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口寄せ巫女と泡の子  作者: 淡雪みさ
第三章 二年生

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あなたは、誰なんですか



 美古は慌てて廊下へ飛び出し、店の人を呼んだ。体調不良者が出たことを告げると、すぐに店の人が座敷へと駆けつけてくれた。けれど、その頃には正一は完全にぐったりとしており、声をかけても微かな呻きを漏らすだけで、ほぼ意識がなくなっていた。

 正一の様子を覗き込んだ店の人が、眉をひそめて美古を振り返る。


「この子の保護者、呼べねぇか?」

「すみません……私、この人の親の連絡先知らなくて……」


 動転した美古の口から、歯切れの悪い言葉が漏れる。


「そうかぁ。じゃあ、家さ送るから、この子の家の場所、教えてくれるか?」

「……家も、どこか知りません」

「……そうかぁ」


 店の人は少し困った顔をして、顎に手を当てた。


 正一の家も、親の連絡先も何も分からない。

 美古は、目の前で荒い息を吐き続ける正一を見つめながら、冷や水を浴びせられたような衝撃を受けていた。

 ――毎日のように一緒に過ごし、兄のことを必死に探してくれている彼のことを、自分は何一つ知らない。

 このまま意識のない正一をここに放っておくわけにはいかないと思った。


「わ、私の家なら、少し、休ませることができます」


 美古が震える声でそう申し出ると、店の人は優しく頷いてくれた。


「んだな、まずは横さして寝かせねばいいね。車出すから、あんたの家まで送ってやる。準備するから、ちょっと待ってろ」


 店の人は、自分の仕事もあるだろうに、すぐに自分の車を回し、正一を後部座席に乗せて美古の家まで送ってくれた。

 美古は、窓の外を流れるむつ市の夜景を眺めながら、隣で横たわる正一の手を握りしめ、意識が戻るだろうかと不安に思った。


 車を降りて、ぐったりとした正一の身体をどうにか我が家へと運び入れる。店の人は最後まで親身に手伝ってくれ、正一を奥の畳の間へと寝かせてくれた。

 運び終えた美古は財布を取り出し、店の人に二人分の食事代と、急な運転を引き受けてもらったお礼の料金を重ねて渡した。店の人は「気にしなくていいのに」と恐縮そうにしながらもそれを受け取り、「何かあったらすぐ医者さ呼ぶんだよ」と言い残して、夜の中へと消えていった。

 静まり返った和室で、正一にそっと毛布をかけた。

 正一は未だ目を覚まさず、額に脂汗を浮かべて苦しそうに呼吸を繰り返している。顔は真っ赤に火照っているが、いわゆる通常の風邪という様子もなく、本当に突然、糸が切れたように倒れたのだ。あまりにも不可解な容体に、美古の胸のざわつきは激しくなるばかりだった。

 美古は部屋の隅に正座し、しばらくの間、正一の様子をじっと見守った。彼がいつ目覚めてもいいように、近くのローテーブルにコップ一杯の水を置いておく。

 しかし、正一が帰ってこないとなれば、親が心配するかもしれない。

 美古は意を決して、正一の鞄に手を伸ばした。保護者の連絡先や、実家の電話番号が書かれたメモがどこかにないかと、中身を漁り始める。

 けれど、鞄の中から出てきたのは、くたびれた地図と数本のペン、そして背表紙の擦り切れた古い本、あとは財布だけだった。スマートフォンも、本当にない。持っていないというのは本当だったらしい。

 美古は重い溜め息をつき、手元に残されたものを前にして、再び畳の上へと座り込んだ。

 そして――手の中に残った、使い古された革の財布をふと見つめた瞬間、美古に衝撃が走った。

 この革の感触に覚えがある。不可解だった。頭の芯がカチカチと冷たくなっていくような感覚がして、美古は激しく混乱した。

 物凄く古い記憶の底。美古がまだ幼く、今のように目が見えるようになるよりも、さらに前の時代の記憶だ。

 何故、この財布を、正一が持っているのか。これは、この感触の財布は、あの人(・・・)が大切に持っていたものではなかったか。

 美古は荒い息を吐き、苦しんでいる正一の寝顔を、戦慄にも似た気持ちで見つめた。

 夜の和室に、美古の震える呟きだけが、頼りなく落ちる。


「正一先輩……あなたは、誰なんですか」


 当然ながら、答えは返ってこなかった。

 暗い部屋に、正一の苦しげな呼吸の音だけが不気味に響き続けていた。




 美古は一晩中正一と同じ部屋にいたが、朝方には糸が切れたように眠りに落ちてしまっていた。

 目を開けると、障子越しに差し込む朝の光が、畳の上を白々と照らしていた。

 ハッとして跳ね起き、毛布の敷かれた場所へと視線を走らせる。


「……正一先輩? どこですか?」


 そこに正一の姿はなかった。

 あんなにひどい熱を出して苦しんでいたはずの体が、どこにも見当たらない。

 ローテーブルの上に、空のコップと、一枚の書き置きだけが残されていた。


『看病してくれてありがとう。家に帰るよ』


 美古はその紙片を手に取り、文字をなぞった。

 正一が朝の光の中に消え去ってしまったかのように、部屋にはただ冷たい空気だけが残されている。

 正一は、あの状態からどうやって一人で起き上がり、どこへ帰っていったのだろう。

 美古は書き置きを握りしめたまま、彼が本当に自分の知らない遠い世界へ行ってしまったかのような、言い知れぬ不安に襲われた。


 ――――そして実際、正一は、その日を境に美古の前に現れなくなった。





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