7 二度目の恋は雨に溶かす
ぽつぽつと窓を叩く音が、室内に響き始める。
灰色の空から落ちてきた大きな雨粒が、窓ガラスを濡らしていた。
「また雨だわ」
ここ数日、雨が続いている。止んだと思っても、また翌日には降り出すのだ。おかげで空気は常にじめじめとしていて、憂鬱な気分になる。……まあ、私の気分が晴れないのは、雨のせいだけではないのだけれど。
「はあ……」
大きな溜め息を吐きだして、椅子の背もたれに身体を預けた。
「なんで……好きになっちゃったかなぁ」
自覚してしまえば想いはどんどん膨らむばかりで、もう気づかなかったふりをすることはできそうにない。ひとつの恋を捨てた直後に次の恋をするなど、自分でも信じられない。
何年もエリックのことを想っていたはずのに、今はその時の感情を思い出せないのだ。
「恋なんて、しばらくは遠慮したいと思ってたのに……」
しかも、今度の恋も叶いそうにない。クリスさんはまだノアン様を想っているようだし、スイーツ店に行ったあとから避けられている気がするのだ。
というのも最近彼は大きな案件を抱えているらしく、事務所にいることが少ない。もともと多忙な方ではあったが、ここまで顔を見ないのは初めてだった。
まだ見習いではあるが、私は一応クリスさんの秘書という立場である。本来ならば彼の補佐をするべきなのだが、何故か今回の仕事には一切関わらせてくれないのだ。資料などもいっさい事務所には持ち込んでいないらしく、彼が何をしているのかさっぱり分からない。
「私を秘書にしたこと、後悔してるのかな……」
秘書の話はなかったことにしてほしい、そのような無責任なこと、彼が言うはずはない。でも、ここまで放置されるとさすがに心配になってくるのだ。もしくは、私の方から辞退するようにわざと距離を置いている……?
「それはちょっと、つらいかも」
やっぱりスイーツ店で怒らせてしまったのだろうか。顔を合わせば普段と同じように接してはくれるが、クリスさんは元々人前で怒りをあらわにするような人柄ではない。だからこそ私と距離を置くという行動が、彼の静かな怒りを表しているとも思えるのだ。
結局今日も、誰もいない執務室でこまごまとした雑用をこなすしかない。他には以前のように、ジネットさんの書類整理を手伝ったりもしているが。
この状態を続けるのはよくないと分かっている。でも、仕事は辞めたくない。こんなに割のいい仕事はなかなか見つからないのだ。
それに……彼のそばにいたい。想いを伝えるつもりはないし、この恋を叶える気もないが、もう少しだけ一緒にいたい。ただ、見ているだけでいいから。
「……はあ」
溜め息を追加して、今日も会えないだろう人の顔を思い浮かべた。
◆◇◆
結局あのまま数週間が経ち、もう自分が秘書なのかただの雑用係なのか分からなくなってきたころ、クリスさんに呼び止められた。
「エルダ、いま少しいいですか?」
「……はい」
執務室にある棚の整理をしていた私のところまで、彼はわざわざやってくる。そして申し訳なさそうな顔をして言った。
「最近、雑用ばかりさせてしまってすみません」
「いえ……」
「明日からは、ジネットさんの下についてもらえますか?」
「え……」
それは彼の秘書ではなくなるということ……?
やっぱり秘書の話はなかったことにしたいのかと、茫然と紺色の瞳を見つめ返す。じわりと目頭が熱くなり、顔を歪めた私を見て、クリスさんは慌てて事情を説明してきた。
「明日の卒業式が終わったら、僕はしばらく王都を離れます。一か月以内には戻ってくる予定ですが、約束はできません。ですので、その間はジネットさんの補佐をお願いしたいのです」
王都を離れる? 恐らく最近抱えていた案件が関係しているのだと思うが、一か月もどこに行くのだろう。
「あの、ついていくことは――」
「すみませんが、それはできません」
分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。どうしてか、ここで別れたら二度と会えないような気がしてしまったのだ。
「そう、ですよね」
ぎゅっとスカートを握りしめて俯く。必死で涙を堪える私の頭上から、再びクリスさんが話しかけた。
「エルダ……戻ってきたら、全てお話します。だから僕が帰ってくるまで、ここで待っていてくれませんか?」
ゆっくりと顔を上げると、眉を八の字のにして懇願するような顔でこちらを見ているクリスさんがいた。どうしてそんな辛そうな顔をするのだろう。私に選ぶ権利なんて、ないのに。
「……分かりました。ジネットさんのお手伝いをして待っています。だから、なるべく早く帰ってきてくださいね」
「尽力します。それと、エルダに渡したいものがあるんです」
言うなり懐から白い箱を取り出して、私に中身が見えるように蓋を開ける。そこには以前エリックと会ってしまった宝飾店で見た、黒いチョーカーがあった。
「これは?」
「店員から聞きました。あなたがこれを見ていたようなので」
店頭で見たときは中央のくぼみには何もなかったが、今は夜の海を思わせる、深い青色の石が嵌め込まれている。クリスさんの瞳と同じ色だ。
「これ、すごく高いんじゃ……」
「値段は目をつむってください。僕があなたにプレゼントしたくて、勝手にやったことなので」
すでに洋服だって何着もいただいているのに、その上こんな高価なチョーカーまでもらってしまっていいのだろうか。そう思いながらも差し出された箱を両手で受け取る。思ったよりも重みがあり、ずしりと手の中に沈んだ。
「ありがとう、ございます」
私が受け取ってくれたことが嬉しかったのか、クリスさんは先ほどまでの悲しそうな顔を一変させて、優しく笑った。
きっと私に隠して動いているのは、何か理由があるんだ。話してくれるというのなら、彼の帰りを待とう。また私に優しくほほ笑みかける、この顔が見たいから。
――だけど、そんなささやかな願いすら、私には許されなかった。
◆◇◆
クリスさんが王都を経ってから数日、領地にいる父から手紙が届いた。
今日は休日のため、受け取った手紙を自室で開封する。そこに書かれていた内容に、ふらふらとベッドに座り込んだ。
「……マグリード家の借金をアストール侯爵家が肩代わりするから、アストール家の次男に嫁いでほしい? それって、私を売るってこと……?」
アストール侯爵家の次男といえば、王都では悪い噂の目立つ人物だ。過剰な加虐嗜好の持ち主で、その性癖からお付き合いした女性を廃人に変えてしまう、そんな噂がある。本当かは分からないが、あの屋敷に入って無事に出られた女性はいないと聞く。
父は、そんな人物のもとに私を嫁がせると……?
手紙には何度も謝罪の文面が綴られていた。紙は少し歪んでいる部分があり、インクの滲み具合から、泣きながらこれを書いたのだと推測できてしまう。
父だって本意ではないのだ。それでもマグリード家を救うためには、これが一番てっとり早い手段なのだろう。
きっと私が毎日働いて仕送りをしたとしても、借金の返済には何十年とかかってしまう。父も母も働きに出てくれてはいるが、それでも日々生活するのがやっとの状況なのだ。
今年12歳になる弟はとてもよくできた子で、できれば学園に通わせてあげたい。今はそんな余裕はないが、せめて借金がなくなれば絶対に無理ということはなくなる。
私がアストール家に嫁ぎさえすれば、私ひとりが我慢すれば、全てが丸く収まるのだ。
震える手で手紙を握りしめながら茫然と座り込んでいると、突如激しく窓を叩く音が室内に響く。はっと我に返り外を見ると、大きな雨粒が勢いよく窓を打ち付けていた。
「大変……!」
午前中は珍しくお日さまが顔を出していたので、洗濯した服を外に干したままだった。急いで外に出ると、宿舎の庭を駆け抜けて服のもとへ走る。
しかし容赦なく打ちつける雨粒によって、服はすでに乾く前の状態に戻っていた。がっくりと項垂れながらひとつひとつ竿から外し、腕に抱える。慌てていて傘を持ってこなかっため、頭の先からどんどん濡れていった。
なにもかも、うまくいかない。
私はそんなにも、神様に嫌われているのだろうか。
「っ……」
雨とは違う雫が、頬を伝った。それは幾重にも重なり、ぽたぽたと地面に落ちる。
曇天の空から降りしきる雨と一緒に、心の中を悲しみで濡らしていった。
いまここで、全部流してしまおう。彼を好きな気持ちも、思い出も、全部。
クリスさん、ごめんなさい。
あなたを待っているという約束、……守れそうもありません。