25_幼馴染
短い休息を終えると、アルディスたちは再び馬を駆り、王都へと向けて走り出した。
森の縁に落ちていた静けさは、再び蹄の音によって破られ、一定のリズムで夜へと溶けていく。昼に出立したばかりのはずなのに、時間の感覚はすでに曖昧だった。景色は次第に色を失い、やがて完全な闇へと沈む。
その後方を、イグニアは一定の距離を保ちながら追っていた。
巨大な神獣の姿でありながら、木々の影に紛れ、地形と一体化するように移動する。自分でも不思議に思うほど、存在は周囲に溶け込み、意識して探さなければ気づかれないほどに希薄だった。
(……便利すぎる)
内心でそう思いながらも、気を抜くことはしない。
姿が見えなくとも、気配までは消せないかもしれないという感覚があった。だからこそ、決して近づきすぎず、一定の距離を守り続ける。
やがて、長い移動の末に、王都の外郭が見えてきたのは深夜のことだった。
灯りが遠くに連なり、闇の中に浮かび上がる巨大な城壁。その存在感は、砦とは比べものにならない。
だがアルディスたちは、その門へ向かうことはなかった。
進路をわずかに逸らし、王都の外縁に点在する旅人用の宿へと向かう。
警戒か、それとも意図的な回避か――イグニアにはまだ分からなかったが、その選択に迷いはなかった。
宿へ到着すると、アルディスは最低限の手続きだけを済ませ、ほとんど言葉を交わすことなく自室へと引き上げていった。
その背には、明らかな疲労が滲んでいた。
長時間の移動、そしてその先に待つものへの備え。身体的なものだけでなく、精神的な負荷も無視できないのだろう。
(……疲れてる、まぁ当たり前か)
イグニアはその様子を、離れた場所から静かに見ていた。
自分には、疲労というものがほとんど感じられない。神獣の身体だからなのか、どれだけ走っても息が乱れることもなければ、足が重くなることもない。
だからこそ、余計に分かる。
人の身体でここまで動けば、どれほど消耗するのか。
アルディスの姿が階段の向こうに消えると、残されたエイダンとルーザスは、互いに顔を見合わせて小さく息を吐いた。
「……行ったな」
「っすね」
短いやり取りのあと、二人は自然な流れで宿の食堂の隅へと移動する。
夜も更けているためか、客はまばらで、ほとんどの席は空いていた。二人は周囲から少し距離を取るように席を選び、簡単な軽食を頼む。
その様子を確認してから、イグニアはそっと身を翻した。
このままでは大きすぎる。
神獣の姿のままでは、この場所に紛れることはできない。
意識を沈め、身体を収縮させる。
次の瞬間、そこにいたのは一匹の猫だった。
(……よし)
周囲に溶け込むように歩き出し、誰の目にも留まらぬよう、静かに二人の席へと近づく。
そして、そのまま机の下へと滑り込んだ。
木製の椅子と椅子の隙間、暗がりに身を潜める。
上では、ちょうど料理が運ばれてきたところだった。
「はあ……」
最初に息を吐いたのはエイダンだった。
パンを手に取りながら、肩の力を抜くように椅子へもたれかかる。
「さすがに疲れた〜……」
「顔に出てるぞ」
ルーザスが苦笑する。
「もうちょい取り繕え。宿の連中に怪しまれる」
「いや、無理ですよ。ここまで来たらもういいじゃないですか」
「よくない」
短く言い切る。
だがその声は強くはない。あくまで二人の間だけに届くように抑えられていた。
エイダンは肩をすくめながら、小さく笑う。
「まあ、確かに」
そして、少し声を落とす。
「……さっきの話、やっぱ気になります?」
「何がだ」
「セレフィーナ様の件っすよ」
その名前が出た瞬間、ルーザスの表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だけ視線を横へ流し、周囲を確認する。
それから、静かに言った。
「……その話は、殿下の前では出すな」
低い声だった。
命令というほど強くはないが、軽く流せるものでもない。
エイダンは一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ」と頷く。
「了解」
だが、興味が消えたわけではないらしい。
「でも、正直よく分かってないんすよね。あの人、レグナス殿下の婚約者なんすよね?」
「今はな」
ルーザスは短く答える。
その言葉には、わずかな含みがあった。
「……元は、殿下の婚約者だった」
その一言に、エイダンの手が止まる。
「え、そうなんですか?」
「ああ」
ルーザスはパンを一口齧りながら、淡々と続ける。
「幼い頃からの付き合いだ。婚約はほぼ決まっていたようなものだった」
「へえ……」
エイダンは素直に感心したように頷く。
「でも、それって王族の婚約じゃないっすか。そういうのって、別に本人たちの気持ちは関係ないんじゃ……」
「まあ、普通はな」
ルーザスは一度言葉を切る。
ほんのわずか、視線が遠くを見るように逸れた。
「……だが、あの二人は少し違った」
その声は、どこか過去をなぞるようだった。
「子供の頃は、よく一緒にいた。庭を走り回って、他愛のないことで笑って――そういう時間を、ちゃんと過ごしていた」
エイダンは一瞬だけ言葉を失ったように目を見開いた。軽口の延長のように受け取っていた話が、思いのほか現実味を帯びて迫ってきたからだろう。
「へえ……なんか、想像つかないっすね」
ようやく絞り出したその言葉には、素直な驚きが混じっていた。
「だろうな」
ルーザスはかすかに口元を緩める。だが、それは笑みというにはあまりにも短く、すぐに消えた。
「俺も最初はそう思った」
過去をなぞるように、低く落とされた声。その響きには、当時を知る者にしか分からない距離感が滲んでいる。
しかし、その空気は長くは続かなかった。
ふっと、表情から色が抜ける。
「微笑ましいお二人だった……殿下が顔に傷を負われるまではな」
ぽつりと落ちたその一言が、場の温度をわずかに変えた。
具体的な説明は何もない。だが、それ以上語ることを拒むような沈黙が、かえってその言葉の重さを際立たせていた。
エイダンもそれを察したのか、すぐには口を開かなかった。軽口で流せる話ではないと、遅れて理解したらしい。指先でパンをいじりながら、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
それでも、完全に引き下がることはできなかった。
「……そのあと、どうなったんすか」
声は先ほどよりも低く、わずかに慎重さを帯びている。
ルーザスは少しだけ間を置いた。
答えるかどうかを測るような、ほんの短い沈黙。
やがて、観念したように息を吐く。
「お二人の間に決定的な溝ができた」
簡潔な言葉だったが、それで十分だった。
「殿下の顔を見たときの反応で、決定的になったらしい」
淡々とした口調のまま語られるその内容に、余計な感情は乗せられていない。それでも、言葉の奥にあるものまでは隠しきれてはいなかった。
エイダンはそれ以上言葉を返せなかった。
何かを言おうとして、結局口を閉じる。その仕草が、かえってその話の重さを示していた。
「婚約は解消された」
ルーザスは続ける。
「……そして、すぐにレグナス殿下との婚約が結ばれた」
その流れはあまりにも早い。
あまりにも、あっけない。
「……ひどい話ですね」
エイダンがぽつりと漏らす。
責めるようでも、呆れるようでもない。ただ、理解が追いつかないという色だけが滲んでいた。
「貴族というのはそんなもんだ」
ルーザスはあっさりと認める。
「それが現実だ」
その一言が、静かに場を閉じる。
それ以上語るべきことはないとでも言うように、会話は自然と途切れた。
食堂の隅に、わずかな沈黙が落ちる。
周囲の客の気配や、食器の触れ合う音が、遠くから微かに聞こえてくるだけだった。
机の下に潜り込んでいたイグニアは、その一連のやり取りを、ただ黙って聞いていた。
言葉は理解できる。会話の内容も、頭ではきちんと追えていた。
貴族同士の婚約。家同士の取り決め。そこに個人の感情がどこまで入り込めるのかなど、考えるまでもなく知っているはずだった。
それでも――胸の奥に残るものは、どれにも当てはまらなかった。
(……なんか)
うまく言葉にならない違和感が、じわりと広がる。
ただの政略だったのかもしれない。そう割り切ってしまえば、それで済む話のはずだった。
だが、先ほどのルーザスの言葉が、どうしても引っかかる。
幼い頃、共に過ごしていたという時間。
笑い合い、当たり前のように隣にいたという関係。
それが、ある出来事を境に断ち切られたという話。
(……それって)
ふと、別の記憶が浮かび上がる。
前世の自分。
公爵家の娘として生まれ、当然のように婚約者が定められていたあの頃。
それは最初から決められていた関係だったはずなのに、いつの間にかそれだけではなくなっていた。
隣にいることが当たり前で、言葉を交わすことにも特別な意味など感じていなかったはずなのに、いつからか、その距離が少しだけ違うものになっていた。
だが――
最後に残ったのは、その穏やかな関係ではなかった。
思い出されるのは、別の光景だ。
妹の姿。
自分の知らないところで、静かに重なっていった二人の時間。
そして、それに気づいたときの、あのどうしようもない感情。
責めることもできず、引き留めることもできず、ただ受け入れるしかなかった現実。
(……違う)
今回の話と、同じではない。
分かっている。
だが、それでも――どこか重なるものがある。
最初は決められた関係でしかなかったものが、いつの間にか別の意味を持ち始めていたかもしれないこと。
そして、それがあっけなく断ち切られること。
そのあとに続く、あまりにも早い“次”。
(……なんで)
うまく言葉にならない。
同情とも違う。怒りとも違う。
ただ、何かが引っかかったまま、そこに留まり続ける。
ざらついた感覚だけが、消えずに残る。
(……なんだろう)
自分でも分からないまま、その感情を持て余す。
そのときだった。
上から、小さく息を吐く音が落ちてくる。
「……はあ」
エイダンだった。
ほんのわずかに肩の力を抜き、視線を落としたまま、ぽつりと零す。
「神獣って、なんで殿下を選んでくれなかったんすかね」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、抑えきれずに零れた本音のように、静かに落ち、イグニアの耳がわずかに動いた。




