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砂漠のレモネード  作者: 春凪とおる


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第一話 青い香り

朝、ミアはレモンの香りで目を覚ました。

正確には、目覚まし時計の音ではなかった。


台所の隅に置いた黄色い紙袋から漂ってくる。

青くて鋭い香りだった。


昨日、ソルトレイクシティの小さな市場で買ったレモン。

夜のあいだに、部屋の空気を変えてしまったらしい。


窓の外には、ユタ州の乾いた朝が広がっていた。

空はどこまでも薄い青で、雲はほとんどない。

遠くの山の稜線だけが、眠たげに紫色を残している。


日本で生まれ育ったミアにとって、この土地の朝はいつも少し不思議だった。

湿気がない。空気が軽い。

音が遠くまでまっすぐ飛んでいく。


誰かが車のドアを閉める音でさえ、広い盆地のどこかへ転がっていくようだった。


ミアは二十七歳だった。

大学院の研究のためにユタ州へ来て、もう半年になる。専門は文化人類学。

といっても、壮大な民族や失われた文明を調べているわけではない。


彼女が研究しているのは、

「移住者が、異国の地でどのように故郷の記憶を持ち歩くのか」

という、ごく個人的で、小さいもの。

しかし誰にでもあるものだった。


人は、故郷をスーツケースに入れて運べない。

けれど、茶碗をひとつ、写真を一枚。

古い音楽をひとつ持っていくだけで、遠い場所にも故郷の影は現れる。


ミアにとって、それは浴衣だった。

紺地に白い朝顔の模様が染められた、祖母から譲られた浴衣。


日本を出るとき、母は

「そんなもの持っていってどうするの」

と笑った。


たしかにユタ州で浴衣を着る機会など、普通に考えればない。

盆踊りも、花火大会も、夏祭りの屋台もない。

湿った夜風も、川沿いの提灯もない。


それでもミアは、スーツケースの底に浴衣を入れた。

祖母の家の匂いが、まだほんの少し残っていたからだ。


レモンの香りに起こされたミアは、ベッドから起き上がると、台所へ向かった。

小さなアパートの台所には、昨日買ったレモンが六つ、ガラスのボウルの中で朝日を受けていた。


今日は大学の日本文化クラブが主催する小さな夏祭りの日だった。

といっても、本物の夏祭りとは違う。


大学の中庭には、折り紙を吊るして飾りつける。

折り紙の向こうには、冬季五輪の聖火台が立っている。

火のない夏の聖火台は、巨大なガラス細工のように見えた。


学生たちは、浴衣や法被を着て、焼きそばの代わりにホットドッグを焼く。

わたあめの代わりに、スーパーで買ったマシュマロを配る。

金魚すくいの代わりに、紙皿に描いた金魚を釣る。


どれも少しずつ違う。

しかし、違うからこそ面白い、とミアは思っていた。


彼女はその祭りで、レモネードの屋台を出すことになっていた。

なぜ日本文化クラブの夏祭りでレモネードなのか。

最初に提案したのは、クラブの代表だったアメリカ人学生だった。


「夏っぽいし、黄色くてかわいいし、日本の夏祭りにも合う気がする」


ミアはそのとき少し笑ってしまった。

日本の夏祭りでレモネードを売る屋台は、少なくとも彼女の記憶にはなかった。

ラムネならある。かき氷ならある。冷やしきゅうりも、焼きとうもろこしもある。


でも、レモネード。

ユタ州の乾いた夏には、たしかにそれがいちばん似合う気がした。


ミアはレモンを洗い、半分に切った。

包丁が果肉に入ると、香りが弾けた。


酸っぱくて、若くて、目の覚める香り。

絞り器でレモンを押し潰すたび、透明に近い黄色の汁が小さな器に溜まっていく。


砂糖、水、少しの塩。

祖母なら、こういうとき必ず言った。


「甘いだけじゃ、喉は覚えてくれないよ。ちょっとだけ塩を入れるんだよ」


祖母は料理が上手だった。

というより、味を記憶に変えるのが上手だった。


夏には麦茶に少し塩を入れ、冬にはみかんの皮を干して湯に浮かべた。

特別な料理ではないのに、思い出すと必ずその季節の空気ごと戻ってくる。


ミアは小さじの先で塩をすくい、レモネードのピッチャーに落とした。


混ぜる。氷を入れる。

味を見る。酸っぱい。甘い。


少しだけ、祖母の夏に似ている。

ミアは満足して頷いた。


それからクローゼットを開け、浴衣を取り出した。

紺地の布は、ユタ州の乾いた光の下では、祖母の家で見たときよりも少し明るく見えた。

白い朝顔の模様は、砂漠の空に咲いた小さな雲のようだった。


ミアは浴衣に袖を通した。

ひとりで着るのは少し難しい。


帯を巻くとき、鏡の中の自分がぎこちなく見えた。

腰紐がゆるい。襟が少し詰まりすぎている。

帯の形も、祖母が結んでくれたときほど美しくない。


けれど、それでよかった。

完璧でなくても、浴衣は浴衣だった。


鏡の中のミアは、ソルトレイクシティの安いアパートに立っているのに、

なぜか日本の夏の夕方に迷い込んだように見えた。


彼女はピッチャーと紙コップ、看板、折りたたみ式の小さな机を車に積んだ。

車の中にはレモンの香りと、浴衣の布の匂いが混ざった。

エアコンをつけると、袖の中を冷たい風が抜けた。


大学へ向かう道は、広く、まっすぐだった。

ユタ州の町は、遠くに山が見える。


ミアはその景色が好きだった。

どこにいても、何か大きなものに見守られている気がする。


日本の山とは違う。

緑の濃い、湿った山ではなく、乾いた岩肌を見せる大きな背中のような山だ。


山の斜面には、白いUの文字が浮かんでいた。

どこまで行っても山が見える町では、大学まで山に名前を書いている。


信号で止まったとき、隣の車に乗っていた小さな女の子がミアの浴衣を見て、目を丸くした。

そして母親に何かを言い、二人でこちらに手を振った。


ミアは少し照れながら手を振り返した。

車が動き出しても、胸の奥には小さな灯りが残っていた。


祖母の浴衣は、遠い国の朝にも、思ったよりよく馴染んでいた。


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