第五十一夜 廃寺
あれから七日ほど。
はる坊はとうとう、沼に湧く湯と言われる奥地へと、無事辿り着いた。
道を尋ね迷い歩く道中、山を深く分け入るほどに、噂は濃くなっていった。
――鬼の夜桜。
そう呼ばれる化け物が棲んでいる、と。
村の住職の言葉が、ふと胸に浮かぶ。
生きて帰れるかどうか――
でも。どうしても。
ゆき姉に助けてもらった命だけど――
どうしても。
ごめん。
*
湯けむりに包まれる沼は、月明かりを受けて妖しく、幽世の気配があった。
しん、と静まり返った水面のあちこちから、白い湯気が立ちのぼる。
こんなところに棲む、化け物が――
ひやり、と。思わず背筋が凍る。
とにかく今夜は、この近くにあった古い廃寺に間借りすることにした。
――薄暗い、埃にまみれた堂内。
月明かりだけを頼りに、適当な塒を探す。
――ふと。
足。
人の足。
「う……」
あまりの衝撃に、思わず腰を抜かした。
どたん!と、派手な音が堂内に響く。
「……む、何じゃ?」
その影が、ゆっくりと身体を起こした。
月明かりに照らし出されたのは――女だった。
長い黒髪が、肩からさらりと落ちる。
緋の花を散らした派手な着物を、どこか無造作に着崩して。
まだ寝ぼけているのか、片手で目元をこすりながら――
目尻に緋を宿した猫のような目が、ゆっくりこちらを向く。
「……なんじゃ」
声は低いが、どこか眠気が残っている。
「獣では、なかったか」
はる坊は、まだ尻餅をついたまま固まっている。
女はしばらく黙って、こちらを見ていた。
「お前さんか、今の騒々しい音は……」
そう言って、ふっと口元が緩む。
女は姿勢を直し、胡坐をかいた。
気だるそうに片膝へ肘を乗せる。
「何ぞこんな夜更けに、たった一人でこんな山奥の寺に来るとは……」
少し身を乗り出す。
頬杖をつきながら、じっとこちらを見る。
「……ふうん」
ほんの少し、目を細める。
「ワケアリ、か?」
月明かりが、女の横顔を白く照らす。
若い。
どうしてこんなあばら家に、こんな――
「いや……」
はる坊は言葉を探すように、視線をさまよわせた。
「ただ今夜は……ここで泊まらせてもらおうと……」
女はしばらく黙って、はる坊の顔を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「ほう」
その声は、どこか楽しんでいるようでもあった。
「金が、ないのか?」
一瞬、はる坊は言葉に詰まる。
問いの調子は軽いのに、目だけがじっとこちらを見ている。
「え、ええ……まあ……」
その表情は、微動だにせず。
目だけが、じっとこちらを見据えていた。
「……欲しいか?」
一拍。
「金」
はる坊は思わず一歩、後ずさる。
「え、いや……」
言葉がうまく出てこない。
女はその様子を見て、少しだけ眉を上げた。
それから、ふっと息を吐く。
「……冗談じゃ」
くすっと笑う。
「何じゃ、初心じゃのう」
「よくそのようなナリで、こんなところまで来たものじゃ」
肩を揺らして、静かに笑う。
しばらくして、女は笑みを収めた。
「……まあ、金がないのなら」
声が、少し低くなる。
「今宵はここで眠るもよし」
「他へ行くも、止めはせんが」
外の闇から、獣の遠吠えが響く。
はる坊は、少したじろぐ。
「……でも」
「絶対、何か変なことしてくるでしょ?」
女は少し目を伏せ、肩をすくめる。
「……ふふ、そんなことはせんよ」
膝を軽く叩き、かすかに笑う。
「疑い深いのう」
やがて息を整え、
「まあ、よい」
と手をひらひら振った。
「約束しよう」
「何もせんと」
はる坊は、月明かりの入らない暗がりに目をやる。
「……俺、あっちで寝ますんで」
どうしても疑いが晴れない。
壁に寄りかかるように、座る。
――明日は、鬼の夜桜を探さねば。
静かに、夜は更けていく。
――第五十一夜・了




