35.蒼石の契り
翌日、マリアナは一日を屋敷の掃除に費やした。パメラとオラ・レガーダから一緒に来た女中、それに――近くの村から来た女性たちと。
女性たちは、蜂起に参加していた家族から話を聞いてきた、と言った。おぼろげな記憶だが見覚えのある女性も混じっていた。
言葉を探す彼女たちにマリアナは微笑みかけ、掃除を手伝ってくれるよう頼んだ。
掃除の間、これまでのことを口にする者はいなかった。今日、このときだけの話をした。帰り際、マリアナはオラ・レガーダから運んできた食料の一部を彼女たちに渡した。女性たちは礼を述べ、明日も来ると言って帰っていった。
夕食は残った食材で作った、具の少ないスープと薄切りのパン。マリアナはビクトリーノや事務員たちに謝った。
「ごめんなさい。みんな一日中走り回って、お腹が空いているのに」
「気にするな。明日には届くよう手配してある」
ビクトリーノは屈託なく答え、美味しいと言ってスープを飲んだ。
パメラと食後の後片付けをしながら、マリアナは商会が行っていた支援の話を聞いた。
安くで食料を売り、わずかな利息で金を貸し、返済が滞れば仕事を斡旋して給与を渡す。医師と神父を巡回させ、暴力から身を守る方法、領民同士の連携を教え、それでも転居を選んだ者には公的手続きの代行、新しい仕事の紹介。
他にも数多くの支援が行われ、名も知らないドンのまま信頼を育てていった。
「なんだか、すごい商会みたいですねぇ。若いのなんかは喜んでいましたよ。これからバルフレードはよくなっていく、って」
パメラの明るい声にマリアナも笑顔を見せたが……自分は身の振り方を、どうすべきか考えた。
明け方。薄っすらと空が明るくなり出した頃、マリアナは屋敷の周りを見て回った。
庭園は荒れ果て、乾いた土がむき出しになっていた。片隅にパメラたちがわずかに耕していた菜園があるばかり。五頭いた馬も二頭になり、八年前とは違う子になっていた。まだ、若かったはずなのに。
新しい馬は神経質で、マリアナが近づくと警戒したように嘶いた。
マリアナはなだめるように声をかけて、馬小屋をあとにした。
鳥小屋と……犬小屋は空になっていた。使用人の館は二階の屋根が崩れ、鎧戸の外れた窓もいくつかあった。
勝手口から台所に入ると、パメラが朝食の支度を始めていた。マリアナも手伝い、食事を終えると、やってきた女性たちと屋敷の掃除をした。
ほとんどの棚が空になった図書室の掃除をしていたマリアナの耳に、賑やかな声が響いてきたのは昼を少し過ぎた頃だった。物資を運んできた馬車が到着したらしい。呼び集められていた領民に商会の事務員が指示している。
そわそわと落ち着かない様子の女性たちを庭に送り出して、マリアナはひとり掃除を続けた。しばらくすると歓声と笑い声に、歌声が混じってきた。
お祝いのときに歌われていた歌だった。
マリアナも小さく口ずさみながら、暖炉棚の上を丁寧に拭いていった。
「俺が手伝おうか、お嬢さん」
ノックと同時にビクトリーノの声がした。
振り返ると、鮮やかな青い上着を肩に羽織ったビクトリーノが戸口に立っていた。シャツの腕を無造作にまくり、黒髪からのぞく耳には大粒の蒼石の耳飾り。
マリアナが噴き出して笑うと、ビクトリーノも、どこか気恥ずかしそうに笑って印章指輪をつけた指で鼻を掻いた。
掃除は、もう終わりかけていた。マリアナは首を振りかけて、ふと思い直すと棚へ立てかけていた物へと視線を向けた。薄汚れた布に包まれた平たく大きな……。
それに歩み寄り、布を取り外すとマリアナは言った。
「これを……お願いできますか?」
ビクトリーノは慎重に抱え上げると、掃除されたばかりの暖炉棚に置いた。
マリアナは戻ってきた絵に胸を詰まらせた。やっと……やっと、取り戻せた。
「ありがとうございます」
震え、かすれた声で言った。
ビクトリーノはマリアナの横に立つと、家族の肖像を見上げた。
栗色の髪をした男性が暖炉の前のソファーに座り、本を広げて膝の上に置いている。二人掛けのソファーには幼い娘を膝に座らせた黒髪の女性。両親は柔らかな微笑みを娘へと向けている。額縁はなくキャンバスだけの肖像画だった。
「ご両親?」
「はい。後見人として……やってきて、すぐに捨てられたと思っていたんですが。パメラたちが隠してくれていたみたいで」
ビクトリーノは無言で肖像画を見つめていた。
「父は……いつも、この暖炉の前で本を読んでいました。母は刺繍や編み物をして」
絵に留められた在りし日の記憶に、マリアナは堪え切れず涙を流した。ビクトリーノはそっとマリアナを抱き締めて、背中を撫でた。
「少しずつ取り戻していける。それでも足りない分は、新しいもので埋めたらいい」
マリアナはビクトリーノの温もりの中で、小さくうなずいた。
ビクトリーノも……きっと、そうして生きてきたんだろう、と思った。
気持ちが落ち着くと、マリアナはビクトリーノから離れて真っ直ぐに彼を見つめた。
ビクトリーノも、どこか緊張を漂わせた面持ちで向き合う。
外から響く歌声が変わっていた。港の荷揚げの歌。歌詞が一巡すると、領民たちの歌声も重なっていく。
マリアナはスカートを摘まみ上げると、膝を深く落として言った。
「バルデム商会、ドン・ビクトリーノ・バルデム。ナロス伯マリアナとして、この度のこと心より御礼申し上げます。あなたと商会のおかげで領民は生き延びることが出来ました」
「……俺は、俺の利害として動いたに過ぎない。だが、その礼は受け取らせていただく」
ビクトリーノは重々しく答えた。
「ありがとうございます」
マリアナは顔を上げると両手を結び、固い声音で続けた。
「つきましてはドン・ビクトリーノ、ひとつ……取引をしていただけないでしょうか」
「取引……?」
ビクトリーノはわずかに目を細めたが、表情は変えないまま問うた。マリアナも少し表情を強張らせて告げた。
「どうか、あなたの取得した割譲書を、私に買い取らせていただけないでしょうか」
「それは……商会の力は、もう必要ないという意味か?」
「いいえ。違います」
ビクトリーノの強い眼差しに気後れして、マリアナは一瞬、視線を落とした。けれど、視界の隅にある肖像画に励まされ、ビクトリーノへと顔を戻す。
「以前、申し上げた通り、私はバルデム商会の計画に口を出すつもりはありません。ですが、私の存在を曖昧にしたまま事業を進めては、商会に問題の火種を残しかねないと思います」
「…………」
「私が正式にナロスの当主となり、商会に領地運営の支援を依頼する。国に納める税金分だけをいただければ、あとの利益はすべて商会の収益としてくださってかまいません」
「それでは……君は、どうやって生活していくつもりだ?」
「あなたが支援してくださった、私の店で食べていきます。ドニャ・マヌエラのおかげで、すでに数人の顧客がついていますし、店の経営と女ひとりが食べていくぐらいは、なんとかなります」
眉根を寄せ、厳めしい表情を浮かべたビクトリーノは、大げさなほど深い息を吐き出した。
「そこに俺への支払いが加わっても、食べて行けると? 割譲書を手に入れるため、俺がどれほどの金を費やしたか」
ビクトリーノの冷めた言葉に、マリアナはたじろいだ。
「それは……。帝国から持ち帰った手持ちの品、すべてを売却してでもお金は工面します。それでも足りなければ、何年かけてでも支払って……」
「金だけじゃない。計画遂行まで一年以上かけて準備してきた。すべてはバルフレードを正式に商会の土地とするためだ。その時間は、どう補償する?」
マリアナはビクトリーノが、なにを求めているのか分からず困惑した。
取引として悪い提案ではないと考えた。公的にナロス領のままの方が商会も動きやすいと、自分なりに考えて決めたことだった。ビクトリーノが、それを理解していないはずがない。
お金を支払うと言ったことで、気を悪くしたのだろうか。彼の善意を無碍にしたと――嫌われてしまったのだろうか。
マリアナは不安に苛まれ、うつむいた。唇を動かしたくても、なにを言えばいいのか分からず、セニョーラスからもった前掛けを握り締めた。
固く結ばれたマリアナの手に、ビクトリーノがそっと触れる。マリアナは躊躇いがちに顔を上げ……ビクトリーノの瞳の奥にも不安の色を見つけて驚いた。
ビクトリーノはマリアナの手をほどくと、その手を握ったまま跪いた。
マリアナは息を呑んで、ビクトリーノを見つめた。
深みのある茶色い瞳はうるみ、表情には少しの自信も見えない。
「マリアナ」
声は、かすかに震えて聞こえた。
「マリアナ・ナロス・スリナーチ。割譲書と引き換えに、どうか俺の愛を受け取ってほしい。君と共に歩む時間が得られるなら、これまで計画にかけた時間など一瞬に等しい。君を愛する権利を俺に与えてほしい」
ビクトリーノの耳元で蒼石の耳飾りが揺れていた。
――なんて……不器用な求婚なのかしら。
けれど、トルドラの店から連れ出したときも、店舗へふらりとやってきたときも、屋敷で暮すよう言ったときも、計画を打ち明けたときも。この人は商談のような顔をして話を切り出した。
どこまでも商人のビクトリーノらしいと愛おしく思った。
そして、断ったとしてもビクトリーノは割譲書を譲ってくれる。その確信があった。
マリアナは心からの笑みを浮かべて答えた。
「ビクトリーノ・バルデム。どうか私の愛を、あなたに捧げさせてください」
マリアナはビクトリーノの胸に飛び込み、ぎゅっと抱き締めた。
「ビクトリーノ、心から愛しています」
「マリアナ……。マリアニータ、愛してる」
ビクトリーノも強く抱き締め返す。触れ合った胸の奥で鼓動のリズムが溶け合う。
マリアナは顔を上げて、ビクトリーノの首に手を回した。視線が絡み合い、ゆっくりと瞼を閉じた。
風が触れたような一度目のキス。
吐息が混ざり合った――甘くとろけるような二度目。
その夜、マリアナは緑みを帯びた金の台座に蒼石のついた婚約指輪をパメラに見せ、リーズとダシャに手紙を書いた。帰国して、初めて書いた手紙だった。
窓辺ではランプの光に照らされたモザイクタイルのニワトリが、マリアナを見守るようにキラキラと輝いていた。
完
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
マリアナを取り巻く世界と人々との関係を、少しでも堪能してもらえていたなら嬉しいです。
お気が向きましたらページ下部からブックマークや評価をいただけると、未完山から下山する励みになります。
改めまして、お読みくださりありがとうございました。




