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29話 忘れてはいけないもの

 馬車は進む。


 窓の外には絶え間なく人の列が続いていた。

 避難する民達だ。


 最低限の荷物を抱え、子どもの手を引き、必死の顔で街道を急いでいる。

 中には靴も履かぬままの子もいた。


 荷車へ家財を積んでいる者もいれば、抱けるだけのものを抱えて歩く者もいる。

 皆、後ろを振り返る余裕など欠片もない。


「……」


 儂は、その光景から目を逸らせなかった。


 これが今起きていること。

 国を襲うであろう最大の悲劇。

 民が追われ、暮らしが断たれ、故郷から引き剥がされていく現実。


 なんとかしたいと思っていた。

 そのために鍛えてきた。

 それなのに今、儂は馬車の中で守られる側に座っている。


「む?」


 不意に、一人の老人が目に入った。


 街道の端へしゃがみ込み、苦しそうに足を押さえている。

 捻ったのか、それとも別の怪我か。

 周囲の者達は自分達のことで精一杯で気づいていない。

 あるいは、気づいていても立ち止まれないのだろう。


「止めてくれ」

「アリエル様?」

「早く」

「……わかりました」


 サリーがすぐに御者へ伝え、馬車が止まる。


 その隙に儂は飛び降りた。

 サリーが慌てて追ってくる。


「どうした? 大丈夫か?」


 老人の前へしゃがみ込む。


「あ、ああ……足を捻ってしまって……」


 老人は顔を上げ、儂を見て目を見開いた。


「お、王女様……?」

「足を見せてくれ」

「そんな、姫様にそのような……」

「よい。気にするでない」


 半ば強引に足を見る。


 腫れ方からして、たぶん捻挫だろう。

 稽古でちょくちょく痛めるせいで、その辺りの見分けだけは妙に身についた。


「サリー、包帯やポーションは?」

「すみません……今回は」

「……うむ、わかった」


 儂らも必要最低限のものしか持っておらぬ。

 こういう時にすぐ使える道具はないらしい。


 ならば、応急処置より先に安全な場所へ運ぶべきか。


「儂の背中に乗れ」

「め、滅相もありません! 王女様に背負われるなど……」

「よいから」

「し、しかし……」

「よいと言っておる」


 問答無用で背負い上げた。


 老人の体は軽かった。

 軽すぎて、逆に胸が痛んだ。

 年を取り、逃げる力も失いかけた人を、国は今この瞬間にも置いていこうとしておる。


 少し先に、足の遅い者のための休憩所が設けられているのを見つけた。

 そこまで運び、事情を説明して、後は護衛の騎士へ引き渡す。


「ここで待てば、いずれ避難用の馬車が回ってくるじゃろう」

「ありがとうございます……ありがとうございます……」

「気にするでない」


 軽く首を振る。


「これは、儂の責務じゃ……なにもできぬが、せめて、これくらいはせぬとな」




――――――――――




「……」


 馬車へ戻る道すがら、サリーは何も言わなかった。

 ただ、何か言いたそうな顔をしておる。


「わかっておる」


 先に口を開く。


「急がねばならぬのじゃろう?」

「……はい」

「それでも、目の前で困っている者がおったのじゃ。しかも、我が国の民じゃ……どうして見捨てられようか」

「……」


 サリーはしばらく黙り、それから小さく言った。


「アリエル様らしいです」

「そうか?」

「はい」

「……せめて、これくらいは助けさせてくれ」

「……はい」


 馬車に乗ると、再び景色が動き出した。


 窓の外を見ると、まだ人の流れは続いていた。

 皆、必死に前へ進んでいる。


 その中に、一人の若い騎士がいた。


 避難民を誘導しながら、自分はそこに残っている。

 持ち場を離れられないのだろう。


 まだ若い。

 おそらく、兄様や騎士団長ほどの実力はない。

 だが、それでも立っている。

 自分の務めを精一杯に果たそうとしている。


 ふと、その騎士と目が合う。

 騎士は一瞬だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。


 たった、それだけ。

 馬車はそのまま進み、距離はどんどん開いていく。


「……」


 儂は目を逸らせなかった。

 過ぎ去り、なお視線を後ろに向けてしまう。


 あの騎士は、これからどうするのだろう?

 ドラゴンが来た時、あの場で何を思うのだろう?

 避難民を逃がしきった後、自分は逃げられるのだろうか?


 考えたくない。

 だが、頭から離れてくれない。


「アリエル様」


 サリーが静かに言う。


「今は避難することが最優先です」

「……わかっておる」

「アリエル様は王族ですから」

「……うむ」

「でも」


 そこで、サリーは少しだけ表情を和らげた。


「今感じていることは捨てないでください」

「サリー?」

「その想いこそが、アリエル様らしさで……そして、強さの源なのだと思います」


 馬車が揺れて、言葉と心もまた同じように揺れた。


 儂は何も言えず、ただ外を見続けた。

 あの老人の顔を。

 あの若い騎士の顔を。

 絶対に忘れてはならないと思った。


 ……絶対に。


 守るべきものを、守りたいと思った時の痛みを。

 今は何もできぬという悔しさを。

 それでも見捨てたくないと思う、この感情を。


 全部、忘れてはいけないのだ。

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