一章 旅立ち 2
次は幕間です。
声に従って、モーゼスは扉を開けた。蝶番の擦り合わさる音が廊下に響き渡る、が、それは決して不快な音ではなかった。
「失礼いたします、陛下。ぼっちゃ……ウィル王子殿下も一緒です」
ウィルは実を言うと執務室に入るのは初めてだった。そのせいか足を踏み入れた時、正面に座る人物よりも周囲の方に視線が向かってしまった。
両脇の壁は埋め込み式の本棚になっており、びっしりと隙間なく様々な書物が納められていた。正面には机があり、その後ろは観音開きの窓がつけられている。机には書類の束がのっており、それらはいくつかの山を作り上げているが、何らかの法則でもって小綺麗に分けられていた。
そして、その机に両手を組んで下ろし、座っている壮年の男性がいた。直前まで仕事をしていたのであろう、男の手の下の紙のインクはまだ乾いていなかった。
男は2人に視線をやると、座っている豪奢な椅子の背もたれへと身体を預けた。
「よく来てくれた。モーゼス。本題に入る前にウィル、お前はまたウォルドを怒らせたようだな。あやつめ、儂にまで凄い剣幕で話してきおったぞ」
男はため息を漏らすと苦笑を堪え切れないといった風にウィルを睨め付けた。
「すみません、父上。反応が面白いので、つい」
「ぼっちゃん、それは将軍に対していささか礼を欠いた物言いかと。陛下も、少々ぼっちゃんに甘すぎですよ」
モーゼスがウィルの言葉に僅かに咎めるような声を出す。
「そうだな、ウィルよ。お前は知らぬかもしれぬがウォルドはああ見えて昔はかなりの武芸者だったのだぞ?西の村に押し寄せた魔物を僅かの兵で追い返したりもしたのだ。もう少し敬意を払って接しなさい」
「すみません、父上。以後、気をつけます」
頭を下げるウィルを満足げに眺めると、男は先ほどの紙のインクが乾いたのだろう、その紙をモーゼスの方へと差し出した。
インクの乾いた場所には丁寧な文字でレイバン、と記されていた。その紙を横目にウィルは自分も将来その場所に己の名前を書くことになるんだろうな、などと取り留めもないことを考えていた。
しかしながら、モーゼスの方は紙を受け取った瞬間、その好々爺然とした表情を引き締めた。
「陛下、これはもしや」
「そうだ」
一瞬にして張り詰めた空気が辺りに漂った。ウィルは何のことだかさっぱりわからないという顔で二人を眺める。そんな息子の表情を見てとったのか、レイバンが口を開いた。
「ウィルよ、この紙は史学省から提出されたものだ。目を通して見なさい」
ウィルは言われた通りモーゼスから紙を受け取ると視線を走らせていく。そこには近年の魔物の増加の報告と共に魔王と記載されていた。
「魔王……ですか」
ウィルは戸惑いを声に出すまいと努めたがうまくはいかなかった。魔王などという御伽噺の存在について大真面目に文書を作ることもそうだが、それを読んで深刻な空気を作り出している国の中枢2人にどのように反応していいのかわからなかったのである。
レイバンは息子の反応を気にも留めずに窮屈そうに身じろぎすると口を開いた。
「そうだ、魔王だ。お前が知らないのも無理はないが、魔王は実際にいる、いや、いたというべきか。過去の歴史を紐解いても、すでに五回は世界に混乱を招いている」
「五回も、ですか」
俄かには信じがたい気持ちでウィルの胸中は溢れていたが父親とモーゼスの様子をみると、とてもではないが今この場を茶化すという気にはなれなかった。
レイバンはしたり、といった面持ちで頷くと話を続けていく。モーゼスはその話を聞きながら、足りない部分を補足しては、わかりやすくウィルに伝えていった。
彼らの話ではこうだった。いつからか、魔物が現れると時を同じくして、それを使役する存在が現れたのだという。そしてその存在は自らを魔王と名乗り、自在に魔物達を操っては世界中の国々をそれらに襲わせたのだ。
幸いにして国が滅びることは一度もなかったが、絶え間なく襲い来る魔物達に人々の心は疲弊していった。
事を重く見た各国の首脳陣は同盟を結び、優れた武芸者達を取り立てて討伐軍を作り上げた。そしてその軍を率い、中でも突出した能力を持つ司令官達を御伽噺になぞらえて勇者、と呼んだのである。
戦いは数年に渡り続いたが、次第に討伐軍が優勢になりやがて魔王は勇者率いる軍によって打ち倒されたのであった。人々は訪れた平和を喜んだが、それでもそれは仮初めのものであった。魔王は滅びたが、魔物達は残ったのである。
討伐軍は解体されたが、大陸の国々は次は魔物達の掃討に心を悩ませることになるのであった。
魔物達の数も減り、人々の記憶から魔王という存在が消え去るくらいの長い月日が経った頃、事件は起こった。
倒されたはずの魔王が蘇り、数を減らしたかに思えた魔物達も再び大陸中を跋扈し始めたのである。世界はまたしても混乱の渦に飲み込まれることになった。
多くの歴史家達が奔走し過去の文献を読み漁った。
そうして過去の記録に辿り着いた国々は勇者たちを集い、彼らを魔王の討伐に向かわせたのである。
その時も、戦いは数年続いたが魔王を討伐することに成功した。今度も滅びた国がなかったのは幸いといっていいだろう。しかし長い戦いは国力と人々の心を疲弊させるには充分であった。
時を同じくして、多くの国で立ち上げられたのが史学省である。そこでは魔物の生態や、魔王の事を細かく調べあげられ、まとめられていった。それによって、対策はたてられたが、やはり完全に魔物達を滅ぼすことは出来なかった。
史学省の役人、研究者達はその後も研究を続け、ある仮説をたてた。それは、魔王が定期的に復活する存在であるというものである。
そしてその仮説は的中し、二度目の復活から長い年月が流れた頃、魔王は三度目の復活をとげたのだった。
人々は魔物と魔王を恐れたが、各国は違った。今回は仮説の元にある程度の対策ができていたのである。しかしながら、それは不十分なものであり、魔王の討伐にはやはり多くの犠牲を払うこととなった。
それでも、着実に被害は減らせている、僅かではあるがその成果を実感した史学省の人々は研究に没頭した。それからしばらくして誰かがあることに気がついた。
魔王が復活するまでの、期間である。最初の出現から二度目の、二度目から三度目との年月が、ほぼ同じだったのである。
「そんなことって」
ウィルは信じられないという面持ちでこれまでの話を聞いていた。思考が完全に追いついていないのか、彼の目は大きく見開かれている。
「私も亡き父からこの話を聞いた時は今のお前と同じような表情をしていたよ。だが、これは事実だ」
「然様、我が国の史学省にある文献を読んでいただければ確認のとれることであります」
レイバンは一瞬遠い目をしてすぐさま表情を引き締めたが、固まった息子の様子に思わず苦笑を漏らした。モーゼスの変わらない穏やかな表情の中には恐らく多くの感情が秘められているのだろうが、普段の彼をよく知るウィルやレイバンをもってしても、彼が今何を考えているのかを伺い知ることは出来なかった。
モーゼスの息子は昨年の魔物の大規模討伐に参加し、運悪く命を落としていたのである。
「で、だ」
レイバンはそんなモーゼスの心中を慮ったのか、それまでとは声色を変えた。
「もうここまでくればあらかた予想はついてはいると思うが」
レイバンは咳払いを挟んだ。これは言いづらいことを話す時の彼の癖でもあった。そしてそれを知るウィルにはこれから話されることが彼にとって良いことではないということが容易に予想できたのである。未だ理解の追いついていない頭を無理矢理切り替えて、彼は唾を飲み込むとレイバンの言葉を待った。
「六度目の復活が近づいていることが、先ほど史学省からの情報で判明した。よって我が国は先人の行動に倣い、勇者と、それに付随する軍隊を編成することにした」
なるほど、とウィルはレイバンの言葉を飲み込んだ。史学省の情報が事実なら、それは当然のことであり事態は恐らく急を要することだと思えたからであった。
「それで、父上。そのことと、ここへ呼ばれたことと何の関係が」
ウィルは内心嫌な予感に見舞われながらも口を開いた。彼は愚かではなかった。これまでの話と状況を鑑みて大体の予想はついていたのであるが、それでもやはり実際に言葉で聞くまでは結論を出したくなかったのだ。
うむ、とレイバンは頷いた。息子の考えなどお見通しなのであろう、殊更ゆっくりと息を吸い込んでその言葉を口にした。
「お前に、我が国の勇者となってもらいたい」
ウィルはその言葉が耳に入るやいなや思わず天を仰いでしまった。かまわず、レイバンは続ける。
「モーゼスにはウィルには付き従う部隊の編成と、その予算の組立を頼みたい」
「仰せのままに、陛下」
こちらはまるで示し合わせたかのようにすんなりと話が進んでいく。モーゼスは、頭を垂れるとすぐに踵を返そうとした。
その様にウィルは慌ててモーゼスの前に身体を移動させた。
「ちょ、ちょっと、お待ちください、父上。モーゼスも!どうして僕なんですか、ウォルド将軍の方が遥かに適任だと思うのですが!!」
「あやつはもう歳だ。夏には孫も産まれるらしいし、長旅をさせるのは酷だろう。それに、お前は毎日の生活に退屈していたのだろう。いい機会ではないか」
その言葉にモーゼスもしたり、と頷いている。狼狽するウィルを前になおもレイバンは言葉を連ねていく。
「何、危険ではあるが。余は知っている。お前は充分に剣を操ることができるし、統率もとれる。お前なら大丈夫だと思っているから、こうして命令しておるのだ」
「そうですぞ、殿下。比べる機会や相手がおらぬ故、殿下は争ったり自信を持ったりということがなかなか出来ておらぬのかもしれませんが、貴方様は充分に素質を持っておられます」
祖父のような存在と父親の二人から優しく温かい言葉と笑顔を向けられたウィルは何とも言えない気持ちになってしまった。そこまで言われれば勇者となるのは吝かではない、が、やはりこれまで戦いに身を置くことのなかったウィルにはどうしても己の器量に自信が持てなかったのである。
ただ、尻込みする気持ちと同じくらい何かが胸の中で湧き上がってくるのも確かであった。それは最初はほんの小さなものであったが、時間が経つにつれて段々と明確にウィルの中に定着していった。
ウィルは大きく息を吸い込むと、未だこちらを伺っている2人の目を真っ直ぐ見返した。
その様子に、レイバンもモーゼスも我が意を得たり、という風に満足気に頷いた。
「父上、謹んで、拝命いたします」
それからは早かった。何度も会議が開かれて、ウィルの勇者としての旅立ちについての計画が練られていった。もちろん、国をあげての一大事である。城内はこれまでにないくらいに慌ただしくなり、毎日があっという間に過ぎていった。
付き従う兵士達の選別も終わり、ウィル自身も必要なものを見繕っていった。
そして、旅立ちの朝が訪れた。