1 慈悲深い聖女、やめます
「ああ、聖女ミラ様っ! どうぞ娘の傷を診てやってください」
白亜の神殿内、まっすぐ流れる黒髪の、アメジストのような瞳が美しい少女へ、男爵が嘆願する。
隣に立つ男爵令嬢も同様に嘆き乞う。
「こんなみっともない傷があっては明日およばれしている子爵夫人のパーティに出られませんわ。明日はあのシルヴァンティス伯爵令息も出席させると噂なのにっ。こんな傷、友人たちにも笑われてしまいます!」
静謐な空気を震わせて訴えてくる、令嬢の右手甲に走る赤い傷跡。
聖女であるミラは、令嬢に一歩近づき、その傷を間近で見つめた。
なんでも庭園でお茶をしていたところ、誤ってメイドが落としたティーポットが砕け散り、運悪く飛んできた破片で切ってしまったそうだ。
傷自体は小さいものの、荒れたところの一つもない、白く滑らかな令嬢の肌には確かに目立った。
――まあなんてお気の毒に。
記憶にある以前の自分はそう言った。あの時は心の底から令嬢に同情していたから、痛ましい思いでそっと令嬢の手を取ったはず……一度死ぬ前の自分なら。
安心させるように微笑んで告げた、次の言葉も覚えている。
――もちろんです、聖女としてお役に立てれば光栄ですわ。
だけど今世の自分は違う。
ミラは目の前の男爵と令嬢に、穏やかに微笑んで言った。
「そんな傷、ツバでもつけときゃ治りますわ」
「ん〜久しぶりによく寝たー!」
リモナ王国のフィレセント公爵家にある自室のベッドの上、窓からの日差しを受けミラは大きく伸びをする。
十五歳で創造主たる女神アルティナより与えられた神聖力に目覚めて以来、ミラは聖女として毎朝まだ薄暗いうちから神殿へと向かい、日が暮れるまで神殿に集まる人々の傷や病を癒すために尽力する日々を送ってきた。
けれど昨日は、唖然としている男爵たちへ、
「数日パーティに出なくたって死にゃしません。あと人の傷を笑うような友達は友達じゃないんで、縁切ったほうがいいですよ」
そうアドバイスを済ませると、我に返って抗議してくる二人を置き去りにして、「今日はもう疲れたんで」と入口の神官に告げて早めに屋敷に帰ってきた。
あと「明日はお休みしますから」とも言ってあるので、今日はもう悠々自適に過ごすつもりだ。
年嵩な大神官の、残り少ない白髪がストレスでさらに薄くなろうと知ったこっちゃない。
窓辺に立ち、レースのカーテンを大きく左右に広げて、眩しい光を浴びながらミラは独りごちる。
「もうやってらんないのよ、献身的な聖女とか!」
もともとミラは田舎で母のエラと二人暮らしをしていた。
母は若い頃城下町の飯屋で働いていたが、身分を隠して市井に遊びに来ていた公爵令息の父と出会って恋に落ち、ミラを身ごもるも身分違いを悩んだ末、父に黙って田舎へ引き籠ったのだという。
――あの人に迷惑をかけたくなくて、私が勝手に身を引いたの。だからお父様のことを恨んではダメよ。
物心ついてから私生児なことを周りにからかわれたミラに、母はそう言い聞かせた。
片親であっても愛情いっぱい育てられ、貧しいながらミラは幸せだった。
十五歳の時、荷馬車の事故に巻き込まれ母が亡くなるまで。
その日、一人で留守番していたミラの家に突如なだれ込んできた大勢の大人たち。
――ベッドに運べ! 医者は呼んだのか!? 横転した荷馬車の下敷きになったんだ!
――車輪がぬかるみにとられて、昨日の土砂降りのせいで……。
――頭を打ってるっ、血が止まらない!
頭上を飛びかう怒号、いつもは静かな狭い小屋を乱暴な足音と共に出入りする人々。
いつのまにか隣家のおばさんも傍にいて、ミラの両肩を抱いていた。
ベッドの上に横たわるのが自分の母親だということが、なかなか飲み込めなかった。
白い布で大半が隠れていたし、わずかに見える顔も無機物のように白かったから。オレンジ色の頬をして笑う母の顔とはまるで重ならない。
白い布はみるみる赤く染まっていく。部屋を充満していく異臭。
血の匂い、というものをミラはこの時初めてはっきりと意識した。
死んじゃう、お母さんが、死んじゃう!
理解すると同時に母の体に飛びついた。床に膝つき母にすがりつく子供を、周りの大人も止めなかった。もう助からないのが目に見えていたのだろう。
いやだいやだいやだ、死なないで、助けて、誰か、神様――女神様!!
恐怖と焦りでパニックになりながら、心の中で叫ぶように祈り続けていたミラの両手が、気づけば淡く光っていた。
その光は徐々に大きくなり、しがみついていた母の体を包むように広がっていく。
静かなどよめきが起こる中、傍にいた一人の大人が押さえつけていた血濡れた布を外す。母の額からは血が止まり、傷もふさがっていた。
――聖女の力だ、と呟く声が聞こえた。
神殿で修業を積むことで神聖力を得る神官がいる一方、ある日突然力に目覚める者がいる。
歴史上そのほとんどが女性であり、女神の寵愛を受けた乙女、聖女と呼ばれてきた。
子供の頃から力が顕著の者もいれば、成人過ぎてから突如使えるようになる者もいる。また複数人の聖女が同時期にいることもあれば、十年、百年と現れないこともあり、まさに女神の気まぐれによる存在。
後で知ったことだが、前の女神が老衰で亡くなってからミラの力の発現までは、四十年間が空いたそうだ。
しかし折角聖女の力に目覚め、傷をふさげたところで、結局母は助からなかった。
脳への深い傷はすでに母とその魂の繋がりを断っていて、聖女の力をもってしても死者を生き返らせることは不可能なのである。
母の葬儀を済ませてすぐ、噂を聞きつけた大神官から王都の神殿へと誘いがあり、さらにほぼ同じタイミングで、ミラの父親を名のる、ルネ・フィレセント公爵が現れた。
「ああその顔立ち、本当に、エラそっくりだ……!」
三十前後に見える茶髪の男性は、自分とよく似た菫色の瞳を潤ませてミラを見つめ、感嘆の声をあげた。
「きみのことをずっと探していたんだ。子供が出来たと手紙だけ残して、彼女は消えてしまって……それきり。人を使って消息を調べてみても行方知れずで」
しかし今回噂の聖女の亡くなった母親が、探していた女性の容貌と一致すると連絡が入り、ここまで会いに来たのだという。
ミラの祖父にあたる前フィレセント公爵が一年前に亡くなり、公爵家を継ぐもいまだ妻を娶ることなく独身を貫いていた父は、正式な嫡子としてミラを王都の屋敷へと迎え入れてくれた。
そして中央神殿のコルベル大神官とも面会し、正式に聖女の認定を受けた。
田舎の私生児が、あっという間に聖女で公爵令嬢だ。
こんなことが起きるなんて、と当時ミラは夢心地で思ったものだ。
それから一年後、わずか十六歳で命を落とす羽目になるなんてこともまた、まったく想像していなかった。
――――本当に悪夢である。
読んでいただきありがとうございます!
↓☆☆☆☆☆の評価をつけてもらえると励みになります!続きが気になると思えたらブックマークをお願いします。




