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声は聞こえなくなったけど、わたしの背後には、そよぎさんの気配が確かに感じられていた。
気配と表現していいのかは、よくわからないけど。
わたしが歩くと、足音もなく気配だけがついてくる。
なんだかホラー映画みたいな感覚。
だけどわたしは、怖さなんて微塵も感じていなかった。
家に着いて玄関のドアを開けると、いつもどおり弥生さんが出迎えてくれた。
小百合さんもすでに帰ってきていて、「ちょっと遅かったわね。お勉強会、しっかりやってきたのね~」と声をかけてくれた。
わたしは平静を装いながら、ふたりと軽く会話を交わしたあと、階段を上って自分の部屋へと入った。
弥生さんや小百合さんと話しているあいだは感じられなくなっていたから、もしかしたらさっきの声は気のせいだったのかも、なんて淡い期待を持ってしまっていたけど。
気配は、やっぱりまだあった。
感じられる気配自体が微弱なものだから、他に人がいると、よくわからなくなってしまうだけのようだ。
しゅる。
リボンをほどき、制服を脱ごうとして、ピタリと手を止める。
さっきの声、女性のようではあったけど実際にはどうなのかわからないから、着替えるのをためらったのだ。
わたしは思いきって、ちょっと抑え気味の声で話しかけてみた。
「そよぎさん……いる?」
――ええ、いるわよ。
やっぱりさっきの声は、気のせいではなかったのだ。
淡い期待が泡のように消えた瞬間ではあったけど、なぜかそれを残念に思ったりはしなかった。
それどころか、なんとなくではあるけど、ほっと安堵すら感じていたように思う。
――あたしはあなたの心の中にいるの。だから、わざわざ声に出さなくても、考えていることはあたしに伝わるわよ?
「そう、なんだ……」
そよぎさんの言葉の意味は理解しているものの、反射的に声に出してしまう。
――ま、あたしとしては、どっちでもいいんだけどね。
頭の中に声が響いて語りかけてくる現状に、わずかばかりの驚きはあった。
でも、穏やかで温かな声。わたしはそよぎさんの声を、そのように感じていた。
だからなのか、意外にすんなりと、そよぎさんの存在を受け入れていた。
わたしはもともと選択肢が視えたりするちょっと変わった能力を持っているから、超常的な存在に対して、慣れというか免疫みたいなものがあったのかもしれない。
「えっと、そよぎさん、あなたは女性、なの?」
――う~ん、一応、そういうことになるかしらね。
ちょっと曖昧ではあったけど、その答えにわたしはひとつ頷く。
「そっか。なら、いいわね」
しゅるしゅる。
わたしは止めていた手の動作を再開し、制服を脱ぎ始めた。
☆☆☆☆☆
部屋着に着替え、夕食を取りながらの小百合さんとのお喋りタイム。
小百合さんは、しきりに優季くんとのことを訊いてきた。
本当の母親ではないけど、わたしが青春していることを心から嬉しく思っているらしい。
ただわたしは、うっかりそよぎさんのことを口走ってしまわないように気をつけていたからか、どこか受け答えがぎこちなかったかもしれない。
秘密にしなければならない、と言われているわけでもないけど、口外するのはあまりよくなさそうに思う。
普通ならこんなこと信じないだろうけど、それはそれで、話したら頭のネジが外れた女の子だと疑われてしまう可能性が高い。
小百合さんと楽しくお喋りしながらも、わたしはなんだか疲れてしまっていた。
そしてそのあと、ゆっくりお風呂に入って部屋に戻ると、もうすっかり夜も更けていた。
わたしはベッドに潜り込む。
お風呂に入ってさっぱりした今になっても、疲れは残ったままだった。
テスト勉強もしなきゃならないところだけど、とてもそんな気分にはなれなかった。
明日早く起きて、朝から勉強すればいいかな。
そう考えたわたしは、こうして布団をかぶって、就寝態勢を整えていたわけだけど。
――ねぇ、まだそれほど遅い時間じゃないし、せっかくだから少しお話しましょうよ。
突然そよぎさんの声が響いた。
「う~ん、眠いから、今度でいい?」
――え~? せっかくこうしてお話できるようになったのに~。
明らかに不満をぶつけてくるそよぎさん。
ぷ~っと頬を膨らませているような様子が思い浮かび、自然と頬が緩む。
せっかくだからお話してもいいかな、と思わなくもなかったのだけど。
それでも、眠気のほうが上回っていたわたしは、
「ごめんね、今日は寝させて……」
とだけ言って、眠りの淵へと急速に沈み込んでいく。
――ちょっと、息吹さん……。ふぅ……、まったく、仕方ないわね……。
そんなそよぎさんの声が、最後に聞こえたような、聞こえなかったような。
といったところで、わたしの意識は途切れた。
――もう明日にまで、迫ってきているというのに……。
最後の最後につぶやいたそよぎさんの声は、わたしの意識にまで届くことはなかった。