<トゥーラの聖痕>事件
黒々と大地を浸す底無し谷のような陰の帯---<トゥーラの聖痕>だ。
初代魔女の落とした雷の爪痕、憤怒の一撃で穿たれた、と信じるに足る要素はある。蔓延るような闇溜まりの筋が、こちらと向こうの木立の間にぱっくりと裂けている。朝には美しいペガサスが駆ける雲橋も、夜半には面影すら消え失せる。対岸は遠く、何を内包しているのか計り知れない暗黒は深い。ふてぶてしささえ孕むその陰影は、闇の魔女がかき開いた薄笑いの空隙にも見えた。
昼でも足が竦むのに、月明かりしかない今はなおさらだ。地底まで誘う分厚い闇が、 魅せられて引き摺り込まれそうな吸引力すら感じさせる。もし畏怖心を裏返せば、暗黒に呑み込まれてしまうならもうそれ以上恐怖を感じなくて済むという逆説の安寧を夢見るだろう。しかし、実行に移す者はいない。人間としての正しい在り方として、恐れ続ける方を選ぶのだ。
刹那の時間『雲路』が架け橋を渡す根元には、配達屋のケン・トゥ・ウルスが掌握する平屋の駅舎が張り付いている。物々しい警報が鳴り響く中、取るものもとりあえず駆け付けた寝間着姿の村人たちが、その周辺に人集りをつくっていた。わたしも初動は早いと思っていたのに、どうやら出遅れていたようだ。
居住エリアの近い薬草系の人がほとんどだが、箒に乗って粛々と降り立つ魔女たちは天文が多い。‘‘天文魔女館’’で常に精査している監視映像には、超音波のように鳴る警告音は映らなかっただろうが、連絡網の速報を受けた夜勤の魔女がすぐに箒を取ったのだろう。
寝惚け眼のケン・トゥ・ウルスが、物音に繊細な馬であるにも関わらず、今頃になってのそのそと住処の駅舎から出てくるのが視界に入った。人を掻き分けてまで前に出て指揮を執るつもりはなさそうだ。
モリーダス夫妻は、紛れ込んでどこにいるのか分からなくなっていた。密集とまでは言えないが、人群れはなしている。だが、‘‘グリーン・ショック’’のうるささを差し引くと、集まってきた出足のわりに周囲が静かすぎることに気付いた。人声がしないのだ。囁き合ったり、声を張って指呼したりする人もいない。
闇黒を呑み込み黒々とした口を開ける断崖を、集まった魔女や男性たちは、一様に口を噤んで覗き込んでいる。眉間の皺。歯を食い縛った口元の緊張。冷や汗をかく血の気の引いた横顔。驚きを伴った恐怖を必死に受け入れて、乱れた心を落ち着かせようとしている。
掲げたランプがホタルのように散らばって点灯しているが、<トゥーラの聖痕>に対して弱々しいことこの上ない。
「気をつけて、落ちたら終わりよ」
「壁面にも手を触れないように」
つと誰にともなく切れるような注意が飛んだ。暗い深淵には、あえて塀や囲いは設置されていない。正常の生物的な怖気が、大地の割れ目には近接させないからだ。
暗い谷底を覗き込む多くの視線は、同じ地点に固定しているようだった。はっと息を呑む気配と、じわじわ動揺を抑え込むような空気が漂っている。
わたしはそろそろと人と人の間を抜け、安全な距離をとって、聖トゥーラが落雷の一撃で割いたと伝わる野趣あふれる空堀を見下ろした。
村人が手に手に翳す仄かな灯火が、冥闇の奈落を照らしているとは思えない。しかし、ぼんやりと発光するように目を引くものが、地の底にあった。
辛うじて月光を浴びる、谷底に留まる白いもの。深さ二十メートルはあろう剥き出しの底面にくしゃりと貼りついているようだ。
光量が足りず細部まで判然としなかったことは、その時には救いだったかもしれない。なぜなら、緑の警報を初めて機能させた要因は、乱暴に断崖を越えて入寇を図ろうとする外からの侵略者ではなかったからだ。
聖痕に落ちたそれは、ここにいる誰もがもはやよく見知っているだろう白い衣服だった。真剣なのにどこか滑稽な、悪性の魔法に感染することを懸念して全身を覆う作業着だ。だから、自ずと着用している人は特定されてしまう。外から来たあの五人組のうちの誰か、彼らの一角を担う調査員の一人に他ならない。生気を失いマスクの外れた顔には、どうやら苦悶とも驚愕ともつかない恐ろしい表情が凝り固まっているようだった。
ここは、 トゥーラの聖痕。森の樹陰に潜む凶々しい悪魔の殺意の烙印。---ピコリーナ先生の星の予告は、こうして現実のものとなった。
熟練の薬草魔女たちがタイミングを合わせて警報を止めたが、風は一時的に吹き止み、嵐が到来する前のうす気味悪い静寂が地上に降りている。
スイ団長の指示を受けて引き上げられた身柄には、胸に「5」の名札が留め付けられていた。言うまでもなく、王国政府に派遣された五人組調査員の一人‘‘ナンバー5’’だ。帽子の縁から垂れ下がるヴェールを持ち上げたピコリーナ先生によって検視されたが、すでにして命の火が吹き消されていることは誰の目にも明らかだった。
生命体としての循環は完全に止まってしまっている。白衣の胸には「5」の番号札を過って点々と血液の跡が残り、首が生物の限度を超えてほぼ直角に湾曲している。見開いて固まった目にも、捻るように投げ出された腕も、全てにおいて生き物の弾性は見受けられなかった。
潰れて持ち手の取れかかったボストンバッグも共に引き上げられていたが、箒の魔女が括り付けた縄で吊り上げられる際に、不自然なほど不安定に揺れていたのはバッグより遺体の方だった。おそらく‘‘ナンバー5’’は<トゥーラの聖痕>に落下したのだろう。首だけでなく、全体に硬直しているようでいて背骨や膝がぐにゃりと折れ曲がっていたのは、骨折が広範囲に及んでいるからだ。
わたしは、受け止め方を判断できずにただ黙って立っていることしかできなかった。ボタンも留めきれていない四人のおじさんたちが、夜道の暗がりを息を切らして走ってくる。走りながらマスクや衛生帽子を振り進む手で着けようとしていたが、一足ごとに減退する様子は、まるで目の前にあるはずの希望が萎んでいく場面を表現しているかのようだった。チームメイトの変わり果てた姿を確認すると言葉もなく肩を落としたが、ショックや悲しみよりも、見ているはずの事態を信じられないという思いが胸を占めているのが伝わってきた。
やがて、‘‘ナンバー4’’が力なく呟いた。
「なぁ、目ぇ合わせてくれよ、ピート。大丈夫だって言ってくれ」
切なげな啜り泣きが、闇を抱く深い谷間に響いている。
「ここでは暗いですから、遺体を公民館へ。改めて検視します」
ピコリーナ先生が沈着に宣言して、‘‘ナンバー5’’は遺された四人の同僚の手で運ばれていった。




