奇跡の聖女 (トゥーラ ≪中世≫ 2)
泉の淵に立った聖女の右手が、空を切り、透明な謎の文字を記していた。
書いたと思えば音曲の節をつけるように、立てた二本の指で中空を直線になぞる。斜め左下に二度、真横に二度。聞こえぬほどの低い声で呪文めいた言葉を発してから、最後に小さな輪を描いて、トゥーラは長い息を吐いた。
同道した皇帝の従者たちには見たことのない所作だった。トゥーラ本人も信仰するはずの国教の祈りの作法とも明らかに違った。それは、トゥーラに与えられた力による浄化の儀式だった。
そのようにして、主だった大河の水源を訪れ、トゥーラは縦横に走る水脈を浄化した。清浄な水を吸い、国土の大半を占める森が澄んだ綺麗な空気を送り出すのが、トゥーラにはわかった。
仁王立ちの聖女が上空を指し示すと、人々の不安を映して灰色に淀んだ空に、久方の煌めく光が差した。
民草を救う至高の目的を得た皇帝は、見違えるような精悍さを見せつけ、精力的に陣頭指揮を執った。
トゥーラの進言により、病原菌を媒介する鼠を処分すべく猫を放ち、人海戦術を使った徹底的な駆除が行われた。また、触れによって、うち捨てられ腐敗の進んだ無数の遺体を葬るための集団が村や町ごとに組織され、流行り病に荒れた国は見た目にも平常を取り戻しつつあった。
それから、宮殿の広場でトゥーラは雨乞いをした。
詰めかけた民衆も衛兵たちも固唾を飲んで、美しい修道女が黒衣をひらめかせながら虚空をなぞる優雅な所作を見守った。
トゥーラは、手を合わせ素早く何事かを呟くと、迷いなく独特の動きをさせた細い右手を天に向かって伸ばすように差し上げた。すると、トゥーラの右手から、いや地面を伝い全身から、上空目掛けて真っ直ぐに一瞬の疾風が駆け抜けた。広場の群衆は、薙ぎ倒されそうな突風に対して、一様に身を低めなければならなかった。
光差す明るい快晴の空はそのままに、雷鳴が轟き忽ち雨が落ちた。ぽつりぽつりと落ちてきた雨滴はやがて土砂降りとなり、国中に三日三晩降り続いた。
清らかな慈雨は空気を洗い、血と死体に塗れた大地の汚穢を押し流し、人々の荒れ荒んだ心さえ優しく潤した。
未曾有の危機を生き抜いた人々は、神の遣わした救世主とトゥーラを讃え、天候を司る稀代の聖女を盛大に祝った。危難の収束を見届けたトゥーラは、皇帝に辞去の挨拶をし古巣へ戻った。修道院には褒賞としてたくさんの食糧や見舞金が届けられ、疲弊した各家庭へと分配されるのだった。
故郷に帰ったトゥーラを、予想だにしない大きな悲しみが待ち構えていた。
拾われてからこの方まさに母と慕う修道院長が、最後の感染者として病の床に就いていた。昏睡状態にあった院長は、痩せて乾いた皮膚のあちこちを黒い斑点に見舞われ、息も弱く静かに横たわっていた。トゥーラの活躍を風の便りに聞き、誰よりも喜び帰りを待ちわびていたという。
導いてきた孤児を待っていたかのように、院長は息を引き取った。トゥーラは泣いた。病に倒れたことさえ知らぬまま、母同然の大事な人を逝かせてしまった。生まれながらに孤独な彼女を神の道に導き、叱咤し、慰め、陰に陽に励ましてトゥーラを育ててくれた女性だった。
教会の井戸に気を送り、浄化した水で病み疲れた亡骸を清めた。二度と開かない目の、神の道を解くいつもの厳格さを、幼い頃から我が子を見守るように見つめてくれた慈しみを、思い出しながら最後の別れを惜しんだ。
聖女となされたトゥーラは、修道院での以前の日常を再開した。列聖されても変わることのなかった、孤児ゆえ身に付けた人懐こさで、トゥーラは誰とも分け隔てなく接した。流行り病で亡くなった者の冥福を祈り、具合の悪い単身者や高齢者の怪我人が出たと聞けば駆け付けて自ら浄化した水を飲ませ、栄養を取るための野菜やパンを届けた。
葬儀の後処理がようやく済んだ頃、教会に齎らされた知らせは、国中に激震を走らせた。
皇帝が暗殺されたのである。水を得た魚のように国家機能の立て直しを図っていた若き皇帝が、従前政治を牛耳っていた古参の臣下に寝首を掻かれたのだ。
疫病の混乱に乗じて密かに根回しをして外堀を埋め、逆らう者を左遷し、粛々と玉座を狙った結果だった。急に活気付いた皇帝の指導力がさらに高まるのを怖れた謀反の宰相は、しかし紅顔の皇帝を確実に糾弾する口実を編み出していた。
『皇帝は悪魔と結託した魔女の力を借り、真に呪わしい方法を持って流行り病を操作した。天候をも操る忌むべき魔女を跋扈するに任せ、その恐怖により国家を騒がせた張本人である』
使命に燃え突然短い生涯を終えた皇帝の遺骸は、トゥーラが雨を降らせた宮殿の広場に非道に晒され、そこからはまた触書きを携えた伝令たちが各地へ散って行くこととなった。
『件の修道女は、皇帝に呪いの刻印を施し、非常なる悪影響にて民衆を騒がせ欺いた。聖女を騙り、国を混乱に陥れた許すまじき魔女を捕らえよ』
奇跡の聖女として人口に膾炙するトゥーラの目覚ましい力と人気が、政治の頂点に立とうとする男を警戒させていた。聖女の認定を揉み消した元宰相は、禁術を使って皇帝を唆した上悪魔の雨を降らせたと咎める算段だった。
トゥーラの住む修道院に先触れが到着した。異端審問に連行されるまで、魔女の疑いをかけられたトゥーラは、地下の簡易牢に幽閉されることとなった。
荒縄で封じられたトゥーラの手首が、頭上の梁にきつく縛められた。硬い縄目に血流が塞がれ、紫色に変じたトゥーラの両手は、やがて痛覚すら失って醜い錘となった。
下剋上の新帝と、特恵を持つ教会勢力との間に骨肉の軋轢が生じ、乱暴な束縛は長期化した。修道士や修道女たちが同僚の無罪放免を祈り、司祭が教会会議に再三赦免をとりなすよう働きかける一方で、修道院の内部ではある噂が流れた。
『神に仕える者でありながら、トゥーラは見せかけの死に際に悪魔と交接して呪力を手に入れたのだ。悪魔の誘惑をあろうことか神の声と偽り、聖女を気取って皇帝を惑わせた。呪いを受けた皇帝陛下は、いみじくも臣下に弑されたではないか。類を見ない暗黒の目が、トゥーラが悪魔の片鱗を宿す証拠である。トゥーラは魔女に違いない』
生き返ったトゥーラの活躍を妬んだ馴染みの同輩による心無い飛語であった。
縛り付けられた手が壊死し、毒が回って高熱を発した。闇に沈む教会の地下牢で、トゥーラは心身共に追い詰められていた。
膠着した囚人として一冬を越そうか否かという頃。鉄格子の小窓からは雪が吹き込み、厳しい冷気に包まれ、遠のく意識の中で、トゥーラは自分に呼びかける幽かな声を耳にした。
重い瞼を持ち上げると、薄暗い地下牢に、文字通り母のように敬愛した懐かしい院長の姿があった。
「修道院長、私を迎えに来てくださったのですか」
弱々しくトゥーラは問うた。
「ここは神の家です
何人たりとも神の愛を冒すことはできません
あなたが天の父より授けられた力で生涯の使命を全うなさい
行くべき道は分かりますね」
いの一番に聖なる蘇生を信じた信仰の母は、透ける唇でそう応えると、叱咤の余韻を持って掻き消えた。
---何より、人のために生きよ
神の声が、記憶の中から響いた。母なる人の影絵が、目前で見詰めてくれていた。
突如として、奥底から湧き上がる力をトゥーラは感じた。
外は、隣り合う人との会話も吹き飛ばすだろうほどの猛吹雪だったが、手首を縛り付けた荒縄が、拡大鏡を通して陽光が集中したかの如く焼き切れた。
育ての母にすら一片の恩返しもできなかったことを、トゥーラは悔いに悔いていた。解き放たれた土塊のような両手に再び血が通う様子はなかったが、神によって戻された地上において、持てる力で人に尽くす使命を生きて果たす。そのことが、改めて生々しい宿命に感じられた。院長の言った通り、行くべき道は分かっていた。
トゥーラは、衛兵交代の隙を突いて牢を抜け、杪冬の風雪が告げ知らせるその場所目指して駆け出した。




