11.揺れる心
広瀬灯也からメールの返事が途絶えて2週間が過ぎた。明美は、恋愛を期待した自分を自己嫌悪して、みじめな気持ちになっていた。元々、ありえない話だった。冷静に考えればわかるはずなのに…と、明美は自分を責めていた。
(今までありがとうございましたって、最後のメールを出そうかな。変な期待なんかしてないってわかってもらうために。もう私は十分満足だって…。これで二度と会えなくてもかまわないから…)
日常生活は漠然と過ぎていく。毎日ただなんとなく友人の輪に加わっているが、それは仲間外れにされたと人に思われたくないだけ。実際は、ちっとも会話についていけない。クロック・ロックの話はまだ少しついていけるが、他の芸能人や校内のゴシップ、気に入らない子の悪口なんて心底バカバカしい。
「明美、灯也くん病は治ったの?」
時々仲間たちに訊かれる。明美は困ったような笑顔を作り、「全然」と答える。仲間たちも笑うが、みんなが何を考えているのかちっともわからないし、興味もない。もしかしたらバカだと思われているのかな…とも思うが、なんだかそれすらも誇らしく思う。
(だって、本当に灯也くんに会って、しゃべって、自宅まで知ってるなんて、みんな思わないもんね。そしたら私の気持ちなんか、わかるわけないもんね。ただのファンがここまで思い詰めたら、当然、バカだって思うよね。でも、私はただのファンじゃないからしょうがない。そしてそれをみんなに言えない以上、みんなが誤解していても、それはみんなが悪いワケじゃないよ)
そう思うとき、明美はなんだかみんなが可愛く見える。でも、それが「優越感」という傲慢な気持ちだということには気付いていなかった。
(灯也くんから、もしもこのままメールが来なくなったって、私が灯也くん本人と会ったりする関係だったっていう事実だけは、歴史上まぎれもないことだもん)
明美は最近、ファッション雑誌を買っている。かつてはみんなで口を揃えて、「十代の女の子向けの雑誌でもブランドとかばっかり扱ってて、ホントバカ。結局カモにされてるだけじゃん。おしゃれなんか、自分で考えて自分でできるよね」なんてことばかり言っていた。だからみんなには教えない。でも、ファッション雑誌はしっかり「勉強」になる。
(ファッション雑誌だって、情報だけ吸収して、自分なりの工夫に使えばいいだけだもん。見ないでどうこう言うより、むしろ逆に利用してやる、くらいの使い方する方が利口だよ)
それは、灯也がブランドの財布をくれた時に知ったこと。
『ブランドだからって理由だけで買う人と、ブランドだからって理由だけで認めない人って、結局、同じじゃない?』
(今までは、逆の意味でマスコミに流されてた。世の中の人が飛びつくものを否定するのが賢いんだ、みたいな感覚があって…すごく、自分って、子供だったと思う)
だけど今は違う。それが本当にいいものなのかどうか、その中のどの部分が重要なのか、ちゃんと見極めようと思うし、きっとできると思う。
(たぶんきっと、人は、こうやって、人と出会って成長していくんだと思う。私は、私を成長させてくれる素晴らしい人に、13歳で出会えてよかった。もしももう会えなくても、灯也くんが私に教えてくれたことは消えない。私の人生、私の人格も、その一角を灯也くんがつくってくれた。嬉しい。灯也くんに変えられた自分が、本当に嬉しい…)
蓮井まどかは久しぶりのドラマの仕事に燃えていた。大した役ではないが、もらえないよりずっといい。TVに出るチャンスがあるうちは、まだまだ可能性がある。最近は地方のイベントのゲストに出たり、ミニコミ誌の取材を受けたり、マイナーな仕事ばかりだった。「休日」も多かった。そのまま終わってしまうのかと思っていた。
13回ドラマのうち、出番は3回。クライマックスが近いシーンだ。演じるのは…父親を訪ねてきた主人公の女の子に応対する受付嬢。チョイ役的ではあるが、何度も出てくる役だし、重要なエピソードへの絡みもある。
まどかは、このドラマ出演で、事務所が自分をもう少し使う方向に方針転換したように思っていた。しかし本当は、この仕事は事務所がヌード写真集をOKさせるため、ご機嫌取りに持ってきた役だった。それに、あまりに落ち目になってからのヌード写真集は生臭すぎる、という事情もあった。どこで聞きつけたのか、「脱ぐなら、買う」というプロダクションが現れた。ちょうど契約切れも近づいている。売ってしまいたい。事務所は、蓮井まどかのプロモーションを終えるつもりでいた。
突然まどかからのストーカーメールが止み、灯也は不穏な気分になっていた。
「灯也」
里留が移動の車の中でそっと耳打ちした。
「蓮井まどかは今、連ドラでゴキゲンらしいよ」
灯也は驚いた。まどかにまた全国レベルの仕事が来るとは思っていなかった。
「…あ、出てるんだ。ドラマは見ないから…。でも、デカい役とかじゃないんでしょ?」
「受付嬢A、みたいなのだけどね。放送ではまだ出てないのかな?」
「あれ、じゃあどこからの情報?」
「織部にね、ちょっと…」
「織部に? どこまで話したの?」
「漠然と。蓮井が灯也に変な電話寄越してるみたいだけど、って。そんで状況をね」
里留は灯也の目の奥をのぞき込んだ。灯也はなんでもない顔を作っていたが、微妙に表情が楽になっていた。里留はホッとした。
灯也は、ここでまどかを切っておくべきだと考えて、その日の夜中、早速電話を入れた。
「まどか、連ドラだって? なんだ、全然引退どころじゃないじゃん」
思いっきりサービスした明るい声でまくしたてた。まどかも弾んだ声で答えた。
「なんだ、知ってたんだ。急に決まった仕事なんだ。うん、事務所も考えてくれたみたい」
灯也はその声を聞いて、安心して次の言葉を継いだ。
「そっか。…よかったな。おまえも、また、一人で大丈夫だな」
まどかは黙ってしまったが、重い沈黙ではなかった。かつてつきあっていたころにもよくあった、甘えたいだけの沈黙。
「…言ったよな、俺、好きな人がいるって」
灯也はそれだけ言い、待つことに丁寧に時間をかけた。
「うん、…ありがと…」
まどかは夢見る乙女の声でうっとりと言った。灯也は電話口で苦笑した。こういうときは、盛り上げてあげなければ…。
「お互いに…明日のこと考えて、頑張ろうな。…『他人だけど、芸能界の仲間』でさ」
灯也は別れるときに使ったキーワードを使った。2人の間では、決別を伝える言葉。
「うん、…もう連絡しない。私は私。頼ってたら進めないよね」
よしよし、と灯也は思った。変な精神的サイクルに陥っていなければ、蓮井まどかは実に扱いやすい女性だ。
「それじゃ…」
灯也が電話を切ろうとしたら、まどかが急に、
「ねえ、好きな人って、どんな人?」
と訊いた。灯也はこっそり渋い顔をした。そんなもの、便宜上ついた嘘だ。でも、いると言った以上はそれなりの「それっぽさ」を秘めた返答が必要だろう。
「それは言えないよ」
(言えないというより、いないんだけどね…)
灯也の答えに、まどかはくすっと笑った。
「じゃあ、歌う人か、演じる人か、身近なスタッフか。どれかな」
なんでこう、女は恋愛の話が好きなんだろう。そんなの、どうでもいい。灯也は適当にお茶を濁した。
「芸能人じゃないよ。普通の人。つきあってるわけでもないし、多分…ま、なにごとも起きないよ。たまにはそういう恋愛もいいと思っただけ」
「つきあわないの」
「しばらくは仕事ばっかだしね。ま、彼女のことは、アコガレだよ」
「ふーん…。…じゃあ、いろいろゴメンね。ありがとう。じゃあ、他人だけど、仲間で…ね。サヨナラ」
「サヨナラ」
電話を切った瞬間、灯也は作詞でOKをもらったときのように嬉しくなった。
(…なんだ、やっぱ、俺には恋愛の厄介ごとなんか起こらないようにできてるじゃん)
里留と織部が気を回してくれたことはすっかり忘れていた。灯也はここまで生涯通じて愛され慣れていて、誰かが自分のために努力してくれた事実に気付くのが苦手だった。
来月も会えるかな…と言われたはずが、3週間の音信不通という結果になり、明美は静かに決意をかためた。おかしなファンであるかのように思われるくらいなら身を引いて、まともな子だと思われていたい。
最後のメール。明美は神妙にパソコンの電源を入れた。起動するまでの時間が異様に長く感じた。もう、広瀬灯也には会わない。
メールチェックをしても、灯也からのメールはやっぱりなかった。明美は強い胸の痛みと戦いながら、メールを打ち始めた。
『広瀬さん、この間は、自宅にまで押し掛けて本当にすみませんでした。私はやっぱり、家にまで行くべきじゃなかったんだと思います。ファンとしては、非常識な行為でした。申し訳ありませんでした。それに、図々しく名前で呼んだり、生意気なタメ口をきいたり、なんて失礼なことをしてしまったんだろうと、今反省して暮らしています。
おわびのために、もう私のほうからメールをやめることにしました。
いただいたプレゼントは、新品ならお返ししたいのですが、もう使い始めてしまっています。どうしたらいいでしょうか。賠償した方がいいでしょうか。
お返事は要らないので、請求だけ送って下さい。今まで本当にありがとうございました』
内容は読み返さないように字面だけ追って、誤字がないことを確認して、すぐに明美はメールを送信した。送信してからやっぱり後悔した。
なんだか、広瀬灯也に対する自分の態度すべてを後悔した。優しくしてくれたからって、なんでも言葉のままに受け取ってはいけない。「本当はイヤだけれど、大人だから我慢していること」もきっとある。灯也の言葉、態度、それが全部本音だったとは限らない。
(私ってバカだ…。嫌われて、メールもらえなくなるまで気付かないなんて…)
素直で純粋なクロックファンである友人たちがまぶしく見えた。広瀬灯也に会えるというラッキーに見舞われた自分が、どんどん調子に乗っていく様子が目に見えるような気がした。どうかしていた。世間をバカと言い、人をバカと言い、…じゃあ自分はバカじゃなかったのだろうか。
(灯也くんと会えてよかった。きっとあの人は、私の人生を正しい方向に矯正してくれるためにしばらく神様が与えてくれた贈り物だったんだ。灯也くんはすごい。私自身が全然気付かなかった私の欠点とか、いろいろ気付かせてくれた。私を成長させてくれた。私のこと、つくってくれたって言ってもいい。私の人生は、灯也くんと出会ったところから始まったんだと思う。私にとっての灯也くんは運命の人…)
でも、そう考えれば考えるほど、もう会えなくなることがつらかった。
「灯也くん…」
一生懸命いろんなことを思い出し、明美は掌で目を覆った。でも、やっぱり涙は出なくて、明美は必死で泣こうと努力した。そして、やっと片目に少しだけ涙がにじんだ。
灯也は明美のメールに舌を出した。
「なんか、思い詰めてたのね。こっちも会うのやめよっかなと思ってたしね。ゴメン、ゴメン」
蓮井まどかの問題も解決した。こんなにも落ち込んでいる中学生を放っておくのは可哀想だ。多分、きっと、自分には恋愛の神様がついている。悪いようにはならないだろう。
灯也はメールを返した。
『本当にゴメン。パソコンを修理に出してたんだよ。キミからのメール5通も放っておいたんだと思って真剣に胸が痛んだ。迷惑だとか、生意気だとか、全然思っていません。むしろ、キミがまた「広瀬さん」と書いてきたことが俺はすごく、淋しかった。本当に、仲良くなれたつもりでいたんだよ。もしかして、本当は、俺のこと愛想尽かして、それで「メールをやめる」って言ってるの?
キミといると、飾らないでいられる自分を感じます。仕事の見栄も張らなくていい、音楽のこともひたすら誉めてもらえる、そんな時間が俺にはすごく幸せに感じられます。
もう会えないのかな。俺が連絡しないでキミをすごく傷つけてしまったことは謝るよ。もう一度会って、せめてお詫びだけでも言わせてくれないかな。
メールしなかったのはパソコンが壊れてたからで、連絡をとろうとしたけど、住所も、電話番号も、何にも知らないことに気がついた。学校の名前は知ってるけど、中学生の女の子がたくさんいる場所に広瀬灯也が現れたら、どういうことになるかわかってほしい。パソコンが直らない間はどうしようもなかった。本当にゴメン。
また、キミの「灯也くん」って呼んでくれる声が聞きたい。また時間を下さい。せめて返事を下さい。待ってます。 広瀬灯也』
推敲しながら熱烈な返信を書き終え、灯也は満足した。実に素晴らしい恋文だ。
明美の体を思い出す。細い腕、細い首筋、発展途上の胸、贅沢に綺麗なままの肌…。さすがに13歳の女の子の体なんか見たことはない。やっぱり、ここまで来た以上、初心は貫徹するべきなのかもしれない。
「広瀬灯也25歳、若い花の盛りはまだあと5年あるって。いや10年はあるかな」
ここのところ「カノジョ」もいなければ事故もない。まどかに「会おうか」と言ったときには、まかり間違ったら寝てもいいと思っていたくらいだ。女性に触れるのは、男性にとって必要不可欠なことだ。
「じゃあ、大人の恋をお勉強してみましょうか、明美ちゃん」
灯也はメールを送信した。
パソコンが壊れていた。…そういえば、メール以外の連絡手段がない。明美はホッとしながらも、その倍、自分にあきれ返っていた。
(どっちにしても、私はバカなんだ。結局、自分のことも、他人のことも、なんにも見えないんだ。連絡が来なければ嫌われたんだって勝手に思って、勝手に落ち込んで、灯也くんとの関係を終わりにしようとか思って…灯也くんにだって事情はあるのに。なんで、自分の感情だけで考えちゃったんだろう)
明美は自己嫌悪した。でも、灯也に嫌われたと思いながら味わった自己嫌悪よりずっと甘美だった。そして、迷ったが、このメールをプリントアウトして小さくたたみ、財布に入れた。人に見られたら困るけれど、ずっとメールを読み返していたかった。
『お返事ありがとうございました。
パソコンが壊れていたなんて全然考えてなくて、わけのわからないメールを出してしまいました。ごめんなさい。私は、私が嫌われたんだと思っていただけで』
広瀬さんと打とうか、灯也くんと打とうか迷った末、明美は灯也くんと打った。
『灯也くんには感謝だけしてました。ご迷惑でないなら、私は、灯也くんに言われたところに、言われたように出掛けるだけです』
明美はため息をつき、
『もう、何もかも失ってもいいくらい好きです』
と打ったあと、その一文だけ消した。
(やっぱり、私は好き…。恋として。もう憧れなんかじゃない。片思いでいい。そばにいられるなら、どんな存在でもかまわない)
『灯也くんが私に謝ることなんて何一つないし、私はいつでも待ってます』
要求するような真似はしたくないけれど、「待ってます」くらいは許されるはずだ。
(灯也くんはきっとわかってない。女の子は13歳だって女なんだよ。恋だってするし、恋のためならなんだってするんだよ)
明美は灯也の名前をつぶやきながらメールを送信した。
灯也は明美の代わりにノートパソコンのてっぺんを撫でた。
「よしよし。落ち込ませてゴメンね。恋愛しようね。お兄ちゃんちょっと、女性問題でモメてたんだよ。また、相手してあげるから、ひねくれちゃダメだよ」
『灯也くんに言われたところに、言われたように出掛けるだけです』
明美のその文をわざと怪しいニュアンスに読みとり、灯也は気持ちのいい妄想にひたった。ウイークリーマンションを借りよう。順を追った方がいいだろうか。次回、例えばキスまで。その後、クリスマスの近い日付で最後まで…。
(いや、初めてのキスから激情に流される…そして、好きだったからと謝る、と。そういう方が簡単だし、言い訳が楽だ。大人の男の恋愛感情はそういうモンだと。つい、大人の女性として扱ってしまったと)
あわよくば次回。きっと明美は、うすうす恋愛のはじまりだと思っているだろう。
「優等生は、Hな知識なんかあっちゃいけない、なんて思ってるかな。…そのお勉強不足が裏目に出ないといいね」
灯也はもう一度、ノートパソコンを撫でた。そして、ウイークリーマンションの空き情報を確認するべく、ネット予約のページを開いた。