなく剣を振るい、迷う暇もなく選び続けていた。
だが、今はどうだ。
神獣としての自分は、確かに存在しているはずなのに、その輪郭は曖昧で、手を伸ばせばすり抜けてしまいそうなほど不確かだ。
どちらが本当の自分なのか、と問われれば、答えは出ない。
どちらも自分であり、どちらも自分ではないような感覚が、常にまとわりついている。
それが、足を止めさせていた。
(……じゃあ、このままでいいの?)
ふと、問いが浮かぶ。
正体を隠したまま、こうして傍から眺めているだけで。
それは、本当に正しい選択なのか。
答えは出ない。
だが、少なくとも胸の奥に引っかかるものがある以上、何かが噛み合っていないのは確かだった。
見過ごしていい違和感ではない。
それでも――
(……もし、明かしたら)
別の疑問が、すぐにそれを覆い隠す。
自分が神獣であり、主がアルディスであると告げたとして。
では、王都で祭り上げられている“神獣”は、何になるのか。
あれは偽物なのか。それとも、何か別の意味を持つ存在なのか。
考えようとするほどに、前提そのものが揺らぎ始める。
一つの国に、二体の神獣。
そんな話は、聞いたことがない。
神獣は唯一であり、例外は存在しない。少なくとも、そう教えられてきたし、それを疑う理由もなかった。
だが現実には、今この国には“二つ”の存在がある。
どちらかが誤りなのか、それとも、これまでの認識の方が間違っていたのか。
思考が巡るたびに、足場が崩れていくような感覚に襲われる。
(……どういうこと)
思わず、心の中で呟く。
だが、その問いに応じるものは何もない。
整理しようとすればするほど、かえって輪郭は曖昧になり、掴みかけたはずの答えが指の間から零れ落ちていく。
やがて、思考はゆるやかに行き場を失った。
無理に結論を出そうとするほど、かえって遠ざかる。
今の自分では、まだ届かない領域があるのだと、どこかで理解してしまう。
イグニアは、静かに息を吐いた。
胸の奥に残る違和感は消えない。だが、それを今ここで解き明かそうとすること自体が、無意味に近いのだと悟る。
答えは、まだ先にある。
そう思うしかなかった。
それでもなお、胸の内に残るざらつきだけは消えずに残り続ける。
理由も形もはっきりしないまま、ただそこにある。
拭いきれない感覚として。
それが、ひどく落ち着かない。
これ以上ここにいても、得られるものはない。
机の下から静かに抜け出し、気配を消したまま食堂を後にする。
外へ出た瞬間、夜の空気が肌を撫でた。昼の喧騒とは切り離された、静まり返った王都。灯りは点っているが、人の気配はまばらで、どこか現実味に欠ける。
イグニアはゆっくりと顔を上げた。
宿の二階。
開け放たれた窓が一つ、闇の中に浮かんでいる。
(……あそこ)
理由は分からない。ただ、視線が引き寄せられる。
あれが、アルディスの部屋だと、直感的に理解した。
足に力を込める。
次の瞬間、身体は軽やかに宙へと浮かび上がっていた。音もなく屋根へと降り立ち、瓦の上を慎重に進む。
やがて窓の縁に辿り着き、そっと中を覗き込んだ。
蝋燭の灯りが、静かに揺れている。
その下で、アルディスは机に向かっていた。
手元には数枚の書類。視線を落とし、無言でそれを追っている。
横顔には、はっきりと疲労の影が残っていた。
それでも、手は止まらない。
長い移動の疲れも、王都へ戻ったばかりの緊張も、そのすべてを押し込めたまま、ただ目の前の責務に向き合っている。
(……この人)
イグニアは、わずかに目を細めた。
休めばいいものを、と呆れにも似た思いがよぎる。だが同時に、その姿勢に見覚えがあることにも気づく。
逃げず、止まらず、積み重ね続ける。
それが当然だと、どこかで受け入れている。
(……損な性格)
心の中でそう呟きながらも、視線は離れなかった。
蝋燭の揺れる光の中で、静かに書類をめくるその姿を、ただ見つめ続ける。
なぜだか、その光景を見ていると、胸の奥に残っていたざらつきが、わずかに形を失っていくような気がした。




