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『僕たちの神様』  作者: 根古野 惹句


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第1話 四つ目


「お前、これ、傾いてない?」


開店祝いの札を見上げながら、直人が言った。


「傾いてねえよ」


「いや、傾いてるって」


「店が?」


「札が」


「だったらどうでもいいだろ」


「明日開店だぞ」


「明日開店だからなんなんだよ」


脚立の上から哲也が睨んできた。直人は二歩下がった。首を右に傾ける。今度は左。


「やっぱ右が下がってる」


「お前の首が傾いてんだよ」


「美咲、どう?」


カウンターの向こうで花を生けていた美咲が顔を上げた。壁を見る。直人を見る。


また壁を見る。


「三ミリくらい」


「ほら」


「お前ら帰れ」


哲也が脚立から降りた。その拍子に、壁の札が少し揺れた。


『祝 開店』


直人はそれを見上げた。それから店の中を見回した。十二席しかない、小さな店だった。カウンターが六席。


二人掛けのテーブルが三つ。壁は白く、腰から下だけ濃い木目になっている。奥には小さな厨房があり、真新しいコンロが光っていた。窓際には開店祝いの花が並んでいる。


その中で一番大きい胡蝶蘭には、


『御開店御祝 小学校時代の悪友一同』


と書かれていた。


「これ、誰だよ」


哲也が言った。


「何が?」


「悪友一同」


「浩介」


直人が即答した。


「やっぱりあいつか」


「『親友一同』だと気持ち悪いって」


「悪友も十分気持ち悪いわ」


入口のドアが開いた。


「呼んだ?」


浩介が入ってきた。両手にスーパーの袋を提げている。


「お前、開店祝いの花に悪友って書くなよ」


「いいだろ。事実なんだから」


「四十五にもなって悪友とか言ってるのが痛えんだよ」


「哲也、お前さ」


浩介が真顔になった。


「四十五にもなって夢叶えた奴が、細かいこと言うなよ」


哲也が黙った。


「……うるせえな」


「照れてる」


美咲が言った。


「照れてねえ」


「耳赤いよ」


「厨房暑いんだよ」


「まだ火つけてないけど」


「お前ら本当に帰れ」


笑い声が店に広がった。直人も笑った。けれど、すぐにまた店内を見回した。


看板。カウンター。椅子。


厨房。レジ。哲也が何週間も悩んで決めた、少しだけ重い入口のドア。全部がそこにあることを、一つずつ確認するように見ていた。


「……できたな」


ぽつりと言った。哲也が振り返る。


「何が」


「店」


「見りゃ分かるだろ」


「うん」


直人は笑った。


「本当にできたな」


その言い方がおかしくて、哲也は少しだけ眉を寄せた。開店する本人より、直人のほうが嬉しそうだった。



香織が来たのは、それから二十分ほど後だった。


「ごめん、遅れた!」


「遅えよ」


「子供に夕飯作ってたの。あんたたちと違って、こっちは帰ったあとも仕事があるんです」


「俺も明日から仕事だよ。ここで」


哲也が言う。


「あ、そうだった」


「店主に向かってなんだそれ」


香織は店内を見回した。


「へえ」


「なんだよ」


「ちゃんと店じゃん」


「店だよ」


「もっとこう……哲也がやる店だから、薄暗くて入りにくい感じかと思ってた」


「どういうイメージだよ」


「入口に『一見さんお断り』って書いてありそう」


「客来ねえだろ」


「哲也ならやりそう」


「やらねえよ」


香織は笑いながらカウンター席に座った。美咲もその隣に座る。浩介は勝手に冷蔵庫を開けた。


「ビール入ってないの?」


「明日開店なんだよ」


「だから前祝い」


「お前が持ってきた袋に入ってるだろ」


「さすが店主。目ざとい」


「お前が買い物袋ぶら下げて入ってきたからだよ」


五人分のグラスが並んだ。哲也は自分だけ小さいグラスにした。


「なんで?」


直人が聞く。


「明日早い」


「俺たちも帰るよ」


「お前らが帰ったあと片付けんの俺なんだよ」


「手伝うって」


「いい。お前がやると皿の位置変えるから」


「変えないよ」


「この前変えただろ」


「使いやすいかなと思って」


「俺の店だ」


「だから聞いたじゃん」


「聞きながらもう変えてただろ」


美咲が笑った。


「直人、昔からそういうとこあるよね」


「何が?」


「本人より本人のこと考えて、本人より先に動くところ」


「いいことじゃん」


浩介が缶を開けながら言った。


「程度による」


香織が返した。


「哲也なんか、放っといたら今も雇われで厨房立ってたでしょ」


「別にそれでもよかったんだよ」


哲也が言った。直人が哲也を見る。


「本当に?」


一瞬だけ、空気が止まった。哲也は露骨に嫌そうな顔をした。


「それだよ」


「何が?」


「お前のそれ」


「何?」


「『本当に?』ってやつ」


浩介が吹き出した。


「出た。直人の尋問」


「尋問じゃないよ」


「いや、尋問だよ」


美咲まで言った。


「昔からそう。『本当にやめるの?』『本当にいらないの?』『本当にそれでいいの?』」


香織が直人の真似をする。直人は不満そうだった。


「だって、本当はやりたいのに諦めることあるじゃん」


「あるよ」


「だったら聞いたほうがいいだろ」


「一回ならね」


「そんな何回も聞いてないよ」


四人が黙った。直人は順番に顔を見た。


「……聞いてないよね?」


「飲もう」


美咲が言った。


「逃げた」


「乾杯しよう。哲也の店なんだから」


哲也がグラスを持ち上げる。


「じゃあ、まあ」


少し考えたあと、


「明日、潰れませんように」


と言った。


「縁起でもない」


香織が笑う。


「神様にお願いしとく?」


浩介が言った。哲也が鼻で笑った。


「神様より、銀行と客にお願いするほうが先だ」


また笑いが起きた。直人だけは、少し遅れて笑った。



料理は哲也が作った。明日から出すメニューの最終確認だと言って、頼んでもいないものまで次々出してきた。長年、雇われの料理人として厨房に立ってきただけあって、手際に迷いがない。話しながらでも包丁は止まらない。


鍋の様子を見て、皿を出し、盛り付け、次の料理へ移る。自分の店になったからといって、そこだけは昨日までと何も変わらないように見えた。


「これ、うまい」


直人が言う。


「知ってる」


「こっちも」


「知ってる」


「このポテト――」


「お前、さっきからうまいしか言ってねえじゃねえか」


「うまいんだからいいだろ」


「感想が小学生なんだよ」


「小学生のときは哲也、料理なんかできなかったのにね」


美咲が言った。


「当たり前だろ」


「でも店やるって言ってたよな」


直人が言う。哲也の手が一瞬止まった。


「……また始まった」


「何が?」


「昔話」


「いいじゃん、今日くらい」


「直人、今日じゃなくてもするでしょ」


香織が言った。


「まあね」


「認めるんだ」


浩介が笑う。直人は気にせず続けた。


「何屋だったっけ」


「知らねえよ」


「言ってたよ。自分の店」


「四十年近く前だぞ」


「三十四年」


直人が訂正した。哲也が顔を上げる。


「は?」


「願ったの、小五のときだから。三十四年前」


一瞬、誰も喋らなかった。浩介が缶ビールを口へ運ぶ。美咲が直人を見る。香織は小さく息を吐いた。


哲也だけが露骨に顔をしかめた。


「……よく覚えてんな、お前」


「覚えてるよ」


直人は当然のように言った。


「哲也は『自分の店を持つ』」


指を一本立てる。


「美咲は『絵を描く仕事をする』」


二本目。


「香織は――」


「言わなくていい」


香織が遮った。


「なんで?」


「恥ずかしいから」


「『幸せな家族を作る』」


「言うなって!」


浩介が笑った。


「一番かわいいじゃん」


「小学生なんだからしょうがないでしょ!」


「今、叶ってるじゃん」


直人が言った。香織は一瞬だけ黙った。それから、少し照れたようにグラスを触った。


「まあ……それなりにね」


「それなり?」


「幸せな家族って、毎日ニコニコしてるって意味じゃないから」


「この前、旦那と喧嘩したって言ってたな」


哲也が言う。


「そういうこと言わなくていいの!」


「子供とも喧嘩してた」


美咲が追加した。


「美咲まで!」


「でも幸せなんでしょ?」


直人が聞いた。香織は直人を見る。今度の「本当に?」はなかった。だから香織も素直に答えた。


「うん」


「じゃあ、叶った」


直人が言った。妙に嬉しそうだった。


「美咲も叶った」


「まあね」


「哲也も今日叶った」


「明日からだよ」


「店はできたじゃん」


「借金もできたけどな」


「浩介も」


浩介が笑っていた顔を、ほんの少しだけ止めた。


「俺?」


「行っただろ。世界」


「ああ」


「何か国だっけ」


「二十三」


「二十五じゃなかった?」


「乗り継ぎは数えねえよ」


「じゃあ二十三か」


直人は指を折った。一つ。二つ。


三つ。四つ。


「これで四つ目だな」


その言葉だけが、店の中に少し長く残った。哲也が聞いた。


「何が」


「願い」


直人は笑った。


「四つ叶った」


香織が目を伏せた。美咲は何も言わない。浩介は空になった缶を指で潰そうとして、途中でやめた。哲也がため息をつく。


「お前さ」


「うん?」


「今日くらい普通に祝えねえの?」


「祝ってるよ」


「じゃあ普通に祝え」


「祝ってるって」


直人は笑っていた。本当に嬉しそうだった。哲也が店を持ったことを。三十四年前の願いが叶ったことを。


そして――何かが一つ、予定通りに進んだことを。



十時を過ぎた頃、香織が時計を見た。


「私、そろそろ帰る」


「送ろうか?」


直人が立つ。


「いい。電車あるから」


「駅まで」


「いいって」


「暗いぞ」


「四十五歳だよ、私」


「四十四だろ」


「そういうとこ!」


香織が笑う。浩介も立った。


「じゃあ俺も帰るかな。明日の朝、店寄るわ」


「来なくていい」


「客第一号になってやるよ」


「仕事行け」


「午前中空いてんだよ」


美咲もバッグを持った。


「私も」


直人はまだ席に座っていた。哲也が皿を重ねながら言う。


「お前は?」


「片付け手伝う」


「いらねえ」


「でも」


「明日来い」


直人が顔を上げる。


「いいの?」


「客としてな」


直人は笑った。


「うん」


立ち上がる。そして店を出る直前、思い出したように振り返った。


「哲也」


「何」


直人は少し迷った。迷ったというより、言うべき順番を確かめているようだった。


「これで神様、信じる?」


哲也の表情から笑いが消えた。美咲が直人を見る。香織も何も言わない。浩介だけが、哲也を見ていた。


ほんの数秒だった。哲也は答えた。


「ああ」


直人の顔が明るくなった。


「そっか」


「信じるよ」


「うん」


「だから早く帰れ」


「分かった」


直人は笑って、店を出ていった。ガラス越しに手を振る。哲也が面倒そうに手を上げる。直人はもう一度、店の看板を見上げた。


それから満足そうに歩いていった。四人は黙って、その背中を見送った。



直人の姿が角を曲がった。哲也が入口の鍵を閉める。カチリ、と音がした。


「……本当に?」


美咲が聞いた。哲也は振り返った。


「何が」


「神様」


哲也はしばらく美咲を見た。それから、


「信じるわけないだろ」


と言った。香織が小さく息を吐いた。誰も驚かなかった。


浩介も。美咲も。香織も。


哲也はカウンターへ戻り、空いたグラスを重ねた。


「店は俺がやったんだよ」


誰に言うでもなく呟く。


「ずっと人の店で料理作って、金貯めて、物件探して、銀行行って、頭下げて。何回もやめようと思って、それでもやった」


「うん」


美咲が言った。


「直人にも散々手伝ってもらった」


「うん」


「お前らにも」


「うん」


「神様なんか、何もしてねえよ」


美咲は少し笑った。


「そうだね」


哲也がグラスを拭く。


「なのに、なんで俺が神様を信じなきゃならねえんだ」


「直人が喜ぶからでしょ」


香織が言った。


哲也の手が止まった。


「……そうだけど」


浩介が笑った。


「優しいねえ、哲ちゃん」


「殺すぞ」


「神様にお願いする?」


「お前は黙れ」


浩介は笑った。けれど、その笑顔は長く続かなかった。カウンターの上に、五つのグラスが並んでいた。


哲也が四つを片付ける。最後の一つに手を伸ばし、ふと止めた。直人が使っていたグラスだった。


「なあ」


哲也が言った。


「いつまで、あいつに付き合う?」


誰もすぐには答えなかった。店の外では、開店祝いの花が夜風に揺れている。美咲が窓の向こうを見た。直人はもういない。


それを確かめてから、


「少なくとも」


と言った。


「あいつが言ってる『あと一人』が揃うまではじゃない?」


哲也が眉を寄せる。


「……あと一人?」


美咲は答えなかった。浩介も黙っていた。香織だけが、


「今日はもう帰ろ」


と立ち上がった。明日、この店は開く。哲也が三十四年前に願った店が。神様を信じていない男の願いが、また一つ、


叶った。


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