外にいる五人目
「……本当に忘れたの?」
耳元で聞こえた声は、幼い女の子のものだった。
美咲は息を止めた。
握られている手が冷たい。
冷たいというより、温度がない。
まるで長い時間、氷の中に入っていたような手だった。
「……誰?」
美咲は震える声で聞いた。
返事はない。
ただ。
小さな指が、美咲の手をぎゅっと握り直した。
その感触だけがはっきりしている。
「美咲?」
沙耶の声がした。
「どうしたの?」
美咲は答えようとした。
けれど、声が出なかった。
だって。
自分の手を握っているものは、誰にも見えていない。
美咲は恐る恐る視線を落とした。
暗闇の中。
自分の手。
その上に重なっている、小さな手。
白い。
細い。
そして。
濡れている。
水滴が、美咲の手の甲に落ちた。
ぽた。
ぽた。
「……っ」
美咲が反射的に手を振り払った。
その瞬間。
小さな手が消えた。
何もない。
ただ、手の甲だけが濡れている。
「何したの?」
直樹が聞いた。
「……誰かに触られた」
「誰に?」
「分からない」
「またそれかよ……」
直樹が頭を抱えた。
「分からない、見えない、聞こえるって……もう、どうすりゃいいんだよ」
「じゃあ、お前は何だと思ってるの?」
美咲が言った。
「幽霊?」
「……」
直樹は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
車の外から。
ザッ。
音がした。
四人が同時に窓を見る。
誰もいない。
もう一度。
ザッ。
今度は反対側。
車の周りを誰かが歩いている。
一歩。
また一歩。
ゆっくり。
車の周囲を回っている。
「……誰かいる」
沙耶が言った。
「外、見える?」
悠斗が聞く。
「見えない」
「ライト点ける」
悠斗がヘッドライトを点ける。
道路が照らされる。
何もいない。
木々だけ。
けれど。
音は続いている。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
車の後ろ。
横。
前。
また横。
まるで誰かが車を一周している。
「……どこにいる?」
直樹が窓へ顔を近づけた。
その瞬間。
窓ガラスの向こうに。
女の顔が現れた。
「うわあっ!」
直樹が後ろへ飛び退く。
顔。
白い顔。
目を閉じている。
濡れた髪が顔に張り付いている。
窓にぴったりと顔をつけている。
美咲も沙耶も叫んだ。
悠斗がアクセルを踏む。
車が動き出した。
しかし。
顔は消えない。
車と一緒に動いている。
窓の外。
ずっと同じ位置にある。
「何で!?」
悠斗が叫ぶ。
「何で走ってんのに離れないんだよ!」
「こっち見てる!」
沙耶が泣きそうな声で言った。
「目、閉じてるのに……!」
その言葉に、美咲が気づいた。
女の顔。
目は閉じている。
なのに。
こちらを見ている。
まっすぐ。
確実に。
車の中を見ている。
そして。
口が開いた。
窓ガラス越しに。
声は聞こえない。
でも。
何を言っているのか。
なぜか分かった。
「……降りて」
美咲の背中に寒気が走った。
「降りてって言ってる」
「誰が?」
「外の女の子」
「絶対降りるな!」
直樹が叫ぶ。
「分かってる!」
「窓も開けるな!」
「分かってるって!」
女の顔が。
ゆっくり笑った。
目は閉じたまま。
口だけが笑っている。
そして。
窓ガラスに指を這わせた。
キィィィ……
爪がガラスを引っ掻く音。
「やめて!」
沙耶が耳を塞ぐ。
キィィィ……
もう一度。
そして。
女の指が止まった。
窓ガラスに。
文字が書かれていた。
濡れた指で。
ひらがな。
ゆっくり。
一文字ずつ。
「お」
「ぼ」
「え」
「て」
「る」
「よ」
美咲はその文字を見つめた。
「……覚えてるよ」
思わず口にした。
その瞬間。
女の顔が消えた。
「……え?」
窓の外には誰もいない。
ただ。
書かれた文字だけが残っている。
おぼえてるよ。
美咲は自分でも意味が分からなかった。
「何で……」
「何?」
沙耶が聞く。
「今、私……覚えてるって言った」
「うん」
「でも」
美咲は眉を寄せる。
「何を覚えてるのか、分からない」
車内が静かになった。
そのとき。
悠斗が言った。
「……俺も」
「え?」
「俺も、さっきから思い出そうとしてる」
悠斗はハンドルを握ったまま言った。
「今日ここに来る前のこと」
「……うん」
「俺たち、四人で集合したよな?」
「そうだよ」
「どこで?」
「……」
誰も答えなかった。
直樹がスマートフォンを取り出す。
「グループLINE見れば分かるだろ」
画面を開く。
四人のグループ。
しかし。
今日のメッセージがない。
昨日までの会話は残っている。
なのに。
今日だけ。
何もない。
「……消した?」
「誰が?」
「分からない」
直樹がスクロールする。
昨日の夜。
『明日どうする?』
その次。
『鷲羽山行こうぜ』
そして。
その次に。
『五人で行こう』
直樹の指が止まった。
「……五人?」
「何?」
美咲が画面を見る。
確かに。
そこには、
『五人で行こう』
と書かれていた。
送信者の名前。
「さやかおり」
直樹の顔から血の気が引いた。
「……この名前」
「さっきの」
沙耶が呟く。
「うん」
直樹は震える手でプロフィールを開いた。
アイコンは真っ黒。
名前だけ。
「この人、誰?」
美咲が聞く。
「知らない」
「でもグループにいるじゃん」
「……俺たちのグループなのに」
「じゃあ、誰が追加したの?」
沈黙。
四人は過去の履歴を見る。
『さやかおりがグループに参加しました』
日時。
三年前。
「……三年前?」
悠斗が言った。
「俺たちが高校一年のとき?」
「そう」
美咲が答える。
「でも……」
沙耶が画面を見つめる。
「このグループ、三年前から四人だったよね?」
「そうだよ」
「だったら……」
沙耶の声が震えた。
「五人目は、いつ入ったの?」
誰も答えられない。
直樹が履歴をさらに遡る。
三年前。
二年前。
去年。
今年。
すべての履歴に。
その名前がある。
「……ずっといる」
直樹が呟いた。
「俺たちのグループに」
「でも、私たちは知らない」
美咲が言う。
「知らないんじゃない」
直樹が画面から目を離さずに言った。
「……忘れてるんだ」
その瞬間。
スマートフォンの画面が暗くなった。
そして。
勝手にカメラが起動した。
「え?」
インカメラ。
四人の顔が映る。
悠斗。
直樹。
美咲。
沙耶。
そして。
四人の後ろ。
車の外。
女の子が立っていた。
「……っ!」
美咲が振り返る。
誰もいない。
カメラを見る。
まだいる。
長い髪。
白い服。
俯いている。
四人の後ろ。
まるで車のすぐ後ろに立っているように。
「撮影した?」
直樹が聞く。
「してない」
「じゃあ何でカメラが……」
画面の女の子が顔を上げた。
ゆっくり。
ゆっくり。
髪の隙間から顔が見える。
目がない。
ただ、黒い穴のようなものが二つある。
そして。
口が動いた。
『一人、出てきて』
「……嫌」
美咲が呟く。
女の子は笑った。
『一人でいいよ』
画面に文字が表示された。
『美咲』
美咲の名前。
「……なんで私?」
『知ってるから』
「何を?」
『私を』
画面が暗くなった。
そして。
今度は後部座席から声がした。
「美咲」
「……!」
耳元。
女の子の声。
「私のこと、知ってるよね」
美咲は首を振った。
「知らない」
「嘘」
「知らない!」
「じゃあ」
声が少し低くなる。
「どうして私の名前を知ってるの?」
美咲の呼吸が止まった。
その瞬間。
車のドアが、
ガチャ。
と開いた。
運転席でも。
助手席でもない。
後部座席。
美咲の隣のドアだった。
「閉めて!」
直樹が叫ぶ。
美咲がドアを閉めようとする。
しかし。
閉まらない。
何かが外側から押さえている。
「誰かいる!」
美咲が叫ぶ。
「引っ張って!」
沙耶と二人でドアを引く。
動かない。
そして。
外から。
小さな手が見えた。
ドアの縁。
白い指。
一本。
二本。
三本。
四本。
五本。
ゆっくりと車内へ入ってくる。
「……いやあっ!」
美咲が叫ぶ。
その手が。
美咲の手首を掴んだ。
冷たい。
強い。
引っ張られる。
「美咲!」
直樹が腕を掴む。
沙耶も掴む。
悠斗も振り返る。
四人で美咲を引っ張る。
それでも。
美咲の身体は外へ引かれていく。
「離して!」
「絶対離さない!」
「痛い!」
「美咲!」
そして。
外から女の子の声。
「……返して」
直樹が叫ぶ。
「何をだよ!」
女の子が答えた。
「私の場所」
その言葉と同時に。
美咲の身体が一気に引っ張られた。
「うわっ!」
直樹の手が滑る。
美咲の身体がドアの外へ半分出る。
その瞬間。
美咲の目の前に。
女の子の顔があった。
濡れた髪。
白い肌。
閉じた目。
そして。
耳元で囁く。
「……やっと見つけた」
美咲の記憶に。
突然。
何かが流れ込んできた。
夏の日。
同じ車。
同じ四人。
そして。
もう一人。
女の子が笑っている。
「ねえ、鷲羽山行こうよ」
美咲はその子を知っていた。
知っている。
ずっと前から。
なのに。
名前だけが思い出せない。
女の子が笑う。
「五人で行こう」
次の瞬間。
記憶が途切れた。
美咲が叫ぶ。
「……さや……!」
女の子の顔が近づく。
「そう」
女の子が笑った。
「やっと思い出したね」
その名前を聞いた瞬間。
車内の全員が凍りついた。
沙耶が震える。
「……今、何て?」
女の子が答えた。
「私の名前」
そして。
女の子が初めて目を開いた。
その瞳を見た瞬間。
美咲は気づいた。
この子は。
四人目ではない。
五人目でもない。
もっと前から。
自分たちの中にいた。
「……私たち」
美咲が呟く。
「高校一年の夏……」
直樹が顔を上げる。
「何?」
「私たち……」
美咲の声が震える。
「五人だった」
その瞬間。
遠くから。
車のクラクションが鳴った。
一回。
二回。
三回。
四回。
そして。
五回目。
最後のクラクションが鳴った瞬間。
料金所の男が暗闇の向こうに現れた。
男は美咲を見て。
ゆっくり笑った。
「思い出しましたか」
美咲は震えながら聞いた。
「……あの子は、誰?」
男は答えなかった。
代わりに。
美咲の後ろを指差した。
「違います」
「え?」
「あなたが思い出したのは」
男の顔から笑みが消えた。
「五人目ではありません」
美咲が振り返る。
車内。
悠斗。
直樹。
沙耶。
そして――
後部座席の中央。
濡れた髪の女の子。
その子が。
ゆっくり顔を上げた。
「……私を思い出したのに」
女の子が笑った。
「どうして、まだ四人なの?」
美咲の背後で。
誰かが笑った。
今度は。
女の子ではなかった。
男の声だった。
「……一人、足りない」
料金所の男が呟く。
「まだ一人、山に残っています」
その瞬間。
車のライトが勝手に消えた。
完全な暗闇。
そして。
暗闇の中で。
車の外から。
誰かが走ってくる音がした。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
その足音は。
四人のいる車へ向かって。
まっすぐに、
近付いてきた。




