普河樓酒家(2)
日本は物価が上がらない国だった。
もう少し上の世代であればオイルショックによるインフレの余波を実体験していたのだろうが、俺がバリバリ財布に小遣いを入れて持ち歩く歳になった頃にジュースが110円に値上がりして以降、それは死ぬまで変わらななかった。多少高くなってもそれ以上に容量が増えていたり、あるいは激安自販機なるものが登場したりもしていた。
他にも外食産業の価格競争が激化したり、100円ショップが拡大したりと、デフレ傾向ですらあった。
物価が安定しているというのは経済が安定しているということではあるが、それは即ち経済が成長もしていないということでもある。
団塊250万人世代が週6出勤で貯め込んできた千兆円の預貯金の価値が自動的に保全されるという点では良かったのかもしれない。
その団塊世代の父親が死んだときに、金融資産のほうを相続した母親はあれこれと考えていたようだが、ボロ狭の社屋を相続しただけの俺は資産運用というものにさほど関心を持てなかった。
金融資産を持っていなかったというのももちろんある。
バブル崩壊時には父親世代の、リーマンショック時には貯蓄ができはじめていた同世代人の失敗例を聞かされてきたというのもある。
結局のところ、良くも悪くも増えも減りもしないという円預金神話を俺は盲信していたのだ。
ところがこのセルティア王国においては経済が慢性的なインフレ傾向にある。
これはお上が粗悪な金貨や無計画な国債を濫発しているとかではなく、健全な経済成長によるものではあるはずだ。商店に並ぶ品は徐々に質の良いものになり、消費者の購買力もそれに追従できているように思われる。
これが好景気というものなのかと初めて実体験できているわけだ。
健全だからといって資産の保全を考える必要性が無いわけではない。
中央銀行による銀行券発行の噂もあるし、それに合わせて金貨の回収や改鋳が行われる可能性もある。
今後どのような通貨管理体系になるかは不明だ。
この空前の好景気とその未曾有の金融改革に対して、さてどのような形で資産を保有しておくのが良いものか。
◆
「阿礼!」
ジャーマンメタルゴッドのようなシャウトとともにアース・ワークスのドアを開けたのは、『普河樓酒家』のオーナーシェフとなるスン・フーさんだ。
ちなみにシェフという語は王国でも日本と同じく料理人を意味するが、語源となった共和国語では主任という意味なので注意されたい。
「例の紅焼猪肉を作ってきたぞ」
自身の料理店の正式開店に向けてメニューのブラッシュアップを続けているが、その審査役は自然な流れで九条さんとなっていた。
料理に関する礼ちゃんの知見の深さは既にスンさんの絶対的信頼を勝ち取ってしまっているようだ。
レンチンされた後で俺にもついでに供されたその持ち込み料理は、いわゆる豚角煮と言ってしまってよいのだろうか。
深い旨味と甘味に程よい苦味を感じるが、華国風のエスニックな特徴はほとんど感じられない。だがどこかで味わったことのある東方風の何かが確かに含まれている。
「いやーこれはやられたなー」
経緯を最初から説明して貰ったところ、この料理は九条さんがスンさんに対して紹介した、醤油をマーマイトで代用するという手法に対してのスンさんからのアンサー料理なのだそうだ。
これは正しくは『畜ボアのスタウト煮』らしい。
そういうことか。
マーマイトはビール酒糟のエキスを黒変するまで加熱濃縮して造る調味料だ。
そしてスタウトはローストした麦芽で造った黒エールだ。
そんなの順番が違うだけの兄弟も同然ではないか。
それらと醤油との共通要素を挙げるなら、麦類、酵母菌、メイラード反応となるのだろうか。
「これはこういう料理って感じがするもんねー、なんでなんだろ」
マーマイトを利用した東方風料理が模造料理であるのに対して、スタウト煮のほうは正しい料理になっているという評だ。正しい料理というのがどういう定義なのかは謎だが。
「マーマイトってのは、いい部分がビールとして飲まれちまってるんじゃねえのかな」
なるほど、主産物と副産物の差ということか。それが料理としての格の差に繋がっていると。
具体的な成分差などはまるで不明なのにもかかわらず、スンさんの分析が正鵠を射ているように感じられるのだから凄い。料理の世界とはこういうものなのか。
主にティール州のほうで食べられているスタウト煮というのは牛肉かあるいは羊肉で、それをスタウトビールと塩のみで煮るらしい。
スンさんのこれは脂身のついた畜ボア肉だし、玉葱出汁とほのかな生姜風味で最低限の華国テイストを演出している。
スンさんに言わせればこれは絶対に八角を投入して煮た上で香菜を乗せたいし、九条さんに言わせれば白葱のみじん切りと唐辛子粉をぶっかけたいという。
でもそれらが王国人には受け容れられないであろうことは二人とも重々承知しているのだ。
彩りを添えるとしても、せいぜい葉パセリかクレソンかといったところらしい。王国においては薬味という概念が無いわけではないものの希薄なのだろう。
◆
「おはようさん」
ヘンリーさんにとってこれは朝の挨拶というよりは、仕事開始のスイッチなのかもしれない。
時刻はすでに正午を過ぎているからだ。
アルミ合金製の前腕部支持型杖を左腕に、チタン合金製の装具を右膝に装着したその姿は、モロボシ隊長かザファル先生のような鬼教官キャラを髣髴させるが、実際には小うるさい口出しなど一切することはなく黙々とスンさんの指示に従う。
開店二日目の今日はディナー営業のみとなっている。
初日はランチのみの短時間営業だった。
いきなりフル営業をしてバタバタになる失態を避けるために慎重を期しているのだ。
再び旧店のような無謀な事業展開を考えているのであれば、ヘンリーさんは手伝うつもりは無かったらしい。こうした慎重を重ねる地に足の着いた覚悟を見込んでの参戦だ。
俺はというと、必要な物が発生したときに対応する道具係兼サクラ客係だ。
すいません暇人の見物人でした。
ヘンリーさんが綺麗に手入れされたミートチョッパーで端肉を刻んでゆく。弧型の刃の両端にグリップが付いたタイプだ。
地球では三日月と呼ばれていた道具らしいが、この惑星には衛星が無いのでそう呼ばれることは無い。ミンチングナイフだ。
クランクをぐるぐる回して肉を挽く道具を提案しようかとも思ったがやめておいた。シェパーズパイを得意料理とするヘンリーさんには熟練の技と拘りがあるだろうからだ。
ミンサーことミートグラインダーを発明したのが自転車の父カール・ドライスであることはあまり知られていなかったと思う。世が世であればエジソンを超える実績を挙げたかもしれない人物だったのではないか。電灯や電話機や蓄音機が別物の原理で置き換られていったのに対して、ミンサーやバランスバイクは現代でもそのまんま利用されていたのだから。
今日のディナーメニューは肉碎豆腐だという。
これは挽き肉と豆腐をメインとした、麻婆豆腐に近い料理なのだが四川風の麻味辣味は一切含まれない。そもそもスンさんは麻婆豆腐を知らなかったし、唐辛子自体をほとんど使用しないらしい。
九条さんに調べて貰ったところ、麻婆さんこと陳劉さんのレシピが確立されたのは清朝末期1862年のことらしい。想像より全然新しい料理だった。
それがこの世界に登場するにしても、もう半世紀ほどを要するのかもしれない。
「華国でも内陸のほうだと唐辛子を塩の代わりに使うって聞いたけどな、なんであれが塩の代わりになるのかさっぱり解らん」
塩分というのは必須ミネラルなのだから、代替というのはありえないというのは道理だろう。
唐辛子で塩を代用するというのは、調味料というより保存料としての話ではないのか。塩蔵ほど強力ではないだろうが、カプサイシンにも防虫防腐効果が期待できる。
激辛文化が浸透する理由というのは中々に特定が難しいらしいが、要因の一つとして塩が入手困難な環境というのがある。
海から遠い、岩塩も無い、天日の塩田ができる気候でない、煎熬に必要な燃料が確保できないといった条件が挙がってくる。
世界一の激辛国といわれるブータンなどは、地図を見ただけであー塩に苦労しそうだと察せられてしまう。
朝鮮半島で唐辛子が普及したのは、日本ほど山地が険しくないがゆえに山林伐採が容易に進行したからだという説もある。がっつり海に囲まれていても燃料が無ければ塩は出来ないのだ。
豆腐のほうは苦汁を利用した北方豆腐を使うようだ。
試作用途では俺がマグネシウムを塩化して提供したが、謎の魔法で合成した食材というのもどうかということなので、オズボーン製塩工場を紹介しておいた。
まああっちの苦汁も謎の魔道具で作るようなものなのだが、より自然食品に近いはずだし、永続的な入手確実性でもあちらのほうが上だろう。
塩化マグネシウムは豆乳成分を凝乳状にするほどの強力な凝集作用がある。極端に言うと、透明なスープと固まった卵液が分離したかきたまスープみたいになる。それを型に入れて圧搾したものが北方豆腐だ。
一方で石膏(硫酸カルシウム)を使う南方豆腐は、卵液とスープを混ぜたものが全体的に緩く固まる茶碗蒸しに近い。こちらは圧搾はしない。
凝固剤の量や圧搾の有無で調整は出来るのだろうが、基本的には北方豆腐が料理に向き、南方豆腐は豆花というデザートになるという。
醤も花椒も辣椒も使わない挽肉豆腐が美味いものかと思われるだろうが、これが絶品なのだ。
まず野菜出汁。
今回はキャベツの外葉がメインだが、これは農家から貰って来たそうだ。
スンさんは探索代理店では飲食業だけでなく農産畜産業者からの人足募集にも積極的に応じてきた。そのときの人脈をフル活用しているようだ。
キャベツでなくブロッコリーの茎なんかでもいいし、季節が合うなら玉葱がベストらしい。玉葱は収穫後には葉を落とさなければ肝心の鱗茎部分が痩せ細ってしまう。葉はヘナヘナに倒れた後だしネギ類なので飼料にも不適だしで商品価値は無いのだが、刻んで炒めて煮込むと極上の旨味が出るという。
魔導コンロではなくコークスに拘ったのは、この旨味濃縮スープの仕込みのためでもあったのだろう。魔導コンロには火熾し火落としの手間が無いが、長時間連続加熱となるとコークスのほうが圧倒的に安価になる。
今日の挽肉豆腐には蕃茄泥も添加される。
トマトは酸を含むので水煮やジュースに加工すれば保存が利く。通年入手が可能で、長期の海上輸送にも耐えられる。
法国南部の交易都市マレソレの名物であるが、そこから同じく内海貿易の要港である王都にも輸入されるようになっている。王国では家庭の台所にまでは普及していないが、高級食材でもないという程度だろうか。
トマトの利用法は交易船時代に覚えたそうだ。
そして重要なのが大豆出汁だ。大豆凝乳をギュウギュウ固めて水抜きする際に出る水分にはかなりの旨味が含まれているらしい。
パック豆腐から出る水は全部捨てちゃってたよ俺。20年前に教えてといて欲しかった。
それはつまり大豆を発酵させて造る豆支の旨味を、単純に大豆成分で代用するというコロンブスの卵的な方法なのだ。
しかも醤油や味噌のような異国風の癖が出ないという利点すらある。
醤油のない異世界において醤油無双をするための研究においては、スンさんは九条さんより数歩先を行っていたのかもしれない。
この重層グルタミン戦術は相手の種族国籍を問わず有効なはずだ。
釣り餌を味の素に漬け込んで食いを良くするという方法があったが、それは魚類に対してすら警戒心を棚上げさせるだけの訴求力があったということだ。
◆
盛況のうちにディナー営業を終え、ささやかな祝宴という流れになった。
営業開始時刻にはアンさんも応援に来てくれたが、フロア係の手が足りなくなることは無かったので、俺と同様にサクラ客係となっていた。
スンさんが一人でも回せるようオペレーションを考えてあるのだから、当然といえばそうなのだが。
四人で乾杯を済ませた後に、スンさんは料理に取り掛かる。
「そうだ波士、こいつを爐の真上に取り付けてくれ」
手渡されたのはクエスチョンマーク型のフックだった。旧店の開業時に特注で手配したものだという。
終端がタッピングネジになっているが、ストーブの上の天井は防火のためにタイル張りにしたからネジ込めないんだな。
フックを術で埋め込んでしまうと今度は取り外せなくなるので、メス座を用意してそちらをタイルに埋め込む形にする。
スンさんはそれに紐を引っ掛け、下処理のされた丸鶏を括りつけた。
もしや某グルメ漫画で見たあの料理か。熱した油を掛け続けるというあれか。
「ああ、脆皮炸子鶏だ」
そこそこ時間のかかる料理らしいので、アンさんが作って差し入れてくれたミートパイを先に頂くことにする。
「異邦の地で成り上がってやろうという気負いもあいつにはあったんだろうが」
俺のほうからヘンリーさんに話を振ったわけではないのだが、旧店の頃の話をし始めた。
「それよりも王国の経済感覚を掴み損ねていたんだろうな。後から思えばだが」
表面的な物価だの給料相場だのは一日も過ごせば判ることだ。
だからスンさんが交易船で働いて貯めてきた5万$というのがそこそこの大金だと知らなかったなどということではないはずだ。
ただし、上手くやりさえすればそのくらいは普通に稼げる夢の国に来たのだと過信していたようではあったらしい。
借金が返せずにマグロ漁船に乗せられるなどという話があるが、それがなぜカツオ漁船でもイカ釣漁船でもなくマグロ漁船なのかというと、クロマグロというのは海のダイヤと言われるほどに高価だからだ。だからこそ一年も二年もかけて地球の裏側まで航海する。その間は金を使う機会もないから蓄財も出来る。
スンさんが乗っていた交易船は比喩抜きでガチの宝物類を積んで地の果てまで行く船だったのだから、当然のことながら破格の報酬でもあったはずだ。
その上でスンさんの真摯な仕事ぶりや料理が評価されて上乗せされていたのかもしれない。
「あいつほど遠くじゃないにしろ、俺も余所から来たからな」
ヘンリーさんが商都に暮らしていたころは、自分が王都で商売を始めることになるとは想像もしていなかったという。
似た立場ということもありそれなりに助言もしたようだが、当時のスンさんの勢いを抑えるには至らなかったのだろう。
豪快にぶった切られた揚げ鶏が出された。
この香りは丁子か。
華国では丁子は八角などと共に五香粉メンバーにも含まれる代表的なスパイスだ。王国においても焼き菓子やホットドリンクに使用されるらしい。ただし料理に丁子はOKだが、料理に八角となるとNGということだ。
こうしたスパイス嗜好も外国人である俺からすれば奇妙に感じる。
スンさんがあらためて夫妻に礼を述べる。
恩を受けておきながら10年も顔を出さなかった自分などに再び助力してくれるとは思っていなかったということだ。
だがそれは望んで不義理を働いたわけではなく、ただひらすら合わせる顔が無かっただけなのだと夫妻は知っているはずだ。
ヘンリーさんからは情の深さとは別に、世のため人のために尽力せねばという使命感のような何かを感じる。
もしかしたらそういう貴族教育を受けてきた人物なのだろうか。
軍人時代には貴族階級の部下もいたらしいが、平民が貴族の上で指揮を執るという人事があり得るのだろうか。
平等思想ゆえに自ら男爵位を捨てたカール・ドライスのような主義者とも思えない。
紳士録の類を当たればヘンリー・スコットの名が見つかるのかもしれないが、それは野暮というものだろう。本人は肉挽き職人たるを望んでいるのだろうからだ。
スンさんはテーブルと厨房を往復しながら、手軽な料理を追加してゆく。
だがヘンリーさんからすれば、料理なんかよりも積もり積もった話を聞かせろということだったのかもしれない。
「落ち着かねえ野郎だな、いつ終わるんだスン」
「もうすぐだ」
これはスンさんが多用するネタだ。
言うまでもなく孫が姓で虎が名なのだが、王国においてはこのフーというのはスンよりもさらに呼び名としては不適だ。紳士録みたいな面倒くさいことになってしまう。
最後の料理を持ってきたスンさんがようやく腰を落ち着けた。
「全然食ってねえな、ボス」
俺の3倍は食うスンさんから見ればそうなのだろうが、俺は既に腹パンパンだ。
そうだ、言おうと思っていたことがあった。
「そのボスという呼び名はやめませんか」
スンさんは探索代理店からの仕事依頼を停止した上で開業したのだから、とっくに弊工房の被用者ではないのだ。
「はは、でも出資者ってことは経営者ってことだろ? ボスじゃねえか」
出資者イコール経営者ではないし、仮に俺が役員のような立場となるにしても代表取締役はスンさんのほうであるはずだ。
「まあ設備代を返済するまではボスってことにしといてくれ」
あーこれは逆だな。ボスと呼ぶから金は返さなくていいよねということだな。
この出資金には杖と装具の費用も含まれることになっている。
装備の代金を支払おうとする一方でこの店からの日当を受け取ろうとしないヘンリーさんの妥協を引き出すための折衷案だ。
ただし出資金は貸付金ではないから返済義務があるわけではない。
その代わり経営に口出しされるし、配当も出さなければならない。
それがいやなら返済せよというだけのことだ。株式会社で言うところの、発行した株式を創業家が買い戻す行為に当たる。
今回の場合は、配当に当たるのがこの店での無料飲食権だ。飲食チェーンの株主優待食事券みたいなものだ。
仮にここの原価率を3割とすると、スンさんから見れば相場の3割の低利で資金確保できているとも考えられる。銀行や金貸しからの与信を期待できないスンさんにとっては、得難い好条件であるはずだ。
さらに言うならば、学費を払えないわけではないが敢えて低利の奨学金を借り入れて余剰資産のほうを高配当な投信に突っ込むみたいな財テクすら可能な状況となっているのだ。
かつて湯水の如く$5万の資金を溶かしてしまった人物とは思えないほどにちゃっかりしているな。




