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不慮の事故で両親を亡くした4兄弟姉妹が 白亜の館から下町の町営住宅に引っ越して助け合いながら生きていく

不慮の事故で両親を亡くした4兄弟姉妹が 白亜の館から下町の町営住宅に引っ越して助け合いながら生きていく


『下町の空の下で』 


第一章 「突然の別れ」

第一節 「館から下町へ」


未だ明けきらぬ冬の朝靄の中で、

私達は立ち止まり振り返った。

濡れた桜の枝は深く垂れ下がり、

涙の中に白亜の館が漂う。

「お母さん!お母さん!」声を絞りながら

瞳が明かりを落とした館に戻り掛け、

恵は瞳を抱き止めながら泣き崩れた。

為す術も無く震える私達を

母の形見のハンカチが包み、

数々の想い出がこぼれ落ちた。


涙を振り払って誠を促すと、

恵は瞳を抱き上げて続いた。       玉砂利の歩道は朝露に濡れ、

枝を揺らす鳥のさえずりが

一層の不安を掻き出した。

砂利道を挟んで正門の向かい側は

製材用の原木置き場で、鼻を刺すような

杉の香りが漂よっている。右手の

小高い山に続く道は未だ闇に包まれ、

左手の街に続く道には幾つかの明かりが

灯っていた。正門前に迎えの車は無く、

私は恵に合図をして

製材所の柵に沿って歩き出した。


休日にも関わらず喪が明けた

製材所の事務所からは明かりが漏れていて、出窓が近付くと瞳が「お母さん!」と叫び、                

私達は一斉に中を覗いた。(学校の帰り)

出窓を覗いて母が居れば、誠と瞳は

中で母を待って一緒に帰宅した。


瞳は首を振る恵に納得出来ず、

恵の腕を抜いて出窓の淵に手を掛けた。

誠も行き掛けたがライトを点灯して

車が向かって来ると恵は誠を抱き止め、

私は瞳を捕まえて背に負ぶった。


丸太を積んだ兼引きトラックが事務所を

通り過ぎて製材所横の車止めで停車した。

ブレーキの音で事務所の中から経理担当の

鈴木さんが出て来て、驚いた顔を向けた。

更に、恵と誠を認めると再び顔を向けて

「なんて事を!」と詫びながら頭を下げた。


 背中ですすり泣く瞳の吐息を感じながら、

私達は学校に続く一本道を進んだ。

製材所の囲いを過ぎて街並みに入ると、

点在する明かりが恨めしく揺らぐ。


 高台に建つ中学校の屋根は朝日に染まり、

初春の空が虚しく白みかける。

誠の足取りがおぼつかなくなると、

私は瞳を恵に預けて誠を背負った。

立ち並ぶ街灯があざ笑い、歩みを速めると

恵は白い息を吐きながら続いた。


 下町は長い坂道を下った一帯で、

学校下を跨いで館の反対側にある。

坂道に差し掛かると暗さを増した家並みが

眼下に広がり、坂の下に人影が立っていた。

小父さんは手を挙げて近寄り、

泣き疲れた瞳を抱き取って先導した。

町営住宅の一角に明かりが点っていて、

狭い玄関で割烹着姿の小母さんが出迎えた。

小母さんは瞳を隣の部屋に寝かせると

「なんで、歩いて来させたかね!」と、

小父さんの方を見て怒るように吐き捨てた。

“もっと遅い時間に…”と頼んでも

“仕事に支障が出るから”と早朝の時間を

指定したのは叔父自身だった。


六畳の和室には真新しいテレビと

小さい茶ダンスが有り、真ん中には

折り畳みのテーブルが置かれていた。

「凡!疲れたろう」と小母さんは

座布団を薦めて台所に戻った。

小母さんは母の叔母にあたり、

早くに母親を亡くした母にとって

小母さんは母親代わりでもあったが、

子供を授からなかった小母さんも

母を実の娘のように接していた。

従い、二人は私達には“爺やと婆や”で、

誠は小父さんが座るや否や膝の上に乗り、

小父さんが手で誠の足を包むと

その温もりは私の足にも伝わってきた。



…白亜の館は建築業を始めた父が

展示場の一環として建て、私が

小学校に上がった年に完成した。

太い柱と梁に支えられた二階建ての

和洋折中の木造家で、ガラス窓に囲まれた

居間の東側には花壇と季節毎の樹木が茂り、

桜並木が正門まで続いていた。

北側には池があって、出窓からは

池の淵を悠々と泳ぐ鯉が覗けた。

居間の正面には木材のサンプルが並び、

一角には父の書斎机がある。


吹き抜けの居間には大きな

シャンディリアが吊るされていて、

二階の廊下から連なった螺旋階段の

手摺と調和していた。

玄関を挟んだ反対側には台所、食堂、

トイレと檜の風呂が有り、廊下を挟んだ

奥には様式と和式の客室がある。

階段を上がって正面が父母の寝室で、

東向きの部屋が私、南向きが恵の部屋で、

誠と瞳の部屋は父母の寝室の両隣だった。


館が完成すると広大な庭の手入れも

然る事ながら見物客が増えて、

父は小父さんに手伝いをお願いした。

小父さんの本職は大工だったが

植木の剪定も確かで、父は小父さんの

仕事振りや人柄を信頼していた。

母のお産には未だ間があったが、手伝い

に来た小母さんに母が同居を申し出ると、

父も小父さんと小母さんに頭を下げた。

館での同居は叶わなかったが、小父さん達は館の西側にロブハウスを建てて移り住んだ。

ロブハウスには小さな台所もあったが

小母さんは朝・晩、館の台所に立っていて

小父さんも食卓の定位置で誠をあやした。      

                       

小父さんの一日は、作業着に着替えて

私達を正門まで見送ることから始まった。

近隣に同級生が居なかった私は、

帰宅すると小父さんを探し、小父さんが

選定した枝を拾い、草を集めて手伝った。

ロブハウスの外には小父さんが作った

木製のベンチとテーブルがあって、

窓際にはリクラニング椅子が並んでいた。

泥や草の付いた服で掛けても小母さんは

笑うだけで、ロブハウスは恵にも

快適な空間だった。吹き抜ける風と

暖かい日差しと暖炉の炎に包まれながら

恵はお菓子や宿題を持ち込み、

ロブハウスで過ごす時間が増えて

何時しか少女になっていった。…


カーテン越しに人影が通り過ぎて下町の

朝が明けると、小父さんは折りたたみ

テーブルの脚を開き・恵は箸を並べた。

見慣れた茶碗と箸は館から運んだ物で、

私は立ち上がる湯気を見つめながら

両親を一瞬に亡くした絶望と現実の狭間を

行き来し、朝食後、瞳の隣で寝入った。


昼近く、ざわめく声で目が覚めた。

製材所のトラックが下町の狭い道を塞ぎ、

“館の坊ちゃん”、“滝川屋の坊ちゃん達”

が町営住宅に来た事を知って下町は

騒然となっていた。トラックには鈴木さん

が付き添って居て、荷物を運び入れながら

「坊ちゃん、今朝はすみませんでした」と

神妙な面持ちで頭を下げた。…

館に来るはずだった車は

手違えで叔父宅に行ったと言う。


机や箱を運び入れると

居間も隣の六畳間も足の踏み場が無くなり、押入れやトイレの前に箱を積み直した。

一段落すると小母さんは二つの化粧箱を

取り出して六畳間に並べた。それぞれの

化粧箱の上には母の字で『入学準備』と

記された紙が貼ってあって、恵と瞳の名前

が添えられていた。来週から瞳は小学生に、恵は中学生になる。


事故の前日、恵は母と制服を買いに出た。恵の制服姿は衆目を浴び、母の報告に

父は眼を細めて入学式を待ち侘びていた。

多忙な父も入学式には出席するとの事で、

恵は自慢の父と一緒に登校するはずだった。


化粧箱の蓋を開けて瞳に服を着させると、小母さんの頬を一筋の涙が伝わった。

恵も小母さんに促されて薄手のセーターを

脱いで、後ろ向きに真新しいブラウスと

制服に袖を通した。妹とは言え、細身の

しなやかな白い肌に私は一瞬目をそらした。

恵の顔は悲壮感を滲ませていたが、紺色の

制服に包まれた姿は透き通るように清純で、

その面影は母の匂いが漂っていた。


館は会社名義との事で、製材所を継いだ

叔父一家が住む事になった。叔父夫婦には

誠より一歳年上の男の子が一人いるだけで、小母さんは叔父夫婦に私達の「後見人」に

なることをお願いしたが、義叔母は病弱で

ある事を理由に断った。…たった一人の身内でありながら子供達を引き取ろうとしない

叔父夫婦の薄情さを小母さんは憤ったが、

私は以前から温かみの無い叔父夫婦は好きになれず、父母の居ない館での暮らしよりも

小父さん・小母さんと暮らす事を望んだ。


瞳の机は無かったが机を並べると部屋は

狭くなり、私の机はテレビの脇に置かれた。

恵は誠と瞳の間に枕を並べたが、恵が瞳を

抱き寄せると誠も恵の布団に潜り込んだ。

隣の部屋から寝息が漏れてくると、私は

天井の板目に止まった時間を見つめていた。


第二節 「父と母の回想」

 

 下町のざわめきとは裏腹に、静まり返った部屋で恵は瞳の化粧箱を開けた。新しい

下着や上履きが出てくる度に瞳ははしゃぎ

回っていたが、恵が名前を書き始めると

「お母さん!お母さんは!」と泣きべそを

掻き出した。母に名前を書いて欲しいとの

刹那さは泣き声となり、私達の胸に突き

刺さった。棺の中の母は微笑、薄化粧をしていて、声を掛ければ目を開けそうだった。

納骨の儀式がなければ、母の死を

受け止めることが出来なかっただろう。

小父さんの棚作りを眺めていた誠も、

還らない母の返事に小父さんの背にすがり、私は堪らず部屋を出た。


砂利道を下って行くと家は疎らになり、

本道は大きく弧を描いて西に伸び、

右手には細い用水路が

真っ直ぐ北側の堤防まで続いていた。

用水路に沿った脇道の農道に入ると、

涙は堰を切ったように流れ落ちた。


 その日は期末テストの結果発表がある為、教室内は朝からざわめいていた。

午後の授業が始まって間もなく、

入り口の引き戸が無造作に引かれて

学年主任の目が私を凝視すると

室内の眼は一斉に私に向けられ、

私は先生の許可を待たずに教室を出た。

製材所の事務員に導かれて玄関を出ると、

既に後ろの座席には恵が居て、

蒼ざめた顔で宙を凝視していた。

小父さんを間に挟んで車に乗り込むと、

景色や音は消えて車は暗闇の中を渦巻く

ように走り市内の大学病院へ転がり込んだ。

安置室に近付くにつれて呼吸は早くなり、

私達は小父さんに支えられて中に入った。

応えない父と母の遺体に恵の慟哭が

響き渡り、私は泣き崩れた。


 館に戻ると居間の展示類は取り除かれて、

祭壇が作られていた。恵は誠と瞳を二階に

連れて行き、小母さんは悲痛な面持ちで

二階と台所を行き来した。

色付き始めた桜並木に覆われながら

車の隊列が静かに玄関で停まり、

先頭の車から叔父が降りて来た。

小父さんが客室から二組の布団を運んで

祭壇の前に敷くと父の遺体が奥に寝かされ、続いて母の遺体が玄関を跨いだ。

叔母さんは母の名前を呼びながら

遺体に泣きすがると、恵が誠と瞳を

連れて駆け降りて来た。

手伝いの方々は道を開けて恵達を見守り、

誠は異様な光景に怯えて身体を震わせ、

瞳が母を起こそうとすると

周りからもすすり泣きが聞こえてきた。

手伝いの大半は製材所の従業員で、

私達を知り尽くしていた。

瞳を抱き起こしながら、小母さんが

飛び掛るような形相で叔父を睨み付け、

周りも一斉に叔父を見入った。


叔父は木材所を営んでいて

父の製材所に建築用の原木を納入する傍ら、市内の数か所にも原木を出していた。

木材所は祖父が山間の谷間を拓いて創設し、製材所の設立に伴って父が製材所を営み、

祖父が逝去すると叔父が木材所を引継いだ。


 その日、叔父は朝一番で父を呼び出した。

製材所からは車で小一時間の距離で

父には慣れた道のリだったが、

出ようとした寸前に母も車に滑り込んだ。

儀叔母から“一緒に来るように”

連絡があったとの事で、電話を取ったのは

小母さんだった。小母さんは人目を憚らず、「学校がある日に、何の用で呼んだかね!」と、叔父に言い寄ったが、叔父は言葉に

窮して首を垂れるだけだった。見かねた

小父さんは、(子供達を連れて)

二階に行くように促した。


 葬儀委員長は町内会の会長で、喪主は

叔父と私が務める事になった。弔問客が

訊ねる度、叔父は事故の断片を述べた。…

父は、木材所からの帰りに

車の運転操作を誤って崖から落ちた事、

交通量の少ない山道で発見が遅れた事、

頭と胸部を強打してほぼ即死状態だった事、

ガードレールの無い下り坂のカーブで

スピードを落とさずに崖から

真っ直ぐ落ちたとの事だったが、…

私は信じる事が出来なかった。

慎重な運転をする父が狭い山道で

スピードを出すはずもなく、

母が同乗していたなら尚更だった。

何故事故が起きたのか、

何故学校のある日に母をも

呼び出したのか。高まる疑念の中、

私は堤防に続く道を踏みしめながら、

幸せを一瞬に奪い奈落に突き落とした

神仏を呪った。目頭は熱く燃え滾り、

漂う雲に、さざめく川面に

父と母の面影が浮かんでは消えた。

雪が解けた川岸には春の息吹が芽生え、

あざ笑うような春の陽光に私は父の

無念を描いていた。…


父は山村で育ち、中学校を終えると

家業の木材所を手伝った。

長男は家業を継ぎ、次男・三男は

大工や板金工などの見習いの為に

都会や街に出るのが通例だった時代。

中学校を出たばかりの父は

農繁期の合間に山に入り、伐採しては

馬に引かせて木材所まで運んだ。

その頃の父は何を思って山に入ったのか。

木材所の経営が軌道に乗って

村までバスが運行されるようになると、

父は街の定時制高校に通い始めた。

卒業証書を手にしたのは二十二歳の時で、

祖父の反対を押し切って高校に通った為、

その後、祖父とは不仲になったとの事。

何故そこまでして高校に通ったのか…

製材所の経営が順風になると、父は

建売住宅の販売に意欲を滾らせて街に出た。私達を大学に行かせる事と

良質の木材で庶民の手が届く

安価な住宅を造るのが父の夢だった。


第三節 「下町の暮らし」      

 

三分咲きの桜坂を恵は小母さんと登った。城跡の高台は『桜ヶ丘』の由来の通り

古い桜並木が丘の縁を包み、南側の裾野を

東から流れる一筋の川が街を二分している。

この坂を父の腕を引いて登る夢は砕かれて、恵は涙を堪えて登り切った。

急勾配の坂を小母さんは膝を抱えて登り、

その後を二組の家族が追付いた。

中学校は近隣の町との統合で

二人の女子生徒は初めて見る顔だったが、

母親達は通り過ぎ際に「滝川屋の!」と

小母さんを見て会釈した。左側手前の

木造の平屋が小学校で、東側奥の

鉄筋三階建てが中学校である。


翌々日、小母さんは

瞳の手を取って入学式に出た。

同じ幼稚園に通っていた子供達も居て

瞳は暫し笑みを見せたが、

母親に甘える子供達の様子に

瞳の顔は曇っていった。夕方、

恵と瞳の入学祝を兼ねて小母さんは

食卓一杯に御馳走を並べたが、

瞳にはどんな御馳走よりも母の

柔らかい胸、母の眼差しが欲しかった。

小母さんと恵は精一杯瞳をなだめ、

小父さんは不慣れな手付きで

形見のカメラのシャッターを押した。

多忙な父だったが家族の記念日に、

写真は欠かさなかった。


町営住宅は六畳の居間に、

六畳と四畳半の和室と狭い台所に

風呂とトイレが付いていた。

昭和四十年代の初頭、

風呂の無い家が大半だった時代、

風呂付の町営住宅は羨望の的で、

二十軒ある町営住宅の大半は

小・中学校の先生方と

役場の職員で占められていた。

然し、館で暮らしてきた私達には

小さな折りたたみのテーブルで

肩を寄せ合う食事は惨めだった。


一ヶ月が経った週末、

叔父は生活費を届けに来たが、

先日の車の侘びも述べないまま

“来月からは事務所に取りに来い”との

言い様に小父さんは怒って横を向いた。

にやけた顔で袋をかざすと、小母さんは

怒りに震えながら叔父に食って掛かった。

館は会社名義だったが父は私財の大半を

つぎ込んでいたし、製材所と木材所は

父と叔父が連盟で名義人になっていた。

小母さんが“唯一の身内である叔父が

甥子・姪子の面倒を看るべきだ“と

捲くし立てると、叔父はかざした手を

下ろして出て行った。車が去ると、

小父さんは怒りを顕にして“叔父に

頼らないで生活する“と言い、翌日、

私は自転車で街に出た。

(自転車は昨年の夏に手伝った褒美

として、父が買ってくれた変速機能の

付いた高価な自転車だった。)


…夏休みに入る前日の朝、父は戸惑う

母の顔を横目に「手伝いに来るかい」と

訊いた。会話が少なくなった父の依頼に、

私は嬉しさを隠さずに頷いた。初めて

父から認められたような喜びを胸に、

私は翌日から母の詰めた弁当を持って

父よりも早く館を出た。危険な作業は

させてもらえなかったが、私は体力には

自信があってアルバイトの高校生には

負けたくないと思いながら手伝った。

母は受験を心配して午前中だけと言うが、

私には良い高校に行って良い大学に入る

理由が理解できなかった。其れよりも、

母を通して父が褒めている事を聞くと、

嬉しさに一心不乱に働いた。

帰宅して木屑の着いた汗を流して

ソファーで足を伸ばすと心地良い

脱力感と達成感が身を包み、

恵は待ち侘びたように

カルピスやジュースを運んで来た。

そこには父に甘えるような仕草さは無いが、

恵は飲み干すまで待っていてお代りを

頼むと駆けるように戻って行った。…

                 

 夕方、小父さんが帰宅すると、私は

新聞配達をする事を告げ、小母さんは

“蓄えが有るから…”と言ったが、私は

運動の為だと言って小母さんを説得した。

翌朝、私は目覚ましが鳴る前に起きたが、

部屋を出る前に恵も起きて私の脱ぎ捨てた

パジャマを抱えながら玄関の鍵を開けた。

薄暗い坂道を登って配達所に着くと

店長が待っていて、私は店長の後から

重いペダルを漕いだ。

配達エリアは街の北側と下町で、

裏通りなど初めて通る道もあったが、

店長は一筆で回れるように分かり易く教え、家の前で励ましの言葉を掛けてくれた。


 自転車にフードを被せて玄関を開けると、

恵は絞ったタオルで瞳の顔を拭きながら

母のような目で振り返った。小母さんも

何度か瞳の顔を拭こうとしたが、

結局、その役目は恵が担った。

母の死は恵を急激に大人にして

母の面影、仕草を色濃く滲ませていた。

テーブルには館の食事と同等に

小母さんの丹精込めた食事が並んだが、

母の居ない暗さ・父の居ない不安が淀んだ。

小父さんと小母さんはコンクリートの

型枠造りの仕事に請われ、恵が誠と瞳を

連れて出ると家の中は急に静まり返った。

私は制服に着替えて再び長い坂道を登り、

学校の坂を越えて三階の窓際の机に着いた。授業は続いたがあの日から目の前の自分は

薄れ、私は動かない時間と雲を眺めていた。


恵が副委員長に選ばれて学級員バッジを

着けて戻ると、小母さんは喜んだが恵は

帰宅が遅くなる事を心配した。小母さんも

小父さんの仕事の補助として働きに出る為、

夕餉の支度は恵が担うからだったが、

委員会は一時間程で終わる事を告げると

恵はほっと頷いた。私も一年生から学級員に選ばれていたが、委員会への出席は委員長と副委員長だけで、委員会のある日(私は)

友人の委員長を待って一緒に下校していた。

一学年十クラスの中学校では部活も盛んで、

テニスやバレーやバスケット等に汗を流す

同級生を横目に私は小父さんを手伝った。

小父さんは館の広い敷地を一人で伐採や

草刈に励んでいて、初めは暇つぶしで見て

いたが無口な小父さんの人柄が分かると

私は遊び半分に手伝うようになった。


広い敷地で草は刈った後から伸び出し、

新芽は瞬く間に枝になる。毎日が単純な

作業の繰り返しだったが、学園紛争や汚職

事件等、混沌する世相の中で受験勉強から

離れて無心に汗を流す事は心身ともに爽快

だった。そして小父さんが“凡のお陰で”と話す時、私の心身は満たされた。又、

小父さんの作業の手伝いは、何時しか

校内でも評判の腕力を培っていた。今年は

町道に面した垣根を白いペンキで塗って、

桜の咲く頃には庭を開放する予定だった。                     


 土曜日の午後、玄関の戸を開けると

恵が制服姿で青ざめて立っていた。

誠と瞳のランドセルが見当たらず、

先日小父さんに買ってもらった

補助輪付きの自転車もそこにあった。

恵は近所を探しに飛出し、私は

制服姿のまま学校へ探しに戻った。

学校の坂で保護者の一団に会って、

誠の教室を覗くと授業参観を終えた

母親達が振り向いた。


下町の外れまで隈なく探して戻った恵に

「館に行ったのかもしれない」と言うと、

恵も納得気に頷いた。館に行こうと

ペダルを踏んだ時、誠が瞳の手を引いて

坂の上に現れた。恵は行き掛けたが、

私は恵を制して自転車を片付けた。

テーブルには小母さんが用意した

昼食が蝿避けの中に入っていた。

洗面所で汗を拭いていると、玄関から

“お帰り”と、優しく包む声がした。

生気を失せた瞳の顔は青ざめ、恵は制服の

まま瞳を抱き寄せて母のように頬擦りした。

遅い昼食が済んで恵が自転車を引いて二人を連れて出ると、私は仰向けになって天井を

見入った。生きる希望を失せて、何も手に

つかない今、非情な叔父夫婦の仕打ちは

憎しみを倍増させて怒りは容易に冷めな

かったが、自分はどう生きるべきなのか

と思うと涙は次々と溢れてきた。


その夜、誠と瞳は風呂にも入らず寝入り、待ちかねた小母さんに恵は話し出した。

三時限目から母親達が集まり出すと、

ガラス越しに親子の対面が始まって、

休み時間、席に着いていたのは

瞳ともう一人の男の子だけだった。

四時限目が始まり、瞳は幾度も

振り返ったが母の顔は現れ無い。

瞳の番になって先生は名前を呼んだが、

瞳は返事も、立つ事も出来なかった。

四時限が終わると、先生は瞳の教科書を

鞄に入れて集団下校の輪の中に連れて来た。

誠が“館に行こうか”と言うと、瞳は

ようやく顔を上げて頷いた。溢れる涙、

抱きしめてくれる父と母が居ない悲しみは

誠の胸にも深く突き刺さっていた。


 製材所に着いたが

窓のブラインドは降ろされていた。

瞳がドアを開けて“おかあさん!”と

薄暗い事務所に飛び込むと、

振り向いたのは知らない顔だけだった。

しょげる瞳の手を引いて、誠は

館の桜並木を駆けて玄関のドアを叩いた。

丸々と太った従弟の明が

驚いた顔でドアを開けると、瞳は

靴を脱ぎ捨てて食堂に入って行った。

返ってこない返事に瞳は泣きながら

螺旋階段を上り寝室を覗いた。

(誠は玄関で唇を噛み締めながら、

明の揶揄する言葉に耐えていた。)

瞳が階段を降りて来ると一階の客室から

パジャマ姿の義叔母が出て来て、

悪夢を見たような冷たい目で瞳を見入り、

明を抱きかかえて震えていた。…と言う。

瞳は義叔母に顔を向ける事も無く

階段を抜け殻のように降りて来た。


 恵がそこまで話すと

玄関から「今晩は」と声がして、

小母さんは涙声で返事をした。

先日、荷物を運んで頂いた鈴木さんだった。

坐を外そうとすると「坊ちゃん」と言って、

鞄の中から父名義の通帳と印鑑を出し、

“力不足で今の状況になってしまった事”

を侘びながら深々とお辞儀をした。

「何かあったら」と言って、鈴木さんは

お茶も飲まずに名刺を置いて去って行った。真新しい名刺には不動産会社の名前の他、

裏側には取り扱い業務等が記されていた。


「凡、いいかい」と言って、

小母さんは通帳を引き寄せて開いた。

驚くほどの額ではなかったが、

当座の足しにはなる金額だった。

小母さんは恵に通帳を仕舞わせて、

恵が戻ると話の続きをさせた。

…誠は放心状態の瞳の手を引きながら、

自分に言い聞かせるように“爺も婆も居る、これからは兄ちゃんがお父さんで、

お姉ちゃんがお母さんだぞ”と、瞳が

頷くまで、何度も何度も繰り返しながら

帰って来た…との事だった。

小母さんは涙を拭きながら

「奴等が殺したのも同然なのに」と、

叔父夫婦を罵った。


下町の太陽 泣く時

悲しみは胸深く 突き刺さる

今日も又 明日も又

涙が僕を待っている


下町の太陽 いつの日

幸せに再び 会えるのか 

父も今は 母も今は

帰らぬ幻よ


下町の太陽 笑う時

悲しみに又 耐えられる

喜び悲しみ 共々に

分かち合う夜空の星


第四節 「宗教との出会い」


連日報道される学生運動や労働運動も、

東北の田舎町には無縁だった。

何故なら大学まで行かせられる家は稀で、

組合があるような企業に勤めている人も

居なかったからだ。

大小の製糸工場の匂いが薄れると、

そこかしこからメリヤスを編む

音が聞こえるようになった。

町で一番大きな建物は学校下南側にある

バドミントンの木工所で、中心街には

八百屋、魚屋、雑貨屋、靴屋、呉服屋等が

軒を並べ、街の裏通りには工務店や石屋等が点在して羽振りを利かせていた。新聞を購読しているのは自営業を営んでいる家々で、

下町では町営住宅の数件だけだった。


 平日、父は居間の机で新聞を広げ、

読み終えた新聞を事務所に持って行ったが、休日は新聞をめくり返しながら

恵と瞳が起きて来るのを待っていた。

恵が運んで来るお茶と、

瞳を捕まえて頬擦りするのが

父の一番の楽しみだったからだ。

私達は両親の大きな声を聞いた事は無く、

下町に来てからは近所で、又は路上で、

子供を叱る大きな声を聞くと

誠の顔は曇り、瞳は泣き出した。


父と母の馴れ初めは、高校を出て木工所の事務員になった母が、ラケット用の板を納品しに来た父に出会った事から始まった。

父は初対面だったが、母は高校生の時から

定時制の教室に入る父を見かけていた。

祖父は村一番の資産家との縁組を望んだが、父は母と結婚する為に家を出た。


 誠が産まれる前、母は

「お前がお腹にいた時、お母さんも

旋盤で板を切っていたのよ」と、

お腹を撫でながら嬉しそうに話した。

建築ブ―ムが到来すると、製材所は

叔父の木材所からの入荷だけでは

間に合わない程忙しくなり、

隣接する家は四六時中騒音に包まれたが、

母は何時も私達を見守っていて、

私達に会話は不要だった。


 母は、瞳を背負い、誠をあやしながら私の

宿題を看て、傍で小学校に入る前の恵が

真剣な顔でノートを覗いていた。高学年に

なると算数を教えるのは父の役目になり、

恵は理解出来ない箇所があると悔しさに

涙を溜めた。父が直接教えたのは私だけで、恵が高学年になると父の役目は私で、

恵は誠の宿題を看た。“年上の者が下の

者の面倒を看る事、男の子は男らしく、

女の子は女らしく”それが父の唯一の教え

だったが、広い館で遊び疲れた誠を机に

座らせる事は容易ではなかった。


私は進学の決心がつかないまま

進学希望者の為の補習授業を受けていたが、同級生の凡そ一割は高校進学を断念し、

彼等は補習授業を横目に下校した。

金の卵と言われて東京に行く者や

大工や美容師の見習など、経済的事情で

進学を断念する姿は悲愴だった。時代は

高度成長の兆しを見せてはいたが、その恩恵からほど遠い地方の家業を持たない家々では“せめて高校だけは”と父親は出稼ぎに出て、母親は内職をしながら骨身を削っていた。然し、近隣の商業系の高校止まりで、市内の

進学校に通わせる家庭は希だった。益して、下町では子供心にも早く親を楽にさせたい

との思いが先立って、大学進学など夢にも

描く事はなかった。反面、資産家は更に蓄財を増やし、子息を大学まで行かせていた。


本人の努力や能力よりも産まれた家、

育った場所で人の一生が決定される世の中、学歴・金権が当たり前の世の中、私は

そんな世の中の矛盾に反感を覚えた。

そして、学生運動がエスカレートして

機動隊との攻防が報道されるようになると、いかなる事由であれ、社会に迷惑を掛ける

行為が許し難く思えた。益して、その様な

彼等が政治や経済界の指導者に為るのかと

思うと、遣り切れない憤りが込み上がった。


親の居ない子供にとって雨の日曜日は

暗さが増し、晴天の日曜日は天を呪った。

夏休みに入って恵は朝から誠と瞳の面倒を

看ていたが、以前の笑顔は戻って来ない。

夏の暑さは睡眠を妨げ、恵の愛らしい頬は

痩せこけて肌は白く透き通っていった。

心配気に小母さんに聞くと、「女になった

からだ」と意味ありげに言う。受験生の私を気遣って、小父さんと小母さんは風呂から

上がると早目に部屋に引いた。身の入らない予習・復習を終えてテキストを閉じると、

傍らで恵も教科書を閉じる。張り詰めた

空気が漂い続いたが、私にはどうする事も

出来なかった。


土曜日の午後、授業を終えて戻ると

珍しく小母さんが家に居た。

小母さんが居るだけで昼食は和み、

恵の顔にも安堵の色合いが見え、

危な気な瞳の手伝いも愛らしく思えた。

新興宗教の方が話しをしに来るとの事で

小母さんは同席するように言ったが、

私の胸奥には両親を見殺しにした

神仏への怒りが続いていた。


来客の気配がして起き上がると、

白い半袖ワイシャツにネクタイをした

端正な顔立ちの青年と人の良さそうな

ご婦人が玄関に顔を並べ、

青年は私に明るく挨拶をした。

父と母のお墓は坂道を登った天神様の

後ろにあり、お寺は坂の中腹にあった。

お寺を通ってもお墓に行けるが、

私は神社の大鳥居を潜った。

拝殿の前は広場で、その下には小さな

川が流れていて下町の奥で合流する。

広場でソフトボールをする小学生を横目に

私は真新しい墓石の前に立った。


“蓄えが有る”と言うが、小母さんは

慣れない肉体労働に耐えていた。私には

長男として妹達の面倒を看る責任がある、

高校に行かずに働くべきではないか、

どう生きるべきなのか、何をすべきなのか、

お墓の右奥には先客が居たが、私は

人目を憚らず涙を落とした。


拝殿裏の木陰で時間を過ごして戻ると、

開け放れた入り口から小母さんの笑い声が

聞こえて来た。振り向いた四人の顔を尻目に、私は通り抜けて隣の部屋で寝そべった。

程なく来客が帰ると恵はかゆみ止めを持って側に座り、母のように私の首から手、手から足に塗る。続いて誠と瞳が帰宅すると恵は

濡れタオルで瞳の顔や手を拭き、絞り直して誠の顔を拭いた。


日暮れ時、小父さんが帰宅して間もなく

「今晩は」と、聞き覚えのある声が玄関に

立った。瞳を手招きで呼び寄せて菓子折を

渡すと、「坊ちゃん進路は決まりましたか」と尋ね、首を横に振ると鈴木さんは

心配気な面持ちで小さく頷いた。

小母さんは上がるように薦めたが、

励ましの言葉を掛けて出て行った。    

父に並々ならぬ世話を受けたとの事だが、

心温まる激励は爽やかな風を運び、   

私は湯上りの小父さんに扇風機を向けた。


恵は小母さんと一緒に信仰を始め、毎晩、小母さんと小さい仏壇に手を合わせた。…

見る見る、恵の頬には赤みが戻り、言葉も

仕草も明るくなっていった。中学生に

宗教の教義が理解出来るはずも無いが、

恵の内面は明らかに変わっていった。

(経典には“仏になる道は難信難解なり、

知恵第一の舎利佛でも理解不可能である“

と記されているように、理解して信仰に

入る人は希で)下町の人々は生活の苦しさや

病から脱却すべく新興宗教に入っていった。


第五節 「転機」


二学期に入り、            やる気のない補習授業を終えて帰宅すると、私は何時ものように川原に散歩に出掛けた。堀に沿って進めば堤防に突き当たるが、

その日は何気なく本道に足が向いた。

沈みかけた夕陽を背にして

一台の自転車が通り抜けた瞬間、

私の足は止まり、両の眼から涙が溢れ出た。何故涙が溢れるのか、頬を伝わる涙を

感じながら私は来た道を戻った。


すれ違った方は作業衣を着た片足の方で、残暑の中を必死にペダルを漕いでいた。

窪みの多い路面は健常者でも危ういが、

片足だけでスピードとバランスを保つ事は

至難な事だろう。必死にペダルを漕ぐ姿、

精一杯生きざるを得ないその姿が私には

眩しく、美しく思えた。そして、両親を

失った絶望を理由に、妹にさえ甘えて

生きている自分自身が恥ずかしく思えた。

悶々とした怒りや悲しみや悩みが萎んで

“世相や環境が如何様であれ、

自分は自分らしく精一杯生きれば良い、

生きなければならない”と決意すると、

夕陽は赤々と顔を染めた。


上がり框に足を掛けると恵が

誠の宿題を見ながら洗濯物を畳んでいた。

恵が心配げに覗き込んだが、

溢れる熱い涙は神仏への憎悪も消えて

私は初めて遺影の前に座った。そして、

強い五体を与えてくれた両親への感謝と

自分らしく精一杯生きていく事を誓った。

振り向くと恵の目にも涙が輝いていて、

訳を言おうとしたが、恵の涙は

嬉し涙だった。その夜、私は瞳の

肩越しに伸びて来た手を包みながら

浮き上がる天井板の木目に

片足の方の姿を焼き付けた。


放課後、私は職員室を訪ねて

少年自衛官採用試験の受験を申し出た。

十五歳未満の少年を対象にしていて、募集

人員は陸上自衛隊が四百五十名、海上自衛隊が百五十名、航空自衛隊は百名だった。

少年自衛官は若い時期に高度な技術を

習得させる為に設立され、給金を

頂きながら高卒の資格が得られ、

四年間の教育課程を修了すると

下士官として部隊に配属される。

採用の倍率が高い事と規律が厳格な

自衛隊の生活には一抹の不安もあって

躊躇していたのだが、私は“我が身をやらざるを得ない環境に置く事”を決心した。


町役場で採用試験の願書を受け取ると、

翌日、自衛隊のジープが下町に遣ってきて、“倍率が高いので普通高校も受験すべき”

とのアドバイスを残して行った。

担任の教諭からも同様の助言を受けたが、

目の前には少年自衛官への道しか無かった。学歴・金権社会への反感や

小父さん・小母さんの経済的負担、

恵達の進学のこともあったが何よりも、

一生懸命に生きざるを得ない環境が

欲しかったからだ。


少年自衛官の採用試験は五科目で

八十点以下が一科目でも有ると

合格出来ないと聞いて、私は

藁半紙を購入して苦手な英語と国語を

中心に半狂乱の受験勉強を始めた。

藁半紙に単語を書き出しては襖に貼り、

覚えては剥がして又貼った。

面白半分で見ていた誠と瞳にも

私の真剣さが伝わり、日増しに

部屋中に緊張感が高まっていった。

私が風呂から出ると

小父さん・小母さんは布団に入り、

静まり返った居間のテーブルで瞳を

寝付かせた恵は教科書を開いていた。

受験勉強は睡魔との戦いでもあり、私は

太腿を叩き、立ち上がっては眠気を払い、

覚え難い箇所は手の甲や腕に書いた。

死に物狂いの私には恥ずかしさも何もない。


秋風が木枯らしを運び、朝は

凍てつく暗闇との闘いでもあったが、

私は未だ新聞配達を続けていた。恵に

起こされる事が続くと、小母さんは

新聞配達を辞めるように言ったが、

私は坂を駆け上がり、山を染める朝陽に

希望を抱いた。配達を終えて戻る頃、下町の朝は白みはじめ、小母さんと小父さんは

着こなした厚手のズボンにセーターを重ね、軍手を履いて仕事に出掛けた。

 

 下町に限らず、現金収入に乏しい

東北の田舎ではその日暮らしの家庭が多く、貧しさは家族の愛をも蝕み、不幸の連鎖を

産んでいた。私達は小父さん・小母さんに

守られながら、館での生活には程遠いものの

漸く穏やかな日が続いていた。誠は食べ

過ぎてお腹を壊し、瞳も時々熱を出して

いたが二人は学校を休む事は無かった。

それは、恵が学校での出来事を聞きながら、明るく学校に行く事が父と母の願い

である事を言って聞かせていたからだった。


涙拭う日まで  僕の青春は続く

陽は落ち    月は欠け

暗闇みに震え  涙は溢れても

面影の中に   希望は昇る 

 

第六節 「旅立ち」


霙降る薄暗さの中、

裏通りの轍にハンドルを取られながら

何時ものように奥に入って行くと、

道路に面した平屋の前には未だ洗濯物が

干されていた。夏休みに見かけた二人の

幼い子供は深い暗闇の中に居るような

顔をしていて、小母さんに訊くと父親が

精神科に入院しているとのこと。以来、

私は家の前を通る度に二人の将来を案じた。貧困は人の心を蝕み更なる不幸を産むのか、人の一生は生まれた環境で決定されるのか、一度アリ地獄に填まった者に希望の日差し

が届かないならば神仏は無慈悲である。


年の瀬も小父さん・小母さんは仕事で、

恵は街を三往復して正月用の食材を揃えた。茶ダンスにショートケーキが飾られると、

瞳は食入るように覗きながら背にもたれた。

瞳は苺で、愛らしい髪を撫でながら

「爺・婆と一緒に食べようね」と言うと

瞳は頷いて台所に戻った。(ご飯が食べ

れなくなるから)と言う母の目を霞めて

父は瞳にお菓子を与え、無邪気な瞳の

笑い声が響くと母は顔をしかめて見せた。


私達の誕生日には勿論の事、母は

度々ケーキを焼いた。クリームが苦手な

私は市販の着飾ったケーキよりも

母の焼いたスポンジが好みで、匂いが

漂うと瞳は母の傍を離れず、恵は

スポンジの切れ端を運んで来てくれた。

昨年のクリスマスにも、母は

ケーキを焼いて事務所に届けたが

(子供が居る方は事務所では食べずに

持って帰るとの事で)母は

小分けにしたケーキを恵と包んでいた。


年が明けると、

クラスでは志望校の噂が飛び交っていた。

市内の進学校を受験するのはT君とS君で、断トツの成績で人望の厚いAさんは地元の

高校だった。Aさんは奥まった寒村から

自転車通学していて、地理的・経済的にも

市内の進学校には通えないからだった。

企業は、何故、学歴に拘るのか、僅か

四年の知識にどれ程の価値が有るのか、

一日や二日の採用試験で

人の潜在的能力の何が計れるのか。

私は金権・学歴社会を増長する

世の中の仕組みを恨み、

更なる格差や不公平を産んでいる

労働運動に憤りを感じた。

行過ぎた商業主義が氾濫し、

それらを煽るようなマスメディアの

無責任さが許し難く、私は

世の中を変えなければならないと思った。

(純真無垢な少年が百人集まれば

世の中を変えられるのではないか)

まだ見ぬ仲間への期待が高まった。


二月、市内の自衛隊地方連絡所で

少年自衛官採用の一次試験が行われると、

二次試験は翌月、商都の駐屯地で行われた。試験に合格したものの受験勉強は両眼を

真っ赤に染めて、“春季カタル”の診断を

受けた。入隊時までに治す事が条件で、

入隊に反対していた小母さんも

必死に眼の完治を祈った。


 入隊日は三月下旬だったが

私は未だ新聞配達を続けて、

玄関先から人々の暮らしを眺めていた。

何でもお金で買える時代、

人々はマスメディアに煽られながら

三種の神器を求めていたが、

お金の為だけに職業に就く生き方には

納得がいかなかった。現に、

教壇で生き生きと教鞭を執る若い先生と、

やる気のない教師を目の当たりにすると、

適正に乏しい者がその職業に就ける

社会の仕組みに怒りさえ憶えた。

給金は職業の如何では無く、

仕事への意欲に支払われるべきではないか。働かなくても食べていける社会よりも、

一生懸命に生きれば誰でも自分らしい人生

が送れる社会こそが公平な社会ではないか。

どんな職業に向いているかは分からないが、どう生きるべきなのかは明確だった。


 一周忌に義叔母の姿は無く、叔父も席に

就かずに退席した。小母さんの険しい目と、

席の一角を元従業員が占めていたからだ。

事務所は母が築いた砦で、母は

任せた仕事に口を出す事はなかったが、

困った時は母が対応した。二人で育てた

製材所で、父と母は従業員の方々と家族の

ように過ごした。昨年の夏、母は(私とは

距離を置いていたが)バイトの高校生達に

おやつを手配りして、数が足りると子供の

居る方の下駄箱に包みを入れた。然し、

事務所では従業員第一の母も(私が帰ると)小走りに玄関に出てエプロンのポケットから目薬を出した。そして、香りのするハンカチで私の顔を拭きながら「お母さんも板を

切っていたンだよ」と言う。私には汗にまみれ、切粉にまみれた母を想像する事はできなかったが、少女のようにはみ噛みながら話した母の顔が忘れられない。母がハンカチを

舐めると誠と瞳は嫌がったが、私は母の香りを嗅ぎ続けていた。


 夕方、小母さんは涙を溜めながら赤飯を

炊いた。私は豆の食感が苦手で赤飯は嫌い

だったが、小母さんの気持ちを飲み込んだ。

恵も数日前から急に口数が減って、笑顔が

消えていた。風呂から上がると恵は旅行鞄

から目薬を取り出して私の前に屈み込んだ。

春季カタルは全治していたが、恵は右目の

下瞼を押さえて目薬を注した。滴が広がって

眼を開けると、恵の目から暖かい涙がこぼれ落ちて私の頬に伝わった。恵は左の目にも

一滴を入れて立ち上がったが、私は暫く

眼を閉じていた。


事情を飲み込めない誠と瞳は

新学年への希望を抱いて寝入ったが、

私は恵への後ろめたい思いや

新しい仲間との出会いに

胸が高鳴って寝付けなかった。…

翌朝、私は恵の声で跳ね起きた。

肌寒さが残る晴天の朝、恵は

何時もと変わらない表情で挨拶して

誠と瞳の声が続く。仏壇の前に座ると

恵は急いで誠と瞳を呼んで一緒に座らせた。 


想い出を消しながら

私は小父さんの後からホームに立った。

久し振りのお出掛けにはしゃいでいた瞳も、

表情を変えて階段を登って来た。

ベンチで瞳の面倒を頼むと、

誠は神妙な面持ちで頷いた。

切り裂くように警笛が鳴り響き、

窓越しに小母さんが声を掛ける。

見つめる恵の目、涙ぐむ誠と瞳の姿が

小さくなると小父さんは鞄を棚に上げた。


大宮駅で乗り換えて籠原の駅に降りると、広く長いコンクリートの道が真っ直ぐ

航空自衛隊第四術科学校まで続いていて、

「航空自衛隊生徒課程」の看板も

そこに掲げてあった。本部庁舎の前には

芝生の広場が開け、生徒隊の庁舎は

広場奥の桜並木を登った先にある。


第二章 「隊列の中で」

第一節 「少年自衛官」       

                    三階建の白い庁舎が南北にそびえている。

私達は一旦、庁舎前の広場に集結した後、

最終の身体検査に臨んだ。

身体検査にパスした者は

支給された作業服に着替えて広場に戻り、

身体検査にパスしなかった者は

付き添いの父兄と共にバスに乗った。

別離の時、去り行くバスの中から

無数のハンカチが振られ、

私達はそれを呆然と見送った。

区隊分けの呼称が始まり、

百五名の生徒は三つの区隊に分けられた。

私は一区隊の一班で、

一階の北側出口傍の部屋だった。

コンクリートの床の部屋には

スチール製の二段ベッドが八組あって、

私のベッドは入り口の下段だった。


廊下を挟んで居室の向かい側が自習室で、窓の外には生徒隊の広場が広がっている。

未だ名前も知らない同期生と

一緒に風呂に入り食事を終えて戻ると、

区隊長は私達を屋上に集合させた。

「今日から私をお父さん・お母さんと

思ってついて来るように」、下弦の

月を背にして予備自衛官第一期生の

K区隊長の第一声が染み渡った。

消灯ラッパが鳴り響いて明かりが消えると、

個々かしこからすすり泣きが聞こえてくる。決心して親元を離れてきたとは言え、

私達は中学を卒業したばかりの少年だった。


起床ラッパの音に

夢中で着替えて朝礼場に集合すると、

右側には一回りも、二回りも大きな二年生・三年生が並んでいた。一年生の各班には

三年生の中から選ばれた指導生徒が就いて、朝の六時から課業が始まる八時までの間、

ラジオ体操・駆け足、ベッドメーキングや

靴の手入れ等の指導を受けた。生徒隊

(少年自衛官)の鉄則は“連帯責任”で、

呼集等に遅れると区隊全員

(又は一年生全員)で罰を受けるが、

体罰は無く・指導生徒自らが罰を課す。

(大概は腕立て伏せで、私達は

“先輩すみません、すみませんでした”

と連呼しながら指導生徒に続いた)

指先の不器用な私は着替えや毛布の整頓に

手間取って遅れがちになる事が多かったが、慣れてくると暗がりでも素早く

着替えられるようになった。

然し、分刻み・秒刻みの日課に堪えられず、

入隊式を待たずに親元に戻る者もいた。


 入隊式の朝、

咲きかけた桜の枝に季節外れの雪が舞い、

一面は春のドカ雪に覆われた。

ブルースカイに七つボタン、

制服の袖と肩と帽子には白線の環が入り、

襟には金色の候補生バッジが輝いている。

慣れない手付きでネクタイを結んで

講堂に参列し、私達は「第十五期

航空自衛隊生徒」の任命を受けた。

(安田講堂における紛争は治まったものの

未だ大学紛争は続き、巷では反戦の

フォークソングが流れていた)

『私は、我が国の平和と独立を守る

自衛隊の指名を自覚し、

日本国憲法及び法令を遵守し、

一致団結、厳正な規律を保持し、

常に徳操を養い、人格を尊重し、

心身を鍛え、技能を磨き、

政治的活動に関与せず、

強い責任感をもつて

専心職務の遂行に当たり、

事に臨んでは危険を顧みず、

身をもって責務の完遂に努め、

もって国民の負託にこたえる

ことを誓います』

覚えたての“服務の宣誓”を唱和しながら

私はいつの日か、この仲間と供に

革命の旗を翳したいと思った。


部活の勧誘を兼ねて歓迎会が催され、

(自衛隊ではラクビーが花形との事で、

K区隊長はラクビー部への入部を勧めたが)私は指導生徒のM先輩に憧れて

柔道部を選んだ。

M先輩は柔道部の主将だったが、

百m・二百mの県記録保持者でもあり、

長身に聡明なマスク、男らしい胸板に

私は畏敬の念以上のものを感じた。


数日後、私達はバスに揺られて

浦和高校での入学式に臨んだ。

航空自衛隊の生徒課程は若い時期に

高度な技術を習得させる目的で設けられ、

私達は浦和高校の通信制生徒と

少年自衛官の二つの身分を兼ねる。

隊内には専属の教官が居て、

授業は基地内の教室で

普通の高校と同様に行われた。

普通の高校との違いは、

必須科目以外の時間に

自衛隊特有の教練を行う事で、

不慣れな新入生にとって日々の生活は

分刻み、秒刻みのスケジュールであったが、そこには巷で噂されるようないじめも無く、

尊敬出来る先輩と仲間が居た。

月に一度は基地全体の合同朝礼があって、

私達(生徒隊)は

ブルースカイの制服に着替えて臨む。

三年生、二年生、一年生の順に隊列を組み、

隊歌を歌いながら朝礼場までの

桜並木を進む様は壮観だった。


第二節 「革命の夢」


キャペルで大隊長の精神訓話があった。

キャペルは在日米軍が駐留中に建てた

長い木の机が階段状に並んだ階段講堂で、

机の落書きは“本宮先輩”書いたもの

だと聞かされると私の胸は躍った。

破廉恥な少年雑誌が出回る昨今、

少年を題材にした本宮氏の漫画は

純粋・爽快で、私は本宮氏の漫画

のように(無垢な少年達が結束して)

金権・学歴社会を打破し、過度な欲望

に走る社会を変えられないかと思った。

本宮先輩も同じ気持ちで画いたのだろうか、…隊列の中で“この百人の仲間とならば

革命が起こせる”(チェ・ゲバラのように

殉教に生きよう)と思った。


合同朝礼場の傍には

ジェット練習機が展示されていて、

制服姿の写真とお金を同封して送ると

恵から手紙が届いた。

“送金は無理をしないで、

誠が瞳の面倒を見るようになった事、

暖かくなって小母さんの膝が

良くなってきた事、そして、

境遇に負けないで”と書かれていた。

生活は一変したが、恵の心配とは裏腹に、

私の魂は歓喜で漲っていた。何故なら、

そこには畏敬の念を感じさせる先輩方と

肉体的・精神的にも一回り大きく見える

仲間が居たからだ。然し、片足の方との

出会いがなければ、今、自分は此処に

居ない訳で、結局、それは父と母の導き

だと思うと目頭が熱くなった。


私のベッドは入り口傍の下段で、

部屋には二段ベッドが八組置かれている。

各都道府県から二・三名ずつ募った生徒は

それぞれの区隊に分けられたが、

同郷の者同士が寄り合うと

それぞれの方言が飛び散る。

そして方言の違いと同様に、そこには

その地方ならではの気質が現われていた。

同県人のN君は浜育ちで私とは

方言が異なっていたが、それでも

他県人から見れば二人は同県人だった。


中間テストの結果が貼り出された。

(少年自衛官は官費で運営されている為、

六十点以下が二科目以上有ると

親が呼び出されて退学になる)

自習時間は消灯前の二時間だったが、

反省録(一年生はノートに一日の

反省等を記入して区隊長に提出する)

の作成などもあって、作文の苦手な者には

時間が足りなかった。又、ラグビー部は

自習時間にボール磨きをする事が多く、

彼等は消灯後に毛布を被って懐中電灯の

明かりが洩れないように勉強をしていた。

寒い夜は毛布を重ねるが、

疲れた身体は足先の温もりも待たず、

恵の顔を思い出す間もなく眠りに就いた。


土曜日の午前中にも課業があって、

午後は部活だった。部活を終えて

柔道着を洗うのが毎週の日課で、

洗面所の洗い台は順番待ちになる。

洗濯物の干場は屋上で

晴れた日は上州三山が見えたが、

二年生・三年生の先輩に

出会うかもしれないと思うと、

一年生には景色を眺める余裕は無かった。

日曜日は三年生の当直の方を除いて

先輩方は外出したが、一年生は

入隊して半年間は外出が出来ないため、

手紙を書き、仲間と団らんをして過ごす。

図書室には父兄やOBから寄贈された

世界文学や日本文学全集等が並んでいて、

私は分刻み・秒刻みの日常の中で

時間があれば本を読み漁った。

自分らしく一生懸命生きようにも、

“自分とは何か”が分からなかったからだ。恵が手紙で伝えてきたI先生の推奨本も

片端から読んだが、十五才の私には

作者の本意を理解する事も、

自分を見出す事も出来なかった。

然し、親の威光に守られ、立身出世

を目指す東大生等には負けたくない、

世の中を変える力が欲しい、

私はホイットマン詩集に自分を鼓舞し、

それでも挫けそうな時はジャンクリフトフの

“今、しなければならないことをせよ”の

一節を思い浮かべて鍛練の日々を過ごした。


第三節 「新たな道」


自由主義に名を借りて

世相は益々混沌として行くように見えた。

他者への慈愛の無い政治・経済・教育は

金権社会を増長し、傲慢な利己主義が

一人歩きをしていた。

子供向け雑誌は露骨さを増し、

風俗店は公然と乱立して、巷では

スケバン・グループなるものも現れ、

少女らしさ、人間らしさが次々と

失われていた。

政治は何の為にあるのか、

経済は何の為にあるのか、

教育は何の為にあるのか。

高度経済成長の下、都市部の

暮らしは豊かになっていったが、

理念無き政治、経済、教育は

社会と人を欺くだけで、混迷は

より深まるように思われた。

…目まぐるしく移り変わる世相から離れて

私は隊列の中で“自分”を模索していた。…


夏休みの前には水泳訓練があり、

海岸傍の小学校の体育館に寝泊まりして

館山の海岸を二・三時間泳ぎ、

その後は手旗信号の訓練が行われた。

水泳訓練から戻るとお盆を挟んで

二週間の夏休みで、自習室には

国鉄の臨時切符売り場が開設された。

家族の顔を思い浮かべながら

乗車券や特急券を購入したが、

北海道から種子島まで、

各都道府県から二・三名ずつ募った

同期生の中には帰省を諦める者も居た。


買い揃えた土産を鞄に詰めて、

私は大宮駅で特急電車に乗り換えた。

自由席車両のデッキは人と熱気で溢れ、

制帽を脱いで額の汗を拭くと、一瞬、

周りの目は頭に注がれたが、私は

前を見据えた。巷では長髪が流行る昨今、

私達一年生は青々とした五厘刈りで、

二年生は五分刈リだった。

過ぎ去る駅にもどかしさを感じながらも

故郷の山々は近づき、郷の訛りが

濃いホームに降りたった。

上町のバス停は

天神様の二百メーター先にあり、私は

皆の笑顔を詰めた鞄を抱えて坂を下った。

夕暮れ間近の台所には一足早い明りが灯り、家影から誠と瞳の顔が覗いた。

手を挙げると二つの顔は笑いながら

玄関の中に消えて、台所から

小母さんと恵が出てきて迎えた。


土産を広げて仏壇に手を合わせるや否や、

夜を待ち兼ねたように、小母さんは

恵の進路の話を切り出した。

中学を出て準看に為ろうとする恵に、

小母さんはせめて高校を出てからと

説得する。小母さんは寮に入る事と、

夜勤の補助が有る事が心配だった。

小父さんも“嬢、高校を出てケロ”と

哀願していた。


あの日以来、小母さんは

毎月行っていた温泉にも行かず、

慣れない肉体労働に就いていた。

恵が高校に通えば、小父さん・小母さんの

経済的負担は更に大きくなるのだろう。

恵の考えは理解出来るが、父・母が居ない

今、誠と瞳には恵が傍に居る必要があった。戸惑う恵に、私は「高校に行け!」と

命じると恵は頷いた。


私の机があった場所には

中古の大きな仏壇が置かれ、

前には父と母の遺影が飾られていた。

私は手を合わせて、自分の選んだ道が

正しかった事、父と母の導きに感謝した。

風が入らない寝苦しい夜、

足元に置いた扇風機が空しく首を振る。

(館では居間が一番涼しい場所で、母は

誠と瞳に昼寝をさせて団扇で扇いでいた。)

三種の神器が持てはやされる昨今、

白黒のテレビも惨めだったが

父の居ない不安、母の居ない寂しさは

それ以上である。瞳が寝返って細い腕が

私の首を捲いた。あどけない可愛さは

以前と変わらないが、父に抱えられて

“ケラケラ”と笑う、あの天使のような

笑みはもう戻らないのだろうか、

頬を伝わる涙に私は瞳の幸せを祈った。


 翌日、スイカを食べ終えると

瞳を膝に乗せて学校での様子等を聞いた。

瞳は馴れない膝の上で照れていたが、

私は扇風機の風から守るように

瞳のお腹に腕を絡めた。背は伸びたが

赤ん坊のような肌としなやかな

女の子特有の骨格は以前のままだった。

瞳は産まれる前から“瞳で”皆に

見守られて産まれてきた。歩き始めると

瞳は母の近くで隠れて遊び、母が見つけて

抱き上げるのを待っていた。見つけたのが

父だと瞳の笑い声は家中に響き渡った。

あの日の笑顔は二度と戻らないが、

“瞳の顔を曇らせてはならない”

と思う気持ちは誠であれ皆同じだった。

 

下着を脱いで身体を拭いていると

洗顔から戻った誠は私の身体に見入り、

壁に架かった制帽を見上げた。

(筋肉質の肉体は更に引き締まっていた)

制帽を被せてやると瞳は声を上げて笑い、

恵も振り返って笑みを見せた。昨日

帰宅した際、私は誠の肩に手を掛けて

「マぁちゃん、只今」と、声を掛けた。

(母が居ても、父は最初に私に声を掛け

隠れた瞳を見つけて抱き上げた)


 盆の入り、日差しが眩しく照らす中、

小父さんと小母さんは仕事に出掛け、

恵は誠と瞳に手伝わせて布団を干した。

私は市内での買い物や食事を申し出たが

恵は洗濯や布団干しを理由に渋ったため、

仕方なく街に連れ出る事で折れた。

あの日以来、“恥ずかしいのは

一生懸命生きていない事“と

肝に銘じて歩んできたが、それでも

普段着のまま出かける瞳と恵に

目をやると悔しさが滲んできた。

誠は瞳の手を取って坂を登り、本道に

出ると車の往来から瞳を庇うように歩み、

私は恵と肩を並べて続いた。行き交う

人の目は私達が嘗ては館の住人であった事、そして今は、街の平穏を揺るがすS学会員

である事を知ってか奇異の目が注がれた。


 二千名を超える熊谷基地にもS学会の

方が居られて、彼は基地全体の隊員から

蔑視の目を浴びせられていた。宗教には

無縁な自衛隊の中でさえS学会への批判は

辛辣で、そんな時、私は恵が中傷されて

いるような気がして「俺も学会員だ!」と

叫んでみたかったが、それはあの方と同様に

“丑松”になる事を意味した。

S学会が嫌われている理由は明白で、

祖先や親をも破折する強引な宗教活動と

地域に根付いている宗教的風習に同調

しない事だった。その結果、当然の如く

世間から誤解や反感を買い、狭い田舎町で、S学会の会員は村八分になっていた。

(それでも病や経済苦から抜け出そうと、

必死にS学会に入会するのであるが)

そういう人達が“宿業を転換する為”

とは言え、折伏活動をする事は還って

S学会への誤解・反感を増長している

ように思えた。


 学校下の洋服店に入ると

恵の顔を見て店員は「滝川屋の!」と、

声を上げてしげしげと私達を見た。

綺麗好きの小母さんは育ちざかりの誠と

瞳には季節毎に服を買い当てていたため、

下町では粗末な身なりではなかったが、

恩知らずの世間は人の不幸を嘲笑う。

悔しさに、高い物を選ぶように勧めたが

恵は普段着と変わらない服を選び、

誠と瞳にも普段着を選んだ。誠と瞳を

隣のかき氷屋に置いて、私達は小母さん

から頼まれた八百屋や魚屋を回った。

恵は手際よく買い物をこなしたが、慣れた

素振りが私には惨めに思えた。私は片手に

包み袋を抱えながら、瞳の手をしっかり

握り締めて車道側を歩いた。真夏の太陽が

容赦なく照り付け、汗が背中を流れ落ちた。(惨めなのは、恥ずかしいのは“一生懸命生きていない事だ”と何度自分に言い聞かせても、これが現実だった)幼い私達は

手を取り合いながら下町への坂を下った。


 小父さんは「凡、先に行けや」と言うが、下町に来てからは小父さんに先を譲った。

夕餉の下ごしらえが出来ている時は

小母さんが次で恵と瞳は最後だった。

湯上り、上半身裸で逃げ回っていた瞳も

昨今は薄い下着を付けていた。翌朝、恵は

五目御飯の人参を自分の皿に取り除いて

から私に渡した。好き嫌いをしないように

言われている瞳は恵を不満気に覗き、誠も

瞳の味方をした。小父さんが仏壇の前に

提灯を飾り終えると、私達は揃って墓参り

に出掛けた。小母さんが瞳の手を引き、

誠が小父さんの手を取ると恵は行き交う

人の目を恥じらいながら私の持っていた

やかんに手を添えた。私は甘える恵の手を引いて坂道を登り、父と母の墓前に立った。


 帰隊の前日、空模様のように恵の顔は

急に暗くなって涙ぐんだ。訝る誠の目も、

気遣う瞳の声にも恵は茫然と佇み、洗濯物

を畳む手は止まっていた。恵の涙が落ちる

前に夕立は屋根を叩き、青い閃光と同時に

落雷の地引音が鳴り渡り、誠と瞳は取り

込んだ布団に潜り込み、恵は背中にしがみ

ついた。雷が去っても恵は声を立てずに

泣き続け、瞳が顔を出すまで離れなかった。

夕食後、私は小母さんに来月から送金する

旨を告げると、小母さんは“無理をしない

ように“と言ったが出来れば瞳が学校から

帰る前には小母さんに家に居てほしかったし、小母さんの膝痛も心配だった。小父さんもお金の心配はいらないと言うが、家財道具で増えたのは中古の仏壇だけで、二人は服も

買わず、町内会の旅行にも参加しなかった。

あの日から“爺”と“婆”は本当の“祖父、祖母”となって骨身を削っていた。私の月給は一万六千四百円で、食費の掛からない自衛隊では月一万円の送金も十分に可能だった。


 翌日、私は後ろめたい思いに駆られて

電車に乗った。自分は好き勝手な道を選び、

恵一人に負担を掛けているのではないか、

辛い現実から逃げているだけではないのか、

流れ去る景色の中で、すまないと思いながら私は不公平な世を変える夢を追っていた。

汗ばむ暑さの中、一年生は早々と

着隊して、それぞれの故郷の土産を広げた。

私達の日課は六時に起床・点呼が終わると

ラジオ体操と駆け足が毎日繰り返され、

八時の集合時間までに朝食・洗面・トイレやベッドメーキング・靴の手入れ、身辺の

整理等を終えなければならない。

親元を離れたばかりの少年には分刻み、

秒刻みの張り詰めた日々で、就寝時間まで

家の事を考えるゆとりは無かったし、

恵の顔を思い浮かべても睡魔は瞬く間に

黒髪を消した。


 九月に入ると外出が許可されたが

作業当番もあって毎回とは限らなかったし、試験の前や洗濯物が貯まっている者は

外出が出来なかった。又、門限は一年生が

七時、二年生が八時、三年生は九時だった。

規則では外出は制服であった為、周辺に

部屋を借りて私服に着替える者も居た。

授業中、教員から青年海外協力隊が

発足したことを聞いて、私の胸は躍った。

父の時代は手に職を持っていれば食べて

行けたが、これからは“技術+外国語”

ではないかと直感していたからだ。折しも、

(恵からの手紙に)I先生の高校生への指針が“外国語をマスターしよう”であった事を伝えられると、私の直感は確信に変わり、

語学が苦手な私が外国語をマスターする

ためには“我が身を異国に置くこと”が

最善のように思われたからだ。


初めて外出の許可が出た日、私は東京都内の地図を購入して、S君からブレーザーと

ズボンと財布を借りて青年海外協力隊の

事務所を訪ねた。(S君も協力隊への参加を希望していたが、その日、S君は食器洗いの当番があって外出が出来なかった)広尾の

青年海外協力隊事務所では、車の整備士と

柔道の講師の隊員が派遣前の訓練中で、

柔道での参加を訊ねると三段の資格が

あれば良いとのこと。海外での生活が

如何様なのかは計り知れなかったが、

私は“今、何をしなければならないのか”

…精一杯生きて行く為の…新たな道・目標

が欲しかった。帰隊してS君に財布を反して報告すると、彼も協力隊の参加に賛同した。

少年自衛官には“戦友”の文字は無いが、

苦楽を分かち合い、互いの前途を願う気持ちは兄弟以上だった。青年海協力隊への参加を望んだ理由には外国語をマスターする事

以外にも“二十一世紀はアフリカの世紀”

とのI先生の提言があって、未来の国

アフリカを見たかったからだ。


第四節 「希望」


 夏休みが終わると航空自衛隊を代表して

中央観閲式に出る為、毎日行進の訓練が

繰り返された。決められた歩幅と速度、

左腕を振る前後の角度、肘を曲げない

ように等の注意を受けながら、

十二列で右端の基準となる隊員に

合わせなければならない。

それに気を取られていると今度は

顎を引くように、右手の位置、

胸を張れ等の注意が飛んで来る。

カービン銃は約4キログラムの重さだが

時間が経つにつれて紐が喰い込んでくる。


 中央観閲式の早朝、私達はバスに

分乗して朝霞駐屯地で朝食を摂った。

都心に近付くと道路の両端には警官や

自衛官が五十mの間隔で立っていて、

緊張感が更に高まってくる。

行進が始まるまでの数時間、

カービン銃を担いだまま不動の姿勢で

立っている事は大変な苦痛で、万一に

備えて列の後ろにあるトイレの裏には

交代の要員が待機していた。私達の右隣は

お姉さん的婦人自衛官の隊列だったが、

思春期の少年が抱くような甘い香りは

流れて来なかった。ジェット機や戦車の

編隊が通り過ぎると、防衛大学生の行進が

始まり私達は婦人自衛官の後に続いた。

「頭!右!」の号令で壇上を見上げると、

脂ぎった頬を垂れ落とした内閣総理大臣や

庶民とはかけ離れた顔立ちが並んでいた。

『銃口を翳せ!革命の銃声を轟かせ!』

隊列の中で、私は心の中で叫んだ。


部活は三時から五時までで、柔道場は

階段講堂の先にあった。正味二時間足らず

の練習時間に、腹筋や腕立て伏せ、受け身、打ち込み、乱取り等を行うが、私は

M先輩の胸を借りるのが楽しみだった。

練習が終わると私はトレーニングの為に

同期のI君を負ぶって風呂に行き、

ベッドに入ってからもどうすれば二年生・

三年生の先輩に勝てるかを考えた。

熊谷で初段の審査が行われ、一年生で

は私ともう一名が合格して、私は目標に

一歩近づいたような気がした。


 冬休みも正月を挟んで二週間あって、

私は同県人のY君に誘われて彼の実家傍

にある温泉地で一日を過ごした。Y君とは

区隊も部活も異なるが、同じ屋根の下で

苦楽を共にすればそこには兄弟に劣らない

感情が芽生えて来る。益して、同県人ならば尚更で、それは家族にとっても同じだった。

(Y君には年子の妹が居たが、私達は旅館の

同じ部屋で寝起きした)


翌日の夕方、家に着くと師走の慌ただしさ

とは別に皆の顔にはゆとりが見えた。

小父さんは(鈴木さんの計らいで、近所の

空き地を借りて)コンクリートの型枠作り

を始めた為、小母さんも作業の合間に自由に家に戻れるようになっていたからだ。

小母さんの膝痛は相変わらずだったが

買い物を担う恵の負担も軽減して誠と瞳にも

明るさが戻っていた。恵は夕餉の準備の傍ら食卓用のテーブルで誠と瞳の宿題を看て、

皆が寝入ってから教科書を開いた。小母さん風の綿入れを被り、ひざ掛けを掛けていたが、滑り込んだ足は冷え切っていて、私は恵が顔を出すまで足を温めた。


 二月の初旬、PBX前の防火水槽池には

薄氷が張っていた。午前中、教室のボヤ騒ぎがあって私達一区隊は連帯責任で基地を一周した。今日は一周で終わりかと安堵していると、二区隊の生徒が毛布を運んで来るのが目に入った。水槽池の前で、「止まれ!」の

号令が掛かり、私達は(作業衣を脱いで)

下着一枚で水槽池に入らされた。行き交う

人目と肌を刺す池の冷たさが凍み渡った。…原因は煙草の不始末で、KU君は涙して一人一人に頭を下げたが、注意しなかった私達にも後悔の念が残った。尊敬する区隊長の

“自衛官である前に、立派な社会人であれ”

との指導を無にしたからだった。


 三年生の先輩方が部隊実習に出ると緊張の糸が切れて、私の思惟は過去と現実の狭間を行き来した。授業中も、隊列の中に居ても、…私はロブハウスのリクラニングチェアに

体を預けていて、ドアに付いた鐘が鳴り、

恵が“お兄ちゃん”と言ってテーブルに

カルピスの入ったグラスを置く、両親の他界も隊列の中の自分も消えて、全ては夢の中、心地良い日差しの下でうたた寝している

あの日に戻っていた。…


抜け殻のような無気力な日々が続く中、

二年の夏休みは北海道出身のT君の案内で、同県人のY君と北海道旅行に出掛けた。

銅鑼の音に送り出されて海峡を渡ると、

朝焼けの下に澄み切った大地があった。

新しい地肌と、荒々しい原野は

ホイットマン詩集を彷彿させ、

雄大な自然は私の血潮を沸き立てた。

道は夕陽に向かって真っ直ぐ伸び、

夕陽が緑の地平線にゆっくりと沈んで行く。夏の夜の燃え盛るストーブを見つめながら、まだ見ぬアフリカの大地に夢を馳せた。


第五節 「アフリカへの道」


二段の審査も熊谷で行われた。

埼玉県柔道連盟の昇段基準は、

初段になって一年以上を経過した六人と

対戦して全勝する事だった。

私の組には県下でも有名な高校生が居て、

私は会場隅のカーテンの陰で、俄か信者に

なって祈った。技の掛けあいが続く、彼の

得意技は右の背負いで私は左の背負いだ。

(私は右利きだが、左の技を習得した方が

有利と判断して左で練習していた)隊内でも左技を使うのは私だけで、私は右技の

防御に慣れていたが彼は左の技に苦戦し、

最後は持久戦になって彼が背負いを掛けて

戻ったところを私は体落としで返した。

三段の受験は二年後との事で、私はアフリカの大地に又一歩近付いたように感じた。


 ラクビーで全国的にも高名なM高校との

親善試合があるとの事で、合同朝礼場は

紅白の垂れ幕で覆われた。試合が始まると

我がチームの優勢は明白で、次々とトライを重ねて試合は三十四対五の大差で終わった。

M校の五点はフルバックのM選手が巧みな

ステップで取った1トライだけだった。私達は一般の高校生が参加するような大会には

出られなかったが、少ない部員数、限られた練習時間でさえも、一回り大きな心・技・体を兼ね揃えた仲間を私は誇りに思った。


所得倍増計画は国民の暮らしを豊かにしていったが、アメリカ一辺倒の政策は反米運動

をもたらし、公害問題や空港建設反対運動、

民間機のハイジャックや観光船乗っ取り等、目的の為なら他者も社会も顧みない世相が

顕著になっていった。長髪族が出没して男らしさや自分らしさは薄れ、同世代の若者は

流行に乗り遅れまいと焦り、メディアがそれに拍車を掛ける。テレビの普及は全国津々

浦々に情報や娯楽を提供したが、“一億総白痴“と揶揄されるような時代を生む。公共性の高いテレビの放映は社会への影響を考慮して、もっと規制されるべきだと思った。


第六節 「割腹自殺」


 更なる邪悪の根源は週刊誌だった。

“言論の自由“に名を借りた批判・中傷や

人前では開けない露骨な写真など、…見なければ良い、読まなければ良い…との言い訳は赤子の目の前に菓子を置いて“手を出すな”と言うようなものではないか。自由主義に

名を借りてマスメディアが拍車を掛け、混沌

するこの世相をどうすれば取り戻せるのか。

政治家が変えないなら、五一五や二二六の

ように武力による革命が必要のか。…


そんな最中、三島氏の割腹自殺の報が

電撃のように伝わり、私の思いは儚く、時を待たずに砕けた。著名な三島氏が命を賭しても世相が動じないなら“無名な少年がどう

あがいても世の中は変わるはずがない”そう思うと隊列の中で松明は萎んでいった。事件の衝撃が覚めきらないうちに私達は講堂に

集められて、今般の事件の感想文を書かされた。…三島氏の意図が如何様であれ、世の中が私利私欲に乱れ精神性を失っている昨今、命を賭してまでも変革を求めた三島氏の行為は尊厳に値すると思った。…


戦争を背景にいざなぎ景気が続き、巷ではボウリングゲームが沸騰していった。一億

総レジャー時代の到来である、世間は

あたかも“物質的豊さが幸福”であるかの

如く振る舞い、マスコミがそれを煽る。

然し、それは他者の不遇の上に成り立つ

豊かさであり、戦後の総括が為されないままのまやかしの繁栄で、人々の顔には滲み出るような幸福感は見られなかった。


父は戦時中の話はしなかったが、二百万人以上に及ぶ犠牲者や戦後明るみになった虐殺事件などを知る度、私の胸中には“何故、

誰が,何の為に”戦争に導いたのかとの疑念が渦巻いた。そこには私利私欲を第一義と

する輩と権力を翳し又は利用する輩、軍部の弾圧に屈服して戦争を礼賛する宗教団体や

マスメディアが多数居たことを知ると、憤りとともに変わらない世相に幻滅した。戦争

(又は体制)に反対した者が牢獄に居て、

戦争に協力した者が大手を振っている社会、人を救うべき宗教界が戦争に加担し、正義を

翳すべきマスコミ界が悪を礼賛する社会、

そんな大罪を神仏は許すのだろうか。

許すはずがない”と信じたかったが、

日本人特有の曖昧さは天皇家を神棚に

飾り、国家神道の旗を落しただけで、

戦争に導いた者を自ら断罪する事も無く、

正義を貫いて弾圧された者への謝罪も無い。周辺諸国への謝罪も然りである。それは

親の犯した過ちを認めたくない子供のよう

なもので、戦後の歪んだ繁栄は更なる不幸へ導いているように思えた。


学生運動はいつの間にかヘルメットに

ゲバ棒の出で立ちになり、バリケードを

築いて火炎瓶を投擲して暴徒となった。

それでも(大学進学率10%の時節)

将来のエリートである彼等を世間は暖かく?容認していたが、爆弾事件や内ゲバ・リンチ殺害に至って世間は漸く目を背けた。

イタイイタイ病等の社会問題も経済成長がもたらす恩恵から見れば他人ごとで、公共の

放送であるはずのテレビ界も視聴率至上主義の中“見なければ良い”との理屈の下で

“表現の自由、言論の自由”を翳して番組をエスカレートして行く。延いては公正であるべき報道番組でさえも“言った者勝ち”の

世界に豹変するのであるが、所詮、それが

直接我が身に損益を及ぼさない限り世間は

寛容である。寧ろ、視聴者がマスコミの

ゴシップ化を望んだ為なのか、テレビ界は

視聴者参加番組なるものを編成して一億総

白痴化計画を達成した。歪んだ社会は、

歪んだ政治・経済・教育・宗教を産み、

ネズミ講事件や連続暴行殺害事件等が

次々と発生して行くが、ベトナムに平和を

市民連合による反戦運動や南北問題も、

有害図書に対する有識者の声も、浮かれた

世相の中に埋まって行った。正にこの世は、

戦前と変わらぬ“末法”の世相である。


涙拭う日まで  僕の青春は続く

止め処なく   崩れゆく世界     

届かぬ夢の   希望と絶望

隊列の中で   革命の情念が滾る

   

第七節「環境と人」


賃上げ闘争のお蔭で?特別公務員である

私達の給料はうなぎ上りで、ベースアップの差額もかなりの額になった。然し、地方の

中小企業ではベースアップが儘ならず、賃金の格差は更に開いて行くのだが。恵へ送る

お金にも余裕が出来て、冬休み、私は五島

列島出身のKA君と彼の生家を訪ねながら

九州方面を旅した。福江空港は海の傍にあり、プロペラ機が機種をさげると私の身体は

機体の振動のように身震いした。バスは細い坂道をギアヲ替えながら登って行く、小高い山の開墾地には牛が放牧されていて目の前にはぽつんと平屋の家が建っていた。低い屋根

の上には網が掛かっていて、暴風対策用の

二・三十㎝程の重石が各所に設けてある。

一本道の奥下には入り江が覗いて見えて、

穏やかな波が寄せていた。


静まり返った平屋の奥には牛舎が連なり、KA君が手を出すと牛は柵から首を伸ばして旧知の友を迎えた。牛舎の側には(話に聞いていた)五右衛門風呂があって、夕方、私は湯船に浮かんだ板を沈めようとしたが、

板は勢いを増して浮き上がった。KA君は

面白気に指図し、漸く板を沈めて中に入ると

今度は焼き付いた釜板が背中に触れた。離島の夜は長い、布団に入ってからもKA君の闊達な喋りが続いた。


 翌朝、家の前には石臼が用意されて二人で餅つきを手伝ったが、それは東北地方の

白い切り餅とは異なって、途中で砂糖や

ゴマなどをまぶし、焼くだけで食べられる

餅だった。テレビが普及している現代に

あっても、風土の違いは其処に住む人々の

生活様式を変えて、方言や県民性の違いと

して顕れる。人格は個々の家庭環境で培われ、社会環境がそれに色を付けるのだろうか。

私が少年自衛官を目指した理由は、“そこに行けば仲間に会える、一生懸命生きなければならない環境がある”と願望したからで、

人は環境に染まるが環境を選ぶのも自分自身なのだ。ブレーキを掛けながらプロペラの

回転が高まると機体は震え出し、ブレーキが解かれると機体は瞬く間に上昇して旋回した。水平飛行を始めた機体の中で、私は新たな仲間との出会いに夢をはせた。


 旅行の残金が入った封筒を渡すと、恵は

大人びた感謝の言葉で受け取って仏壇に供

えた。私は普通の高校生のように勉強をしてスポーツをしているだけで“働いている”

意識は全く無かったが、小父さん・小母さんの姿を見ている恵にとっては有り難いお金で

“お兄ちゃん、○○万円貯まったよ!”

と恵は嬉しそうに言う。普段、小父さんは

飲まなかったが私が帰省する事が分ると

自分で買って来たとの事で、ほろ酔いの

小父さんは終わりを待たずに寝床に就いた。

歌合戦が終わると、小母さんと恵は仏壇を

開けて小さな声で読経を始めた。私は炬燵

にすっぽり身体を入れ、音を落したテレビ

を眺めながら“一年間ベストで生きたか、

悔いはなかったか“と、自問した。勤行が

終わると恵はそそくさと数珠を小母さんに

渡し”ウ!寒い“と言って私の背中にへばり付いた。小母さんは立ち上がりながら、

呆れた時の母のような顔で恵に一瞥して

出て行った。


第八節 「選択」


 新年の朝の空気は、

少なからず誰人をも希望に駆り立てる。

それが束の間であっても、人は

希望を失っては生きていけないからだ。

個人住宅の建築が好調な折、小父さんは

三箇日が明けると一人で仕事に出掛け、

見送った小母さんは話を切り出した。

鈴木さんからの薦めで“家を建てたい”

との事、場所は製材所裏の高台だった。

其処は鈴木さんが分譲住宅用に購入した

土地の一角で、(小父さん達に十分な蓄え

が無い事を知っている鈴木さんは)

“父には未だ返せない恩が有るので”と、

土地の提供を申し出てくれたとの事だった。町営住宅に居るのも気が引けるので、

小父さんは土地代を分割で返す事で

鈴木さんの好意を受け入れたとの事、

この御時世に鈴木さんの好意が胸に沁みた。


叔父からの分配金(生活費)は滞り、

聞こえて来るのは悪い噂だけだった。

木材所は既に人手に渡り、引き継いだ製材所

も危うい状況との事、父が始めた建売住宅も傲慢な叔父では買い手が付かないばかりか、建築を請け負う大工からも見限られていた。義叔母が(精神科の)病院に入院すると、

女子事務員が館に出入りしている事や、明が休学しているなどの醜聞が続いていた。


拡張されたばかりの道路は、上町の

バス停を過ぎて家並みが途切れた処にあり、

以前そこは学校の裏に続く細道で(中学生のマラソンのコースでもあった)山に続く山道と交差していた。舗装はされていないものの小高い丘を削って拡張された道路は細かな

くねりも無くなり、学校を遠巻きにしながら南に伸びていた。十字路の右手は学校に続く坂道で、街のメーン道路に突き当たる。

(交差点には街で初めての信号機が付いた)左手は整備された堀に沿って砂利道が山の入り口まで伸びていて、裾野の沼の周辺には

キャンプ場や公園建設の計画があるとの事。

学校の裏を過ぎると真新しい一角が広がり、私は一気に小さな橋を渡って其処に着いた。


整地を分断するように道路は伸びて、

更に館の端あたりで下る。右手のなだらかな傾斜の先には製材所が広がっていたが丸太の山は一ケ所だけで製材所は冬枯れの野原と

化していた。館に移る前は此処が私と恵の

遊び場で、斜面を転がって草スキーをして

過ごした。たまには同級生も遊びに来たが

恵の友達が来るのは稀で、大概、恵は私達の

後を追って過ごした。母が大きな声を出すのは丸太の山に登った時だけだったが、

それでも私達は新しい山を征服した。


 年が明け、四年生の先輩方が部隊実習から戻って来た。四年生は下士官候補生の訓練を三カ月間履修すると、各部隊に配属される。憧れの先輩方は一段と大人びて見え、私達は緊張の面持ちで迎えた。M先輩が柔道場に

姿を出すと、私は待ち焦がれたように胸を

借りた。嘗ては一度も勝てなかった先輩に

私は攻めまくったが最後まで先輩の身体を

浮かす事は出来なかった。然し、私には

“強くなったね”の一言が嬉しかった。


 コンピュータが出始めた折り、M先輩には郷里の銀行からコンピュータ技師として斡旋が来ていた。又、同県人のO先輩には実業団のラクビー部から誘いが来ているとの事。

制帽を高々と放り投げて十三期生の卒業式が終わると、私達は出口でアーチを造り、

潜り抜ける先輩方を感謝の言葉で送った。

少年自衛官は三年生の前半で通信制としての授業を終えて、後半はそれぞれの職種に

分かれて基礎教育を受ける。私達が選択出来る職種は航空管制の他、地対空・機上・地上レーダーと地上・搬送無線に限られていて、

職種を決める前に私達は近郊のH基地と

F基地を見学した。航空団を抱えるH基地に

はパイロットを頂点に飛行機を飛ばす為の

様々な職種があったが、パイロットの待遇が

格別である事には驚いた。同期生の中には

防大は勿論の事、大検を受験して航空学生や

航空大学校を目指す者も居て、一瞬揺らいだが“将来何に為るか”よりも私にはアフリカの大地への憧れ、新しい仲間との出会いが

勝っていて、“どうすれば青年海外協力隊に入れるか”が全てだった。


航空自衛隊の情報を統括するF基地には

地下に統制所があって、日本の防空エリア内における飛行機の追跡が刻々と大スクリーンに表示されると伴に、各基地の戦力状況等が

掲示されていた。透明の大きなスクリーンの後ろではヘッドセットを着けた隊員が上・中・下段に分かれて反転文字を書き込み、

スクリーンの前には数十台のコンソールが

並んでいて各地のレーダーサイトで捉えた

映像が映し出されている。最後尾の一段高い

席には指揮官が居て、更にその後ろには

大きいガラス張りの部屋から見下ろすように

安全保障会議議員の席が設けられていた。

(F基地は非常時の際、I基地の

代替え基地になるとの事)


第九節 「それぞれの道」


春を待たずに愛媛県出身のS君は

地元の高校へ編入学する為に退官し、

ラサール校中退で入隊したO生徒も

京大の天文学を目指すとの事で退官した。

それぞれの職種の内容は計り兼ねたが、

私は迷わず搬送無線を選択した。

青年海外協力隊は募集職種が増えて、

その中に搬送無線があったからだ。


三年生になっての初仕事は航空幕僚長の

就任式に伴う儀仗隊だった。区隊長以下

私達(一個小隊)は防衛庁の門を潜ったが、

控室に入る途中、目にしたのは私服

(キャリア)組みの呆れた態度だった。

私達が通る目の前で彼等はネクタイを緩め、ワイシャツを巻くってカードをやっていた。一方、控室の窓の下では三人の将官が

規範通り隊列を組んで歩いていた。

入隊以来、私達は五体で六大義務を学び、

毎晩交代で服務の宣誓を暗唱してきた。

“専心職務の遂行に当たり、

事に臨んでは危険を顧みず、

身をもって責務の完遂に努め、

もって国民の負託にこたえる”

無垢な私達は宣誓文に誇りを持って

自衛官の道を歩んで来たが、

文民統制の実態を目の当りにすると、

自衛官としての誇りは萎んだ。


整列して待つ中、新任の航空幕僚長は

女性秘書官を伴って正面玄関の上に立った。区隊長の「捧げ銃!」の号令に私達は

カービン銃を捧げ、トランペットは

栄誉礼を三度繰り返したが、その間、

目に入ったのは(下着が透けて見える

黒い網目のワンピースを着た)

水商売風の女性秘書官だった。

巷では子供の服を買う為、

子供に腹いっぱい食べさせる為に、

親は形振り構わず働いている。

又、私達自衛官は品位を保つ義務の下で

身を律していたが、彼女は何を考えて

こんな服を着ているのか、こんな服で

どんな仕事が出来るのだろうか、

自衛隊を統制する文官の服務に、

私はこの国の根幹は大きく歪んでいる

ように感じた。そして、三島氏の呼びかけ

に自衛隊は決起すべきだったと思った。


戦後二十年、東京オリンピックと大阪万博は世の中にマイカーやカラーテレビの普及を

もたらし、都市部は高度成長と自由で溢れて

いたが、弱者を置き去りにした労使交渉は、

組合を持てない地方の中小企業の人々に

更なる給料の格差を産み、若者を都会に

駆リーダーして金権主義に染めていった。

何時しか学生運動も為りを潜め、長髪に

フォークソング、三種の神器が当たり前

の時節、私達(少年自衛官)は時代の流れ

から離れて世の中を眺めていた。成人向け

の週刊誌や映画に限らず、露骨な広告・雑誌が増えて違法な風俗業が乱立する中、女子中・高生がらみの事件が連日報道される。

経済の発展は人々の生活を豊にしたが、

にわか自由主義は個人主義を産み、個人主義は利己主義となって新たな差別と不幸を

産み出していた。先般、島崎藤村の破戒を

読んで云いようのない憤りを感じたが、

差別は形を変えて拡大し続けていた。


 土曜の午前は課業で午後は部活だったが、三年生になると柔道部の顧問の依頼で私は

毎週近くの中学校に出向いて胸を貸した。

中学生の無垢な汗は世の中の嫌な矛盾を

忘れさせ、片足の方との出会いが蘇った。

“今、しなければならない事をせよ”

世の中が如何様であれ“今、しなければ

ならない事をせよ”と私はジャンクリストフの一節を噛み締めていた。


夏休み、私は愛媛のS君を訪ね、その足で一緒に北海道旅行に出た。松山城の階段は

急で、前を見上げるとスカートの中がもろに目に入り、天守閣に登っても城下町の景色は

スカートの中の残像に消された。

四国の鉄道は未だ電化されておらず、

ディーゼル機関車が煙を吐いていた。

それを土産にS君と上町のバス亭で降りて

舗装されたばかりの一本道を進んで行くと、製材所を見下ろす高台にぽつんと新築の

二階建ての家が建っていた。


第十節 「家族」


小父さんと小母さんが

家の前の空き地に居て「凡、お帰り」と

ブロックの型枠作業の手を止めて挨拶した。恵の案内で家に入ると壁紙の糊の匂いと

新しい畳みの匂いが目に浸みた。

階段を上がって左側の東向きの洋間には

誠の机と服が吊るされていて、私は

鞄を開けて洗濯物を恵に渡した。

右側の和室は恵と瞳が使っている。

一階の奥は小父さん・小母さんの和室で

隣が台所、真ん中の部屋は仏間で

廊下を挟んでトイレと風呂場が有った。

手前が和室の居間で、家の西側の下には

荒れ果てた「白亜の館」の一角が覗けた。


翌日、私は恵の恨めしそうな眼差しを置いて電車に乗った。夜行の客室は女子学院の

一団が占めていて、私達は入口傍に気弱に

腰を下ろした。対面に座っているお姉さんが

「脚を伸ばしても良いよ」と言い、私は

靴を脱いで恐る恐る脚を伸ばした。足が

彼女の大腿部に触れる都度、動悸は乱れ、

緊張は青森に着くまで続いた。後輩の前

では偉そうにしていても、女性の前では

未だ初な少年だった。


知床まで脚を伸ばして戻ると、小父さんと小母さんは炎天下の下で型枠にコンクリートを流していた。お揃いの日除け帽に腕カバーと地下足袋に身を包んでいたが、綺麗好き

の小母さんに作業衣は似合わなかった。

「お帰りなさい」の声に振り向くと、

トタン屋根の小屋から誠が猫車を押して

出てきた。父譲りの逞しい胸板、半袖の

Tシャツからはみ出た二の腕は頼もしく

日焼けし、私は誠の背中を二度叩いた。


中に入ると恵の姿は無く、瞳が危なげな

手付きでジャガイモの皮を剥いていた。

夕餉の支度にはまだ早い時間だったが、

不慣れな瞳には時間が全てのようで、

木彫りの土産を渡すと瞳は子供に返って、

膨らみ出した胸を押しつけながら鞄の中を

覗いた。夕方、恵はアルバイトから戻って

シャワーを浴びると話しかける間もなく

台所に立った。湧き上がる湯気を覗いて

コンロの火を止めると、瞳の頭を撫でながら“お兄ちゃんと入ったら”と言う、瞳は赤く染めた顔をバスタオルで隠しながら風呂場に掛け込んだ。


夕陽が窓を染めると誠が戻り、程なく

して小父さんと小母さんも戻ってきた。

其々がシャワーから出て来ると、

恵は私の着替えを持って降りて来た。…

夏の夜、季節外れの虫の音が途切れ、

誠は網戸の傍で火照った脚を冷やし、

小父さんは冷酒を飲みながら、私は

小母さんの話を聞きながら恵を待った。

洗い物を終えて恵が座に加わると、

小母さんはテレビの音を小さくして

桃の皮を剥き始めた。…母譲りの黒髪を短くして髪留めで額を出した恵は一層大人びて

母の面影と父の性格を醸し出していた。…

「お兄ちゃん!」と恵が話を切り出した。


第十一節 「恵の進路」


恵は準看護婦に為りたいとのこと、

準看は中卒で良いので高校を中退して

春から準看の学校に行きたいと言う。

又、此処からは通学が出来ないので、

部屋を借りてアルバイトをしながら

学校に行くか、市内には働きながら

学校に行かせてくれる病院もあると云う。

又、恵は推薦で入学出来る事も話したが、

私は“高校を卒業しなければならない事、

それが父の願いである事”を告げた。

恵は不服そうな顔で見つめたが、

父に代わって恵達を高校に行かせる事は

長兄としての最低の努めだった。

正看と準看が有る事を初めて知ったが、

いずれにしても誠と瞳には

未だ母親代わりが必要だった。

小父さんが「穣、そうしな」と言うと、

小母さんも相槌をして一緒に立ち上がった。

高度成長のお蔭で、私の給料は二年間で倍になり、賞与や昇給の差額分も支給されるので、月々二万円の送金も苦では無かった。旅行で残った十万円を“服を買いな”と差し出すと、恵は封筒を大事そうに仏壇に供えた。

父が残したお金も私が送ったお金も殆どが

通帳に残っていて”遠慮無く使って欲しい事、アルバイトはしないで一番で卒業するように“と言うと(恵は恨めしそうに睨みつけたが、それは恵の甘える時の仕草で)瞳の

「お姉ちゃんが一番に決まっている」の

一声で私達は寝床に就いた。


 誠の寝息で眼が冴え、私は何故、

恵が看護婦の道を選んだのかを振り返った。恵が小学校に入ったばかりの時だった。

棘の刺さった指を差し出すと母は私を

膝の上に引き寄せて糸の付いた針で

棘の上の皮膚を削った。私は久しぶりに

母の匂いに包まれて痛みを感じなかったが、

傍で見ていた恵の顔は引きつり、まるで

それが自分の指であるかのように針の先を

凝視した。そして小学校の高学年に為ると、

恵はそれが自分の役目と言わんばかりに

誠と瞳を捕まえては切り傷の手当てをした。そんな恵を見ていると、女性は生まれながらナースなのだと思う。


第十二節 「部隊実習」


 搬送無線のコースは五名で、五島出身の

KA君も一緒だった直流・交流回路及び

電子回路の基礎を半年間学ぶと、レベル三

の資格を付与されて部隊実習に出る。

電気は見えないので理解し難い科目では

あったが、自衛隊独自のテキストと

実習教材で分かり易く教わり、

最後に五級スーパーへテロダイン方式の

ラジオを組み立てて履修が終了する。

組み立てを終えてスイッチを入れた瞬間、

キットから音声が流れて来た時の感動は

忘れられない思い出だった。

益して、私のような境遇の者には、

給料が支給されての高卒の資格が得られる

少年自衛官の制度はありがたかった。


 部隊実習は北海道のT基地で、職種は

異なっていたが同郷のY君も一緒だった。

夏に見た緑の大地は姿を変えて、どんより

とした大空の下には生きるもの全てを覆う

灰色の世界があった。独身者は基地内の

内務班と呼ばれる部屋で寝泊まりをするが、

生徒隊での二段ベッドとは異なって部屋は

広々としていた。


仮想敵国は北方にあるとのことで、

北海道には陸上自衛隊の約一割の精鋭部隊

が配置されていた。航空自衛隊のT基地も

搬送無線班は全国有数のレベルと評価され、職場は(無線技術士や通信士の資格取得等)勉強をするのが当たり前の雰囲気だった。

T基地の搬送無線班の勤務は二交代

三シフト制で、私は一般自衛官出身の

I士長とペアになった。日勤では

定期点検等の作業を行うが、夜勤は

監視業務のみだった。I士長は東北大の

受験に失敗して自衛官になったとの事で、

集中力は凄まじく夜勤の際は休まずに

四・五時間の勉強をしていた。


搬送無線設備は真空管とトランジスタが

入り混じったN社製のO/Hシステムで、

出力段には通信回線の距離に応じて板極管

や進行波管又はマグネトロンが使用され、

直径十mのパラボラアンテナが網走、稚内と大湊を向いていた。その他、千歳との間にも

全トランジスタ型の多重無線設備がある。


 内務班の下の階には自習室があって、

私は風呂から上がると職場から借りて来た

技術指示書を開いて予習した。然し、何度、読み返しても作業の手順を理解する事は

困難だったし、例え手順を暗記出来たと

しても失敗(通信回線断)の恐怖が頭を過り、設備を前にすると更に手が震えた。習得する技術・技能は難易度が高くなればなるほど、又は、万が一のリスクが大きくなればなるほど、現場での実習が不可欠だった。


…計器類の準備を終えるとI士長が

現れて点検作業が始まる、I士長は

前を向いたまま後ろに手を伸ばし、

私はその手に工具類を選んで乗せる。

間違った工具を渡せば作業が中断する為、

私は次の手順を必死に思い出して渡した。

一台が終わると次は私の番で、私は後ろ

から飛んで来る指示に従ってロボットの

ように手を動かした。終わってみると、

I士長の作業は外科手術のように

的確でスピーディーだった。…

装置を前にして身体で覚えた方が数倍

身に入る為、私は夜勤に入るとI士長の

承諾を得て現場で計器類を並べて各点検

のイメージ・トレーニングをした。


 青年海外協力隊に参加する為には

I士長がトライしている無線技術士の

国家資格が必要だったが、私には未だ

無線技術士をトライする力は持ち合わせて

いなかった。然も、部隊実習を終えると

熊谷に戻って下士官候補生の課程に入り、

修了後は部隊に配属される。今の私には

下士官として仕事の実力を身に付ける事

の方が大切だと思ったからだ。


搬送無線の局舎は小高い山を潜り抜いた

地下壕にあって局舎の上には芝生が茂り、

廻り一面には熊笹が這い茂っていた。

熊笹の筍は夜食のインスタントラーメンに

良く合う、私は(せめてものお返しに)

I士長に訊いてラーメンを作った。

T基地にはスキー場が隣接されていて、

一般隊員はスキーの技能検定に

精を出していたが、少年自衛官は

(部隊実習期間中の事故防止の為)

スキーをする事も禁止されていた。

反面、隊本部で補給業務や

お茶の入れ方を教わり、防空訓練では

先頭に立たされて射撃訓練を行った。


実習期間の終盤、私が

多重無線技士の試験に合格すると

I士長は合格祝いと称して

私をすすきのへ連れ出した。

すすきの街はいかがわしい看板も

目につかず清楚な感じがするが、

一歩ビルの中に足を入れると

そこは夜の街だった。溢れる音と色、

薄暗いフロアーを走るミラーライトの光、

テーブル上のランプが怪しく揺らぐ。

店はすすきの一のキャバレーとの事で、

若い女の子が百五十名程居た。

ボックスに着くと同年代の質素な

身なりをした細身の女性が隣に座り、

ミュージックに遮られながら歳を訊くと、

私と同じ歳だった。女性に接する機会の

ない私には、ランプの光に浮き上がる

白い顔が神秘的に見えた。

I士長は何度か別の女性と踊ったが

ダンスを知らない私は、掛ける言葉に

戸惑いながらコップを握っていた。

飾り気の無いその女性は

東北のS市から出て来て

保育士の学校に通っていると言う。


二軒目の店はフロアーも狭く

音も光も落ち着いた感じで、一目で

年上と分かる女性で占められていた。

キャバレーとしてのランクは

こちらの方が上と言う通り、

女性の話術は巧みでダンスを知らない

私の手を引いてリードした。

恐らく子供が待っているのだろう、

私は長いドレスに身を隠し、

酔えないビールを口にする

彼女達を哀れんだ。男は理想に生き、

女は身近な者を守って現実の中で生きる。

私は恵にすまないと思いながら

札幌の夜を過ごした。


T基地の娯楽室には居酒屋の業者が出入りしていて、最後の夜、私はI士長を娯楽室に

誘った。I士長は薄い色眼鏡を掛けて、傍目には強面に見えたが心底優しい先輩だった。…先日の夜勤時に、I士長はトラブル・

シューティングの訓練と称し、自らトラブルを作って実習をさせてくれた。(装置は

一回線に二台だけで、その一台を殺して実習を行う事は回線断を伴う危険な行為だった)

万一の場合はI士長の責任になることを思う

と感謝の念が込み上がった。…実力的にも

比較にならないI士長が士長のままで、

(熊谷での三ヶ月間の課程を修了すると)

私は下士官になる。私は涙を溜めて

「I士長が下士官になるべきだ」と言うと

I士長は「二・三年後にはお前の方が上に

為っているよ」と言い、私はその言葉を

噛締めて熊谷に戻った。


第十三節 「下士官候補生」


下士官候補生の訓練は同時に5レベルの

履修期間でもあったが、その日私達は

浅間山荘の事件を目の当りにした。

衝撃的な映像が実況放送で延々と流れ、

私達はテレビの画面に釘付けになった。

“何故このような事件が起こるのか”

“何故このような画像を放映するのか”

私は目的の為なら手段を選ばない彼等と、

(人の命のやり取りの瞬間さえも放映する)

この社会の倫理観に憤りを感じた。


事件後、更におぞましいリンチ殺害が

あからさまになり、同志さえも殺害する狂気的手法では社会を変革出来ないばかりか、

返って反感を受けるのを目の当たりにした。

そして、ゲバラへの憧れは萎え、ガンディーの闘いが浮かんできた。然し、価値観が

多様化して社会が歪んでいる今、どうすればこの社会を変えられるのか。どうすれば

“一人一人が幸福を感じられる社会”を

築けるのか、私はその答えがアフリカに

あることを願った。


卒業式の朝、空は晴れ渡ったが

桜のつぼみは未だ色あせていた。

防衛大や航空学生に進む者、

退官して東京の大学に進む者、

同郷のY君は専門学校に進み、

結局、同期生は六十四名だけが卒業して

それぞれの配属地に散った。

(青年海外協力隊に参加する為には

それなりの経験が必要との思いで)私は

負担が大きくなる辺境の地を希望した。


第十四節 「母の手」


 赴任前に墓参りに戻ると、この春から

病院の寮に入る恵が身辺の整理をしていた。

彼岸入りの陽光は低く肌寒い、恵の赤い

自転車と誠の青い新車を並べて私達は

誠と瞳を待たずに墓参りに出掛けた。

天神様の境内に自転車を泊めて、道すがら

父と母の最後の顔を思い出そうとしたが

出来事は思い出せても顔が浮かんでこない。

恵の顔を覗くと可憐な横顔に涙を溜め、

色あせた形見のハンカチを出した。

幾度振り返っても夢は覚めない、私は

“今、しなければならないことをせよ”

と言い聞かせて生きてきた。

然し、混沌する社会の中で

自分はどう生きるべきなのか、

自分にも使命があるのだろうか、

(父と母が生きていたなら)と想うと、

座を流れる水の中に涙がこぼれ落ちた。


街の電気店で流行りの

ラジオ付小型テープレコーダーを買って、

学校下の喫茶店の前に自転車を並べた。

幌が掛かった店頭には長テーブルとベンチ

が据え付けてあって、のれんをくぐった

店内には小さな丸テーブルが二つある。

私はレモンティーを二つ頼んで、

奥のテーブルに掛けた。


(其処は嘗て母と初めて座った席で)

母の手を引いて座ると、母は

(目は笑っていたが)頬を膨らませて

恵を背負ったまま椅子に掛けた。

店員が包みを持ってくると

母は包みの中から大判焼きを一個取り出し、しなやかな手で其れを割って前に置いた。

出来たての餡から立ち上る湯気に、

私は(母を独り占めしたような)

何とも言えない幸せを感じた。

肩越しに恵が覗き、私が欠片を口に

運んでやると恵はオチョボ口を開き、

私が笑うと恵が声を出し、母は

肩越しに恵を覗いて微笑んだ。

(従業員のおやつの調達は母の

役目で、其の日は大判焼きだった)

母に促されて急いで帰ると、既に、

自宅兼事務所の居間には皆が

集まって居て父がお茶を配っていた。


向かい合って座った恵にそのことを話し、

餞別代りのラジカセを渡すと、

恵は大事そうに抱えながら膝の上で

ラジオのスイッチを入れた。

切なげなフォークソングが流れ、

恵はラジカセを抱えたまま顔を上げない。

冷めかけたレモンティーを温めるように

私は恵の膝を挟みながら

独り暮らしになる恵を案じた。


私にとって恵は妹であり、母のよう

でもあり、理想の想い人だった。

(お金を持っている事もあって)早熟な

仲間の中には買春を行う者や部屋を借りて

女子高生を連れ込む者もいたが、私は

純潔の花嫁を描く少女のように戒めた。

理由は、恵に顔向け出来なくなる恐れと、

遊んだ分だけ未来の伴侶との出会いが

遠のくような気がしたからで、高崎沿線の

スケバン・グループが怖かった訳ではない。

恵が顔を上げると、私は青年海外協力隊に

参加したい旨を話した。“海外、二年間”

と聞いて恵の顔は曇ったが、私はI先生の

指導に応えることだと説得した。恵の指は

荒れて母のしっとりした手とは違っていたが

母の代わりに誠と瞳を守ってきた手が

私には愛おしかった。


  母の手は魔法の手

オデコのコブも

  お腹の痛みも

  「チチンプイプイ!飛んでいけ!」


  父の手は大きな手

  大樹のように、獅子のように

  私達を大きく包む


第十五節 「海栗島」


玄界灘に浮かぶ対馬(比田勝港)は

小倉からフェリーで約九時間の距離にあり、五百トン足らずのフェリーは海峡を前後左右に大きく揺れ、波間を叩きながら進んだ。

赴任地は対馬の北の外れから更に五百m程

離れた周囲四Kmほどの小島で、左手には

レーダーの白いドームが青い空に映え、

右手にはパラボラアンテナが並んでいる。

海栗島は流木のように荒波の中に浮かび、

漁船を改造した定期船で島に近づくと

三階の開け放った窓から幾つかの顔が

船着き場を見下ろしていた。


定まらない足取りで石畳みの長く狭い

階段を登り切ると、アスファルトを

敷きしめた庁舎の正面に出る。

玄関を入って右手は当局室で、

左手の壁には様々な魚拓が飾られていた。

通電隊の事務所は右手奥の当直室の隣で、

玄関の左手には司令官室、管制隊事務所、

業務隊事務所があった。通電隊事務所で

隊長に着任の報告をして三階に上がると、

内務班は廊下を挟んで船着き場側と

グランド側に分かれ、通電隊の内務班は

西側奥の四部屋だった。


 荷物をロッカーに入れて屋上に上がると、

眼下の一面は海で、私は地に足が着か

ないような本能的な違和感を覚えた。

晴れた日は釜山が見えると訊いて

グランド側を見渡したが、

海面の奥には霞が掛かっていた。

庁舎正面から舗道が東西に延び、

東側の奥にはパラボラアンテナが2基、

西側にはレーダードームが建っていた。

島は東側の中腹が細く括れ、

動画の『ひょうたん島』を彷彿させた。


通電隊の内務班には三十数名が寝起きし、

私は着任して直ぐに寮長を命じられた。

一般自衛官は十八歳以上で入隊して

(6ヶ月~一年の)教育・訓練を

受けてから部隊に配属される為、

私は通電隊の内務班でも一番年下だったが、自衛隊の組織は階級で統制される。私は

内務班における作業員の割り出しの他、

内務班員の服務履行状況を管理して

四半期に一度、班員の評価を行う場に

隊長及び各小隊長と同席する。


 グランドの各北東と南西には高さ三十mの

細長い三角鉄塔が建っていて、グランドを

跨いでHF無線用のアンテナが張ってある。

又、北東の三角鉄塔の傍には丸太で組んだ

櫓があり、UHF及びVHF無線機用の

ロケット・アンテナが取り付けられている。

送信所は櫓下の芝生で覆われた地下壕で、

切り立った岸壁を挟んだ東側の奥には

パラボラアンテナ2基が聳えていた。

庁舎から東側へ舗道を行くと中腹が

狭い坂になっている。坂を上った先には

送信所と同じ櫓があって、受信所も芝生で

覆われた地下壕にあった。


インターホン越しに来場を告げると扉の

電磁ロックが外された。入口の正面には小型の白黒テレビと電気コンロを置いただけの

狭い休憩室があって、整備室の入口側には

米軍から払い下げられた野戦型の搬送無線機がある。(対岸の海上自衛隊の山にも無線機が設置されていて、群司令官相互のホット

ラインとして使用されている)整備室の中央には頑丈そうな木製の四角い作業台が置いてあり、右側には多重装置と横並びでVHF

及びUHFの受信機が縦長のラックに4台ずつ設置されていた。正面は班長室で左側の部屋は統制所だった。


沖縄返還に伴う新部隊の編制の為、対馬の地上無線の班員は欠員していて、搬送無線班には地上無線班の受信機の保守と回線統制所の運用も課せられていた。一人三役の状況

の中、私には更に隊長からの特命で各小隊の作業指示書を発行する業務が課せられた。

又、職場では副班長の立場にあって、着任

早々、私の肩こりはマンネリ化した。


自衛官だけの離島では娯楽室を酒場に改造して自主運営を行っていて、カウンターで

仕切った棚には酒類の他、ソーセージや

缶詰類が並べてあった。新任の寮長でもある私は班員の誘いを断る事が出来ず、毎晩娯楽室に通ってビールなら一ダース、日本酒なら一升瓶を空ける毎日だった。然し、街から

隔絶されているとはいえ、酒と博打に明け

暮れている班員の中には(顔色が浅黒く)

明らかに肝機能に支障を来たしている者や、勉強がしたくても環境に流される者がいて、

私は班員の目先を酒と博打から変えなければならないと思った。


有線班のM士長は私より四歳上だったが、相談すると快く引き受けてくれて、彼は

(バイクを走らせ)二ヶ月かけてキャンプの候補地を探して来た。隊長にキャンプの計画を報告すると、訓練の名目にすればテントや食材、運搬の手段なども協力してもらえるとの事。…六月の中旬、早朝の浜辺は未だ寒

かったが、交代勤務と日勤者の四グループに分かれてキャンプに行き、私は着任して

初めての計画を無事に終わらせた。


キャンプ大会の余韻が冷めないまま、

次はボーリング大会の開催だった。都市部

では下火になったボーリングも上対馬では

ボーリング場が開業したばかりで、

ボーリング場は独身の自衛官で賑やいだ。

町には遊戯場も一軒有ったが、隊員は

もっぱら下宿先でマージャンを打って

時間を過ごし、夜は行き付けの飲み屋に

募るのが常だった。私の行き付けは

M士長の母親が営むスナックで、

カウンターと五組のボックス席があり、

カウンターと壁越しの狭い住居には

瞳と同じ年のM君の妹が居た。

程無くして私はボーリングの月例大会を

開催したが、若い班員のエネルギーを

発散させる事は出来なかった。


 可憐で憂いに帯びたヒトツバタゴの花が

咲き終わると、アジサイの花が一雨毎に

色を変えた。夏休みの時節が到来しても

定員が不足している状況下では十分な

休暇は取れない為、私は帰郷を断念して

対馬本島縦断の旅に出た。五段変速で

速度メーターの付いたサイクリング自転車

も、高価な一眼レフのカメラもM士長から

の借り物だった。上対馬の比田勝町から

下対馬の厳原町までは約八十㎞の一本道で、国道に沿ってトンネルに差し掛かると

勾配は一層険しくなり、私はギアを

変えながら8の字を描いて登った。

比田勝の出口でバスにすれ違って以後、

車が往来する気配は全く無い。

トンネルを抜け速度は三十㎞を超え、

川筋に沿って快走が続く。


家がぽつりぽつりと見えてくると

山肌は遠のいて船だまりに出た。

入り江の先に来ると対岸の小高い山の頂に

海上自衛隊の警備所が見えた。其処には

(米軍が朝鮮戦争時代に使用した)

真空管タイプの野戦式搬無線機があって、

私は修理の度、山の反対側から登っていた。何故、海上さんが山の上で、

航空自衛隊が海の中なのかと思ったが、

ガラス張りの部屋に設置された

長さ八m程の望遠鏡を見て合点がいった。

(又、対馬海峡を航行する潜水艦も

監視しているとの事だが、本当だろうか)


入り江を過ぎて谷間に入ると、

勾配は暫く緩やかになったが

トンネルの手前で又きつくなった。

思い付きの旅には飲み物も無ければ

菓子類も無い、山肌を縫う谷間を

アップダウンしながらペダルを踏んだ。

対馬には元寇の古戦場跡や日露戦争当時の

砲台跡もあるはずだが、訪れる人の少ない

離島では標識も少なく、列島改造論の

余波も届かない入り江で人々は

寄り添うように生きていた。


 ひょうたん島のように海に浮かんだ

海栗島は名前の通りウニやサザエやアワビ

豊富で、採ったばかりのムラサキウニは

甘味がある。サザエも岩場の浅瀬にゴロ

ゴロと転がっていたが見向く者は皆無で、

私達はアワビやタコやカニを頂いた。

送信所下の岩場周辺がポイントで、

夜勤入りの二時間前、内務班から海パンに

着替えてシュノーケルとメガネを持って

潜りに行く。当初、私はアワビを薄く

切ってバターで炒めていたが、食べ飽きて

くるとワタだけを炒めて食べ、程なくして

酢醤油で生ワタだけを食べるようになった。

とは言っても素潜り一年生の私には、

アワビを見つける事が出来なかった。


同じ自衛隊でも北部方面隊と南西方面隊

では雲泥の差があり、T基地での緊張感は

海栗島では皆無だった。陸上自衛隊には

災害派遣等で活躍する場があるが、

航空自衛隊のレーダーサイトでの勤務は

国民からかけ離れているようで私は

もどかしく思えた。(防空の任が有る

とはいえ、成果の見えない仕事は

遣り甲斐を失せて人を堕落させる)

私は受検勉強に取り掛かりたかったが、

立場上、飲み会や麻雀の誘いがあれば

断る事は出来なかった。


 大きなカーブを曲がり、上って二つ目の

トンネルを過ぎると暫くなだらかな道が

続いた。ぽつぽつと民家が現れると、嘗て

朝鮮との玄関口だった佐須奈の標識が目に

入った。家々が道路の両側に立ち並び、

屋根の間から入り江が見え隠れする、

道はいよいよ山道に向かった。

アップダウンを繰り返しながら左に右に

大きく曲がる度、山肌が顔面に迫る。

稀にバス停の看板が建っていたが

人影は無く、夏の日差しが照り続けた。

筋肉の疲労は漕ぎ続ける脚よりも先に

身体を支える腕や背中に顕れる。

トンネルを抜けて点々と立ち並ぶ標識を

確認しながら橋を渡って仁田の村落を

過ぎると、国道は川筋に沿って

更に山間を縫うように続いた。

私は届かない夢への焦り、

苛立ちをペダルに込めて山道を登った。


海栗島での勤務体制は、

日勤者とシフト勤務者に分かれ、

妻帯者の多くは日勤者で、シフト勤務は

3班編成で日勤・日勤・夜勤・夜勤・明け・休みの組合せだった。小倉から百三十㎞、

釜山まで五十㎞の海栗島ではテレビの

スイッチを入れれば釜山から一昔前の

“鉄腕アトムの主題歌”が流れて来たが

本土の電波は届かず、基地内の夜の

娯楽は麻雀とカードと酒だけだった。

初心者の私は負けるのが常で、其の度、

スーパーのアルバイトを始めた恵の顔が

浮かんだが、何よりも酔えない酒に

過ぎた時間が空しかった。


第十六節 「島の女」


 三階の内務班には通電隊の他、管制隊と

業務隊が居住していて交代で娯楽室の運営

を担当した。ビールに日本酒・ウィスキーと缶詰、ソーセージ、つまみ菓子等を揃え、

下士官は月に一度は当番に就いて翌日、

次の担当者と在庫を確認して引き継いだ。


又、私達は下宿を借りて休みの日は比田勝で過ごしたが、私は同じ時期に海栗島に着任

したI君と、町外れの二階に部屋を借りた。

(後で分かったが、其処は以前、置屋で)

道路に面した細長い二階建ての家屋は、路面から一段低く、二階のガラス窓は見上げた

目の先にあった。薄暗い階段を上がった左手には共同の洗面所があり、正面のトイレも

共同だった。廊下伝いにガラスの引き戸が

五つ並んでいて私達は真ん中の八畳で、白い土壁で仕切られた隣奥には二十代前半の女子店員が借りていた。洗濯機も調理場も無い、寝るだけの部屋だったが(下の階には家主の老夫婦が住んでいて)時間になると

女子店員は透けて見えるネグリジェ姿で風呂を貰いに降りた。赤い水玉の入った下着と

素足は男社会から出て来た者には強烈で、

テレビも無い部屋で隣の物音が気になった。

…ほぼ下着姿の若い女性を見て、理性を

保てる男が居るだろうか…


“カッ千―ン・コロコロ”と小石が

ガラス窓に当たって瓦屋根を転がる音が

すると、隣の部屋の明かりが点いて女子

店員は小走りに階段を降りて行った。

カーテン越しに覗くと四十歳前後の男が

窓の下に立っていて、(店員が男を部屋に

入れると)時を待たずに土壁越しに女の

喘ぎ声が響き、男女の営みが始まった。

間もなくして、男は灯りの無い道を帰る、…漁業以外主だった仕事が無い離島では男女の

大半は高校を終えると博多に出る為、年頃の

男女は限られていた。然し、いくら娯楽が

少ないとは言え、見知った顔だけの狭い町

では噂が広まる、益して相手が既婚者ならば

尚更だった。太陽が真上から照り付ける中、

私は女の下着姿を振り払いながらトンネル

を抜けた。手を伸ばせば届く処(スナックや売店等)に若干の年頃の女性が居たが、私には“色んな女と付き合って伴侶を選ぶ”との説には納得し兼ねた。寧ろ、遊んだ分だけ

未来の伴侶との出会いが遠のくような気が

したからだ。


 左と右に対馬海峡と朝鮮海峡が交互に

見え隠れして、万関橋に差し掛かると

二つの海峡は運河で繋がった。橋の高さ、

水の上に居る違和感を振り払うように

走り抜けると厳原の街は目の前だった。

対馬藩主の居城が有った城下町は、

通り抜けて来た漁村の集落の様相とは

一変して、人も建屋も活気に満ちていた。

夏の陽は未だ頂上にあり、武家屋敷跡の

石垣を抜けて旅籠を決めると私は

万松院を目指して再びペダルを漕いだ。

由緒ある寺院や武家屋敷跡を目にすると、

政治・経済の中心があった事が彷彿された。私は飛び越えられそうな低い石垣に

親近感を抱きながら旅籠に戻った。


朝早く釣りざおを担いだ二人連れが旅籠

を出ると、空は海の色を映したような青空

になった。入江の多い対馬は島中に格好の

釣り場があったが、私達はもっぱら潜った。アワビ、サザエ、タコ、ナマコ、蟹等は採り放題でキスやイシダイが浅瀬で戯れていた。

アワビは手の平よりも小さいのは採らない事が掟で、身は食べ飽きて内臓だけを食べた。対馬の夏は異郷から来た者を和ませたが、

心を割って話し合える仲間が居ない憂鬱は

続いていた。


 届かない夢への焦りを振り払うように、

私はひたすらペダルを漕いだ。長い坂を

登り切ると、下りは急なS字カーブだった。

左カ―ブが終わって体重を右に移動したが、曲がり切れずに私はそのまま岩肌に激突して側溝に落ちた。ストロボ映写のように

自転車とカメラが頭の上から降って来る、

サイクリング・バックの革紐が切れ、脛の

皮が擦り剥けた。萎える気を取り戻して再びペダルを踏む、山道を終えると入江が見えて来た。集落をすり抜けて長い坂道を登って

行くと、トンネルからバイクが出て来た、

M士長だった。


厳原に比べれば比田勝は田舎で、飲み屋

の数も限られていた。従い、何処に行けば

誰に会えるかは歴然で、私の居場所はM士長の母親が営んでいる店だった。カウンターの奥ではちょうど瞳と同じ歳のM士長の妹の

S子が寝起きをしていた。S子は父親と同居

していない為か、何処か寂しげな表情は瞳を思い出させた。


夏が過ぎると私は漸く無線技術士の受験

勉強を始めた。微分・積分や行列式等の簡単な数式は教わっていたものの高等数学を解く必要があり、独学で新しい公式を理解するのは困難だった。更には、勉強する時間が無かった事で、基地内で勉強をしようにも私の

立場は独善的な行動が許されなかった。

従い、勉強は下宿でしか出来なかった訳だが、土壁越しに聞こえて来る男女の営みの声は勉強を妨げた。男は酒や博打で憂さ晴らしも出来るが、島の若い女性には何も無い。

顔見知りだけの狭い町で、それは身を崩す事だと分っていても、一時の快楽に身を委ねるしか無いのだろう。(離島に産まれ離島で

生きなければならない女の宿業は知る由も

無かったが)私はM士長の母親の伝手で下宿先を町の中程に有る豆腐屋の二階に替えた。


第十七節 「豆腐屋の二階」


 母屋の続きに二階屋を足した階下では

温厚な小父さんが豆腐を切り、若い奥さんが子供を背負って油揚げを揚げていた。

前の下宿では声も掛からなかったが、

風呂の準備が出来ると階段の下から

奥さんの明るい声が飛んで来た。

コンクリートで固められた五右衛門風呂は

外便所の手前にあって、孤独な受験生には

家族的な匂いと温もりが有り難かった。



 “班員の心を拓く為には馬鹿に

ならなければならない”そう自分に言い

聞かせて人一倍飲んでも酔えなかった。

何故なら、受験勉強は時間との戦いで、

一日の遅れは二日の損になる。従い、

飲み会や麻雀に付き合っても、その日の

ノルマを熟さなければならなかったからだ。

部屋に戻ると、私は問題集を開きながら

“何故、勉強しなければならないのか”と

自問する日々が始まった。


無線技術士の試験にトライする事は

青年海外協力隊に参加してアフリカに行く

為だったが、それは又、学歴社会への挑戦

でもあった。私には戦わずして学歴社会に

敗北する事も、目標を持たずに生きる事も

出来なかった。何故なら、其処には何時も

片足の方が居て“其処に行けば新たな仲間

に会える、其処を越えれば更に高い目標に

挑める”と鼓舞していたからだった。


バレーボールをさせてもソフトボーを

させても、若い班員のエネルギーを発散

させる事は出来なかった。比田勝には

スポーツ店を兼ねた文房具店が一軒有って、私はサッカーボールを手に入れた。

隊本部でサッカーを遣る事を告げると、

隊長・小隊長は即座に反対した。

グランドとは名ばかりで、石が混じった

空き地は危険が詰まっていたからだ。

(大きい病院が無い比田勝では)

“怪我をした際は福岡からヘリを呼ぶ事

になるが、悪天候の際はヘリも呼べない”

との事、私は「怪我をしないように一生懸命

遣ります」と頭を下げた。嘆願が通じて

サッカーを始めると、班員は狭いグランド

を一つのボールを追って走り回った。

土埃と汗にまみれながら、班員のエネルギーは漸く発散された。


M士長達も店の近くに一軒家を借りて、

S子が一人で留守番をするようになった。

夕方、チョコレート等を持参して

路地裏の一軒家を訪ねると、

S子はカーテンを開けて施錠を外した。

一緒にテレビを観ているだけだったが、

私には心が和む時間だった。


年の瀬、キープしていたダルマが空いて、マッチを擦って中に入れると

瓶の中程で青白い淡い炎が灯って消えた。

来週には恵の顔を拝めると思うと、

自然に胸が弾み、顔が緩んで来る。

恵は母の面影でもあるが、私の

理想の女性であり愛しい妹だった。

フェリーは午後八時に比田勝を発つ、

デッキには多数のテープが投げ込まれ

M士長とI君もテープを投げ入れた。

イカ釣りのランプの灯が見えなくなると、 夜の海は船底を叩く波の音に包まれる。

借り物のクーラーボックスには

アワビとサザエが満杯に詰めてあり、

瞳の喜ぶ顔と長旅でアワビが

死んでしまう不安が交差した。

岩場で火を焚いて待つ中、

潜りの得意な班員が海に入ってくれた。

冬の海はアワビが浅瀬に居るとの事で、

二・三十分ほど潜っただけで

クーラーボックスは一杯になり、

頭上では目敏いカラスが騒いでいた。


第十八節 「上町のバス停」


 電話に出たのは小母さんだったが、

恵が帰っていて小母さんは一言云うと

恵に代わった。逸る気持に窓を拭くと、

バスは一つずつ見慣れた風景を後にした。

上町のバス停には昨年買ってやった

赤いトックリのセーターを着た恵と、

縫いぐるみのような子犬を抱いた瞳が

待っていた。左手にクーラーボックスを

提げ、右肩に鞄を抱えると恵は恥じらう

ように右手を添えたが、私は恵のこの

仕草が好きだった。


上町のバス停から学校の横に出ると、

新たに舗装された道路が小高い山の

裾野まで延びていた。瞳の歩調に合わせて

緩い坂道を登った造成地の左奥には、

平屋の新しい家が建っていて(その家の

前には車が一台停まり)右奥には建設中の

屋根に上棟式の旗が揺らいでいた。

家の前では小父さんと誠が犬小屋を造り、

小母さんは買い物に出掛けていた。

クーラーボックスを開けて瞳を呼ぶと、

瞳はアワビの動く舌に黄色い声を上げたが、サザエを手にしたままじっと見つめていた。

(皆で海に行った事を思い出したのか、)

「一杯食べな」と頭を撫でると、頷く瞳の

目から涙が落ちた。着替えて降りて行くと、恵は小母さんを手伝う(荷物を運ぶ)為に

自転車で出掛けた。


小母さんはアワビを新聞紙に包むと

(誠を)鈴木さん宅に届けに行かせた。

鈴木さんは建売住宅の基礎のコンクリーや

側溝の構築等の仕事を回してくれる他、

S学会の地区の責任者で公私ともに世話に

なっていた。又、鈴木さんの人柄は寡黙な

小父さんの心を拓いて信仰に導いていた。

小父さんと対面でビールを交わしていると、賑やかな台所からサザエを焼く匂いが漂い、匂いを嗅ぎつけたように誠が戻って来た。

アワビの刺し身とサザエのつぼ焼きが並び、私はサザエの内臓とひだを取って

隣に座った瞳の皿に乗せてやった。

風呂から上がっても瞳は何時になく

私の傍に居て、恵が「お兄ちゃんと寝るの」と言うと、瞳は顔を染めて立ち上がった。


翌朝、恵は着古した

赤いジャンバーにジーパンを履いて、

みぞれの中を傘も差さずに出掛けた。

後を追うように瞳が子犬を連れて行く。

小父さんと誠は木枠を小屋に運び、

小母さんは勝手口を出入りしていた。

私は子犬の覚束ない足取りと

瞳の不慣れな手綱捌きを眺めながら恵が

出掛けに置いていった本を枕元に重ねた。

恵が信望するI先生の著作で、タイトルの

「〇〇〇〇」に惹かれて本を開くと冒頭に

印しがあり、ページを捲って行くと

又、赤鉛筆で印した個所があった。

階段を上がる軽い足音は瞳で、

足音が止まるとドアのノブが回った。

枕元で佇む瞳に「おいで」と声を掛けて

枕を敷いてやると、瞳は嬉しそうに

頷いて布団を捲った。瞳は産まれる前から

館のマスコットだったが、私は

歳の離れた瞳と接する機会は稀だった。

恵に真似た髪を撫でてやると、瞳は

父の匂いを探すように寄り添った。


 恵が風呂から上がって皆が揃うと、

私は誠に工業系の高校に進み、

出来れば上の学校に進むよう助言した。

恵は正看護婦になりたいとの意志が強く、

来年は新たに出来る正看の課程に進みたい

との事だった。信仰が恵を強くするのか、

恵は益々父に似てきた。小父さんは、

隣に土地を借りて作業小屋を建てる話しが

進んでいた。作業小屋があれば雨や風に

拘わらずに仕事を行う事が出来る。私は

青年海外協力隊に参加してアフリカに

行きたい事を告げた。恵は噛み締めるように聞いていたが、小母さんは衛生面や治安面

を心配して“平凡な人生”を望んだ。休暇に移動日数が付与された為、私は丸一週間家に居る事が出来たが時の経つのは早い、瞳の

泣き出しそうな頬を撫でて私は家を出た。


第十九節 「死の慰労会」


 鰐浦港から眺める海栗島は浮かぶ保養所

の如く目の前に横たわっているが、内務班に

戻れば。そこは隔離された下界だった。

北部方面のT基地では警戒区域に身元不明機が侵入すると職場の警報行灯が点灯して

点検を中止する等の緊張感があったが、

南部方面の海栗島ではそういう緊張感は

皆無で駆け足や武道が奨励されていた。

毎年、春には比田勝や鰐浦から民間人を

招待して競技会が催され、終了後は慰労会

が設けられる。武闘会に参加した余韻が覚めないまま受信所に上番すると、間もなくして“OO三槽が屋上から落ちた”との連絡が

入って私は自習室に急行した。既に机や椅子は片付けされて、白いシーツを被せた長机の上にOO三槽が横たわっていた。OO三槽は地上無線の班員として転任して来たばかりで、同じ班ではあったが彼は送信所勤務だった為、私は未だ話しをしていなかった。間も無くして奥さんと三歳位の娘が駆け付けると、否応なしにあの日の出来事が思い出されて

私は居たたまれない想いで自習室を出た。


 数日後、“内務班が乱れているから事故が起きた”との理由で私は群司令官から始末書の提出を要請された。然し、彼は交代勤務に入っていた為、内務班で仮眠を取っていたが既婚者の彼は内務班員ではなかった。…

それは先日、青森県出身のT士長が娯楽室で群司令を投打する事件があって、その腹癒せとのことだった。又、慰労会を屋上で行うように提案したのは群司令自身で、危険だからと反対したのは古参の幹部だった事。慰労会終了直後に万国旗の撤収を指示した為、未だ酔いの抜けていなかったOO三槽が万国旗を撤収する際に手摺から足を滑らした事が伝

わって来た。…事故は必然的に起こった訳

だが、何故、” OO三槽だったのか“と思うと、両親の事故と重なって私の脳裏には

再び神仏への疑念が沸いた。奥さんの

お腹は大きく、…父親の顔を知らずに

産まれて来る子が哀れだった。

人の噂も四十九日で、OO三槽の家族が

比田勝を離れるとボールを追う奇声が戻り、

管制隊や業務隊の若い隊員も交えて

海栗島はサッカーで染まっていった。


 正月に帰省した者には夏季休暇の

順番は回って来なかったが、私は

無線技術士の試験日に合わせて休暇を

取った。受験生には時間が全てで、

お金で時間を買う事も意問わなかった。

フェリーのグリーン室は最上階にあって、

嘗て天皇・皇后陛下が五島列島を訪問

した際に造られたとの事。二つの大きな

ベッドとソファーを置いた洋間は

長いカーテンで囲われている。

カーテンを捲ると前方と左右は厚いガラス

が天井まで一枚板で伸びていて、暗い海原

にイカ釣り船の灯りが点在していた。

私は一分一秒を惜しんで問題集を開いたが

極度の焦りに頭が真っ白になり、大きく

揺れる個室で一睡もせずに過ごした。

試験会場は熊本のお城近辺で、小倉から

電車に乗って会場傍の旅館に泊まって

試験に臨んだが結果は案の定だった。


受験生は合格するまでが受験生で、益して(工学系の)大学を出ていない私は予備試験からのスタートだった。理由はどうであれ、年に一回だけの試験に落ちた事は一年を

無駄にした訳で(挫折感は大きかったが)

私には悲壮感に浸っている暇は無かった。

何故なら、一人三役の業務形態の中で、

新たに配属された部下(年齢は私よりは上)の指導・教育が加わったからだ。後輩への

指導・教育はT基地のI士長への恩返し

であり、青年海外協力隊に参加する為には

当然の鍛錬でもあった。従い、私の置かれた立場では隊内で私的な時間は持てず、

受験勉強はもっぱら下宿先に限られていた。


第二十節 「初心」


 原油価格の高騰で不況が続く中でも

大手企業は生き残り中小の会社の倒産が

続いていた。自衛隊に居る私には経済の

事も、お金の価値すら実感が無かったが

弱者を顧みない大企業の倫理観や組合の

賃上げ闘争、腐敗する政治に憤りを覚えた。

巷では業種別格差も加わって、同年代の

大学生はより高収入が得られる企業へ、

より安定した職業を望んでいた。個人の

適性や能力よりも学歴を偏重する社会は

地方や離島に暮らす者には不公平であり、

経済的に恵まれない家庭に産まれた者・

親の居ない者には絶望すら感じさせる。

人の一生は産まれた時代・場所、

家柄で決定されるものなのか、

もがくほど崩れ落ちる蟻地獄の中で、

それでも私は這い上がろうとしていた。


 夢は変える事も捨てる事も出来るが、

そこには二人目、三人目の自分が居て

“初心を貫け、負けるな”と呟いていた。

受験生は飲んで帰っても勉強を続けなければ

ならない、一日の遅れは二日の損だった。

孤独と不安の中、私は来年の受験に向けて

勉強を続けた。届かぬ夢、孤独な時を癒すのはS子と一緒に居る時間と下宿の奥さんが

子供と部屋に上がって来た時だけだった。


 青森県出身のS君は中学を終えると

職業訓練所を経て入隊した。…中卒でも

自衛隊に入れる事を知った訳だが…私は

S君の将来を考えて高卒の資格を得ること

を勧めた。幸い公務員は恵まれていて、私の

同期の多くも通信制の大学に入学していた。

長崎の高校に問い合わせるとN高校から入学の許可を得て、S君の入学手続きをした。

S君がスクーリング期間中は人員の不足に

なる事も考えられたが、私は“個の質を

高める事が組織の質の向上に繋がる”との

自負心と、一人の班員の向上心が他の班員

へ与える影響の期待があった。


海栗島でのサッカーは熱を帯び、その日、グランドの土手には紅白の垂れ幕が張られ、三隊(通電隊・管制隊・業務隊)による

紅白試合が行われた。刻々と刻む音に焦り、見えない明日への不安に震えながらも、私の血潮は誰かの為に為し得た充実感、一つの

改革を成し遂げた爽快感で沸き立っていた。

そこには“苦労は買ってでもせよ”との

K区隊長の言葉があり“今、しなければ

ならない事をせよ”との決意と

片足の方への誓いがあった。


海栗島から釜山までは約四十㎞で、見通しの良い夜は岸壁に浮かぶ漁火の他、釜山を

登る車のライトが見える。ヒトツバタゴの

白い花が咲き終わると潜りの好きな班員は

ドライバーを研ぎ、三本モリを磨いた。

アワビは舌が見えている間にドライバーを

入れないと、岩から剥がすのが困難になる。モリの柄にゴムバンドを着けて岩陰に潜んでいるタコや魚を衝くが、泳いでいる魚を衝くことは不可能だった。漁師の方々は小型漁船

からガラス箱を覗いてウニを採っていたが、蜜業者の私達に出くわすと(寧ろ彼等が)

遠慮がちに竿を入れた。鰐浦の波止場では

奥さん方がウニなどの箱詰めをしながら

アジを釣っていた。アジはブリの一本釣り

の餌との事で、背中越しにアジを釣り捨て、又、針を投げ込む様は不思議だった。


 試験勉強は試験日からの逆算で極度な

鬱との戦いでもあったが、世の中から隔離

された辺境の島は勉強には最適だった。

下では温厚な小父さんがステンレスの水槽に入った豆腐を切り、窓際では奥さんが女の子

を負ぶって薄く切った豆腐を揚げている。

トイレはそこを通り、風呂場を抜け出た外にあった。私は半生の豆をかじって以来豆腐は好きでなかったが、奥さんが豆乳を持って

上がって来るとドキドキしながら啜った。

人妻とは言え、女性との会話には慣れてなく

風呂場でカーテン越しに目にした薄いピンクの肌が瞼に残っていたからだ。


アジサイの季節、花の色の変化が

カウントダウンのように試験日を告げる。

熊本城近くの旅館に泊まると、中体連の

中学生の団体客が押し掛かけていて木造の

廊下を走り回った。一年の決算に臨む者には苛立つ騒音だったが試験の手応えは十分で、後日、待ち侘びた予備試験合格の通知が

届いた。浮かれる暇も無く、私は早速本試験の準備に掛かった。本試験は四科目で、科目合格には二年間の有効期間があった。

自衛隊では、今、目指している資格を

得れば自動的に二等空曹に昇進し、幹部試験

を受験出来るシステムだった。私は

青年海外協力隊に参加した後は自衛隊に

戻って幹部になる事も考えたが、(自衛官の身分では協力隊への参加は出来なかった)


第二十一節 「反抗」


 台風の隙間を抜けて同郷のN君が

遥々訪ねて来た、二年振りの再会だった。

専門学校を終えると国鉄に入るとの事、

青年海外協力隊を目指している事を話すと

N君は怪訝な顔をして自分の事のように

心配した。苦楽を分かち合える、それが

同期生だった。翌日の夜、フェリーが

岸壁を離れるまで私は久し振りに歌い、

はしゃぎ明かした。


 無線機は、原理が同じでも使用する

周波数によってアンテナもメンテナンスの

ポイントも異なる。航空自衛隊の各基地は

N社製の①2000M㎐帯を使用したO/Hシステムで繋がり、最大960チャンネルの電話回線を多重化して伝搬する事が出来、

パラボラアンテナが背振山を向いていた。

丸太の櫓のロケット・アンテナは航空機との交信に使用されるUHFの②地上無線機の

アンテナで、300~500M㎐の周波数帯を遠隔操作で切り換えられる。又、③ヘリコプター等で使用されるVHFの救難用無線機は100~150M㎐帯を使用していた。

切り立った崖の上に建っている三角鉄塔は

3~30M㎐帯を使用したHF無線機の

アンテナで、春日基地とのモールス通信に

使用される。その他、海上自衛隊との間には朝鮮戦争当時の野戦型無線機(TRUCK

24)があり、それは八木アンテナを使用していた。


 O/H無線機の最終段は4個の

板極管を使用したプッシュプル増幅器で、

キャビティーを調整して互いに引き合う

出力のバラスを取らなければならない、

作業が終わる頃には白手は破れ、親指の

内側にまめが出来た。UHF・VHF帯の

無線機はボロメータを使用して調整するが、弱電でも感電すると衝撃が肩まで来た。


遣ってはいけない事だが、各設備は

生きた教材でもあった。オシロスコープを

用いて振幅変調や周波数変調の現象等を

見せてやると後輩達は一日中、飽きずに

ブラウン管を見入った。又、理論的には

理解出来なくても、身近にある電話器等の

原理を説明して、何故「あー」が「あー」に聞こえるのかを波形で見せれば

現象から体感させることが出来た。


通信設備に興味が出て来ると

次は点検作業の予習・復習で、

航空自衛隊では予防保全のシステムが確立

されていたが、自ら点検作業の予習復習を

する者は皆無で、私は黒板を用いて点検の

手順等を教え、間違いや覚えていない個所があると黒板の上にある竹刀で叩いてやった。

折しも、福岡では陸上の少年自衛官が一般の隊員に刺される事件があって、私は同期の

K君からも心配する電話を受けたが、未熟な私にはその手法しか無かった。


 その日は台風が近づいていて、鰐浦港から海栗島への三時(夜勤者上番用)の定期便は欠航した。隊本部に電話を入れると、

小隊長の指示は明朝の便で上番するように

との事で、私は通電隊の隊員に伝えて

比田勝に戻った。翌朝上番すると

管制隊と業務隊の交代勤務者は昨日の

五時の便で上番していて、小隊長の

「何故、次の便で上番しなかったのか」

の言葉に私は耳を疑い、我慢の糸が切れた。

定期便が欠航した際は次の便で

上番する事になっているとの事だが、

私はそれを知らなかったため

小隊長の指示に従っただけだった。


職場から隊長に電話をすると、

隊長は統制所に駆け付けて来て

「どうした!」と訊ね、

「小隊長に附いていけないので退官します」と云うと、隊長の驚く顔に

私は自分の発した言葉の重さを感じた。

唐突な言葉の裏には上司としての品位や

ヤル気も無く、部下への温かみがない

小隊長への反感が溜まっていた。

退官する旨を伝えると班員は留まるように

哀願し、私の胸は熱くなったが六大義務の

有る自衛隊において上官に反抗するためには退官するしかなかった。


退官日は十二月末日に決まったが

年次休暇が残っているので、実際に島を

離れるのは十二月の初旬との事だった。

小母さんに電話を入れると「そこでは信心

が出来ないから、戻っておいで」と言う。

確かに隊内ではS学会の話しはタブーだったが、傍から見れば厳格で窮屈そうな自衛隊の生活も、交通ルールのように中に入って

みれば居心地は悪く無かった。益して、

後輩への指導を通す中で、それが自分の

天職であるように思えて来た昨今だった。

一月の科目試験の受験地をS市と記入して、私は残された日々をベストで過ごした。

島を離れる日、ベッドの上には班員のサインが入ったサッカーボールが置いてあった。

青年海外協力隊に入ってアフリカに行く

前には、必ず顔を出しに来る事を約束して

私は島を出た。


第二十二節 「帰郷」


何時かは退官する身ではあったが、

協力隊に参加する為には無線技術士の資格

の他、苦手な語学の勉強も不可欠で先は

未だ長かった。“小父さん・小母さんを楽にしてあげたい”との気持ちとは裏腹に

橋げたは一瞬で崩れ落ち、気が付くと

私は白亜の館の前に居た。庭は荒れ果て

館はくすんでいたが、木枯らしが吹いても

父の理想、母の温もりは今もそこにあった。軽はずみな一言で計画は変わったが目標は

変わらない、変えられなかった。冬日が

滲みる中、私は土産も持たずに重い足取り

で裏道を登った。


 東側に建てられた作業小屋は鉄筋の

骨組みに半透明の波板で囲んであって、

小父さんはスコップで電動のコンクリート・

ミキサーに砂を入れ、小母さんは猫で

セメントを運んでいた。私に気付くと

小母さんは猫を降ろして小父さんは汗を

拭きながら「凡、お帰り」と声を掛けた。

仏壇に手を合わせて居間に戻ると、小母さんは暖めた甘酒を一椀置いて小屋に戻った。

「首を長くして待っていた」と言う小母さんの言葉通り、玄関のドアが閉まる間もなく

瞳は階段を駆け上がって来た。紺色の制服に白い襟、高校生になっても愛くるしい顔立ちと仕草は変わらない。(両腕を差し出して)

私を椅子から立ち上がらせると、(瞳の目は抱っこをせがんでいた)“下の者の面倒を

看る事”の鉄則の下で、瞳は皆に見守られて

育った。毎日、父は瞳を捕まえては頬ずりをし、瞳はくすぐったさに奇声を上げたが細い腕はしっかり父の首にしがみ付いていた。

瞳への頬ずりは父の一日の楽しみだったが

瞳の笑い声は館を明るく包んでいた。


父のようにお姫様抱っこしてやると、

瞳は目を閉じて私の胸に顔を埋めた。

恵が市内のアパートに越した日、手伝いに

行った瞳は泣き濡れて帰宅したとの事で、

母のように慕い、頼りにしていた姉が

傍に居ない不安と寂しさは今も続いていた。瞳の細い身体は女性特有の丸みを帯びたが、目を閉じた愛らしい顔は幼い日の瞳だった。「ミー、只今」誠の声に瞳は頬を染めて階段を降りて行き、再び誠の後から入って来た。手に提げた型の古い赤い鞄は恵の譲りで、

小母さんの申し出を断っても瞳は好んで

恵のお古を使った。瞳は聡明な姉が自慢で、

姉の物全てが瞳のお守リだったからだ。


 部屋を空ける為、誠が教科書を和室に

運び始めると瞳は着替えて買い物に出た。

タイマー仕掛けの電気炊飯器や自動洗濯機が普及した昨今、瞳の手伝いの大半は買い物

だった。小母さんは自転車に乗れない為、

恵が家を出てからは瞳が買い物を担ったが、

内気な瞳には辛い手伝いだった。誠は周りの心配を余所に、市内のM社への就職を希望

した。一昨年、M社の○○○事業部門の工場

が市内の外れに設立して、誠が通う工業高校からは希望すれば採用はほぼ確定との事、

その為、誠の目下の心配は渋滞する朝晩の通勤で、(恵は2DKのアパートを借りて一緒に住む事を申し出たが)誠は家から通う事を選んだ。誠には小父さん・小母さんの手伝いの他、瞳の通学も心配だったからだ。


机に向かうと夢半ばで戻った後悔が込み

上げてきたが、二級無線技術士の科目試験と一級無線技術士の予備試験を目指す私には

感傷に浸かっている暇は無かった。

瞳が夕食を告げに上がって来て、私は

退職一時金と賞与と給金が入った袋から

五万円を抜いて瞳にあげた。宗派の違う

我が家でも、来週はクリスマスだった。

日曜、昼前に恵がやって来て降りて行くと、

小母さんは恵が痩せ細った事を心配して

飲食店での夜のアルバイトを辞めるように

説得していた。恵は容易に折れなかったが、

小母さんの目が私に移り…私はアルバイト

を辞めるように言い放った。私には恵の

身体も心配だったが、女の子が夜遅くまで

働く事には抵抗を感じたからだ。

恵は上目づかいに私を見つめたが、

私の決意が固い事が解ると諦めて頷いた。

小父さんの仕事は忙しかったが今日は

午前中に終わるとの事で、誠は早朝から

手伝っていた。洗濯物を干して戻った恵を、瞳は「お姉ちゃん、良い」と二階に連れて

行き、私もお茶を飲み干して後を追った。


 引き出しから十万円を出して、

瞳の部屋に入るや瞳の奇声が飛んで来た。

二段ベッドの上の段には布団が畳んであり、二人は下のベッドに並んで腰を降ろし

毛布を掛けて足を温めていた。私は

女姉妹の仲の良さにどぎまぎしながら

「無理はするなよ!」と封筒を渡した。

小母さんは未だ父の通帳に手を付けず、

送ったお金もそっくり通帳に入れていた。

誠が家から通うか否かは別に、春休みには

車の教習場に行かせなければならないし、

私自身も車の免許が必要だった。

「お兄ちゃん」毛布を捲る瞳の誘惑を

撥ね退けて私は机に向かった。受験勉強は

時間との戦いであったが適度な息抜きも

必要で、小母さんの呼び掛けや瞳の

入室も妨げにはならなかった。


クリスマスイブ、瞳は小母さんに買って

もらった赤い半コートを着て玄関を出た。

昨晩、コートを着て入って来た瞳の顔は

赤子のように輝いて、私は瞳の中に女性の

一面を見せられた。恵と市内で待ち合わせ

るとので瞳は眠れぬ夜を過ごし、…

夕方近く、二人は紙袋を抱えて帰って来た。食卓の片付けを終えると瞳は二階から

紙袋を運んで居間のテーブルにひろげた。

小父さんと小母さんにはお揃いの

丈の長いジャンバーで、小父さんが

欲しがっていた物だった。

「マ!ちゃん」誠には自転車の

ハンドルカバーと手袋とマフラーで、

私には足元ヒーターだった。


 大晦日、恵は小母さんと台所に立ち、

瞳は各部屋の掃除をした。作業小屋には

筵が敷かれ、けやきの臼が置かれていた。

小父さんは臼と杵を何度か洗うと臼に

濡れ布巾を被せて、杵を水の入った

ポリバケツの中に浸した。焚火を囲んで、

私は小父さんとタバコを吸いながら

もち米が運ばれて来るのを待った。

二区画後ろの家の前では男の子が

洋凧の糸を引いて走り回っていた。

勝手口から小母さんが蒸篭を運び、

私は湯けむりが立ち上がる中で

久し振りにもち米をこねた。

私は中一の時から餅つきを手伝ったが、

出来栄えはこねの良し悪しで決まる為、

もち米をこねてつぶす作業は

餅を衝く作業よりも大事だった。

小母さんが餅を返すと、

誠は杵を高く振り上げて打ち下ろし

若い力が小屋中に響き渡った。

見守る輪の外には何時の間にか

男の子が凧を抱えて立っていた。


第二十三節 「恵の告白」


 三箇日が過ぎても恵は家に居て、

瞳に呼ばれて部屋に入ると

恵はベッドボードにもたれて俯いていた。

初めて見る恵のしおらしい仕草に、

私は只ならぬ気配を感じて立ち竦んだ。

「お姉ちゃん!」瞳の声に

恵は火照った顔を持ち上げたが、

それでも恵の口は開かない。

瞳に促されてベッドに掛けると

「お姉ちゃん、好きな人が居るンだって!」瞳の一撃に動悸が高まる中、

恵は意を決したように口を開いた。

相手は医大の五年生で来春の

医師国家試験を目指してアルバイトを

しながら学んでいた。…誠が家から

通勤する事が分かった今、彼と同居して

サポートしてやりたいとの事。


 あの日から恵は肩を張って生きて来たが、

今、少女に還ったかのように話す顔は幸せに満ちていた。彼を紹介したいと言う恵に私は首を横に振った。会いたくない訳では無い、

恵が選んだ男ならそれなりの男だろう。

俯いたまま、“看護婦国家試験と卒業式が

終わればアパートを借り直して同居したい“と言う恵に、「おめでとう!」と言うと、

瞳は恵の手を取ってしゃくり出した。

…侘しい女の一人住まいよりも、

好きな男と一緒に暮らした方が

お互いの支えにもなるし安心だった。…

小母さんに報告すべきかと訊ねる恵に、

首を横に振ると恵は顔を染めて頷いた。

瞳には未だ異性と一緒に住む事の意味は

分らなかったが、恵の恥じらう姿は瞳を

驚かせた。私は部屋に戻って二十万円を

抜き取って、「前祝いだよ」と渡すと

恵は躊躇したが、夜のアルバイトの件を

ダメ押しして私は部屋に戻った。


 翌朝、恵は早々に家を出た、(恐らく同居

する事までは話していなかったのだろう。)

恵の恋の成就を願う瞳は朝から私にまとわりついた。周りでは相性の合う女性に出会う

為には多くの女性と付き合うべきとの考えが大半であったが、私はその考えには賛同

出来なかった。遊んだ方が良い女に出会えるはずもないし、願った以上の伴侶に出会う為にはそれなりに我が身を清め高めなければ

ならないはずだ。瞳は商業系の高校に通って

いたが、市内には誘惑も悪縁に近付く機会も多く、私は赤子のように無防備な瞳が心配

だった。未来の伴侶に出会うまでは無垢な

瞳の貞操を守らなければならないと本気で

思ったが、其れは誠とて同じ想いだった。


瞳は自分で本を読む事は稀で、

瞳の知識は恵から聞いたものだけだった。

「ミーちゃん、アンナカレーニナを

読んだ事があるかい」…首を横に振る瞳に

私はアンナカレーニナのあらすじを話して、

アンナとヴロンスキーの身勝手な生き方、

周りの者をも不幸にするような生き方は

あってはならない事、幸せには日々の積み

重ねが必要だが、不幸に陥るのは一瞬なので気を抜いてはならないこと、そして私は、

瞳の両手を取って“片脚の方との出会い”

を話した。堪え切れず涙がこぼれると瞳は

驚いたように目を開き私の心中を覗いたが、

瞳だけは必ず守り抜かなければならない、

それは私達の暗黙の戒めだった。

闇は深い程抜け出る事は難しくなるが、

暗闇でなければ見えないものもある。

如何なる境遇にあっても、誠実に一生懸命

生きれば幸せが掴めるはずだ、恵も瞳も

必ず幸せになってほしい。私は久し振りに

仏壇を開けて父と母の遺影に手を合わせた。


退官して二ケ月が過ぎた夜、

対馬のM士長からの電話で

○○小隊長が島を出るとの事。

自衛隊は想像に反して民主的な組織で、

私は退官願いを出した際にアンケート

(退官する理由、尊敬する上司名、

尊敬出来ない上司名)を書かされた。

尊敬する上司は後にも先にもK区隊長で、

尊敬出来ない上司に二人の名前を挙げた。

その二人が供に島を出る事を知って

私は電話口で勝ち誇って見せたが、

それは職を賭した空しい勝利だった。

振り返れば対馬での四年間は遣りたい事、

遣らなければならない事に追われて、

いくら時間があっても

いくら身体があっても足りない、

無我夢中で過ぎた四年間だった。  


時計の針は止まらない、

赤面するような行為も、

燃え滾るような怒りも、

孤独の中の闘いも、

青春の時計の針は駆け足で回る、


第二十四節 「試験日の朝」


 受験生には時間が全てだったが、

毎日同じタイミングで入室する瞳の足音も

コーヒーをこぼしながら入って来る仕草も、それは瞳らしく心が和む一時だった。

試験日の朝、自転車で隣町の駅に着くと、

改札口兼待合室には行商の小母さん達が

ストーブにあたって居た。切符を購入して

振り向くと小母さん達は「どうぞ」と間を

空けてくれ、私はお辞儀をしながら問題集

を取り出した。受験生には人の目を気にする余裕は無く、一分一秒が貴重な時間だった。


S市までの一時間半は降りる人も無く、

S市に近づくにしたがい車内は高校生達で

混み合った。会場は丘の上の○○大学で、

試験は二日間に渡って行われるが

(七月の試験で二科目に合格している為)

受験するのは残りの二科目だけだった。

試験時間は二時間半あったが、一時限目の

科目を一時間半で終えると私は次に備えた。二時限目は昼食を挟み一時半からで、私は

休憩場所を確保するとアンパンを取り出して早い昼食を摂った。


試験の結果を待つ間、

私が教習所に通い始めると誠が続いた。

巷では自衛隊に入れば車の免許は付いて

回ると思われているが少年自衛官は例外で、例え免許を取得していても生徒課程の

期間中は免許証を没収された。

二月に入ると恵の看護婦試験もあって、

落ち着かない日々が続いたが、

私は合格通知を受け取って

免許証の申請手続きを行った。


三月、春先のどか雪が一面を覆い、

小父さんは瞳の長靴を持ってバス停に

迎えに行ったきり戻って来ない。

誠は二年間自転車で市内の工業高校に通い、瞳が高校に入ると一緒にバスで通学した。

瞳を守り、小父さんを手伝いながら強く

思いやりのある男に育った事が嬉しかった。小父さんに中古車を購入してもらうと

誠は会社までの路を何度か試走した。

小母さんに「凡のお金も入っているよ」

と言われて誠は礼を云いに来たが、

通帳は私が預かっていてそれは嘘だった。

看護学校の卒業式に出席した小母さんは

涙ながらに仏前に報告し、明日は誠の車で

引っ越しの手伝いに行く。

私は未だ恵から連絡を受けておらず、

湯上りに瞳が部屋に来てその事を

懸念したが私は首を横に振った。

世代の差は“同棲生活”を理解出来ないし、云うべきは恵自身だったからだ。


翌日、小母さん達が戻る前に

居間の電話が鳴って電話に出ると

「お兄ちゃん、有難う」と

恵の潤んだ声が聞こえ、続いて

「お義兄さん、心配掛けてすみません」

と落ち着いた男の声が響いた。

私は一言「恵を宜しくお願いします」

と云って受話器を置いた。

小母さんがどんな思いで

手伝ったのかは計り知れないが、

食事を伝えに来た瞳の目は赤く充血し、

「お兄ちゃん!」と言って泣き出した。

恵の青春は母親代りの日常に明け暮れ、

そんな姉が掴み取った幸せが

瞳にはたまらなく嬉しかったのだ。

「小父さんに知れるぞ」、

「玉ねぎが浸みたンだもん」

涙を拭くと瞳は弾んだ足音で降りて行った。


第三章 「運命の出会い」

第一節 「キャンプ座間」


無線技術士の免許証を受け取り、私は

月刊誌の求人欄を開いて履歴書を提出した。

横浜で水道局のテレメータの管理を

行っている会社から直ぐに面接したいとの

電話を頂いて、私は翌日横浜へ出向いた。

M社はテレメータの管理の他ポケベルの

修理も扱っていた。面接を担当したのは

予科練出身の専務で、(私が少年自衛官の

出であることが分ると)面接は昔話を交え

て六時間に及んだ。「新入社員の心得」

なる本を頂いてホテルを出ようとした時、

部屋の電話が鳴った。(在日米軍で

マイクロ回線のメンテナンスを請け負って

いるT社からで)“貴方の先輩が

キャンプ座間で課長をやっているので

会ってみないか”との事だった。

…相鉄線を乗り継いで相武台前に着き、

営門所から電話を入れると…

N先輩が車で迎えに来た。初対面でも

同じ釜の飯を食べた繋がりなのか、

本宮氏と同期生のN先輩が

局舎内を案内してくれた。


座間局は沖縄から東京までの

日本を縦断するトロッポ回線と

関東一円の米軍キャンプを結ぶ

関東マイクロ回線が合流する、

1956コミュニケーショングループの

重点局との事で、四月からT社が

請け負う事になり、N先輩が福岡から

課長兼サイトチーフとして

転任してきたばかリだった。

自衛隊と米軍の設備の差は一目寮然で、

バックアップ電源は二重三重に完備され、

計測器棚にはヒューレットパッカー社製の

測定器がずらりと並んでいた。

装置室に囲まれた統制所には

数名の米兵が勤務していて、英会話を

習得したい私には絶好の職場だった。


座間から直接家に戻って(M社に)

お断りの電話を入れると、落胆された

専務さんの声が耳に滲みた。夕食後、

座間に行く事を話すと小母さんは

思い出したように立ち上がった。

玄関から小母さんの歯切れの良い

声が響き、受話器を置いて戻ると

「凡!横浜に行きな」と告げた。

小母さんの従妹が横浜に住んでいて、

二年前に旦那さんを亡くして

娘二人を抱えた女所帯の為、

同居して欲しいとの事だった。

同じ神奈川県でも横浜から座間までは

二回の乗り換えがあって二時間弱の距離

があったが、都会の侘しい独り暮らしや

引っ越しの手間と経済面などを考えて

私は世話になる事にした。


座間での勤務は

朝の九時から翌日の九時迄で、

勤務・明・休みのローテーションだった。

二十四時間の拘束時間が有るものの、

勉強する時間が出来た事は有り難かった。

横浜の小母さんは夫の後を継いで海の

タクシーのような仕事をしているとの事、

小柄で小太りな姿からは想像が付かない。

益して、泳げない事を聞かされると

尚更合点がいかなかったが、六日に

一度の間隔で夜勤がある事を聞くと

呼ばれた理由が理解出来た。

父親似という上の娘は中二で

小母さんに似た下の娘は小五だったが、

私達がそうであるように二人の

顔には明らかに陰りがあった。


 座間での作業日報は英文で、

タイプライターに三枚の用紙と

間に二枚のカーボン紙を挟んで

打たなければならない。私は初めて頂いた

給料で手動式のタイプライターを購入した。

一分間に百八十文字が標準スピードとの事

で練習すると、一週間後には手先を見ないで打てるようになったが小指は腱鞘炎の

一歩手前だった。半年後、私は

マイクロ・カセットテープレコーダーと

英会話のカセットを購入した。英会話の

習得は仕事の上でも不可欠だったが、

一時間半の通勤時間に何度テープを回しても

苦手な語学は容易に身に付かなかった。


青年海外協力隊の一次試験は

職種別の試験と英語の基礎能力で、

人目が気にならない都会は勉強には

好都合だった。そんな最中、同僚の

Nさんが石廊崎で飛び降り自殺をした。

開所間もない職場は動揺に包まれたが、

Nさんが自殺に至った事情を知る者は

居なかった。私はNさんとはシフトが

異なる為話す機会も稀だったが、

思い起こせばNさんには笑顔が無かった。


あの日、私は両親を一瞬に失い、

目の前が真っ暗になって神仏を

恨んだが、生きなければならなかった。

それは瞳や誠を守る事と自分の為すべき事、そして父の意志がそこにあったからだ。

父は底辺で苦しむ人に光を当て、

苦労もせずに金を得ている人や

理不尽に権力を行使する人を嫌った。

そんな父の姿を通して私の五体には

学歴社会や金権社会に対する反感が

沁みつき“社会を変えなければならない”

との思いが込み上げていた。


例え希望を失い、神仏から見放されても、

人は使命がある限り(使命を感じて)

生きなければならないのだ。

彼はどんな悩みを抱えていたのか、

私達に出来る事は無かったのか、

残った者には後味の悪さが駆け巡ったが、

そんな出来事も何時しか

都会のうずの中に消えて行った。


 経験者の私は、ほどなくして      シフト・スーパーバイザーに任命された。

座間局は「関東マイクロ回線」の府中・

厚木・上瀬谷を対向局に持つと伴に、

無人局の相模原を抱えていた。又、NTTの

借上げ回線(岩国―赤坂)の中継局であり、

トロッポ回線(八重岳・知覧・背振・六甲)の統制所の役目も担っていて、回線の

トラブルを切り分けて特定する

責任と権限が与えられていた。


対馬での後輩の育成を通して、

私は顔の見えない相手でも

一言二言話せば相手の技能のレベルや

性格や顔さえ想像出来るようになった。

熟慮して選んだ職では無かったが、

私にはこの仕事が天職のように思われて

世の中の摂理の不思議さを感じた。


 測定器の台数の差は一目瞭然で、

自衛隊と米軍とでは仕事の質も雲泥の

差があった。自衛隊の通信設備は

三年毎にオーバーホールが計画されていて、主要機器の大半はメーカーがユニットや

部品等を交換して調整・整備を行う。

従い、機器の特性を保つ為の高度な

測定や調整等は不要であったが、

米軍ではそれらの測定も私達が行った。


又、有事が想定される自衛隊でさえも

日本人は“事なかれ主義”が根強く、

リスクを伴う点検はしない主義だったが、

米軍では回線断の危険性を伴うような

電源の切り換え試験やバッテリィーの

実負荷試験等も日常的に行われていた。

戦後、世界の平和維持軍として闘い続け

ている米軍と抜け殻となった敗戦国日本

の自衛隊との意識の差は歴然だった。

その他、座間局には相模原無人局の

維持管理及び近隣の上瀬谷局・厚木局の

計測器を横田の検定所へ運搬する業務

もあって、免許取り立ての私には

肩の凝る仕事だった。


 航空自衛隊の業務の大半は米軍の

コピーだった為、私は違和感無く仕事に

馴染めたが技術指示書等は全て英文だった。

日本語に訳した参考資料も有ったが、

それは学習の為だけで現場での使用は

禁止されていた。…例え日本語の資料を

使用しても、失敗が許されない状況下で

高度な測定器を使用して行う点検・調整の

作業は、先輩方の手法を見せてもらうのが

早道だった。


サイトチーフのN先輩は、何時も

腕を組み又は脚を机の上に投げ出して

現場に出る事は殆ど無かったが、

その日、サブチーフのKさんが

「チーフが今から○○の調整の仕方を

教えてくれる」と血相を変えて伝達に来た。

私達は設備の前に集ってチーフの一挙手・

一投足を眺めていたがサブチーフの形相は

真剣そのもので、私は一つの技術・技能を

習得する姿勢をサブチーフから学んだ。


 職場には様々な方が居たが同じ仕事に

携わる者は何処か同じ匂いがする、

趣味や育った環境は違っても

考え方が似通っているからだろうか。

対馬に比べれば故郷は近く、小母さんや

瞳の声も近くにあったが、私はお盆も正月も帰らずに過ごした。(開設が間もない為に

休みを取り難いこともあったが、)

瞳が誠の車で通学している事の安堵感と

語学の勉強が進まない焦りがあった。


恵の彼氏が医師国家試験に合格して

誠と瞳を招いてささやかな合格祝いを行い、

研修医の身だが来春式を挙げたいとの事で、

瞳の潤んだ声に恵の幸せを願いながらも

無力な我が身が情けなかった。

父が生きていたなら、母が生きていたなら、

思いを馳せるほど空しさが込み上げてきた。


第二節 「指針のままに」


 小母さんは治安が悪く衛生面も悪辣な

後進国に行く事には反対で(母がいたら)

“平凡な暮らしを願った”はずだと云う。

然し、私にはそれ以外の選択しは無かった。

“外国語をマスターする事、二十一世紀は

アフリカの世紀”とのⅠ先生の指針と提言

の下、青年海外協力隊に参加すれば新たな

仲間に出会える。アフリカの大地を踏めば

次の進路が見える。私は唯それだけを信じて生きていた。学歴・金権・差別社会への反感を抱きながら“どうすれば社会を変えられるのか、自分の為すべき事は何なのか”私は

不甲斐無い我が身にもがき苦しみながら

一生懸命生きてきた。目標が無い、怠惰な

生活は死”であると伴に“片足の方への誓いを破る事”だからだ。


 受験生には息抜きも必要だったが時間を

束縛される事は腹が立つほどイライラした。

そんな胸中を知らずに、熱烈なS学会員

である横浜の小母さんは、朝晩の勤行や

青年部の会合への参加を強いた。(八年前、下町に東京の青年が訪ねて来たが紹介したのは小母さんだった)居候の身の私は迎えに

来られた青年に伴われて会合に出席したが、

会場は同年代の青年の熱気と希望に満ちた

目で埋め尽くされていたものの、(折しも

選挙が間近だった為か)檀上の各幹部の

講話は最初から最後まで選挙の応援だった。

何故なのか、信仰を求めて出席した者に

何故選挙の話ばかりをするのか、I先生が

新聞や小説で述べられているのは

“信心による闘い”であり、政治団体や

組合曲がりの活動では無い筈である。

然し、檀上の面々は新聞でも見かける

I先生の側近の方々だった。


選挙戦が酣になると小母さんは

「職場や友人で頼める方は居ないの」

と尋ねるが、日が浅く・大半が反S学会の

職場でそれを口にする事はタブーだったし、

私には職場の方や友人を選挙に利用するような行為は出来なかった。(選挙が近づくと)下町でも粗末な身なりをしたご婦人が子供

を背負って、町内を回っていた。…小母さんは“不軽菩薩の行為”だと言うが…常識を

逸脱した行為は(かえって)世間の反感・

誤解を受けるだけで私は納得出来なかった。


小母さんは中二と小五の娘に朝晩の勤行を課せていて、二人は通学前の慌ただしさの中でも勤行を欠かさなかった。然し、それは

反S学会の多い世間に線香臭い服で放り出す事ではないか。又、“人間革命”が新聞に

掲載されている最中は「読んだ!」が学会員の合言葉だったが、少年部や中等部の集い

でもそれが題材にされている事を知ると

私はS学会の組織の在り方に疑念を抱いた。

子供は子供らしく育てるべきで、人格が

形成されていない子供を一つの色で染める

育て方は間違っているのではないか、信仰は親や人の姿を通して本人に自覚を促すもので、例え親であっても特定の宗教を子供に圧し付ける行為は危険なように思われた。


 S学会では公布基金と称して会員から

寄付を募っていたが(それは強制的なもの

ではないにしても)、欲しい物を我慢して

いる子供等には理不尽だったし、家庭を

守るべき母親が宿業転換の為と称して、

家を空けて活動に励む姿は異様だった。

仕事や勉強よりも学会活動を優先する事が

信心なのだろうか、I先生への信望と現実の組織活動の狭間で私の疑念は大きくなった。他者を傷つける闘いでは勝利を得る事は

出来ない、社会の変革を可能とするのは

ガンディーが示した非暴力運動であり、

I先生の提唱する“人間革命”以外にない

とは思うが、組織の弊害なのだろうか、

I先生の指導(一家和楽の信心、仕事・

学業第一の信心)は本当に組織の末端まで

正しく伝わっているのだろうか。物言えぬ

子供等が自我に目覚めた時、彼等はS学会

の後継の道を拒絶するのではないか。


協力隊の応募試験は年二回あって、

一次試験は各県庁所在地で行われる。

五十三年秋、職種別の試験と語学の試験に

トライしたが合格の通知は届かなかった。

英語の能力が不足していた事は歴然で、私は半年後の試験を目指した。そんな折、N先輩が急遽退職し妻子が待つ福岡に戻られたが、受験生には感傷に浸かる余裕も正月も無く、目の前の受験が重く圧し掛かっていた。

翌年、春の一次試験にパスすると、二次試験は広尾の協力隊事務所で行われた。会場には様々な職種の同年代の男女が募り、私が

十一年の歳月を掛けて夢に見たアフリカは

目の前だった。


第三節 「面接試験」


 英会話による口頭試問を終えると、次は

面接試験だった。面接室のドアを開けると

正面の真ん中にK氏が居て、その両側には

担当の男性が座っていた。K氏はテレビにも出演されている著名なカトリック教徒で、

広尾事務所の所長も兼ねておられた。

椅子に掛けるやK氏は「あなたは、これまでボランティア活動をやった事がありますか」と尋ねた。

質疑の趣旨は理解出来たが、(私には、職場の改善や後輩の育成にベストを尽くことも、ボランティアであるとの自負心があった。

寧ろ、自分の足元も直視しないで、偽善的

な行為を行うのは卑劣だと思っていた)…

暫く間をおいて「職場に一生懸命尽くすのも

ボランティア活動だと思います」と答えると

K氏は苛立った様子で「福祉事業所の職員と

ボランティアはどう違いますか」と尋ねた。二・三分の間K氏の顔を直視していると、

「あのねェ、福祉事業所の職員は給金を頂き、ボランティアは貰わないでしょう」

とK氏は顔を紅潮させた。間髪を入れずに

私は「福祉事業の仕事を通して奉仕したい

から職員に為られたのなら、給金を貰う・

貰わないは関係ないでしょう」と答えると、

担当の二人の男性は下を向いて笑いを堪えていた。反抗的な態度は試験に不利になる事は明らかだったが、私は我慢が出来なかった。

それは、是までの生き方、自分自身を否定する事だったからだ。


予想に反して合格通知を受け取ると、

会社に休職願いを出して(約束通り)対馬に向かった。“夢は諦めなければ叶えられる”ことを彼等に示したかったからで。折しも

福岡―対馬の空路が開設されていて、私は

福岡でN先輩にお会いしてから飛行機に

乗った。対馬空港にはM士長と中学生に

なったS子が車で迎えに来ていて、その足で海栗島に入った。その晩、嘗ての班員達が

挙って歓送迎会を開いてくれた。酒のつまみは「俺も叩かれましたよ!」だった。翌日、下宿先に挨拶に行くとおばさんは二人目の

赤ん坊をおぶっていた。おじさんは心臓病の手術の為福岡の病院に入院したとの事で不安を滲ませていた。


第四節 「派遣前訓練」


広尾の訓練所に入所して班分けや国別紹介等が終わると、講堂で自己紹介が始まった。

八十七名の同期は全国各地から募った兵で、様々な職種の方がおられた。女性陣も胆の

据わった方が多く、私も負けずに「少年院に四年間入っていて、立派に更生して協力隊に

参加した」と自己紹介した。私の職種の

“搬送”は、電話や各種の情報通信等を

多重化して一つの信号として搬送する業務である。現在ザンビア国で活動しているM氏は某公社の職員で、私は二年間の任期を終えるM氏の交代要員 として派遣される。


広尾での派遣前訓練は派遣国のオリエン

テ―ションやケーススタディーで、ザンビアに派遣される私達男性四名と女性三名は広尾の図書館に通った。…ザンビア共和国は

1964年、東京オリンピックの最中に

イギリスから独立した。従い、オリンピックの開会式での国旗と閉会式の国旗は異なり、

現在の国旗は緑地(大地)に、赤(血)、

黒(国民)、オレンジ(銅)の三色と鷲で、

就業率三十%、主要産業は銅の採掘である。因みに、協力隊員が派遣される国は①国民

一人当たりの年収が二百ドル以下で、②自由主義圏の③治安が安定している国との事。

その他、広尾では外部講師による講話などが

あって、「野麦峠」の作者である山本先生も見えられた。先生は職を得る為に大学に行くのではなく、「学びたい事が見つかったら

行くべきだ」と言われた。私は大いに賛同

したが、官公庁でさえ年齢制限を設けている現状では、それは絵に描いた餅なのか。

経済的な理由等で進学出来なかった者でも

努力すれば報われる“寧ろ、苦労して到達

した者の方が評価される社会”は来ないの

だろうか。給料の格差、金権・学歴偏重社会、諸々の差別とそれを許す社会への怒りが

甦った。広尾には有名大学の先生方も来られたが派遣を間近にした私達には、実体験を

伴わない講和は無用の知識だった。


広尾での訓練はケーススタディーの手法が

用いられ、その日は電気関連に携わる男性

十三名が会した。事例は“稲作指導の隊員が、田圃に脚を入れた現地の方を殴った。貴方

はその行為をどう思うか”だった。皆の意見

を待たずに「節さんは違うのでしょう!」と、二十四の瞳が振り向いた。「殴れるだけの関係が築けたら、それは素晴らしい事だ」と答えると、担当の教官(面接試験でお会いした)は回答用紙を配りながら、眼鏡の奥に

笑みを見せていた。入所間もなくして自衛隊出の私に付いたあだ名は“隊長”で、一般

社会から参加した彼等には私の言動が武闘派的に見えたのだろうか。…然し、我が子を

憎しみで殴る親は居ないし、初対面の者を

殴るバカも居ない。其れが出来るのはお互いの信頼関係が築けた時であり、愛情が無ければ遣ってはいけない行為であったが、私にはそれが生きて来た証だった。


訓練が一ヶ月を過ぎた頃、ザンビアで活動していた先輩隊員が脚を撃たれて帰国した。隣国のローデシアでは独立紛争が続いていて、政府軍を支援する南アフリカ軍がザンビア

国内へ逃れて来るゲリラを追って爆撃を

行っていた。其の為、ザンビア国内は治安が悪くPM7時以降は夜間外出禁止令が発動されているとの事であったが、先輩隊員は外出禁止令を守らなかった為に警察に撃たれたらしい。受講中の私達に動揺が走る中、(弾の下を潜ってみたいとの)私の期待は深まった。それは恵にも言えなかったが、私は之まで

ドストエフスキーの作品を何度か手にしては読破を断念していた。人を殺す場面が読破を拒絶させたからで、それを乗り越える為には私自身が“生死の淵”を体験する必要があると思った。


青年海外協力隊の隊員の約三割は教師で、K所長が「参加者の大半は社会逃避型」と

云われた通り、彼等は理想と現実の狭間で

病んでいた。然し、協力隊に参加した目的

は異なっても、巷の青年に比べれば一人

ひとりは誠実で善良な青年に違いない。

広尾での訓練を終えると、私達はバスで

長野県にある禅寺に向かった。派遣前訓練

に何故“禅”のカリキュラムなのかは理解

し難いが、三日間は禅寺でその後は駒ヶ根

の語学訓練所に入るとの事だった。



仏様は人々を導く為に罰を与えるが、東日本大震災は千年に一度の”総罰”で、コロナ禍はそれを上回る世界的規模の罰だった。…末法の相が著しくなっていく昨今、次は何が起こるのだろうか。

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