静寂の影
黒川澪。
どこにでもいる、ごく普通の会社員。
人付き合いを嫌うわけではない。仕事も真面目で、周囲からの評判も悪くない。
ただ一つ、彼女には誰にも知られたくない好みがあった。
――五月蝿い物が、嫌い。
静かな部屋。静かな夜道。誰にも邪魔されない時間。
そんな日常を愛する澪の「散歩」は、少しだけ普通とは違っていた。
ーー五月蝿い物が嫌い。虫唾が走る。
名前は黒川 澪。会社員。
??「黒川さんおはようございます。相変わらず出勤早いですね。」
60代男性。落ち着いた雰囲気の管理職。
澪「おはようございます。佐野さん。しっかり準備したいので。」
佐野「本当に助かるよ。黒川さんがいる日は安心して任せられる。」
澪「ありがとうございます。」
社交辞令のような笑顔。会話など興味すらない。
私の仕事は、夜間警備会社からのビデオ警備。時間になるまでただただ人気のない場所の映像を見つめ続ける。
退屈は無い。むしろこの時間が至福。
監視室のドアが開く。
佐野「黒川さん僕はお先に失礼するよ。」
澪「お疲れ様です。お気を付けて。」
会社に1人。静かな空間。なんて幸せ。静寂だけがこの世に必要なもの。
ーー9時。
勤務時間が終わる。寄り道もせず帰路につく。路地が多く古いアパートばかり。
玄関を開ける。家の中は、机も椅子もない。ソファベッドとタンス、本棚だけ。必要最低限ですらない。キッチンには食器も食材もない。
家具の少なさとは逆に防音のカーテンや窓が惜しみなく使われている。
明日は休み。お腹も空いたし、暗くなったら"散歩"しよう。
本棚から一冊の本を取り出す。
1ページ、また1ページ。丁寧に読み進める。
ゆっくりと時間が過ぎ、夕日が落ちて行く。部屋にはページをめくる音以外何も聞こえない。
ーー1時。
お腹が空いた。
澪は、何も持たず家を出てただただ歩く。人通りもない静かな道。心地よいそよ風。至福。
澪の影。その黒い輪郭が、彼女の動きからほんの僅かに遅れて追従している。街灯の角度では説明がつかない、呼吸ひとつ分のずれ。
その時、遠くの方から若者の笑い声が響いていた。深夜にそこらでたむろっているのだろう。
ーー五月蝿い。
真っ直ぐ声の方向へ足が進む。近づくにつれ澪の影が揺らいでいく。
青年が3人。駐車場の地べたで菓子ゴミを散らかしながら騒いでいる。自分らだけの世界とでも思っているのか。
青年のひとりが澪に気づく。
青年「え、めっちゃ綺麗な人いんじゃん。見ろよ。」
3人の目線が澪へ向く。
淡々と澪が近づいていく。
青年「え、こっち来てね?」
ーー澪が微笑む。
指を唇に当てる。青年達を含めた澪の周りの音が消えた。
青年たちは驚いて慌てている。だが口や体が動くだけで服が擦れる音すらしない。
澪が人差し指を青年達の首に向けて空に線を書いた。黒い糸が首に巻き付く。青年達は締められていく首の糸を外そうと必死にもがく。
ーー触れられない。
糸は影でできていた。じわじわときつくなる糸が食い込み、血が垂れる。膝をつく者、倒れ込む者。3人とも死を前に必死に足掻いている。
澪「あはっ…♡」
心の底から出た声。これ以上ない幸福感。興奮。
青年達は痙攣しながら倒れていた。ぶちん。そう聞こえた気がした。3人分の頭部が地面に転がる。
澪「もって2日。……ね。」
死体を見ながら呟いた。じわじわと血溜まりが大きくなっていく。
澪の影が疼き始める。口を開くように広がり、床に転がる体を一つずつ血溜まりごと飲み込んでいく。
何事も無かったかのように
ーー夜の道に再び静寂が訪れた。
澪は何事も無かったかのように帰路へつく。
立っていた場所には菓子ゴミが散らかり、街灯に照らされた影がぼやけていた。
ーー観測課。
オペレーター「第9地区にて強い怪異反応。レベルは……。え?」
モニターをじっと見ていたオペレーターが固まった。
課長「どうした。」
オペレーター「申し訳ありません。観測機の故障か…。反応があった気がしたのですが。誤報でした。以後気をつけます。」
課長「反応があるならモニターに出る。それを報告するだけだろう。念の為今の出来事、報告しておけ。」
オペレーター「承知しました。」
モニターには確かに、強い怪異反応を示した表示が出ていた。だが、観測し続けた結果。観測機、オペレーター諸共澪への認識が曖昧になった。




