第三話 星の下で
彼女はレモネードを飲み干し、コップを小さく振ってから去っていった。
午後三時を過ぎるころ、風が強くなった。
ユタ州の天気は急に表情を変えることがある。
空は青いままなのに、山の方から乾いた風が吹き下ろしてくる。
折り紙の飾りが激しく揺れ、紙皿の金魚が芝生の上を転がった。
ミアは看板を押さえた。
風はまだ吹いている。遠くで学生たちの笑い声が聞こえる。
レモネードの屋台には、きっと人が来ている。
戻らなければならない。
「ミア、屋台に戻った方がいい。
レモネード、人気すぎてエミリーが叫んでる」
ミアは慌てて顔を上げた。
中庭の方を見ると、たしかにエミリーが両手を振っていた。
遠くからでも口の形でわかる。
"ミアー!"
ミアは笑ってしまった。
「戻らなきゃ」
「手伝うよ」
二人は中庭へ戻った。
屋台には列ができていた。
エミリーが必死に紙コップへレモネードを注いでいる。
砂糖を足し忘れたのか、飲んだ学生が目を細めている。
「ミア! 助けて!」
「ごめん!」
ミアはすぐに屋台へ入り、味を整えた。
レモンを絞り、砂糖を入れ、水を注ぎ、塩を足す。
急遽助っ人となった彼は横で紙コップを並べ、氷を入れた。
不思議なほど、作業は自然に進んだ。
誰かが笑う。浴衣を褒める。
「これは日本の味?」と聞く。
ミアはそのたびに
「日本の味でもあり、ユタの味でもあります」
と答えた。
最初は冗談のつもりだった。
けれど、繰り返すうちに本当にそう思えてきた。
レモンはアメリカの市場で買ったもの。
塩は祖母の教え。
水はユタ州の水道から出たもの。
氷は大学のカフェテリアでもらったもの。
それを浴衣姿のミアが混ぜる。
どこかひとつの国にきれいに収まるものではない。
けれど、だからこそ今のミアに似ていた。
夕方が近づくと、空気が少しやわらかくなった。
ユタ州の夕暮れは美しい。
昼間の強すぎる光がゆっくりほどけ、山の影が長く伸びる。
空の青は深くなり、西の端が桃色に染まる。
祭りの最後には、盆踊りのようなものをすることになっていた。
スピーカーから流れる音楽は、伝統的な盆踊りの曲ではなかった。
誰かが選んだ日本のポップソングと、太鼓の音を混ぜた不思議なプレイリストだった。
振り付けも、ミアが子どもの頃に踊ったものとは違う。
それでも、学生たちは輪になった。
エミリーが中心に立ち、覚えたばかりの振りを大きな動きで見せる。
みんながそれを真似する。
間違える。笑う。
また続ける。
ミアは最初、屋台の片づけをしながら見ていた。
浴衣の袖が風に揺れる。
祖母が見たら、何と言うだろう。
こんなの盆踊りじゃない、と笑うだろうか。
それとも、
「いいじゃないの、楽しければ」
と言うだろうか。
レモネードが夕方の光の中で、少し金色に見えた。
踊りの輪に入ると、ミアは最初、足がうまく動かなかった。
音楽は少しずつテンポを上げ、学生たちの輪も大きくなった。
通りがかった人たちも加わり、浴衣を着ていない人も、意味がわからないまま手を叩いた。
「楽しい......」
ミアは空を見上げた。ユタ州の空は広すぎる。
日本の夏祭りで見上げた空は、電線や屋根や提灯で区切られていた。
けれどここには、視界を遮るものがほとんどない。
空はどこまでも続き、夕暮れの色がゆっくり混ざっている。
その広さが、以前は少し怖かった。
自分がどこにも引っかからず、風に飛ばされてしまいそうだったからだ。
でも今は違った。
広い空の下で、ミアは確かに立っていた。
朝顔の浴衣を着て、レモネードの味を舌に残しながら、楽しいと笑顔が語っている。
音楽が終わると、拍手が起こった。
誰かが歓声を上げた。
エミリーが息を切らしながら叫んだ。
「来年はもっと大きくしよう!」
みんなが笑い、賛成した。
ミアは汗をぬぐった。
ユタ州の乾いた空気の中でも、踊れば汗は出る。
けれどその汗は、日本の夏のように肌にまとわりつかず、すぐに風で冷えた。
日が沈み始めると、祭りはゆっくり終わっていった。
折り紙の飾りを外し、机を畳み、ゴミ袋をまとめる。
芝生の上には、紙コップの水滴の跡や、誰かが落とした折り鶴が残っていた。
助っ人君は最後までいて、片づけもわざわざ手伝ってくれた。
「今日はありがとう。帯飾りも、屋台も」
「こちらこそ。レモネード、おいしかった」
「お祖母さんの味に似てた?」
彼は少し考えてから答えた。
「似てた。でも違った。たぶん、それがよかった」
ミアはその言葉を胸の中で繰り返した。
似ている。
でも違う。それがよかった。
故郷も、思い出も、異国でそのまま再現することはできない。
違う場所で、違う人たちと、違う空の下で、思い出は新しい形になる。
それは、続きを生きることなのだ。
片づけが終わる頃には、空に一番星が出ていた。
ユタ州の夜は、町の灯りから少し離れると星がよく見える。
今日は大学の中庭でも、いくつかの星がはっきり見えた。
エミリーが最後に残ったレモンをひとつ、ミアに渡した。
「記念に」
「レモンを?」
「うん。今日の主役でしょ」
ミアは笑って受け取った。
「ありがとう」
レモンは手のひらにずっしり重かった。
表面は少しざらざらしていて、爪で軽くこすると香りが立った。
ミアは車に荷物を積み、ひとりでアパートへ戻った。
帰り道、山の稜線はもう黒く沈んでいた。
街灯がまっすぐな道路を照らし、車の窓に浴衣姿の自分がぼんやり映る。
朝には少し不安だった浴衣が、今は身体になじんでいるように感じた。
アパートに着くと、ミアは荷物を降ろし、台所に最後のレモンを置いた。
部屋には、朝と同じようにレモンの香りが広がった。
けれど、朝とは少し違う香りだった。
そこには芝生の匂いが混ざっていた。
夕暮れの風の記憶が混ざっていた。
誰かの笑い声や、紙コップの冷たさが混ざっていた。
ミアは浴衣を脱ぐ前に、鏡の前に立った。
襟は少し乱れ、帯も朝より緩んでいる。
袖には、レモネードの小さな染みがついていた。
以前のミアなら、少し悲しんだかもしれない。
祖母の浴衣を汚してしまった、と。
けれど今は、その染みが愛おしかった。
この浴衣は、ただ保存されるためにあるのではない。
着られ、歩き、風に吹かれた。
誰かに見られ、時には少し汚れるためにある。
祖母が「夏に使いなさい」
と言ったのは、きっとそういう意味だった。
思い出は、しまい込むと少しずつ息をしなくなる。
使うと、また生き始める。
ミアは浴衣を丁寧に畳んだ。
紺地の上に、縦に流れる白い朝顔が静かに重なる。
それから台所へ行き、最後のレモンを半分に切った。
夜にレモネードを作るつもりはなかった。
けれど、どうしてももう一杯飲みたくなったのだ。
酸っぱくて、甘くて、少ししょっぱい。
まるで、遠くで暮らすことそのものの味だった。
ミアは窓を少し開けた。
夜風が入ってきて、レモンの香りを部屋の外へ運んでいく。
その香りは、アパートの壁を越え、駐車場を越え、乾いた道を越え、遠くの山へ向かっていくようだった。
いつかまた日本へ帰ったとき、ミアはきっと祖母の墓前で話すだろう。
ミアは最後の一口を飲み干した。
空のコップには、レモンの香りだけが残っている。
彼女は灯りを消した。
暗くなった部屋の中で、畳まれた浴衣の白い朝顔だけが、窓から入る星明かりを受けて、ほのかに浮かんで見えた。
砂漠の夜に咲く花のように。
短い時間だけ、けれど確かに。
ミアはその光を見ながら、静かに目を閉じた。




