第零話 「透明人間」
四月。
雨が降っていた。
真壁透は布団の中でスマホを見ていた。
午前八時二十七分。
大学の一限には、もう微妙に間に合わない時間だった。
だが透は特に焦っていない。
スマホ画面を親指で流す。
大学LINEグループ。
『新歓どこ行く?』
『今日空きコマで花見しね?』
『写真送るわw』
桜。
笑顔。
居酒屋。
陽キャっぽい男女。
透は無言で画面を閉じた。
別に羨ましいわけじゃない。
ただ。
自分とは関係ない世界だと思った。
天井を見る。
雨音。
実家の古い窓ガラスが微かに揺れている。
リビングからテレビの音が聞こえた。
『現在、米国市場では――』
透は小さく舌打ちした。
「またアメリカかよ……」
誰にも聞こえない声だった。
ーーー
リビング。
父・真一はニュースを見ながら朝食を食べていた。
スーツ。
ネクタイ。
地方公務員らしい真面目そうな顔。
「透」
「……」
「今日大学は」
「ある」
「英語ちゃんとやっとけよ」
透は黙ったまま冷蔵庫を開ける。
麦茶。
昨日の夕飯の残り。
朝食には重い。
でも気にしない。
母・由紀は化粧をしながら言う。
「最近また昼夜逆転してるでしょ」
「別に」
「体壊すよ」
言葉だけ。
心配しているというより、確認作業に近い。
妹の結奈がパンを齧りながらスマホを見ていた。
「今日雨やば」
「……」
「駅人多そう」
透は返事をしない。
祖母の慶子が洗濯物を見ながら小言を言う。
「最近物騒だからねぇ」
「ネットとか変なの多いし」
「お兄ちゃんも気をつけなさいよ」
透は曖昧に頷く。
そこへ祖父の信之が新聞を畳みながら言った。
「今日は冷えるな」
その一言だけで、少し空気が楽になる。
透は小さく、
「……そうですね」
と返した。
ーーー
大学。
工学部講義棟。
教室後方。
透は一番後ろの席へ座っていた。
前の方では数人が笑っている。
「昨日の飲みマジでさー」
「いやあれは酔いすぎw」
透はイヤホンを耳へ入れた。
音楽は流さない。
話しかけられないための道具。
教授が英語混じりの資料を映す。
『Global standard communication――』
透は露骨に嫌そうな顔をした。
英語。
世界標準。
グローバル。
その単語全部が嫌いだった。
世界中が同じ言語を使うことを“進歩”みたいに語る空気も。
結局、
「世界に合わせられる奴が正しい」
と言われている気がして。
講義中。
透のスマホが震える。
ネトゲの通知。
《レイド募集@1》
その瞬間だけ、少しだけ気分が上がった。
でも周囲には絶対バレないように、無表情を維持する。
ーーー
昼休み。
学食。
透は一人だった。
カレー。
端の席。
周囲では新歓の話。
サークル。
インスタ交換。
恋愛。
透はスマホを見ながら食べる。
X。
炎上。
暴露。
政治家不正。
コメント欄。
『やっぱ裏があった』
『真実は隠される』
透は少し安心する。
綺麗事よりはマシだった。
ふと。
「工学部の人ってそういう本読むんだ」
声。
透は顔を上げた。
黒髪ショート。
眼鏡。
文系っぽい女子。
小野寺梓。
図書館で何度か見たことがある。
彼女は透の持っていた本を見る。
『太平洋戦争補給戦史』
透は少し警戒した。
「……悪いですか」
「別に」
小野寺はあっさり言う。
「なんか意外だっただけ」
「工学部ってもっと機械の本とか読んでるイメージあった」
「……」
「戦争好きなの?」
「好きっていうか」
透は少し考える。
「人間って、割と簡単に壊れるんだなって」
小野寺は少しだけ興味深そうに透を見た。
でもそれ以上踏み込まない。
「ふーん」
それだけ言って、自分の本を持って去っていった。
透は少しだけ不思議に思った。
変な人扱いをされなかった。
それが妙に珍しかった。
ーーー
夜。
透の部屋。
モニター。
ヘッドセット。
ネトゲ。
「ナイス!」
VCの声。
透はボスのヘイト管理をしながら淡々と指示を飛ばす。
「そこで突っ込むと死ぬ」
『あ、ごめ』
「いや別に」
初心者プレイヤー。
動きが下手。
装備も弱い。
でも透はちゃんとフォローする。
クリア後。
『ありがとうございました!』
『助かりました!』
透は少しだけ口元が緩む。
でも声は素っ気ない。
「お疲れ」
VCにコウの声が入る。
『お前そういうとこあるよな』
「何が」
『初心者に優しいとこ』
「別に」
『名前売りたいわけでもないのに助けるし』
「……効率悪いから見てられないだけ」
コウは笑った。
『そういうことにしといてやるよ』
透は少しだけ視線を逸らした。
ーーー
深夜。
部屋。
雨音。
モニターの光だけ。
透はスマホの写真フォルダを開いていた。
赤い傘。
ぼやけた空。
制服。
雨宮美咲。
小学生の頃からの幼馴染。
高校へ入る少し前。
交通事故で死んだ。
透は写真を見つめる。
「……なんで死んだんだよ」
小さな声。
誰も聞いていない。
写真の中の美咲は笑っていた。
透は画面を閉じる。
でも削除はできなかった。
ーーー
午前一時。
透は外へ出た。
コンビニまで歩く。
雨。
灰色の街。
交差点。
誰も透を見ない。
サラリーマン。
カップル。
学生。
みんな自分の世界だけ見ている。
透は信号待ちをしながら思う。
もし今ここで消えても、
誰も気づかないんじゃないか。
その時。
一瞬だけ。
世界の音が遠くなった。
車の音。
雨音。
信号。
全部。
ノイズみたいに歪む。
「……?」
透は顔を上げる。
だが次の瞬間には戻っていた。
気のせい。
疲れているだけ。
そう思うことにした。
ーーー
帰宅。
暗い部屋。
濡れた服。
ベッドへ倒れ込む。
スマホ画面。
通知ゼロ。
誰からも連絡は来ていない。
透は天井を見る。
雨音だけが聞こえる。
そして。
小さく呟いた。
「……誰か」
一拍。
「見つけてくれればよかったのに」




