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雪月花  作者: 湯灯畳
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第五十三夜 遊興

夜桜が、おもむろに指をぱちん、と鳴らす。


目の前に、煙と共に現れる料理の数々。


見たこともないような華やかな食器に盛られた、ご馳走たち。


「……食ってくれるか?」


「こんな鬼の飯でも」


一瞬、何が起きたのかと目を見張るはる坊。


しかし直後には、思わずごくりと喉が鳴る。


何せここしばらく、粥と糒しか口にしていない。


食べないわけには、いかなかった。


「……じゃあ、せっかくなので」


箸を取り、軽く頭を下げる。


「いただきます」


上品な椀の炊き合わせに手を伸ばすはる坊。


夜桜は、ただそれを満足げに見つめていた。



食後。


「さて、では腹も一杯になったし、とりあえずこの辺の案内でもしようかの」


「案内?」


「せっかく来たんじゃ、ゆっくり見てゆかぬか」


「先刻も良きところじゃと、言うておったばかりではないか」


「ええ、まあ……」


何故か少し、不安になるはる坊。


 


沼の周りをぶらぶらと、並んで歩く。


流れる湯けむりを湛え、静かに空を映す広い水面。


静けさの中に響く、鳥のさえずり。


夜桜が、沼の方へ顎をしゃくる。


「まだ早いがの、もう少しすればあの湿原一面、白い綿で覆われる」


「綿?」


「ワタスゲじゃ。風が吹けば、雪のように揺れる」


足元の水際を指さす。


「今はまだ、ミズバショウとリュウキンカの頃じゃな」


黄色い花が、湯けむりの向こうで揺れている。


「この湯も悪くないぞ。古くから傷や冷えによう効くと言われておる」


夜桜は少し肩をすくめる。


「もっとも、鬼の湯など人はそう気軽に入りに来ぬがの」


ふっと笑う。


そして、ひょいと、軽い足でぬかるみを跳ぶ。


しかしその瞬間、ぐらり、と夜桜の身体が傾く。


それを見たはる坊が、咄嗟に手を伸ばす。


その手を掴む、夜桜。


次の瞬間、はる坊の足元が滑り、一人でぬかるみへ顔面から落ちる。


――静寂。


やがて、のそっと起き上がるはる坊。


その顔を見て――


「ぷ」


「ひどい顔じゃのー」


楽しそうに目を細めて。


無邪気に笑う夜桜に、むくれるはる坊。


「誰のせいですか」


手をひらりとする夜桜。


「わしは何もしとらんじゃろ」


くすくす笑いながら――


はる坊の頬についた泥を、夜桜は指でひょいと拭った。


そして、その目を見つめながら――


「お前さまは――」


「鬼蜘蛛の匂いがするの」


首を傾げながら。


「知っておるか?鬼蜘蛛」


そして、満面の笑顔を向けて。


「惚れた相手に、命をくれてやる……愚かな蜘蛛じゃ」


 


並んで歩く。


そして、ぽつりと。


「雪女、か……」


遠い目をしながら、話す。


「よいの、あれは」


「あれに惹かれる男は、無数におるじゃろ……」


どこか、寂しそうな声。


「……が、しかし」


「お前さまのように、あれを探そうとするなど、聞いたこともない」


「よほど……魅せられとるんじゃの」


はる坊は、黙ったまま。


「……妬けるの」


春風が、ふわりと湯けむりを運ぶ。


「……じゃが」


一泊。


「わかるぞ」


穏やかな声。


「そのようなお前さまにとって、世の風は――」


「冷たかろう」


遠くを見る。


「お前さまのその熱を――」


「一体誰が汲み取れよう」


無言で俯くはる坊。


足元の小石を、つま先で小さく転がす。


「それゆえ――」


「わしに会いに来たのであろう?」


「鬼の夜桜ならば、きっと願いを」


「叶えられる、と……」


 


「……」


「いえ」


俯き、一点を見つめる。


「願い、というか……」


小さく、ため息。


「望みが……なかったんです、それしか」


「……ほう?」


「もう俺、この先どうなっても……」


「他に、できることなんて……」


おもむろに、


ぴたり、と夜桜の歩く足が止まる。


「……?」


「ここはな」


目線を落とす。


「鬼の玉手箱、というてな」


沼の向こうに湯を望む、廃寺のちょうど対岸。


石で丸く囲まれた、奇妙な場所。


「迷うた人間の、願いが届く」


「え……」


「……わしもな」


「かつてここで、願いを……」


夜桜は、言いかけて口を閉じた。


「……いや」


「忘れてくれ」


夜桜は、目を伏せる。


しばし沈黙が落ちる。


湯けむりが、静かに流れてゆく。


再び歩き出す。


唐突に。


「お前、雪女のどこが好きか?」


一瞬、息が詰まる。


考えたこともない。


どこが好き、なんて。


「……ふ」


「本当に初心じゃの、お前さまは」


「言うてみ、この鬼の夜桜に。さすれば……」


はる坊の脳裏に、あの月明かりの下の姿が浮かぶ。


しかし、言葉になど到底できない。


ただ俯き、無言。


それを横目に、ふっと息を吐く夜桜。


「……よい。言えぬなら、仕舞っておけ」


その言葉に、はる坊はほっと胸を撫でおろした。


 


そのまま、他愛のない話。


いつしか二人の足跡は、あばら家へと戻っていった。



夜。


再び夜桜の指先一つで馳走が並ぶ。


「……またこんなに」


「食え、遠慮せず」


「……いただきます」


箸を取る。


「……うまいか」


「……ええ」


「そうか」


見つめる夜桜。


「……酒もあるぞ」


「……いえ、酒は」


「何じゃ、下戸か」


「……ええ」


蝋燭の灯りと月明かりが、あばら家を仄かに照らす。


静かな夜。


箸の触れる音だけが、小さく響く。


ふと、夜桜の足が動く。


着物のはだけた隙から覗く、白い足。


蝋燭の火に照らされ、艶めいた影を落とす。


視線を逸らす。


静寂。


やがて、ぽつりと。


「――鬼蜘蛛は」


夜桜が、膝を寄せる。


蝋燭の火が揺れ、白い足がすぐそばにあった。


「惚れた相手に、命を差し出す、と――」


囁くように。


「……お前さまは」


「誰かに命を差し出してみたい、と……」


「そう思うたことはないか?」


 


はる坊は、しばらく黙ったまま見つめる。


あのとき――


己が身を顧みずに、咄嗟に刃へと飛び込んだ記憶が重なる。


胸の奥が、わずかに軋む。


――やがて小さく、息を吐く。


「……今は、思い出したくないです」


夜桜は、目を細める。


「……そうか」


 


しばらく、食事の音だけ。


そして。


「……逢わせてやってもよいぞ」


唐突に。


「雪女に」


その瞬間。


目の前の夜桜の姿が、みるみる白くなる。


 


その姿は、ゆき姉だった。


月明かりの夜のままの。


思わず箸を落とし、しばらく唖然とするはる坊。


心臓が、大きく跳ねる。


 


だが――


違う。


 


ゆき姉は――


そんな目をしない。


 


ゆっくりと箸を拾う。


そして、何事もなかったかのように料理を口へ運ぶ。


無言で、箸を動かす。


 


やがて、静かに元の姿に戻る、夜桜。


どこか、取り残されたような、


少しだけ、不思議そうな眼差しで、


ただ、その様子をじっと見つめていた。


 


蝋燭の火が、ふわりと揺れた。


 


――第五十三夜・了

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