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10.クロック-クロック

 電車の中に、困惑しきった明美の背中があった。

「そんなはずはない」という必死の抵抗も絶え絶えになっていた。「そんなはずないのに」と繰り返しながら、明美は次々に降ってくる期待にどんどん飲み込まれていった。

(…からかわれてるんだよ、きっと。それとも、ホントに純粋な、他意のない興味)

 でも、灯也の態度は…。

(だって、25歳の大人の人なんだから、私のことなんて、女性に見えるはずないし。せめて、私が16歳とかなら…。私なんか、去年まで小学生だもん、絶対ない)

 好きな人はいるのかと訊かれた。それはどうしてだろう。そして、その時、とても言いづらそうだったのはなぜだろう。以前も一度、メールで訊かれた記憶がある。いないと答えたはずだ。

「灯也くん」

 明美は切なくなって、声にならない声で名前を呼んだ。直接そう呼んでもいいと言ってくれた。親しいんだから、タメ口でいいと言ってくれた。

「灯也くん…」

 なんだか泣きそうになった。でもなぜか涙は出なかった。明美は一生懸命泣こうとした。その方が楽な気がしたから。

「灯也くん」

 人混みの中でも明美は唇だけでずっとそうつぶやいていた。そして、なんとか夕食の時刻には家にたどり着いた。でも食欲なんて全然なかった。

 追い討ちをかけるように、メールが届いていた。

『今日は用もないのに呼び出してゴメン。あんまり気もきかなかったし、明美ちゃんが楽しかったかどうか気になってます。ケーキなんて、どこでも買えるものだし…。

 それから、最後に訊いたことは、気にしないでください。どうしても、気になっちゃって。自分でもどうかしてたなって思ってます。ホントに気にしないで。でも、いないっていう返事は嬉しかった。

 また、来月にでも会ってもらえるかな。返事待ってるよ。  広瀬灯也』

 灯也の不思議な態度が文字という証拠になって目の前にある。明美は困惑した。

(灯也くんらしくない…)

 今までは「会ってあげてる」という気配があったのに、今回は「呼び出してゴメン」…。

(楽しかったかどうか、なんて…、私が灯也くんに憧れてる以上、嬉しいに決まってるのに…。どうしてそんなこと、気にするんだろう…?)

「ハイ、国語のお勉強です。広瀬灯也からのこのメールのこの部分は、どのような心境の変化を表しているでしょうか?」

 灯也は、明美が果てしない混乱の中でもがいている様子を思い描き、自分のメールを読み返して笑っていた。


 灯也が風呂から出てくると、携帯電話に留守番電話が入っていた。蓮井まどかからだった。灯也は一瞬顔をしかめ、仕方なく再生した。

「灯也、私もう、死ぬしかないのかな…」

 消え入りそうな声がそれだけ言って、留守電は終わっていた。

「おいおい、カンベンしてくれよ…」

 どうせ死ぬ勇気なんかないのに、と思いながら灯也はまどかに折り返し電話をかけた。一応、「連絡する」と言った責任はある。

「まどか?」

「え、…電話くれたの、よかった…」

 灯也は電話に入らないように気をつけながら、こっそりとため息をついた。そして優しい声をつくって、なんとかなだめに入った。

「落ち込んでるのはわかるけど、死ぬとか、変なこと言うなよ。これで連絡つかなかったら、俺が警察に通報するかもしれないだろ。騒ぎになるぞ。困るだろ」

「ゴメン…」

 でも本当は、まどかは警察沙汰になったっていいくらいに捨て鉢になっていた。失踪するとしたら誰に書き置きを残そう、なんてことを考えていた。

「ねえ灯也、会いたい…」

 まどかはすがるような声で言った。灯也は、まどかに見えないのをいいことに、あからさまに嫌な顔をした。それから、言いにくそうな声を作って、

「…俺、やっぱり会えないよ」

 とゆっくり言った。

「どうして?」

 灯也はしばらくもったいぶってから、もっともらしい声色で言った。

「…俺、今、好きな人がいて…、昔の彼女と会ったとか、そういうの…誤解されたくないから」

 まどかは黙った。灯也は「沈黙も、ほどほどの長さにしてくれよな」と思った。

「…私、…別に、灯也に迷惑をかけようとかそういうんじゃなくて…ただ、少しでいい、楽しかった頃の話がしたい…」

 灯也は苦い顔をした。蓮井まどかに関しては、人選か別れ方をいささか失敗したらしい。

「悪いけど俺、今、俺自身のことが大切で…、力になれない」

 灯也は忍耐強く芝居を続けた。まどかは長く黙り、それから、

「最後に、一度だけ…会って」

 と言った。灯也はこれ以上問答するのが面倒で、しばらく逃げ回ることにした。

「今、クリスマスのミニアルバムの準備で忙しいから…、それが終わったら、会おう」

 ただの時間稼ぎだった。ミニアルバムなんて、準備どころか、もうレコーディングも終わっている。販促で引っ張り出されるのは発売前後だから、ひと月以上後だ。

「…いつ?」

「わからない、OKが出るまで…。一応、俺もアーティストだから、出来はカンペキにしたいし…。それは、わかるだろ?」

「うん。ゴメン…でも、約束だよ、あと、一度だけ…」

「なんとかするよ。だから、自殺とか変なこと、考えるなよ」

「…わかった…、ありがとう…」

 やっとまどかから解放され、灯也はばったりとベッドに倒れ込んだ。

「めんどくせー!」

 そして、なんで少し前までこんなに面倒な「恋愛ゴッコ」が楽しかったのか疑問に思った。女なんてみんなそう大差ないし、ゴシップ記事になったら面倒だ。恋愛だった頃、自分がまどかに恋をしていたかは微妙かもしれないが、じゃあ体が目当てだったかというとそうでもない。まどかは無難に綺麗な子だったし、それなりに可愛いと思えていたはずだった。でも、別れてからも頼られるとさすがにうんざりする。

 明美は大丈夫だろうか。目下極めて従順な一ファンの立場を維持しているが、深い仲になったりしたら、そうはいかないんじゃないのか…。ましてや、中学生だ。

 灯也は来月のウイークリーマンションの契約をするべきか、やめようか考え始めた。


 音楽番組の収録が終わり、クロック・ロックは楽屋に戻った。里留が灯也に寄っていき、憮然とした声で話しかけた。

「灯也、最近、波がありすぎだよ」

 灯也はタオルで顔をひと拭いして里留を横目で見た。

「まあ、生ものだから、そういうこともあるよ」

「そういうのじゃねえって。歌詞を追うのが精一杯なことがないか?」

 里留はあとの2人にも声をかけた。

「おまえらは、感じない?」

 小淵沢周が眼鏡をかけながら振り返った。

「感じるよ。ギターが響かない」

「なに、それ」

 灯也は周の顔を上目遣いに見た。そんな風に言われる心当たりは十分ある。まどかから死ぬのなんのという留守電が入ってからだ。うまくあしらったつもりでいるが、時折留守電に意味もなく「頑張ってね」とひと言入っていたり、特に用件があるわけでもないメールが入っていたりする。どうやって断絶したらいいか、ちょっとばかり悩んでいる。

 周がギターケースを叩きながら言った。

「灯也の調子いいときって、ギターが振動するんだよね。弦とか、この面から逆に俺の指に響いてくるの。わーって声伸ばすとこなんか。でも、ここんとこ、それがない。スタジオの音響かなって思ってたけど、里留がそう言うんだったら、灯也の調子だよ」

 青森孝司も乗り出してきた。

「薄いよな、声が」

「え? どういうこと?」

「薄いんだよ。灯也の声帯っていい時は長い筒なんだけど、それが今薄くて長い板になってる。金管楽器から金属の板になったみたい、響くけど薄いの」

「ああ、俺わかるわ」

 孝司の発言に里留がうなずいた。

 灯也はメンバー全員に取り囲まれ、ただ憮然とした顔で目を伏せていた。

(まどかの奴、俺を道連れにすんなよ…)

 最近は携帯電話の電源をOFFにすることが多い。でも、そうすると「死ぬ」と言っていたことが妙に気になってくる。うかつに受信拒否したり携帯電話を替えたりするのはまどかの自虐行為をあおるだけのような気がする。そのうち取材陣が押し寄せて蓮井まどかの自殺を告げ、過去の関係を追求するのではないか…。

「プライベートはお互い干渉しないっていうのがクロック・ロック円満の秘訣なのは間違いないけどさ、おまえ、なんか女方面でモメてるんじゃないの」

 里留はズバリと言い当てた。そして、灯也をにらんで言葉を続けた。

「プライベートを仕事に持ち込まないのもクロック・ロックのヒットの秘密なんじゃなかったっけ」

「そーゆーのじゃねーよ」

 灯也は言い返したが、里留の目を見ることはできなかった。

「…それさ、そーゆー態度。前にお色気女優の子と書かれたときと同じだよ」

「そういや、あの時もこんなだったかも? なんか変な女ひっかけてるんじゃないの」

 里留に続いた孝司の言葉に、灯也はやけになって言い返した。

「つきまとわれてるんだよ」

 灯也はずかずかと荷物のところに行き、携帯電話を取り出した。そしてメールの履歴を呼び出して突き出した。「蓮井まどか」の文字が10件続いていた。

「蓮井まどか? ひっかけたの?」

 孝司が淡々と言った。

「ずっと前だよ。クロックが売れてくる前。とっくに終わってるんだって」

「じゃあなんで、今頃つきまとわれてんの?」

 里留と周が遠慮して訊けないようなことを、孝司は次々になんのためらいもなく口にしていった。灯也は別に秘密主義者ではないので、マスコミにバレない限りは、メンバーに訊かれたことくらいには答える。もちろん、訊かれなきゃ答えないが。

「引退の話が出てるらしいよ。それで泣きついてきてんの」

「灯也に泣きついても、芸能界でなんにもいいことないじゃん」

「ないよ。感情論だろ。モト彼くらいしか愚痴る相手がいないんだよ」

 そこにマネージャーが勢いよくドアを叩く音が響いてきた。周は自分の荷物の方に向き直り、孝司は鏡に向かって髪を直しはじめた。里留が、

「なんとかしないと、マズいんじゃねーの」

 と言った。灯也は、

「マズいね、多分」

 と肩を上げてみせた。

「いつも言ってるじゃん。だから、恋愛ゴッコなんて、いいことないって。俺たち3人はなんにも起こしてないんだから…」

「しょーがないじゃん、俺が一番注目度高いんだから」

 言ってから灯也は「しまった」と思った。事実なだけに禁句だった。里留は灯也の顔色を読み、先回りして、気にしていない者の明るさを乗せた声で言った。

「俺ら3人足しておまえの10分の1の注目度だとしても、計算上は合計2回くらいは書かれてるはずだけどね」

 灯也は里留が気を遣ってくれたのを感じて、わざと明るめに言い返した。

「だって孝司は恋愛しないんだから、そこで果てしなくゼロだろ。そしたら…」

 そこでもう一度、ドアがガンガン鳴った。

「やべ、そろそろお怒りだ」

 里留と灯也も支度に戻った。


 クロック・ロックは元々「クロック-クロック」というインストゥルメンタルバンドだった。垣口里留、青森孝司、小淵沢周による「クロック-クロック」は大学の学園祭で話題になって、ミニライブなどを開くごとに観客を増やしていた。演奏曲は、バンド名の通り時計の音のように割合単調で静かな曲が多く、その中に不思議な「音による快感」を伴うことが人気の源だった。あるいはドラムの低音が、あるいはギターの切ない叫びが、あるいはシンセサイザー(主に里留がプログラムする)のデジタルな響きが、キーボードのたてる多彩な響きが、妙に快感中枢を揺さぶる。不思議な魅力をもったバンドだった。

 まだバンド名がなかった頃、「なんか俺たちの曲って、時計みたいじゃない?」というメンバー間の会話からいつとはなしに「クロック」と呼ぶようになっていた。また、青森孝司がステージでやる隠し芸に「人間時計」というのがあって、体内時計で計測しながらドラムとシンバルで秒、分を計りきってみせるのが大道芸のように受けていた。誤差はコンマいくつの精度で、学園祭ではこの芸にもよくアンコールがかかった。

 時計みたいな曲と、人間時計の2つが話題のステージ。「クロックス」「オ・クロック」など何度か呼称を替えたが、2年の学園祭の時に「クロック-クロック」に正式に決めた。そして大学3年の時、周りが就職活動を始めたのをきっかけに、「クロック-クロック」はプロを目指そうと芸能プロダクションにデモを送り、売り込みを始めた。

 あるプロダクションから電話があった時は狂喜した。でも「ボーカルって、つける気ない?」という話だった。少し失望したものの、「クロック-クロック」はプロダクションの用意してくれた席に出掛けていった。そこには、何組かのバンドと、何人かのボーカルが来ていた。スクールのレッスンルームみたいなところで、課題に渡されていた曲を演奏し、ボーカル候補が入れ替わって歌った。

「君たち、上手いね」

 席に座っていたスーツの男の一人が、クロック-クロックにボーカル抜きで一回演奏をさせた。それは後にクロック・ロックのプロデューサーとなる織部重信だったが、その時はそんなことも知らずに、三人はただクロック-クロックのベストを尽くした。

 結果は後日連絡すると言われ、帰宅する途中に里留がつぶやいた。

「歌うんなら、今日の奴らより上手いのがいるじゃん。ウチの大学に」

 学園祭で、大学が公式に用意した野外ステージは抽選で1日14組、3日で計42組が20分ずつ使うことができる。そのほかに教室を借りてライブができるが、やはりメインはキャンパス中央の野外ステージだ。前年の学園祭1日目、ダントツで客を集めていたのが広瀬灯也だった。

 最初は興味本位の連中がほどほどに席を埋めていた程度だったが、灯也の声がキャンパスに響き渡るとどんどん人が集まってきた。誰も「広瀬灯也」なんて名前を知っていたわけじゃない。広瀬灯也は単なる経済学部の2年生にすぎなかった。

「えっ何、誰、歌ってんの。プロ? 違うよね」

「ウチの大学の人?」

 集まった「すごい人数」のほぼ全員が、その場で足を止めた野次馬だった。里留もステージのずっと遠くを歩いていて灯也の歌う声に引きつけられた。

「すげえな、プロ目指してんのかな。…上手いな。冗談抜きで」

 里留が野次馬の輪に加わり、ステージを見上げると、広瀬灯也が1曲歌い終わって満面の笑みを浮かべた。

(顔もいいじゃん、コイツ)

 一瞬、クロック-クロックにボーカルとして入ってくれれば…と考えた。でも、クロックの実力に自信があった。「結局はボーカル次第」という、バンドの厳しい現実に流されたくなかった。20分のステージを黙って見て、里留は「俺たちとは目指すものが違う」と心で灯也に距離をとり、別の教室に戻っていった。

 しかし、里留はその「広瀬灯也」のことをずっと気にしていた。芸能事務所の人に、電話で最初に「ボーカル、つけないの?」と言われたとき、わずかに浮かんだのは灯也の顔だった。プロダクションがオーディションらしきもので無理に当てがってきた連中の、変に技術の先走った歌声はピンとこなかった。

 そんな小さなオーディションの数日後、クロック-クロックにプロダクションから連絡が来た。

「今すぐ使えるっていうレベルには届かないけど、ウチとしては押さえておきたい…っていうのが正直なところかな。少し、レッスンみたいなものを受けてみない?」

 条件は、その間に他の事務所と契約しないこと。大学卒業までの残り1年半、一定のレッスンを受ける。レッスン料は当人たちと事務所とで折半、経済的事情があれば応相談。これが一定の評価の報酬らしい。

 すでにあちこちのプロダクションにデモを送ってノー・リアクションだった。でも、もしも返事を待ってもらえるなら、もう少し他の事務所にもチャレンジしてみたかった。クロック-クロックは半年、返答までの期限をもらった。

 半年間、デモの送付、ライブハウスや飲食店での演奏、バンドのコンテストへの出場を繰り返した。クロック-クロックはデビューできなかった。

「ボーカル入れる予定ないの?」

「演奏だけって、売りようがないんだよね…」

「それより、下積みとして、まずはバックバンドやらない?」

 プロダクションや審査員から言葉をかけられたのは、そんな内容ばかりだった。3人は何度も繰り返される同じ言葉に落胆した。

「インストゥルメンタルバンドなんて、無理なんだな」

「結局、ボーカルか…」

 肩を落とす孝司と周に、里留は、広瀬灯也をボーカルにする提案をしようかと思った。すでに孝司と周には言わずに灯也にコンタクトをとっていた。灯也も学園祭でクロック-クロックを知っていて、里留の「来年の学園祭、一曲だけでよければ、一緒にやってみたい」という提案を、灯也はすでにOKしていた。

 大学4年になると同時に、クロック-クロックの3人は織部重信のいるプロダクションと契約して、スクールに通い始めた。クロック-クロックは、担当の織部重信に一つだけ条件をつけた。

「素人のくせにと思うでしょうが、『スクール生』という扱いはされたくないんです。あくまでも、可能性を認めてもらった…ということであれば、がんばりますから」

 スクールで育てられたわけじゃない、才能を見込まれたのだ、そう思って3人はスクールに通った。実際、クロック・ロックの経歴にはスクールに在籍していたことは一切書かれていない。

 スクールを終える半年前、4年生の秋。学園祭で、大学中央のステージに立てる最後の年、クロック-クロックはまさかの抽選落ちとなってしまった。里留は「一曲、一緒にやりたい」と言ってあった灯也に、

「抽選落ちたから、ステージで一緒にできなくなった。…教室のライブでよかったら、頼めないかな」

 と言った。灯也はあっさりと、

「ああ、だったら、俺のステージでやろうよ」

 と言った。灯也は抽選に当たり、ステージの時間をもらっていた。出場名が「広瀬灯也」から「広瀬灯也/クロック-クロック」に変更された。

 そんな状況で実現した共演だから、クロック-クロック側が完全に灯也を立てる構成になった。20分はギリギリ4曲できる。1曲分の時間をまるまるクロックにもらうかわりに、3曲分は灯也のバックバンドに徹した。灯也の予定していたポップス3曲を、「クロック-クロックバージョン」にリミックスして伴奏した。灯也は、校内の人気バンドであるクロック-クロックが伴奏についたことを素直に喜んだ。

 クロック-クロックと広瀬灯也による学園祭のメインステージは多分、大学史上最高、最大の盛り上がりだった。クロック-クロックのシンプルだが技術の高い演奏と「快感」な音。広瀬灯也の、人の足を止めさせる華やかさ、声量、魅力、歌唱力。クロック-クロックの3人は、ステージの上で灯也の脇役に回りながら、絶望的な気分にひたっていた。それはたまらない快感を伴う、不思議な絶望感だった。

「バック」バンド、「脇」役という役回りのはずが、お互いに主役になれた気がした。それはもう感覚的なもので、どんなに言葉を尽くしても説明しきれない。

 ステージを降りると、そこに織部重信が待っていた。織部は、アマチュアバンド「クロック-クロック」の育成担当プロデューサーとして、里留に招かれて学園祭のステージを見に来ていた。

 織部は里留に無言で握手を求め、そのまま周、孝司と握手した後、灯也に向かって名刺を差し出した。名前を名乗る程度の挨拶を終えた後、織部は里留に「垣口くんに連絡すればいいかな」と言った。里留は「はい」と答えた。里留が予想していた…いや、「見えていた」とおりの展開だった。

 4人の大学卒業後、間もなく、ロック&ポップスに衣替えしたクロック-クロック…「クロック・ロック」はデビューした。「クロック-クロック」のインストゥルメンタルへの思い入れは、果てしなく繰り返された「ボーカル入れないの?」の言葉ですでに洗い流されていた。広瀬灯也と組むまでの1年半の苦労は、「芸能界はそんなに甘くない」ということを徹底的に教えてくれた。そして広瀬灯也と組んだ途端、あっという間に進んだデビューの話…それまでの1年半とそのあとの半年の違いが、3人をハッキリと自覚させてくれた。

「自分たちに実力がなかったわけじゃない。でも、デビューするには、灯也みたいな『何か』が必要だった」

 里留、孝司、周の3人は灯也を買っている。プロダクションが用意した何人ものボーカルも、技術は高かったと思う。でも、彼らのうち誰と組んでもこんな風に売れることはなかっただろう。実際、広瀬灯也の歌声は「気持ちいい」。それを聴く人も気持ちいいだろうが、一緒に音楽を作っている自分たちの方が絶対に気持ちいいと思う。

 自分の奏でる音に灯也の声が乗る瞬間のえもいわれぬ感触。「ああ、すごいんだ」という絶望的な喜びを感じたから、インストゥルメンタルバンドとしての作品をあきらめてロック&ポップスに転じることができた。

 だから里留は、灯也に余計な技術を身につけてほしくない。大人になってほしくない。変わってほしくない。女性関係で雑誌に書かれても、そう問題だとは思っていない。灯也が傲慢に楽しく歌っていられる方がいい。

 でも、蓮井まどかのメールは灯也の足を引っ張っている。間違いなく最近の灯也は調子を崩している。

 里留は移動の車の中で、一人黙ったまま灯也を守る手段を考えていた。

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