第二章『有城村』
ゆっくりと瞼が開いていく。そこは見慣れた自宅の天井ではなく、東北にある祖母の家のような古い木造の天井だった。ゆっくりと視界がはっきりしていく中、俺の脳は急ピッチで記憶を整理し始めていた。
一体何が起こったのか。
最初は整理が追いつかず思考は迷路に入り込んでいたが、首の裏に走った痛みのおかげで、何があったのかを一気に思い出す事が出来た。
「ここは?」
自分でも驚いたが、こんな状況でも俺は冷静な言葉を発する事が出来るようだ。辺りを見回すと、家と言うよりは小屋と言った方が正解な広さの一室に、布団が一枚敷いてある。まぁそこに寝ているのが俺な訳だが、他には農具のようなものがいくつかと、囲炉裏があるだけだった。
部員達はいない。時計も壊れているのか三時で止まっていて、唯一掃き出しからから差し込む夕日のおかげで今が大体夕暮れ時だと分かる程度だった。
「目が覚めたようだね」
立ち上がろうと足に力を入れた時、不意に声がかかった。俺は後ろに飛び退こうとするも、起きたばかりという事もあり、体は言う事を聞いてくれなかった。
「無理はしない方がいいよ。頭もまだ働いていないだろうしね」
俺は聞き覚えのあるその声の主を足元からなめるように下から上へと目線を動かしていった。
そこには、茶色みのかかった少し長めの髪の男性が立っていた。髭はろくに手入れをされていないのか茂々と生え、顔は少し黒くくすんでいた。顔を見ただけでは、その男性の年齢を図る事はできず、俺は声も出せずにただその男性のやけに輝いている瞳を見つめた。
「さっきは悪かったね。君たちを助けるためだった……って言っても信じてはもらえないだろうけど。首、痛むかい?」
俺は首の後ろをさすった。まだ若干痛みが残っているものの、大事に至らないのは医学の知識の無い俺でも分かった。
「いえ」と俺は短く答える。
聞き覚えのある声だと感じたのは、俺に一撃を食らわせてきたのが、おそらくこの男だからだと気づくのにそう時間はかからなかった。
「そうか。よかった」
だが、俺は派手に行動を起こそうとは思わなかった。俺たちを一瞬で沈める技術をもつ程の男に、正面からぶつかって勝てるわけがないからだ。
「ちょっと待ってくれ。もう少しで食事が出来る。あまり火は使いたくないのだが、まぁ今日は特別だ」
男が立っているのは、竈の前だ。やけに綺麗なシャツの袖を捲り、何か料理をしているようだ。
逃げるなら今。俺の直感がそう訴えていた。
窓はない。掃き出しはその台所の横に一つ。それはボツだ。ということは、掃き出しの横にある扉から脱出するしか方法はなかった。
男から扉までは少し距離がある。走れば逃げれるかもしれない。準備運動として、足を左右に動かしてみる。これなら走れる。そう思って足に力を入れた時だった。
「逃げようなんて浅はかな考えは捨てた方がいいよ。君が置かれている状況も理解していないのにどこに逃げるんだい?」
俺は男に目を向けた。男はこちらを見ずに、ただひたすら包丁で何かを切っていた。
今のはただの忠告だ。たまたまタイミングがピンポイントで合っただけで、俺の行動がバレたわけじゃないだろう。ならと、俺は気取られないよう「逃げる?」と、冷静さを装った。
「考えれば分かるんじゃないかな? これはカンの話になっちゃうんだけどさ、君は結構賢い人間だと思うんだよね」
「へぇ。今初めて会話したのに、随分と過大評価してくれるんだな」
口を動かしつつも、俺は逃げるタイミングを見計らう。少し挑発気味に言い、隙を作ろうと模索する。
「だからカンなんだよね。でも、こんな状況に置かれて身動ぎ一つしない。それどころか、君は僕がさっき殴った相手だと薄々勘づいていながら行動も動揺も見せない。そんな人間が逃げるなんて初歩的な行動を思いつかないとでも?」
俺は動揺していた。まるで、背中に目がついているのではないかと思う位隙がない。こいつは腕が立つだけじゃなく、頭も切れる。嫌な汗が垂れるが、それを拭く動作の音でさえ何かを勘ぐられそうでやめた。足の力が徐々に抜けていくが、握った拳は段々と強くなっていった。
「やっぱり賢いね。僕の言葉に動揺してるのだろうけど、それを表に出さない。どんな時でも冷静に考える事が出来る。そういった人間が、一番強いと思うんだよね」
そう言って男はこちらに振り返った。手にはお盆を持ち、こちらに微笑んでいた。
「どうかな? とりあえず食事をしてから逃げても、遅くはないと思うんだけど」
俺は諦めたように体の力を抜いてあぐらをかいた。
「毒は入ってないだろうな?」
男はただ、微笑むだけだった。
「ごちそうさま」
男の用意した食事は至ってシンプルな和食だった。白米に焼き魚。たったこれだけなのだが、不意に美味しいと感じてしまうのは、俺が日本人である証拠だろう。
勿論毒は入っていなかったし、俺の対面では男が俺と同じ食事を口に運んでいた。
「説明、してくれるんだろうな?」
俺は食事を終え、一息ついた後、そう切り出した。
「説明してもいいんだけど、その前に一つ聞いておきたい事がある」
俺は囲炉裏を挟む形でその男と対峙していた。尻を預けている座布団は、綿があまりなく決して座り心地がいいと呼べるものじゃなかったが、それでも木の床に直接座るよりは数倍良かった。
「何だ?」
短くそう答えると、男は一度俯き――。
「死なない覚悟はあるか?」
と、告げてきた。男の顔つきは、さっきまでヘラヘラしたものではなくなっていて、まるで狩りをする獣のような鋭い眼光。今にも襲われそうな気さえ起こすほど、威圧感があった。後ろに手をついてしまいそうになるのを必死に抑え、俺は質問の意味を考えた。
死なない覚悟とは一体なんのことだろうか。ドラマとかで、死ぬ覚悟とかはよく使われるフレーズなので覚えがあるが、死なない覚悟ってのはどうしてもピンとこなかった。
「ごめんね。驚かせたいわけじゃないんだ。ただ、これは結構真面目な話でね。直感的なものでいい。答えてくれ」
俺はとりあえず首を縦に振った。当たり前だ。普通の人間は死にたくないからな。必然的に死なない覚悟なんてものはいらないくらい死なないように人は努力するもんだ。
「そうか。ならよかった。いやね、ここには自殺志願者の人とかも迷いこんでくるからね。だから最初から生きる事を諦めている人に今から話しても意味ないからさ」
残酷な話だ。死のうとしている人間を引き留めようとは思わなかったのだろうか?
「じゃあまず、どの話からしようかな」
男は伸びきった髭を撫でるようにさわり、頭の中を整理しているようだった。
「この場所が何なのか。検討くらいは付いているのかな?」
ほぼ確信に近い答えが、俺の頭の中にはあった。
「……有城村」
俺たちはその村の探索で森に入った。おそらくだが、ここは有城村。俺を取り巻くただならぬ雰囲気がそう語っていた。
「そう。ここは地図から消えた幻の村――有城村。名前の由来は昔小さなお城が立っていたかららしいんだけど、今はその面影すら残ってない。そして、村もこの世界から消えた」
「それくらいは俺も知ってる。一応麓の高校で郷土史を調べているからな」
「へぇ。郷土史を調べるためにここまで来ちゃったのかな?」
「まぁ、そんなとこだ」
「そっか。僕も君と同じような境遇でね。麓にある別荘に休暇で来たんだけど、噂の有城村を探そうって最初は遊び半分だったんだ」
男は少し口元を緩め、頭をかいた。その後おもむろにジャケットの懐に手を伸ばし、見覚えのある手のひらサイズの箱と金属製のライターを取り出した。その箱にはある煙草の銘柄が書かれており、慣れた手つきで中から一本の煙草を取るとそれを口に運んだ。流れるような作業で煙草に火をつけると、そこから立ち上る煙と匂いが鼻についた。俺の親父がヘビースモーカーだったおかげで、それを不快だと感じる事はなかったが、一度咳払いをした。
「火は使いたくなかったんじゃないのか?」
「これくらいなら平気さ」
男が火を使いたくないのは、ただ単に火を避けたいのではないだろう。おそらくそこから発生する煙を嫌がっているのだ。竈に比べれば煙草の煙なんて微々たるもの。分かってはいるものの、浮かんだ謎を解決するためには必要な質問だった。
男は何度か煙を吐くと、その煙草を囲炉裏に刺して火を消す。それから俺に向き直った。
「じゃあまず、自己紹介でもしようか。僕は草壁春人。名前くらい知ってるかな?」
俺は頭の中にある記憶の引き出しを無造作に空けた。生まれて十数年。覚えているのはごく一部のみだが、その名前が検索エンジンに引っかかるのにそう時間はかからなかった。
草壁春人。今巷で話題の若手社長の名だ。テレビや雑誌にもよく出演してるし、時の人と言っても過言ではないだろう。確か、扱っているのはIT産業だったと思ったけど、そこまでは詳しく知っている訳ではなかった。
「草壁春人。本物か?」
確かに草壁春人は一週間前に行方不明になったとニュースになっていたような気がする。世間では、何かの事件に巻き込まれただとか色々言われていたが、海外にお忍び旅行というのが定説になっていた。
「本物だよ。顔で分からない?」
改めて男の顔を見る。無造作に伸びた茶色の髪と髭。肌は元々白いのだろうが汚れて黒ずんでいる。それでも分かる整った目鼻立ちに少し青みのかかった瞳。だからと言ってそれが草壁春人だという証拠にはならなかった。
「分からないな」
「うーん。そろそろ髪も切ろうかな」
「何か証拠は?」
「そうだね。財布はここに来る途中で落としちゃってないし、他に証明できるようなものはないね。でも、こんな状況で僕がそんな嘘をつく必要なんてあるかな?」
そう言われると、確かにない。だが、たとえこの男が草壁春人だとしてもだ。だから何だという話であり、俺にとってはさほど問題ではないのだ。
「ないな。まぁいい。はじめまして草壁さん」
俺はそう言って軽く会釈する。
「よしてくれ。春人でいい。君とはこれから行動を共にするかもしれないからね」
大企業の社長がそんなにフランクでいいものなのかと疑問を抱いたが、元からこういった性格なのだと思えば妙に納得がいった。
「じゃあ春人さん」
「なんだい?」
「いや、ただ呼んでみただけだ。えっと、俺は南雲京介」
「京介か。いい名前だね」
そう言って微笑む春人を、俺は少しだけ警戒した。名前を褒められたのは初めてだが、こんな訳の分からない状況の中、笑顔で話しかけてくる奴なんて怪しいと思うのが普通だからだ。
「まぁそんなに警戒しないでくれ。少なくとも、僕は京介の敵じゃない」
「そんな言葉を信じろと?」
「うーん。信じてほしいけど、それはこれから判断していってくれて構わない。とにかく今は僕の言葉を信じていてくれ。じゃないと、これから話すことが全部嘘になっちゃうからね」
俺は眉間にシワを寄せたまま、小さく頷いた。
「ありがとう。じゃあどこから話そうか」
春人は何かを模索するような顔をして、周りを見渡した。そして自分の腕時計に目を向け「今は何時?」と訪ねてきた。
俺の時計は三時をさしていた。夕日が差し込んでいるので夕方なのは分かる。春人の質問の趣旨がわからないので、俺は簡潔に「三時だ」と答えた。
「そうだね。僕の時計も三時をさしている。でも、ここでの時間の進みは少し違うんだ。僕の時計も京介の時計も、三時をさしているのではなく、三時で止まっているんだ。理由は分かるかな?」
俺は自分の時計に目を移した。三時を針はさしている。だけど、秒針は十二をさしたまま動く事はなかった。ただの故障ってこともありえなくはないが、口調からして春人の時計も俺と同じ状況なのは容易に想像ができた。
「なんでだ? この村に入った瞬間に時計が壊れたとでも?」
「そうだね。そういう解釈もできるけど、不正解。じゃあもう一つ質問。僕のことは知っているよね?」
俺は小さく頷く。
「でね、そっちではおそらくだけど、僕がいなくなった事がニュースになってると思うんだよね。どうかな?」
「ああ。結構なニュースになってたぞ。事件に巻き込まれたとか、バカンスだとか言われてたな」
「そうか。どっちも外れだけど、まぁ今はどうでもいいかな。ちなみに僕はいなくなってどれくらいだって?」
「えっと、確か一週間だったかな」
「やっぱりか。そうだろうとは思ったんだけどね」
腕を組み直した春人は、妙にスッキリとした顔で頷いていた。俺はその顔が少し気に入らなかった。今のどこにそんな顔をできる話があるんだ。おそらく傍から見れば俺はしかめっ面を浮かべている事に違いない。
「何がだ?」
俺は少し不機嫌そうにそう言った。それを察してか、春人は少し慌てたように「ごめんごめん」と言い、
「僕の間隔ではね、もう七ヶ月くらい経っているんだよね」と続けた。
「は?」
あまりにも素っ頓狂な事を言われ、そんな声が漏れる。
「つまりね、さっきも言ったように時計が壊れてるわけじゃないんだ。京介は携帯とか持ってる?」
「あ、ああ」
俺はポケットから携帯を取り出して差し出した。
「お。最新のスマートフォンだね」
確かに最新のスマートフォンではあるが、それを確かめるために出させたんじゃないだろう。
「日にちは?」
そう言われ日にちを確認し、そして少し鳥肌がたった。
「分かったか? これがこの世界、有城村のからくりさ」
日にちは俺たちの出発した日のままだった。これが何を意味するのか。それは冷静になればすぐに理解できた。
時刻は三時。これは時計と同じ原理で止まっているとしよう。だとしてもだ。俺が最後に確認した時刻は午後三時過ぎ。その後三時で止まっていると言うことは、深夜だろうが午後だろうが一日は回っているはずだ。まぁ俺は一日寝ていたという事になるが、それは置いといてもスマフォの指す日はおかしい。
ここから導き出される答えは――。
「ここは、時間が止まっているのか?」
我ながらありえない事を口走っていると思う。でも、他にどう説明しろってんだ。
「ご明察。正確には、二十四時間を永遠に繰り返すかな」
「どういう意味だ?」
「この有城村は、外界から隔離された――云わばこの世ならざる世界。迷い込んだ人間をひたすらループさせる不可解な世界さ。我々人間以外のものは、全て午前零時を回った時点で一度リセットされる。これを見てご覧」
そういって春人が差し出したのは、俺のと同じバージョンのスマフォだった。時間は三時で止まったままで、日にちは一週間前をさしていた。
「時間も日にちも止まっているだろ? これは仮説なんだけど、時間はおそらく外界からこの有城村が隔離された時の時間。この先には進めないと言うことだろうね。日にちは僕らが迷い込んだ日。その時点で僕ら自身の日時は止まったと言うことを指しているんだと思う。不思議だね」
不思議なんて言葉で片付けられない現実がそこにあった。春人の仮説があっているとしたら、この世界はまるで牢獄じゃないか。
「……リセットって、どうなるんだ?」
「うーん。僕もよくわからないんだけどね、午前零時になると急に意識が途切れるんだ。ほんとに一瞬。次の瞬間にはね、何もかもが元通り。例えばこのシャツがビリビリに破けてるとしよう。午前零時を回った瞬間、綺麗に元通りさ」
確かに違和感はあった。顔や袖から露出する肌を見る限りあまり清潔とは言えないのに、やけにジャケットやシャツを始めとした身ぐるみは綺麗だった。それに煙草だ。さっき七ヶ月って言っていたが、そんなに保つものではない。それを考えると、今の話は納得せざるえなかった。
「小説のような話だけど、事実なんだ」
「分かった。とりあえず信じるとして、この世界から脱出する方法は?」
「愚問だね。もし脱出できるのならとっくにしてるさ。この世界は球体の中のようなもので、この村を囲むのは永遠と生い茂る森だけだ」
「その奥には行ったのか?」
「行ったけど、何故かこの村に戻ってきてしまうんだよ。何度も試したけど、やっぱり辿り着くのはこの村だけ」
「そうか。だけど入れたなら、出ることも出来るはずだろう?」
「理論的にはね。まぁその理論が通じないのがこの村さ。不思議だね」
不思議だねがこいつの口癖なのだろうか。そんな言葉で片付けられたら警察はいらねんだよ。警察いないけど。
「僕ら自身は記憶を始めリセットされることはないから、大体七ヶ月ってのは分かるんだ。少し頭がおかしくなりそうだけど、これからは京介もいるから少し楽になりそうだよ。どうだい? 状況は理解できた?」
理解できる訳がなかった。でも、話の筋は通っていた。まだ外に出たわけじゃないから自分で確認していない。だけど、おそらく想像通りの世界なのだろう。そして、脱出できないという事実だけが存在している。
頭がおかしくなりそうだ。それを必死にこらえ、俺はいくつかの質問を作った。
「何個か質問させてくれ」
「どうぞ」
「まず、飯はどうなってるんだ?」
「うん。この村はある一定の範囲で隔離されたみたいで、山もあれば川もあり、元々農村だったおかげか田んぼもある。山に行けばイノシシとかの動物もいるし、川に行けば魚もいる。奇跡的に隔離された時期が良かったのか、稲穂は刈り取られた状態で村にはそれを精米にする道具もある。これを全部食べ尽くしても次の日にはまた同じ状況になってるから僕らにそれを捕獲する技術があれば食に困ることはまずないよ。味に種類がないのがたまに傷だけどね」
「狩りはどうやって行うんだ?」
まさか素手じゃやらないだろうけどな。
「あれを使う」
そう指さした先には、一本の猟銃が立てかけられていた。
「リセットの方式で日を回れば玉は無限だけど、一日に使えるのは二発まで。音が気になるけど、まあ彼らは他に誰かいるなんて思ってないし、自分らが来た時からある奇妙な音としか思ってないみたいだからとりあえずは問題ないかな」
やはりな。
「それがもう一つ。この世界に迷い込んだのは、俺とあんた以外に何人いる?」
大体の予想はついていた。煙が立つ事を嫌い、猟銃の音を気にする。獣対策とも考えれるが、他に人がいて、何らかの理由でバレたくないというのが最も合点がいった。
「君の仲間を抜いて、四人だ」
あいつらもここに迷い込んでいるって訳か。
「何故あいつらもここに連れてこなかった?」
「一人運ぶのが精一杯だったし、すぐに彼らが来たからね。仕方がなかった」
彼らとは他の四人の事だろう。そこまでして自分がいる事を悟られたくないのか。
「そいつらにバレると何か都合が悪いのか?」
「都合が悪いわけじゃない。ただ、僕はなるべく彼らには会いたくないんだ」
なんでだ?
そんな疑問が浮かんだ時、脳裏を横切ったのは今考えられる最悪のパターンだった。
「まさか……そいつら、相当危ない奴なのか?」
「いや、まだそんな事はないと思う」
引っかかる言葉があった。『まだ』という事はだ、これからそうなる可能性があるという事だ。春人は頭がいい。そんな初歩的な日本語の間違えをするはずがない。少なくとも、こいつは何かを知っている。それだけが俺の中にある靄を濃くしていった。
「何を知っている? そいつらについての情報はどれくらい持っているんだ?」
「あまり持っていないよ。彼らの人数と大体の歳くらいかな。毎日一応監視をしているんだ」
「それで? どのくらいの人がこの世界に迷い込んでいる?」
「僕や君たちを抜いて四人だ。女性は二十代くらいのOL風な人が一人。男性は、警官服を着た人とサラリーマン風の中年の人。後は君たちより少し下くらいの少年が一人だ。今のところは協力しあって生活しているみたいだ」
「そこまで知ってて何で交流を持とうとしないんだ? 春人さんがいればもっと楽に生活できるし、何より多くの人の知識を集めた方が脱出策を見出しやすいんじゃないか?」
俺が浴びせるように言うと、春人はまた下を向いて黙り込んだ。「また黙るのか?」と、俺は少し強めに言うと、春人はまた懐から煙草を取り出し口に咥えた。
「閉鎖的な空間に囚われた人間は、いずれ不安や疑問といった負の感情が芽生える」
春人は煙草に火をつけながら言う。そして煙を吐きながら。
「そこから導き出されるのは、疑心暗鬼だ」
その言葉を聞いて、俺の頭に浮かんだビジョンは最悪といってもいい状況だった。人がお互いを探りあい、そして何も信じれなくなる。云わば今俺と春人が置かれている状況もそれに近いものだった。お互いを詮索しあう事によって生まれるのは信頼ではない。
「何を知っている?」
「……色々さ」
これ以上は詮索するな。春人の寂しげな表情がそう語っていた。それを見て、俺は口を閉ざす。何を言っていいのか。何を言えば正解なのか。それすらも分からなくなったからだ。
沈黙が、どれくらいの時間を支配したのだろう。
時間を図ろうにも、動く時計はない。
ただ、小窓から差し込む夕日が徐々に力を失っていくだけだった。
ここはどこなのか。
その言葉だけが、私の脳を支配していた。考えても答えはでない。憶測だけが飛び交い、それを織り交ぜても、今置かれている状況は理解しがたいものだった。
あたり一面は夕日に染まっている。見渡せば周りは田んぼに囲まれ、それを更にオレンジがかった森や山が囲んでいた。
「狭い空ね」
私の隣に呆然と立ち尽くす加奈ちゃんの声が耳に入った。私は空を見上げる事なく「そうだね」と答えた。
三百六十度山に囲まれたこの場所では、見える空の範囲が限られていた。点々と存在する木造の家にはついこの間まで人が住んでいたかのような気配が感じられた。でも、そこに人の姿がないのは、午前中の探索ではっきりとしていた。
「二人とも、飯の準備ができたって、要さんが呼んでたぞ」
私たちの後ろに佇む一際大きな家の中から、瑞樹君が顔を出す。こんな状況に置かれても、彼の陽気さは曇ることはなかった。
「分かった。今行くわ。悠里、行こ?」
加奈ちゃんがそう言って手を差し伸べる。私は小さく頷いて、その手を掴んだ。
家の中に入ると、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきた。玄関で靴を脱ぐと、木造の廊下に足を伸ばす。体重をかけると、少し古めの高い音が響く。古い家特有の木の撓りがその音を出しているのだと加奈ちゃんは説明してくれたが、私はそれが怖くて仕方なかった。
加奈ちゃんの手を握りなおし、さっきよりも力を込める。それを分かってか、加奈ちゃんは一度こちらを見ると「大丈夫」と声をかけてくれた。
「悠里先輩はホント怖がりっすね」
後輩である瑞樹君を睨む事もなく私は目を閉じた。加奈ちゃんが進めば私も進む。それを繰り返すうちに、焼き魚の匂いが一際強い場所へとたどりついた。
恐る恐る目を開ける。最初に目に入ったのは、親友である音ちゃんの顔だった。
「外で何をしていたんですの?」
そこは和室だった。大きさは大体二十畳位ありそうな大きな部屋。おそらく集会場として使っていたのだろうと加奈ちゃんは言っていた。そこに置かれた大きな机。それを囲むようにしてみんなは座っていた。
「ん? ちょっと景色を眺めてただけ」
そう言って加奈ちゃんは空いている座布団に座った。瑞樹君も続いて座り、最後に私も腰を下ろした。目の前には、炊かれた白米と焼き魚。具のない味噌汁が並んでいた。
「これでみんな揃ったかな?」
そう言ったのは、私から反対側の一番遠くに座っている要さんだった。警官服を着て、髪は耳までかからない程の長さに切られ、髭も綺麗に整えられていた。歳を聞いたわけではないのだが、大体二十代前半といったところか。まだどこか社会人としての初々しさが残っているようにも思えた。とはいえ、私よりも確実に年上でしっかりしており、この料理を作ってくれているのも要さんだった。
「では、いただきます」
それに合わせて皆一様に手を合わせて復唱した。
「午前中の探索。どうでした?」
箸を進めながら声をかけてきたのは、私の正面座る城山君だった。栗毛の髪が目元まで伸びていて、白い肌に形成された顔にはまだ幼さが残っている。都会の中学に通っているらしく、ここには街に法事で来た所を森に入ってしまい気づいたら迷い込んでいたらしい。
「成果は無しよ。人っ子ひとりいないわ」
加奈ちゃんが口に物を入れながら喋る。それを音ちゃんが注意するが、加奈ちゃんからすればどうでもいいことらしく、直そうとはしなかった。
「そうですか。僕もここに来てから色々回りましたが、今のところは何も」
「まぁ半日で何かを見つけられるなんて思ってないわ。ただ、こうも何の成果もないと、ちょっと病むわね」
ちなみに、森の中で倒れていた私たちを助けてくれたのは、城山君だった。何か獣のようなものに襲われたところまでは覚えているのだが、目を空けた時にはこの和室に部員全員で川の字になって横たわっていた。そんな私たちを出迎えてくれたのが、この人たちという訳なのだ。
「そうね。どのくらい経つのか分からないけど、探索という探索はこなしてきたしね」
おもむろに口を開いたのは、紗由理さんだった。二十二歳OLというのは聞いたのだが、それ以上詳しいことは教えてくれないちょっと不思議な人。けれども、その美貌は私も少し嫉妬しちゃう位で、音ちゃんとはベクトルの違う今どき美人と言ったところか。言葉に刺もなく、いい人だというのが第一印象だった。
「まぁまぁ。入れたなら必ず出る事もできる。そうだろ? 後藤さん」
要さんが隣にいる中年の男性に声をかけた。後藤さんは鞍馬町の会社に勤めるサラリーマンらしく、非常に無口な人だ。昨夜目を覚ました私たちに水をくれるなど親切だったが、今もただ小さく頷くだけで、口を開かない。
「さて、さっさとご飯を食べないと冷めちゃうぞ」
後藤の反応で少し静かになった食卓を無理やり要さんが方向転換する。それからはそれぞれが好きに話し、テレビやラジオがなくても賑やかな食卓といえた。
昨夜、状況も分からない私たちに、要は今置かれている世界の話をしてくれた。ここが抜け出す事のできない世界。有城村だという推測。零時になると意識が飛び、私たちの身体以外すべてが元に戻る事。そして、未だに脱出する方法が無いこと。
まるで水を飲むかのように次々と話が流れ込み、私の頭はジグソーパズルを一つずつ集めるかのように手探りで情報を整理した。
だけど、未だに理解しきれていない事があった。
加奈ちゃんの推測では、この村の状態は大体五十年ほど前。家自体は木造で古いが、マッチなどの火気や電気すら存在している。住むのに困らない状況であるのは確かなのだが、違和感のみが後味を悪くしていた。
人がついこの間まで住んでいたような気配はあるのにもかかわらず、この世界には私たち以外は存在しない。しかも、何故か電気が通っており、夜も暗闇に怯えることはない。そして一番の謎は、午前零時を迎えた瞬間意識が遠退き、次の瞬間には全てが元に戻っていることだ。それは昨夜に体験した。汚れていた服は家を出る前の状態に戻り、使用したマッチ棒は箱の中に新品として存在していた。
理解しきれない。
私たちは同じ感情を口にした。要さんたちはその状況を既に理解しており、都合がよいと割り切り、ただ脱出の方法と日々を生きる事に専念していた。本当に慣れというのは恐ろしい。如何にありえない事でも、慣れる事によってそれがありえる事になってしまうからだ。私はそうなりたくない。口には出さなかったが、心の中でそう何度も呟いた。
「そういえば、昨日言っていた友達は見つかったかい?」
不意に要さんがそう言う。彼の言う友達とは、京ちゃんの事だ。昨日私たちが目を覚ました時にはもういなかった京ちゃんだけど、確かに意識を失うまでは隣にいた。でも、今はいない。それが私の恐怖心をさらに煽っていた。
「京介君は見つけられなかったわ。痕跡もなかったし、やっぱり城坊が言うとおり一人元の世界に取り残されたのかも」
加奈ちゃんは城山君の事をそう呼んでいた。昨日の今日で馴れ馴れしくないかと音ちゃんが言っていたが、城山君が構わないと言ったので今ではそう呼んでいる。
昨日城山君が私たちを助けてくれた時には、もう京ちゃんはいなかったらしい。彼の推測では、この世界に迷い込まなかったとのことだ。
それならそれでいい。加奈ちゃんは京ちゃんが取り残されたというが、実際取り残されたのは状況からして私たちだろう。でもいい。京ちゃんがこんな意味の分からない世界に迷い込まなくてよかった。そうは思っているものの、やっぱり寂しいし、怖い。いつも私の隣には京ちゃんがいた。私がくっついていただけなのはわかっているけど、それでもいつも私の事を気にかけてくれた。助けれくれた。そんな京ちゃんがいないだけで、こんなにも心細いものか。
「僕が皆さんを見つけた時にはもうその人はいませんでした。もし意識を失う瞬間までご一緒だったと言うなら、その京介さんは運よく元の世界に戻れたかもしれませんね」
城山君が考えるようにしてそう言う。確かに、京ちゃんが私たちを見捨てるというのはまず考えにくい。だとしても、獣に殺されるのも考えにくい。
『ねぇ、そんな物騒なもの危ないよ』
『馬鹿だなお前は。もし山で獣に襲われたりでもしたらどうするんだ?』
『それは……死んだふりとか?』
『バカ。それは迷信。正解は目を見たまま後退るだ。でもそれは熊にあった時の対処法であって、もしイノシシだとかだったら使えない』
『そうだけど……』
『いいか? 本当に危ないのは、何の警戒も容易もしてない状態で未知な物に出会う事だ。肝に命じておけ』
あの時の会話が鮮明に思い出せる。京ちゃんは護身用にサバイバルナイフを懐に忍ばせていた。そして私たちの誰よりも警戒していたはずだ。その京ちゃんが簡単に殺される訳がない。消去法でいくと、一番納得がいくのがこちらの世界に迷い込まなかった説だった。
「まっ、今頃京介君、私たちに仲間はずれにされて泣いているんじゃない?」
右手に持つ箸を円を描くように回しながら加奈ちゃんが言う。
「それはないでしょう。あの京介君です。どうせ私たちを探しているに決まってますわ」
「音色先輩の言うとおり! あの京介先輩が、悠里先輩をほっとく訳ないじゃないすか?」
「そ、そんな事……」
「そうね。あの京介君が女房をほっとく訳ないか」
「加奈ちゃんまで……」
私は顔から火が出る思いだった。顔を伏せ、零れそうになる涙を必死に抑えた。今日一番という程の笑いが食卓を包み、私は嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちでお味噌汁を啜った。
目を覚ますと、知らない天井がまた広がっていた。耳に入ってくるのは鳥の囀りと風に靡かれる木々の音。それと――。
「おはよう」
聞きなれない男の声だった。
「おはよう……です」
俺は寝ぼけ眼で起き上がりながらそう呟いた。
「気分はどうだい?」
「あんまり、良くない」
「そうか。まぁ慣れない布団だとそうだよね。僕も最初はそうだった」
春人は笑顔でそう答えると、右手に持った煙草を口元に持っていき、煙を蒸かした。
昨日、春人から一通りの話は聞いた。結論から言うと、春人と共に行動する。少なくとも目の前で煙草を吸う男は敵じゃない。内心が全く読めない侮りがたい男だが、春人からは敵意といったものが感じられなかったからだ。
俺は綿の弱った平らな敷布団にから起き上がると、扉から外に出て背伸びをした。
「あまり良い行動とは言えないね。誰かに見つかったらどうするんだい?」
「誰かって誰だよ?」
「うーん。スナイパーとか?」
「いねーよ、そんなもん」
俺の後を追って出てきた春人は、少し冗談めかしくそう言った。
清々しい朝。俺が住んでた鞍馬町よりも澄んだ空気で、自然が全てを出迎えてくれる。こうしていると、ここが閉鎖された世界だとは思いもしない。
「さて、今日からは京介の特訓に入るよ?」
特訓。というのは少々大げさだ。今日から春人の下で、この自然で生きていく術と、銃剣や護身術を習うつもりだ。俺は元々親父の影響で空手を少々嗜んできた。護身用にとサバイバルナイフも持っているし、拾ったあの禍々しい拳銃の話も春人にしたら使い方を教えてくれるという。そんな事を教えられる春人に少し恐怖を覚えたが、何もしないよりは数倍いいと判断したのは俺の直感だった。
「空手は少々。でもナイフと拳銃はからっきしだ」
「分かってるよ。都合のいいことに、僕も空手の有段者だから組手の相手は出来ると思うよ? 銃剣の扱いも一応心得くらいは持ってるから、京介よりは使えると思う」
「あんた、本当にただの社長か?」
「ただの社長だよ。正確には代表取締役社長」
「聞いてねーよ」
「そっか」
春人はいつも薄い笑顔を作る。俺とは違い表情豊かで、羨ましくないと言ったら嘘になる。
「でもその前に、仲間と合流させてくれ」
「うーん。それはできない相談かな」
「なんで?」
「まだその時じゃない。それじゃダメかな?」
意味深な言葉でまとめる。
俺はまだ、春人を百パーセント信じた訳ではない。こんな世界に迷い込んで三日目。目を覚ましたのは昨日だ。当然俺も動揺していたし、頼れる人間が今は春人しかいない。だから、今は春人の言動に協調するしか術はないと判断しただけのこと。
「いいさ。ただ、早めに合流したい事だけは覚えておいてくれ」
「善処するよ」
俺はもう一度伸びをして、春人の横を通り小屋に戻った。
軽い朝食を済ませ、俺たちは行動を開始した。まずは、この村の地形を把握するために、村を歩く。
最初は小屋の前にある森に入った。見渡す限り木や草といった自然物しかない。それが一体どんな種類の植物で、どうな生態をしているかは全然分からないが、ただ一つ分かった事は、どんなに進んでもまたこの小屋に戻ってきてしまうという事だった。
「マジか」
「凄いだろ? からくりさえ分からないけど、ただ戻ってきてしまうという事実だけが存在する。種のないマジックとはまさにこの事だね」
種のないマジックなど存在しない。種がないのならそれはマジックではなく超能力や超常現象だ。
「じゃぁ、次は軽く村を一周しようか」
俺は春人についていく。あえて見通しの良い道は避け、獣道を草木をかきながら歩く。よっぽど他の連中に会いたくないのか、まるで悪いことをしようとしているかのような気分だった。
三十分くらい歩いた頃だろうか。途中川の近くで休憩をとった。水は冷たく、確かに魚は存在していた。
春人は軽く一周などと言っていたが、三十分歩いてようやく二割ほど進んだらしい。馬鹿じゃねーのと俺は反抗したが、春人は至って真面目らしく、一週間もすれば軽くになるよと笑っていた。
心底ムカつきながら俺は川の水を啜り、少し大きめの岩に腰を下ろした。
「ここが基本的に食料を補充する場所。この川は下の集落まで続いていて、この世界唯一の水源なんだ。まあ後で行けば分かるけど、僕達のいた小屋と集落はこの川によって分割されている。下に行けば行くほど川幅は広くなるから、ここ位まで上がってこないとこの川は渡れない。そのおかげで今はばれずにいるんだけどね」
「でもここが村だったなら橋くらいかかっているんじゃないのか?」
「うーん。そういう形跡はあるんだけど、今はもうないかな。どうやら昔に壊れてしまったらしい」
「そうか」
そんなに都合の良いものか。春人が根城にしているあの小屋。土地勘のないものは、あの場所には近づく事すらできないだろう。まず川を渡る術を彼らは知らないだろうし、何しろその先に続くのは森であり、その中に小屋があるなんて思いもしないだろ。
では、その橋を春人が意図的に壊したのだとしたら?
いや、それは不可能だ。この村にはリセットというルールがある。俺も昨日の晩に体験したし、それは揺るぎない事実だ。だから、その橋というのは、元々壊れていたのだろう。
だとしたら、なぜ有城村の人々はかけていた橋を壊した? 元々存在するものをわざわざ壊す必要があったのだろうか?
と、考えれば考えるだけ謎が深まる。俺は一度川の水で顔を濡らした。
「さて、行こうか」
俺は黙って立ち上がった
舗装のされていない道を通るのは、思っている以上に体力を削った。肩で息をするほどではないものの、呼吸は少し乱れる。前を歩く春人を見ると、慣れているのか疲れている様子はまったくなかった。俺に気を使ってか、休憩を取りながら進む。
ざっと一時間ちょっとだろうか。草木を掻き分けると、ようやく散歩の目的地が眼前に広がった。
「ここが、村の端にある場所。名前は知らないけど、随分立派な造りだろ?」
それは、立派な神社だった。
広い境内に、赤塗の鳥居。その鳥居の先には下に続く長い階段があり、本来ならそこを登って境内に来るのだろう。本殿は一つだが、劣化は見られない。高台にあり、ここから集落を一望することができた。集落自体の広さはそんなにない。楕円に拓かれた平地に家が点在しているような感じだ。そして、その奥には川が流れており、その先の世界をわざと切り離すかのような爪あとのように見えた。
「なんか、変な感じだ」
俺はぼそっと呟いた。この閉鎖された空間で、この建物だけは異質なような気がした。まるで、村を監視しているかのような印象も受け、神社といった元々神聖な佇まいが違和感を強めていた。
「おそらく、この村の豊作を祈願した神社なんだろうね。こういった農村にはよく豊作祈願で神社が建てられるんだ。どんな神様を祀っているのかは分からないけど、こういった神聖な場所は、何か違和感を感じて当然だと思うよ」
春人の言うことも一理あった。ただ、それだけではない何かを感じたような気がしたが、それを上手く言葉にすることはできず、俺は口を紡いだ。
「見てくれ」
そう言われ、春人が手を置く一本の大樹を眺めた。
「これはおそらくこの神社の御神木だ。こういった物が信仰の対象となることが多くてね、守り神として崇められてきたのだろう」
それは、樹齢百年を有に越すであろう大樹だった。縄が巻かれ、他の木々とは違う雰囲気を醸し出していた。鞍馬町にも神社はあったが、ここまで立派な物はなく、まるで歴史の教科書の一ページを覗いているようだ。
「立派な木だな」
俺がそう呟いた時だった。
啜り泣き――そう表現するのが最も正しいと思う。この村には自然の音が溢れていて、一概に静かな世界とは言えない。だからこそだろう。その音があまりにも耳障りだった。
「聞こえるか?」
俺は春人にだけ聞こえるように小さく言った。
「うん」
春人はそう言いながら懐に手を伸ばした。彼のジャケットの内ポケット。そこに入っているのは煙草だけでは無いことを俺は知っていた。春人は音が鳴らないよう慎重にそれを取り出す。銀色に鈍く光り、箸を割るようにケースを開けると、中から鋭利な刃物が顔を覗かせた。
俺はその武器を知っていた。護身用にと俺が持ちだしたサバイバルナイフよりもさらに殺傷能力の高いそれは、世間で『バタフライナイフ』と呼ばれる代物だった。
「本殿の裏辺りだね」
俺は耳を澄ます。まだその音は聞こえる。隠すこともなく、わざと響かせようともしている伏はない。つまり、ただ目的もなく音を出している。そんな印象を抱いた。
「野生の動物か?」
自分で言って愚問だと思った。野生の動物だという解釈もできなくはないが、おそらく違うだろう。そう思ってはいるものの、なんとなく他人の意見が聞きたい。そんな俺の弱い部分を代弁したかのようなセリフだった。
「どうだろうね。断定するには早急だし、警戒を怠らない事に越したことはないと思うよ」
「だな」
俺は音を立てないように春人の後ろに付いていく。
仮に野生の動物、それもイノシシや熊だった場合、今俺達の装備じゃまず勝ち目はない。今日は軽い探検気分でここまでやってきた。狩猟をするための装備はなく、いくらお互い空手を嗜むと言っても素手じゃそういった類の動物には手も足も出ない。だからこそ、確認する必要がある。逃げるとしても、安全な方角を確認するためだ。
一歩、また一歩と音の聞こえる方へ足を進め、耳を澄ませた。そして、近づくにつれ、俺の憶測が事実へと変化していく。耳がおかしくなってなければ、その音は女性の泣き声だ。春人も同じ事を思ったのだろう、こちらを向いて目で合図してくる。俺は返事として頷き、泣き声の聞こえる場所へと飛び込んだ。お互いナイフを構えたまま、その声の主を睨む。
「なっ」
思わず間抜けな声を出してしまった。
本殿の裏手の少し薄暗い場所。その更に影になっている場所にそれはうずくまっていた。
ひと目でその人影が少女だと理解した。髪は黒く腰まで伸びていて、白いワンピースを纏っている。顔は見えないが、ワンピースから露出する白い手足には傷が所々存在し、赤く染まっていた。
「おい、春人さん。あんた、この世界にいる人間は全て把握しているんじゃなかったのか?」
「僕も驚いているよ。もし勘違いでないのなら、新たな迷い人。そういう事になるね」
俺たちはナイフをポケットにしまった。ただ、いつでも取り出せるように警戒心だけはしまわなかった。
「あの……」
春人が二・三メートル程離れている場所から声をかける。これだけ間合いがとれていれば、もし襲ってきたとしても対応できる。
春人の言葉を聞いてか、少女は嗚咽を漏らしながらゆっくりと顔を上げた。それを見て俺は一瞬目を見開く。
幼さを十分に残した容姿だが、将来を有望させるほど整っていた。潤んだ瞳は大きく、その丸さからまるで小動物の印象を受ける。しかし、俺はロリコンではない。別段心を打たれたりはしないが、可愛いと俺の脳は判断していた。
「ひっ……ん……だ……れ?」
言葉が嗚咽で途切れ途切れになっていた。それでも少女は涙を拭いながら、何かにすがるような純粋な目をこちらに向けてくる。
「こんにちは。お嬢ちゃん、一人?」
春人は優しく声をかけた。彼女の質問にすぐ答えない所が少し嫌な感じがしたが、それだけ警戒心を持っているという事だろう。
「ひ……ひとり」
一人でなければそれはそれで問題だが、ここに来る前できるだけ注意を払った。近くに人の気配はない。朝の春人ではないが、スナイパーがいない限り安全と言える。
「親御さんは一緒じゃないの?」
「おや……ごさん?」
単語の意味が分からなかったのか、少女は首をかしげる。
「あ、ごめんごめん。お父さんかお母さん、もしくはおばあちゃんとかは一緒じゃない?」
「ううん。燈花だけ」
「燈花ちゃんって言うんだね」
「うん、燈花。夕神燈花」
燈花と名乗るその少女からは、敵意というものが全く感じられなかった。というか、純粋さの塊と言っても過言ではないだろう。こんな少女に俺はビビっていたと思うとバカらしくなり、俺は警戒を解いた。だが、春人はまだ一歩も近づこうとはしない。こんな少女に何ができるってんだ。
「丁寧にありがとう。燈花ちゃんはいくつ?」
「小学六年」
やはりな。その位だとは思ったよ。
「お兄ちゃんたちは?」
俺はその瞬間、身体に電気が流れるような感覚に襲われ、そして高揚した。
『お兄ちゃん』
そう呼ばれるのは何年ぶりだろう。
俺には三つ下の妹がいる。昔は「お兄ちゃん」と俺の後をついてくる可愛い奴だったのに……いつの日からか俺のことを京介と呼び捨てにするようになり、今では会話もあまりない。
こんなときに不謹慎かもしれない。分かってはいるものの、そんな感情で心は覆い尽くされた。
「僕達は――」
そう言いかけた春人を片手で制止し、俺は不可侵領域とも言える少女との距離を一歩ずつ詰めた。
少女は驚く事なく俺を見つめた。嗚咽も止まり、今は赤くなった目元でまっすぐと。
「もう一回」
「え?」
「もう一回、言ってくれないか?」
自分でも正気の沙汰とは思えなかった。後ろでは春人が声をかけてくるが、俺はそれを無視した。
「何……を?」
「お兄ちゃん」
「え?」
「お兄ちゃんと、呼んでくれ」
「え? あ、お兄ちゃん?」
感慨深いものがあった。拳を握り、こみ上げてくるものを必死に抑える。
「京介。一体君は何を言っているんだい? もしその子が危険だったら……」
「この子は大丈夫だ」
俺は春人の言葉を遮り声を発した。
「なぜ?」
「なぜ? 考えれば分かるだろ? この子がもし何かしらの危険分子だったら、俺はもうこの世にいない」
「それは根拠とは言えないよ。近くに仲間がいる可能性もある」
「近くに人の気配はない。それはもう確認済みだろ? まぁもし仲間がいるなら、俺と春人さんが離れた瞬間に襲ってきているはずだ。それに、春人さんが好きなスナイパーだけど――」
「別に好きな訳じゃ……」
「――もしスナイパーが狙っているなら、ここよりも高い場所でなくてはならないだろ? 同じ高さじゃ周りの木が邪魔で撃てないし、ここより高い場所って言えば結構遠くの山に登らなきゃならない。決め手はこの場所。ここは本殿の裏手で、周りは木々に囲まれてる。周りに人がいない時点でこの子は白さ」
俺の推理を一通り聞いた春人は、一度ため息をつくとやれやれと言った感じに頭を振った。
「分かった。京介がそこまで言うなら僕も信じよう」
その言葉を聞いて、俺は一息つく。ハッタリではなかったが、春人を説得する自信は正直なかったからだ。
「あの……」
俺は後ろに身体を返した。燈花は訳が分からないようで、ただ呆然と俺と春人を交互に見た。
「悪かった。こっちの話だ」
「え、あ、うん」
「俺は京介。南雲京介だ」
俺はそう言いながら、燈花に手を差し伸べた。ありがとうと、燈花は俺の手を取り立ち上がる。思ったよりも背が高く、中学生だと語っても信じられる。とはいいつつ、俺も百七十後半あるので、肩に頭が来るか来ないくらいだったが。
「で、こっちが草壁春人さん」
年下の俺に紹介される事が嫌ではないのか、春人は笑顔でよろしくと頭を下げた。それに同調するかのように、燈花も頭を下げる。最初はもっと幼い印象を受けたのだが、思ったよりもしっかりした子なのかもしれない。
「えっと、夕神燈花です。小学六年です」
もう一度自己紹介を受ける。頭を下げると靡く髪に痛みはなく、綺麗な黒髪は影よりも深い色をしていた。
「あの、京介お兄ちゃんと、春人お兄ちゃんでいい?」
俺はまた心の奥を刺されたような気がした。
「ああ」
ただ、それを表に出さないよう短く答える。
「僕はお兄ちゃんって柄じゃないからね。普通に春人でいいよ」
「あ、うん。春人さん」
春人はどうもこそばゆいようで、頭をかきながらそう言っていた。
「さっそくだけど、ここにいる理由は分かるかい?」
春人がそう切り出すと、少し俯きながら燈花は口を開いた。
「迷子」
「迷子?」
「うん。お父さん達と法事? で、この街に来たんだけど、気づいたら一人になってて……。それで歩いてたら神社が見えて、訳が分からなくて……」
恥ずかしさと言うよりは、不安だろう。燈花の目はまた潤んでいた。
「そっか」
「あのね、どうやったら帰れるか、教えてくれる?」
俺たちは同時に言葉を失い、同時に自然も音を消したように静まり返ったような錯覚に陥る。燈花は黙りこむ俺たちを不思議そうに眺めている。なんと言うべきか。答えは出ないまま、俺は黙る。
「僕達も、探しているとこなんだ」
「え?」
その反応は正しいと言える。時に結論から話す事は正しい選択とされている。だけど、ここでのそれは、相手に疑問を抱かせるだけだった。
「ここから出れないんだよ。僕らも」
そして、次に続く言葉は残酷以外の何ものでもなかった。特に小学生の燈花にとって、まず言っている意味を考える作業から入るだろう。それだけでも一苦労なのに、その意味を知った途端、どれだけ感情が動くのか俺には想像がつかなかった。
「春人さん」
「分かってる。でも、こういうのは早めに知っておくのが一番だよ」
燈花は考え込むような顔をして、やがて両目から涙を零した。
泣くのは分かっていた。でもそれが早いか遅いかだけの違いだ。春人は早い方を選択した。それは果たして正解なのか分からない。ただ、燈花の涙を見て、俺も自分の置かれている状況を再確認し、ゆっくりと空を見上げた。
「もう平気」
五分程度だろうか、燈花は涙を拭き、そう呟いた。
春人も俺も、ここは外から閉じ込められた世界という事しか伝えなかった。詳しい事は何一つ。それでも燈花は泣くのをやめなかった。どんな感情を抱いて泣いたのかは当の本人にしか分からない事だけれど、泣ける事に羨ましさを感じる俺がいた。もう何年も泣いてない。泣くよりも先に考えてしまうからだ。そして結論が出る頃には、涙などもう存在していない。悠里には昔から言われたが、俺は感情が乏しいらしい。自分ではそんなつもりはない。でも、なんとなく分かる気もした。だから、すぐに涙を流せる燈花を羨ましく思い、同時にその純粋さを忘れないでいてほしいと願った。
「さて、これから――」
そう春人が言いかけた時だった。
遠くで人の声のようなものが響く。それを聞いて、春人は身構え、俺は燈花を守るように抱きしめた。
「えっ、京介お兄ちゃん?」
「しっ! 静かに」
俺の言葉を聞いて、燈花は両手で自分の口を抑えた。
春人と目で合図しながら耳を澄ます。声が聞こえるのは、本殿の表側。鳥居や御神木のある方だった。
「――じゃないんすか?」
「――ですわね」
声は若い。よくは聞こえないが、それだけは判断ができた。
「――た方がいいわね」
「――ぎだよ」
はっきりとは聞こえない。それでも、最後に言葉を発した人物の声は俺を動かすには十分な素材だった。
「悠里だ」
俺は短くそう呟く。そして、かがめていた身体をいっきに起こした。
「待て京介。まだ彼らに遭うには早い。」
あいつらの元へ行こうとする俺を、春人が制止する。
「なんでだ? あいつらは仲間だぞ?」
「分かってる。だからこそ、今は落ち着くんだ」
「だからなんでだ?」
「僕は君を、敵に回したくない」
意味深な言葉だった。一体どういう事か考える事もできず、俺はただ頭に血が上るだけだった。
「言いたい事があるならはっきり言え。敵ってなんだ? あいつらの所に俺が行くと、何か不都合でもあるのか?」
「いずれ彼らとも合流する。それまでは、僕を信じてくれ」
それ以上、春人は何も言わなかった。ただ彼の真剣な目が、俺の目を突き抜け脳に突き刺さる。俺は無言で目を逸らした。そして、その先には不安気に俺を見つめる燈花がいた。
「喧嘩はダメだよ、京介お兄ちゃん」
頭が冷えていく。冷静になればなるほど、春人の言葉は意味が分からないが、それでも燈花に免じて今は春人を信じる事にした。
「燈花ちゃん。君は彼らについていくんだ」
「え?」
「お前、突然何を?」
「考えてもみろ京介。僕達が寝泊まりしている小屋は森から極めて近い。いつ獣に襲われてもおかしくない場所だ。京介ならまだしも、僕は燈花ちゃんまで守りきれると言い切れない」
「俺は自分で自分の身を守る。燈花だって俺が――」
「今の京介にそんな力はないよ」
俺は口を閉ざす。今の俺は、自分を守る事すらままならない状況であることは揺るぎない事実だった。そんな俺が、燈花を守りきれるのか?
「お兄ちゃん?」
燈花の同情とも取れる瞳が俺の心をさらに揺らす。俺が守りたい。でも守る力はない。葛藤が身体の中を渦巻く。
「わかっているんだろ? 今の君には何も守れない。だから燈花ちゃん。彼らについていくんだ。そっちの方が安全だから」
「お兄ちゃん達は?」
「僕らもいずれ合流する。あと、一つ約束できる?」
「何?」
「今ここで僕らとあった事は内緒に出来る? 僕らから聞いた話も全部」
「え? 何で?」
「僕らはまだ彼らに遭うわけには行かないからね。だから内緒。できる?」
「……うん」
燈花は少し考えて、強く頷いた。
「いい子だ」
春人は一度頭を撫でると、彼らの方へと向き直る。
「京介お兄ちゃん、なんだか苦しそう」
どんな情けない顔をしていたら、小学生にそんな事を指摘されるのだろう。俺は無理やり笑顔を作り、燈花の頭を撫でた。
「燈花」
「ん?」
「あいつらは俺の仲間だから何も心配する事ない。何かあっても燈花を守ってくれるさ。それに、俺達も必ず燈花の元に行く。だからそれまで泣くのは禁止。約束できるか?」
「……うん。約束する。その代わり、京介お兄ちゃんもまた会うって約束ね」
そう言って、燈花は小指をつきだした。指切りげんまんなんて何年ぶりだろう。俺も破ったら針千本飲まなきゃならない。こりゃ守んなきゃな。
「よし。しばしのお別れだ燈花ちゃん」
「うん。またね」
そう言って、燈花はあいつらの元へと走っていった。
最初はあいつらの驚く声が聞こえたが、案の定すぐに受け入れてもらえたのか、その場を立ち去っていったようだ。
まるで何もなかったかのように、また木々が音を奏でる。今日だけで少し寿命が縮んだような気がする。
「まさか、京介にあんな兄気質があったなんてね」
「うっせ」
俺たちは立ち上がり、自然と御神木まで歩いてきていた。もう人の気配もない。あいつらが燈花の面倒を見てくれるだろうし、俺が気にするのは今後の事だけだった。
「これからどうするんだ?」
「ん? 小屋に戻って修行編突入かな」
「なんだよそれ?」
「あれ? 漫画とかでよくあるじゃん。修行編に突入して主人公や仲間達が強くなるってやつ」
「俺はあんまり漫画とか読まないんだよ」
「そっか。それは残念」
俺は少し呆れたように首を振ると、御神木に手をついて上を見た。近くで見ると、さらに大きく見える。どれだけの歴史を見てきたのか知らないが、何かを知っているなら今すぐ教えてほしいものだ。それこそ漫画の登場人物のように、木の言葉が分かればどんだけ良かったか。
そんな愚痴を頭の中で呟いていると、置いた手の所に何か文字が刻まれているのが見えた。もしやと思い目を凝らす。だが、それを見た俺はうなだれるように腰を下ろした。
「ん? どうしたんだい?」
俺は顔を伏せながら上に指をさした。その先をたどるように、春人は視線を移す。
「大友……瑞樹?」
春人に読まれたその名は、我が部唯一の後輩であり、生粋のバカの名であった。
「それ、俺の後輩の名前。さっきここに来た時に落書きしただろうな」
恐れ知らずというか何というか、罰当たりな事をする奴だ。部長のことだから自慢気にこれが御神木であろう事は語っただろうに、それを聞いてか聞かずか、瑞樹の野郎とんでもない事をしたな。
「罰が当たらなければいいけど」
「一回あたった方がいいのかもしれない」
「仲間に酷い事を言うんだね」
「春人さんも会えば分かるさ」
ため息をついて、空を見上げる。
今日も変わりなく空は澄んでいて、その青が俺の疲弊した心を少し癒してくれたような気がした。
「なぁ、春人さん」
「ん? なんだい?」
「俺はあんたについていけば、さっきみたいな思いしなくて済むのか?」
我ながら情けない言葉だと思う。今までの人生、弱音を吐いた事などあまりなかった。何事も自分次第でどうにかなったし、何より人に頼りたくなかったからな。
だけど、今目の前に存在する問題は、俺のキャパシティを遥かに超えていた。ここまで自分は無力だと思い知らされると、人はこうも弱いものか。
「そうだね。最低限自分を守れるくらいには。そこからは京介自身がどれだけ成長できるかだね」
「そっか。俺は自分を過信してたみたいだ」
「過信する人はそれだけの実力と自信を持っているんだ。京介は土台が完成しているから、すぐに強くなれるよ」
春人も俺を過信しすぎだ。だけど……。
「ご指導ど鞭撻のほど、よろしく頼む」
俺は春人に向かって頭を下げた。
必ず強くなると誓って。
この世界に来て、二回目の朝を迎えた。
寝覚めはあまり良くない。慣れない布団だからというのもあるが、何より安心して寝付く事ができない。
要さんの作った朝食はいつも通り白米の焼き魚。別に嫌いな訳ではないのでいいが、欲を言えばもう少しバリエーションがほしいところだ。
「今日も行くわよっ!」
朝食を食べ終えた加奈ちゃんのテンションは異様に高く、どうやら今日も探索に行くようだ。昨日の探索は村を一周して終わった。これと言った発見はなかったが、強いて言うならば、街の片側は川によって切断されていて、その向こうには足を踏み入れられないという事だけだ。橋がかかっていた形跡があったが、意図的に壊されたのか、はたまた自然によって駆逐されたのかは知る由もなかった。
「探索って、今日はどこに行くんすか?」
瑞樹君は気怠そうに言った。確かに、村の探索は昨日の時点で済んだ。この世界から抜け出せないという事実は既に要さん達が実践済みだというし、それは嘘ではないと思う。根拠はないが、しいて理由をつけるなら、共通点など一つもない彼らが、こんな村で自給自足の共同生活をする意味がないからだ。
「まだ行ってない場所があるでしょ?」
「そんなとこないっすよ」
「あら、聞いてませんでしたの? この家を挟んで川の反対側に進むと、神社があるらしいですわ」
「神社?」
昨日、要さんがそんな事を言っていた。川の反対側にまっすぐ進むと、長い階段が現れ、その向こうに立派な神社があるらしい。その話を聞いた途端、加奈ちゃんの目が光ったのを見逃さなかったが、案の定行くことになるみたいだ。
「そう神社。ね? 何かあると思わない?」
「そうですわね。もし何かあるのだとしたら、そこですわね」
「まぁ俺は分かんねっすけど。悠里先輩はどうすか?」
「私?」
突然話を振られ、私は少したじろいだ。
「うーん、どうだろ。加奈ちゃんがそういうなら、何かあるのかもね」
私は当たり障りにない回答をした。肯定とも否定とも取れない。
「なら決定ね! さっ! 行くわよ!」
まるで遠足の班長のように先頭を闊歩歩く加奈ちゃんの後ろを、私たちは金魚の糞のようについていった。
「京介君。来ないですわね」
途中、私の横を歩く音ちゃんがそんな事を言った。
「うん」
「京介君なら、すぐに来ると思ったんですけど、やっぱり難しいのかしら」
どうだろう。仮に京ちゃんが私達を探しているのだとして、むやみやたらに森を探索するなんて事をしないだろう。彼は頭がいい。いつも人より先を見て行動する。だから、万全の状態でなければ助けにはこないだろう。
「両親も心配してるかしら?」
「そうだね。今頃京ちゃんが警察とかに届け出てると思うし、ちょっとした騒ぎにはなっていると思う」
「そうですわね」
森で学生が遭難。そんなニュースが流れているのは想像がついた。メディアはこのスクープを見逃す事はないだろうから。
「でも、京介君なら、助けに来てくれますわよね」
そういった音ちゃんの目からは不安さがにじみ出ていた。
私だけじゃない。皆不安なのだ。そして、いつもこんな時に助けてくれるのは京ちゃんで、言葉にはしないがみんな頼りにしていたのだ。
「大丈夫だよ。必ず助けに来てくれるから」
「まさか、悠里に慰められる日が来るとは、思いもしませんでしたわ」
そう言って音ちゃんは笑顔を作った。それに応じるように、私も笑顔を作った。
「ついたわ」
加奈ちゃんの声で、私たちは立ち止まった。おそらく最短距離でこれたのか、ものの十分ちょっとで辿り着くことができた。単純に計算して反対にある川からは大体二十分。そう考えるとこの村自体はあまり大きくない。
「うわっ。思ったよりも高いっすね」
「想像以上でしたわ」
「うん」
目の前には、想像していたよりも遥かに長い階段が構えていた。段数を数える気にもならないほど高く、階段の先が小さく見えた。周りは立派な竹やぶに覆われ、誰かが手入れをしているんじゃないかと思うほど、劣化も見られず綺麗なシンメトリーを創りだしていた。
「怪しいわね」
確かに怪しい。でも何が怪しいかと聞かれれば、発した本人である加奈ちゃんも答えられないだろう。
「部長。マジでこの階段登るんすか?」
「登るわよ。この上に何があるか確かめないと」
「そんなの神社があるに決まってるじゃないすか?」
「何? 口答えする気?」
有無を言わせない形相で、加奈ちゃんは瑞樹君を睨んだ。それ以上瑞樹君は何も言わず、ただ肩をすくめた。正直、私も上まで行くのは嫌だった。頂上――つまり神社の本殿があるであろう場所に行くには相当な体力を削らなければならないようだし、正直上には何もないような気がした。
だが、部長命令は絶対だ。私も音ちゃんも文句を言わずに階段を登った。瑞樹君は最後まで愚痴を言っていたが、その都度加奈ちゃんの鉄拳制裁を受けていた。最初は何段あるのか数えていたが、まだ半分もきていない事に幻滅し、五十を過ぎた頃にやめてしまった。
どの位登っただろう。ようやく小さかった頂上付近の階段がまともな大きさになり、変わりに朱色の鳥居が顔を覗かせた。
「着いた!」
加奈ちゃんは最後の段をジャンプした。私も思わずジャンプしそうになったが、体力的にそれは無理だった。
『うわぁ』
思わず四人の声が重なる。
目の前には綺麗な朱色をした鳥居が、私たちを出迎えるように構えており、その奥では思っていたよりも立派な境内と本殿が立っていた。
「随分と立派ですわね」
「ええ。思っていたよりも広いし、何より状態が良い」
世界遺産は無理だとしても、国の重要文化財に指定されてもおかしくないと思っているのはおそらく私だけではないだろう。それだけ目の前にある建造物が見事で、何よりこの世界では異質に思えた。
「景色もいいっすね。ここ随分高台みたいっすよ?」
私の横で瑞樹君がそんな事を言う。それを聞いて皆後ろを振り向くと、絶景とも言える景色が目の前には広がっていた。
「こう見ると、やっぱり狭い世界ね」
言葉通り、私も同じ印象を受けた。
小さな集落。その周りを大自然が囲み、見える景色は限られていた。だからこそ、この世界が本当に閉鎖されているのだと感じるには十分だったのかもしれない。自ずと恐怖を覚え、身体が震えた。それに気づいてか、音ちゃんが私の手を握ってくれる。程よい人の温もりが私の手を包み、柔らかくなったであろう表情で「ありがとう」と短く感謝の気持ちを伝えた。
「やっぱり、何かありそうね」
あまりの存在感。故の違和感だろう。あからさまに怪しい建造物を前に、加奈ちゃんは好奇心とも疑心とも取れる感情をあらわにしていた。しかし、私は何故か神社に何もない気がしていた。
都会の真ん中にぽつんと建っている神社を見た時の気分というか。周りの環境に溶け込んでないものを見ると自然に違和感はあるものであって、それはそのものが変わっているのではなく、むしろ周りの環境が変わっているだけであると本で読んだことがある。
つまりだ。自分でもどう説明すればいいのか分からないけど、変なのは神社じゃなくて村の方だということだ。
と、加奈ちゃんに説明したところで何の意味もないことはよく分かっている。だから、私は何も言わなかった。
「確かに怪しいですわね。でも、具体的には何がですか?」
「まだそこまで具体的な物はないわ。ただ、ここまであからさまに怪しいと何かあると思わない?」
「そうっすけど、じゃあ逆に怪しくなかったらどうなんすか?」
「そんなの怪しいに決まってるじゃない」
言っている事は矛盾している。だが、加奈ちゃんも何かしらのきっかけがほしいのだ。この世界から脱出するっていうきっかけが。
「よくわかんねーすけど、そしたらこれとか怪しいんじゃないすか?」
そう言って瑞樹君が指さしたのは、周りの樹木とは頭一つ抜けた大樹だった。
「それは、おそらくこの神社――というか、村の御神木ね。有城村は農村だって聞いてるから、おそらく豊作祈願なんかの念も込めてたんでしょうけど」
御神木。その表現は非常に合っていると思う。幹には縄が巻かれ、特別な意を込められているのは分かるが、それ以上に何か神聖なものを感じる。もちろんそれは、あの鳥居や本殿からも感じてはいるのだが。
「御神木か。じゃあ願いを叶えてくれる木ってことすか?」
「うーん。そういった言い伝えもあるとこにはあるみたいだけど」
「なら」
そういって、瑞樹は根本に落ちていた小石を拾い、何かを木に掘り出した。
「ダメですよ瑞樹君!」
「大丈夫ですって。この世界からの脱出を祈ってですから」
誰も瑞樹君を止めようとはしなかった。この御神木に祈れば本当に脱出できるなんて誰も思ってはいないだろう。だけども、そんな雲をつかむような話でさえ、少し願いを込めてみたかったのだ。
「これでよしっと」
御神木には『大友瑞樹』と掘られていた。
「あんたね、自分の名前書いてどうするのよ?」
「え? だってこういうのって願いをした人間の名前を書くもんじゃないんすか?」
加奈ちゃんと音ちゃんがため息を漏らす。
「正真正銘のお馬鹿さんですわね」
「はぁ。一回呪われほうが良いわね」
「加奈ちゃん、音ちゃん。言い過ぎだよ」
「そうっすよ。俺の硝子のハートが傷つきました!」
自然と笑みが溢れる。こうしていると、いつもと変わらない気がした。ただ違うのは、私たちが置かれている世界だけで、郷土史研究部のメンバーはいつもと変わらない。
ただ少しだけ、穴が開いたような気がしているのは、京ちゃんのツッコミがないからだと気づくのは早かった。
その時だった。少し離れた本殿の裏から、何か物音のようなものがした。
「ひっ!」
私は飛びのくように、音ちゃんの後ろに隠れた。
「なによ、今の音?」
「本殿の裏の方からでしたわね」
「要さん達の話では、森には熊やイノシシといった類の動物もいるらしいわ。もし、そうだとしたら……」
私は涙が出そうになるのを必死にこらえた。すぐそこまで明確な『死』が近づいている。逃げるにしても、私たちの足じゃ到底勝てない事は目に見えていた。
「熊だとしたら、死んだふりっすかね?」
「バカっ! そんなの迷信よ!」
「しっ! あんまり大きな声をださないほうがいいんじゃなくって?」
「ほら! あんたのせいで怒られたじゃない。これは部長命令よっ。ちょっと見て来なさい」
「それは遠回しに死ねって言っているんすか?」
冗談で言っているのは分かっている。いくら人里離れたと言っても大した距離ではない。そんな場所に熊が出るのだろうか?
「瑞樹くん。たまには男を見せてくださいまし」
「あーもう! 分かりましたよ。じゃあ先頭を俺が歩くんで、後を付いてきてください。
コクリと頷く。その反応を見て瑞樹くんが歩き出す。その後を、加奈ちゃん音ちゃん私の順で歩いた。
近づくにつれ物音は大きくなった。私の中にある得体の知れない恐怖は大きくなるばかりで、その都度音ちゃんの袖を強く引っ張った。
丁度本殿の横辺りにたどり着いた頃、先頭の瑞樹くんの足が止まった。
「どうしたのよ?」
「目標が近いっすね。もし熊ならこれ以上は――」
その時、裏手から何かが飛び出してきて、思わず後ろに飛び退いた。
「あの……」
私は腰を抜かして地面にお尻を着いたまま動けなかった。それを守るように音ちゃんが前に立ち、加奈ちゃんも瑞樹くんもその影を睨むように見た。
「一緒に連れて行って!」
私は涙目でその影を見た。何かの動物かと思われたそれは、紛れも無く人の形をしていた。そして脳は、次第に少女であることを理解するまでに回復し、いつの間にか自分の足にも力が戻ってきた。
「え?」
数秒の静寂の後、最初に口を開いたのは加奈ちゃんだった。それは声というよりは音が漏れたようなものだったが、まるでコンサートホールにいるかのようにそれは鮮明に聞こえた。
「あの、私燈花って言うの。自分でもよく分かんなくて……」
燈花と名乗ったその少女は、小学校高学年から中学校低学年と言った所か、少し怯えながらそう言った。身につけている白いワンピースは所々汚れていて、黒くて長い髪も乱れていた。その身なりからすると、おそらく森を彷徨った挙句ここに迷い込んだと言ったところか。
「えっと……あなた、なんでここにいるか分かる?」
「それは……」
そこまで言いかけて、考えるように俯いた。
「分からない……」
そう短く答え、もう一度私達に視線を向けた。
「じゃあ質問を変えるわ。何で一緒に連れて行ってほしいの?」
「せ、先輩。子どもにそんな質問攻めは酷っすよ」
「そうですわね。この状況、自分でも何がなんだか分かっていないのは明白ですわ」
「分かってる。でもこの子、何か知っているような気がするのよねぇ」
少女に聞こえないよう、小さな声で会話をする。加奈ちゃんが何を警戒しているのかは分からない。ただ、この子は悪い子じゃない。なんとなくそんな気がした。
「なんとなく……」
少女はそう答え、また俯く。それを見て加奈ちゃんはさらに何かを感じたのか、言葉を続けようと口を開こうとした。
「もういいよね加奈ちゃん?」
意を決して私がそう言うと、開けかけた口を閉じて加奈ちゃんがこちらを向いた。同時に後の二人も私に視線を注ぐ。注目されるのは苦手だ。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「この子、怯えてるみたいだし。私たちだって最初は何も分からなかったじゃない? だから、優しく迎えてあげようよ?」
頭で整理しながら言葉を並べる。
「まぁ、悠里がそう言うならいいけど」
どこか不服そうではあるが、加奈ちゃんの首を縦に振らせる事に成功した。それを確認してから、私は一歩一歩少女に向かって進んだ。少し怯えた様子の少女の前で中腰になる。目線が同じになり、少女の綺麗な黒目が私をとらえた。
「こんにちは。初めまして。私は悠里っていうの」
そう優しく声をかける。
「……燈花。夕神燈花」
「燈花ちゃんか。いい名前だね。燈花ちゃんは一人?」
「うん。さっきまでは違ったけど……」
この位の少女だ。おそらく誰か大人と一緒にいた所をはぐれてしまったに仕方ない。
「そっか。お姉ちゃんたちはもうそろそろ家に戻るけど、よかったら燈花ちゃんも一緒にどうかな?」
「え? いいの?」
「うん。大歓迎だよ」
燈花ちゃんは満面の笑みを浮かべてそう言った。手を握る。思っていたよりも小さな手。そこから温もりが私に伝わってくる。
「じゃあ行こうか」
「うん」
私はその手を引っ張るように足を進めた。
「よろしく……お願いします」
燈花ちゃんは、みんなの前に行くと少し控えめにそう言って頭を下げた。
「ご丁寧に。私は西園寺音色と申します」と、音ちゃんが綺麗なお辞儀をする。
「俺は大友瑞樹。よろしくな」
続いて瑞樹くんがピースしながら言う。
「私がボスの三島加奈子よ。よろしくね」
加奈ちゃんは腕を組んだままだった。そんな態度をとったら燈花ちゃんは怯えるのではないか。そう危惧して顔を見るが、以前笑顔のままだった。
「何がそんなに可笑しいの?」
私がそう聞くと、燈花ちゃんは「なんとなくわかった気がする」と答えた。その意味が分からず「ん? 何が?」と聞いたが、「え? ううん。なんでもない」と、はぐらかされた。
なんだろう。気になるけど、燈花ちゃんが笑顔でいてくれるなら正直どうでもよかった。だから私は「そっか」とだけ言って手を引いた。
顔を上げると、鳥居の前には村の景色が広がっていた。変わらず深い緑が村を包み、世界が閉鎖されているのを実感する。
「お姉ちゃん。震えてる?」
私の手を握っていた燈花ちゃんがそんな事を言う。自分でも知らぬ間にどうやら震えていたらしい。
「寒いの?」
「ううん。違うの」
寒くはない。ただ、この得体の知れない村に怯えていた。出れない事実に恐怖した。
「大丈夫、行こう?」
燈花ちゃんの顔を見ると、最初に見せた不安そうな顔を浮かべていた。この世界に紛れ込んで今は右も左も分からないはず。私が守ってあげないと。
そう決意した。




