第九十五夜 春
静けさの中。
崩れ落ちた宿は、もう客を迎えることはできなかった。
湯猫も。
枕兎も。
酒猿も。
もう、いない。
残されたのは。
両腕を失った瀕死の鬼と。
それを抱く、痩せた雪女だけ。
暖かな春風が、白い世界を撫でていく。
雪解け。
その気配とともに、空が軋み始めた。
「……春、じゃな」
九尾が、空を見上げる。
「どうやら、あの男が」
「忌地を縛る、最後の執着だったようじゃ」
ひび割れていく空。
崩れ始める境界。
「これで、解放される」
「背負った業も」
「閉ざされた記憶も」
「――すべて」
静かに、息を吐く。
「浄められて、終わる」
そして。
寄り添う二人を見た。
「……己はただ」
「罪を償うたに過ぎぬ」
「そう思うておるのじゃろうが」
目を細める。
「容易きことではない」
春風が吹く。
その白髪が、揺れた。
「……ようやったな」
遠く。
世界の軋む音が響き始める。
「……始まったか」
九尾の姿が、少しずつ薄れていく。
「すまぬが」
「わらわも、もうここには留まれぬ」
「崩壊の圧が強まれば」
「信仰の線が、わらわを引き戻す」
足元に眠る動物たちへ、目を落とす。
「この者たちの往生は」
「わらわが引き受けよう」
そして。
鬼を見る。
「あとは――」
「お前たち次第じゃ」
諭すように。
低く。
「世へ災禍を放つな」
「……頼んだぞ」
その言葉を最後に。
九尾の影は。
動物たちの亡骸とともに、静かに消えていった。
静寂。
崩壊を続けていた空が、ゆっくりと色を失っていく。
白みかけていた春の空は、いつしか群青へ沈み。
やがて。
霞む夜空に、淡い月が浮かんだ。
消失へと渦巻く世界。
その月明かりの下。
支え合うように、小さく寄り添う二人。
「……これで、みんな」
ゆき姉が、呟く。
「静かに……眠れるね」
虚ろな瞳。
けれどその声音だけは、どこか穏やかだった。
「……ごめんね、はる坊」
震える声。
「私」
「やっぱり……」
「巻き込んじゃった」
本当は。
もう少しだけ。
傍に。
「……いいんだ」
はる坊が、掠れた声で答える。
「たぶん……」
「望んでたから」
「帰る場所を」
――ただいま。
あの日。
そう言えた、その時から。
寄り添う温もりだけを、確かめるように。
もう。
それだけでよかった。
だが。
その儚く揺れる姿を見るたび。
鬼が。
まだ。
暴れる。
熱が、内側を掻き毟る。
骨の奥。
血の底。
ゆき姉が消えることを、拒むように。
「――ッ」
焼け爛れた身体が軋む。
黒い焔が、再び滲み始めた。
もう。
終わらせたいのに。
鬼はなお、ゆき姉を求める。
生きたいのではない。
ただ。
失いたくないだけだった。
鼓動。
狂ったように打ち鳴らされる。
何度も。
何度も。
内側から、身体を破ろうとする。
やがて熱は焔となり。
残された肌を、焼き焦がしていく。
終わりに、しなきゃ。
もう。
ゆき姉の冷気は、もうほとんど届かない。
依り代ごと命を断とうにも。
腕も。
爪も。
もう、残っていない。
ならば。
最後に残された、この牙で――
舌を噛み切ろうとした、その瞬間。
ふわりと。
ゆき姉の唇が、重なった。
――ごめんね、はる坊。
やっぱり、私。
耐えられない。
私に残された、最後の罪。
それは。
はる坊を、ここで死なせてしまうこと。
はる坊には、未来があるから。
だから――
このまま消えてしまうなんて。
光の中。
熱が、静かに引いていく。
苦しみが、遠ざかっていく。
身体が、軽くなる。
まるで。
永い冬が、終わっていくように。
ゆき姉の身体が、白くほどけていく。
涙とともに。
白銀の翼を広げるように。
春に消える、淡雪が――
舞い散る桜へ変わるように。
暖かな白に包まれながら。
はる坊は、ただ。
消えていくその温もりを、抱き締めるように。
やがて。
空白。
静寂の雪の上。
一滴の血の跡だけが、残されていた。
――ねえ、はる坊。
私……
人間になれたかな。
――第九十五夜・了




