8 きっかけは、たった一度の夜
きっかけは、たった一度の夜だった。
しとしととした雨が降り続いていたあの夜から、僕の中で、彼女の存在が特別なものに変わったのだ。
「ふられた者同士、傷の舐め合いといこうじゃないですか」
薄っすらと口元に笑みを浮かべながら、彼女がグラスを突き出す。適当に付き合って早めに終わらそう、そう思いながら同じようにグラスを掲げた。
「乾杯」
キンッというガラスのこすれ合う音が響く。透明な赤い液体をひと口飲み込むと、濃厚なアルコールの香りが喉の奥を刺激した。
「エルダ、このお酒――」
向かい側に座る彼女を見ると、なみなみと注いだはずのお酒がすでに半分以上消えていた。
「ちょっ……一気に飲んだのですか? このお酒、だいぶアルコールが高いから何かで割った方が……」
「………………」
「……エルダ?」
グラスを見つめたまま、彼女はぴくりとも動かない。よく見ると、完全に目が据わっている。
いやな予感がしてグラスを取り上げようとしたところ、手を跳ね除けられた。そのまま残っていた赤い液体を一気に煽る。
「…………せん」
「え?」
「このおさけ、あじがしません」
「いやそんなはずは……」
ない、と思いもう一度グラスに口をつける。エルダの言葉とは反対に、フルーツの香りをのせた甘めの味が口内に広がった。
「味はちゃんとありま――って何をしているんですか!?」
再び前を向くと、酒のボトルに直接口をつけて飲もうとしている姿が目に入り、慌てて机を跨いで止めに入った。
「やだーっ!」
無理やり手の中からボトルを奪い取ると、子供のように叫ばれる。いやいやと僕の服を引っ張って抵抗する彼女をなんとか振り払い、すぐに栓を閉めてそのまま奥の棚に隠した。
もうすでに手遅れな気がするが、これでとりあえず一難は去っただろうと後ろを振り返る。すると今度は僕が飲んでいたグラスを両手に持ち、こくこくと喉を上下させて中身を口に流し込んでいる姿が目に映った。
「はっ!?」
また急いでソファまで逆戻りし、グラスをひっぺがす。半分ほど残っていたお酒は、自らの胃に流し込んだ。喉の奥が焼けるように熱かったが、今はそれを気にしている場合ではない。
「エルダ、大丈夫ですか!?」
こんなに強いお酒を一気に摂取したら、体調を崩しても不思議ではない。心配になり顔を覗き込むと、急にクワッと目を見開いて胸ぐらを掴まれた。
「ずるいです! お酒ひとり占めしてずるいです!」
「ちょっとエルダ、落ち着いて……!」
無理やり服を引っ張るので、仕方なく彼女の隣に腰を下ろす。
「ずるい、ずるいです……私たくさんがまんしたのに……服も、おかしも……エリックも……あえなくても、がまん、したのにっ……」
緑色の瞳がぐにゃりと歪んで、大粒の涙がこぼれ落ちた。掴まれたままの胸ぐらから、彼女の震えが伝わってくる。
エルダが求めているのは僕ではない。それは分かっていたが、放っておくこともできず震える背中をゆっくりとさすった。
「知っています。あなたはたくさん頑張りました。……そうですね、今度僕がご褒美をあげます」
「ご褒美?」
涙の滲む緑の瞳がまっすぐ僕を見て、こてりと首を傾げる。そのしぐさに心臓が大きく脈打つが、気づかないふりをしてほほ笑み返した。
「はい、楽しみにしていてください」
僕の言葉に、視線を彷徨わせてから小さく頷く。お酒の影響で暴走していたようだが、やっと落ち着いてくれたらしい。
しかし、普段の彼女からは想像できない行動の数々だ。エルダは年上なこともあり、どちらかというとしっかりしたお姉さんという印象があった。だけれど、いま僕にもたれて寝息を立てている彼女は、妹を通り越して子供のようにも見え――
…………ん? 寝息を、立てて?
「エルダ!? 起きてください! ここで寝られたら困ります!」
「んん……」
「ほら、寝るなら仮眠室に行きましょう。一晩お貸しするので、そこで好きなだけ寝てください」
肩を揺さぶってみると、またしてもクワッと目を開いて立ち上がる。
「かみんしつ、いきます」
「そうしてください、送りますので……」
疲れの色を滲ませた溜め息を吐きだしながら、ソファから歩き出した彼女の後を追う。途中で鞄を持ち忘れていることに気づきソファまで取りに戻ったのだが、一瞬でも彼女から目を離したことを後悔した。
ゴンッ、というそこそこ大きな音が聞こえ恐る恐る振り返ると、何故か額を押さえながら床に蹲るエルダがいた。
「~~~~~っ!」
「何をしているんですか……そこは扉じゃなくて壁です」
あと横に2歩ずれていたら目的の扉の前だったのだが……いや、この状態だとどちらにしろ、扉に激突していたかもしれない。
支え起こして額を確認してみる。赤くはなっているが傷はついていないようなので、無理やり抱え上げて仮眠室に連れて行くことにした。このまま歩かせたら何もないところで躓きかねない。
痛みのせいか大人しくしていてくれたので、運ぶのはそれほど大変ではなかった。エルダはかなり小柄な方なので、僕の身長であれば抱えるのは余裕がある。これでも護身用に子供のころから体術を習っており、見た目より筋肉がついている自信はあった。
何ごともなく仮眠室に到着し、ベッドの上に降ろす。これでやっと解放されるかと思っていたのに、その期待はあっけなく打ち破られた。
「まって、いかないで……」
懇願するような声で言い、僕の腕を両手で掴んで離そうとしないのだ。どうしたものかと思案するも、振り払う以外の選択肢が思いつかない。
「僕は隣の部屋にいますから、何かあったら呼んでもらって結構です。だから、大人しくここで寝てください」
本当は執務室に戻ろうと思っていたが、この状態で放置するのは危険だと判断し、仕方なく隣の仮眠室を利用することを考えた。しかし彼女は首を振って、濡れた瞳で訴える。
「おねがい、いかないでっ……もう、ひとりにしないで……」
恋焦がれるその瞳は、僕を通して誰を見ているのか明白だった。代わりにはなれない。そんなことは分かっている。……でも、こんなふうに縋られて、放っておけるわけがないじゃないか。
「……分かりました。ここにいますから、今日はもう寝てください」
安心したのか、ゆっくりと手を離してくれた。だが、仮眠室にはベッドと机がひとつずつ置かれているだけだ。これは床で寝るしかないかもしれない。
覚悟を決めて、首元を緩めようとボタンを外しながら一度窓の方へと歩く。雨のせいか、室内がやたらと蒸し暑かったのだ。窓を開けるといくらか涼しい風が入ってきて、息苦しさも消えて行った。
どうも先ほど飲んだ酒が悪さをしているらしい。アルコールが回ってきたのが、少しふらつく。弱いわけではないが、あのお酒はさすがに強すぎた。
おまけにここ最近続いている寝不足のせいか、急に眠気が押し寄せる。まずいな、と思いつつベッドの方を振り返り、ピタリと思考が停止した。
見てはいけないものを、しっかりと目におさめてしまったのだ。
「あつい……」
そう呟きながら勢いよくブラウスを剥ぎ取り、スカートを空中に放り投げる。あっという間にシュミーズ一枚になってしまった彼女の一連の動きを、呆然と見ていることしかできなかった。
最後に残った一枚に手をかけたところで、やっと我に返る。
「待って! それ以上はだめだから!」
とっくに駄目なラインは超えている気がするが、もう知ったことではない。急いで頭から布を被せ、なんとか最悪の事態を回避する。彼女は満足したのか、そのまま布にくるまってすぐに寝てしまった。
ほっと安堵の息を吐きつつ、散らばった衣服を畳んでベッドの端に置いておく。
そこまでしたところでどっと疲れが押しよせ、眩暈を感じ倒れ込むように彼女の隣に寝そべった。このままベッドで寝てはいけないと理性が訴えるも、身体は鉛のように重たく、もう起き上がれそうもない。
まどろみに沈む意識の端で、涙に濡れた緑色の瞳がずっと消えてくれなかった。




