名も無きの境界守
人間界、怪異界、神域――異なる世界を隔てる境界を守る存在、境界守。
どこにも属さず、ただ均衡を保つために死者を送り、穢れた境界を修復する名なき存在は、今日も世界の狭間を渡り歩いていた。
1803年、ギリシャ。
怪異の死体が相次いで発見され、境界の均衡に異常が生じ始める。
残された怪異たちを葬送するため現地へ向かった境界守は、そこで不自然な傷を負った怪異の死を目にする。
怪異同士の争いではない。何者かによる意図的な殺害だった。
20代くらいの中性的な人間…に見える何かがいた。黒髪に青の光沢とメッシュ。金の瞳、黒いキトン、深い青紫のマントに大きなアスフォデルの花の刺繍模様、金の留め具、革のベルトに封印具、黒いブーツ。革紐の古い鍵のネックレス。腰には、淡く紫に光る細身の古代儀礼剣と死者への渡し賃として欠けた円にアスフォデルの花模様のコインを下げている。
境界守。それがあたしの使命、任務、仕事。なんでもいい。存在する意義だ。
人間界、怪異界、神域などの世界を隔てる境界を維持、修復する存在。人間、怪異、神のいずれにも肩入れしない中立が必須の立場。どこに属すわけでもなくただ均衡のために尽くす。必要があるのなら協力もする。でもそれは均衡を保つため。境界を守るためならなんでもする。
主にやることは2つある。1つ目。葬送。死んだ怪異の魂を本来還るべき場所へ送り届ける。葬送が行われなかった怪異は怨霊化、暴走、呪物化、境界汚染などを引き起こす。
2つ目。境界修復。歪んだり死んだ怪異によって穢れた境界を修復し、異界との繋がりを断つ。修復によって怪異の異常発生、神域への侵入、異空間の侵食を防ぐ。
境界を開き世界中を巡回し、ただひたすらに葬送と修復の儀式を続ける。
1803年。ギリシャ。遺跡付近。
最近は怪異の死体が多い。忙しいのが嫌なわけじゃないけど異様すぎる。
「ひどいな…何体だ…」
3体。ただ殺されている。怪異同士なら食い合うはず。鋭い裂かれたような傷。虐殺個体なんかいるのか。
「境界は開かれた。汝を、還るべき場所へ送る。…お還り。」
屈み手をかざしながらただ呟く。俯いていた魂達が顔を上げる。痛みが和らいだような、苦しみが風に拭われたような。
怪異は人間のように死んで終わりではない。死んだ先にも何かが待っている。それも大概は苦しみ。そこから救うのもあたしのやること。
胸元の鍵を取り出し境界を開く。導かれたように魂達が還っていく。腰に下げているコインが淡く光を帯びた。3体の渡し賃が支払われた。
「よし…次いこ。」
立ち上がり森を目指し歩く。森は怪異が多い。怪異も弱肉強食だ。食い荒らしが多いんだ。還さないと危険。
夕暮れ。森深くへ入ると大木を見つけた。1歩近づく。枝が折れる音がした。目の前だ。よほどの自信があるんだろう。
⁇「……お前。なんだ。」
低く明らかに警戒している。怪異だ。赤い目。知性はある。
⁇「ここらは俺の庭だ。妙な気配を振り撒いて…何をしにきた。名乗れ。」
どうやら縄張りに入ってしまったらしい。妙な気配。そりゃそうだ。どこにも属さないし仕方ない。
「縄張りだったか。悪かったね。名はないんだ。境界守って言ったら分かるかな。」
怪異の表情が落ち着いた。理解したらしい。
⁇「境界守だったか。最近は見なかったが。通りで死の匂いがする。北側。喰われた奴が4体いる。」
それだけ伝え去っていった。
「情報どうも。北か…」
今度は惨殺じゃない。さっきの死体はなんだったんだ。
北へ進む。死体の気配。もうすぐだ。
「居た。お待たせしたね。もう大丈夫。…境界は開かれた。汝を、還るべき場所へ送る。」
またただ呟く。鍵で境界を開き魂達を還す。その時、また枝が折れる音。後ろだ。気配が弱い。
「人間か。変に絡まれると面倒だ。無視。」
儀式が終わり離れようとしたその時。
人間「Χάρων……」
それだけ呟き逃げていった。
「カロン?なんだそれ。慌ただしいな。」
頭の中に1つの予感が出てきた。最近の人間は文明の発達が早い。生物を狩る術はある。それなら怪異に対してだって…
「絡みたくはないけど大ごとにはしたくない。行くか…」
重い足で人間の居住区へ向かう。予想が外れることを願いながら。
だがその目に映ったのは期待に反したものだった。人々の手には銀製の短剣。儀式用のコイン。確定した。
その団体へ走り込む人影が1つ。さっきの人間だ。生き物は臆病だ。恐怖で凶暴になる。だが人間は賢いから方法を作るんだ。どうしたらいい。
「行くしか…無いか。」
モヤモヤを抱えながらも真っ直ぐ人間達の元へ歩く。怪異がこれ以上無駄死にすれば、境界の均衡が。安寧が。そのことしか頭にない。それがやること。
人間が自分の視界に入る頃、あちらも同じだったらしい。さっきの人間が指をさしさっきの言葉を叫んでいた。
Χάρων カロン
「だからなんだカロンって…」
銀の短剣とコインに目がいく。一歩一歩近づいていく。人間達は後退りしていく。目の前に立つ頃には人間達は固まっていた。
「あんたらか。怪異狩りまくってたの。都合が悪いからやめて欲しいんだ。頼むよ。均衡を崩さないで。」
人間達はポカンと聞き、しばらく経つと後ろにいた1人が銀の短剣を振り翳してきた。
「こっちは毎日穢れと戦ってんだよっ。」
短剣だけを蹴り飛ばし境界を開け、狭間に落とした。
すると人間達は叫び出した。何か言葉なのはわかるが怪異や境界ばかりだった自分に理解できる頭はない。
「何…?うわっ!」
何かが飛んできた。銀貨だ。1枚、2枚、3枚…。
「は…?」
訳も分からず立ち尽くしているとそのまま人間達は走り去る。我先にと。戦意は喪失したらしい。
「なんなの…」
落ちていた銀貨を一枚拾い上げる。
「……人間の文化は、よく分からないなぁ。巡回戻ろ。」




