エピローグ
甘いです。
飛行機を降り、荷物の受け取り場所でキャリーケースを受け取った私は、急ぎ足でロビーを目指していた。この一年で慣れた黒いパンプスをコツコツと鳴らしながら、出口を探す。
オーストラリアへ短期留学へ行った後、私は猛勉強をしてヨシ君…喜之と同じ大学へ入学し、そしてこの春、無事に卒業をした。
「待っててくれてるかな」
喜之が遠くの街、彼の実家の近くの会社へ入社してからは、ほとんど会うことができなかった。最後に会ったのは去年の夏。もう半年以上前だ。連絡は取っていたけれど、海外出張も多い彼は日本にいることも少なく、1日1回メールのやりとりするくらいだ。
それを淋しいと思わなかったかと問われれば、それは嘘になる。勢いだけで始めた遠距離恋愛がこんなにも辛いものだと知らなかった。何でこんな道を選んだのだろうと後悔しなかったわけじゃない。
けれどもやっぱり私は喜之が好きで。遠く離れてもそれは変わらなかった。
壮ちゃんからアプローチをされたり、ハヤテ君にセクハラ紛いのことをされたり、見も知らぬ先輩から告白されたり…本当に色々なことがあったのに、心が揺らぐことはなかった。電話越しに喜之の声を聞けば、それだけで満たされる自分がいた。
辛くても、喜之が私との未来を願ってくれるから、私はここまでこられた。
今までのことを思い出しながら、私はクスリと一人笑う。
「案外私もしつこいのよね」
喜之は自分の性格を執着心が強くて粘着質だとよく言うけれど、私もなかなか粘着質なのだ。喜之と付き合い始めるまで知らなかった。
ロビーに辿り着くと、私はたくさん並ぶ椅子にぐるりと視線を巡らせる。今日は喜之が休みの日だから迎えに来てくれると言っていたのだ。彼のことだから、もう待っているはずだ。
平日のためか、ほとんど客のいないロビーの奥まで目を凝らしていると、不意に肩を軽く引かれ、私の背中は何かにトンとぶつかる。驚いて上半身だけを捻って見れば、そこには夢にまで見た人が優しく微笑んでいた。
「結子、久しぶり」
落ち着きのある声が、直接耳に流れ込んでくる。機械越しではない声に、胸がたまらなく熱くなる。
「喜之…!」
会ったら言いたいことはたくさんあったはずなのに、喜之の顔を見て、その腕に包まれて、穏やかな声を聞いてしまったら、何もかもが頭から吹き飛んでしまっていた。
私は喜之の中で体の向きをくるりと変えて、そのまま彼に抱きついた。直に感じる喜之の存在が愛しくて愛しくて、言葉にならない。
「結子、会いたかった…」
熱を帯びた掠れた声。囁かれる呟きが、心にじんわりと染み込んでいく。
やっと、ここまで来れた。
やっと、ここから始まるんだ。
「喜之、愛してる。もう離さないから」
もう離さない。そのためだけに私は頑張ってきた。
私の言葉に喜之が笑う気配がする。
「それはこっちのセリフだ。離れてた分、これからは存分に甘やかす予定だから覚悟しておいてくれ」
俺が溺愛体質だって知ってるだろ。
甘くて蕩けるような声色に、心臓が痛いくらい脈打つのが分かる。普段がクールな分、こうして躊躇いもなく甘く囁くと、その破壊力が半端ない。
腰砕けになりそうな色気に、私は何も答えず彼の背に回した腕に力を込めた。
「やっぱり、俺はお前が好きでたまらないよ。好きすぎておかしくなりそうだ…」
「ん…」
喜之が私から少しだけ離し、そして右手を頬に添えて私の顔を上向かせる。
「俺の一生をかけて結子を守りたい。結子のこと、愛したい。その権利を俺にください。…俺と、結婚してください」
真っ直ぐに見つめるその瞳は私のことが心底愛しくて仕方ないと言わんばかりに熱っぽい。
あぁ…私はこの人の隣にやっと立てる。
会えない不安に押し潰されそうな時、いつも喜之の隣を歩く未来を想像していた。私の隣で笑う彼を、彼と築いていく家庭を夢見ていた。
それが今、目の前に広がっている。
「…っはい!」
ゆらゆらと視界が歪んで、喜之の顔がよく見えない。けれど、喜之がふわりと笑ったのだけは分かった。
「結子の泣き顔、初めて見た。可愛い」
そう言いながら、喜之は取り出したハンカチで私の目元を優しく拭ってくれる。
クリアになった視界に入ってきたのは、照れくさそうに、でも嬉しそうに目元を緩める喜之の顔。
「でも、やっぱり結子が笑ってくれる方が俺は良い。なぁ、笑顔を見せて」
甘い懇願に、きゅっと胸が締め付けられた。そんな私の心情を知ってか知らずか、彼は熱の籠る眼差しを注いでくる。
「結子。俺の願いを聞いて」
吐息のような囁きは、ひどく優しくて淡くほどける。
こんな喜之を知っているのは私だけ。それが嬉しくて幸せで、自然と顔が綻んでいく。
「ヨシ君、大好き」
懐かしい呼び方に、見開かれる両の目。やがてゆるゆると弧を描いていく。
「俺もだよ、ユコ」
そう言って額に触れたのは彼の唇。
初めて喜之から告白された時、私は何も言えなかった。でも確かにあの日から二人の関係は大きく変わっていったのだ。だから、二人の未来がまた重なる時、あの日のやり直しから始めたいと願っていた。
傍にいられないと泣いた日々が、淡い思い出に変わっていく。
「…じゃあ、行こうか。親父とお袋、兄貴も首を長くして結子を待ってるから」
抱擁を解いた喜之が、私の右手を握る。さりげなくキャリーケースを反対の手で持っているのを見て、私はくすりと笑う。どうやら甘やかしは既に始まっているらしい。
「うん」
彼に手を引かれながら、去年の夏に出会った彼の家族を思い出す。綺麗なお義母さんとダンディなお義父さん、喜之を少し老けさせた容貌のお義兄さん。皆、私を快く受け入れてくれた。
「本当はすぐにでもマンションに連れていきたいんだけどな。まぁ…可愛い義娘ができるって張り切ってるし、ごめん」
「ううん、私も会いたいから良いの。それにこれからは喜之とずっと一緒にいられるんだもの、大丈夫よ」
焦らなくても、今日から二人きりの生活が始まるのだ。少しくらい家族との時間を作っても良いだろう。
うきうきとしながら歩いていると、急に喜之が項垂れた。
「…やっぱり、そのままマンションに帰りたい。結子をめちゃくちゃ甘やかして、どろどろに愛したい」
その直球な言葉に思わず赤面し、思わず喜之を見上げてしまう。
「よ、喜之…恥ずかしい」
「だって本当のことだから仕方ないだろう。結子が可愛すぎるから悪い」
不満げにこちらを見た喜之の顔は少し赤い。
「そ、そんなこと」
「あのな。俺、これでもかなり我慢してるんだ。正直、限界間近なのに、可愛いこと言われたら我慢利かなくなる」
そこまで言われたら、もう俯くしかない。火照った頬は当分冷めてくれそうにないくらい熱い。
「はぁ………理性が振り切れそう。夜、がっついたらごめん」
「あの、」
私、初めてなのでお手柔らかにお願いします。
そう告げようと思ったのに、喜之を見上げた私に彼がゆるゆると首を振る。
「でも、俺は結子の体だけが欲しいわけじゃないから。結婚するまで待てって言うなら待つし。嫌だったらそう言って良いからな」
男の人の事情を理解できているとは言い難いけれど、6年も待たせたのだから積もる想いもあるのだろう。それを押しても私の気持ちを大事にしてくれるという彼の想いに胸が一杯になる。
本当に、喜之を好きになって良かった。
「喜之」
私は喜之の腕にぎゅうっとしがみつく。言葉にできないくらいの彼への想いが、触れている所から伝わってくれたら良い。
「私の気持ちを大事にしてくれて、いつもありがとう。私もね、喜之の気持ちを大事にしたいの。貴方の全てを受け止めたいの。だから、もう待たなくて大丈夫」
「結子…」
「初めてだから、優しくしてね?」
私の想いを聞くや否や、喜之は足早に空港の出入口を通り抜けて駐車場へと向かっていく。そして駐車場の人気のないポケットに私を押し込むと、そのまま私をきつく抱き寄せた。バタンっ、という重い音がやけに大きく反響する。
驚いて見上げようとした私の頭を自分の肩に押しつけて拘束するものだから、私はなすがままになるしかない。
「喜之…?」
「…本当は、辛かった。結子の気持ちを、将来を尊重したいと思いながら、傍にいられない不安に押し潰されそうになってた。会えない、触れられない、声も聞けない…もう限界だった。気が狂いそうなくらい淋しかった。こんな、情けない姿を見せたくないのに…」
感情を圧し殺せていない掠れた声が頭上から落ちてくる。常に穏やかな態度を崩さない喜之には珍しい、幼子のような本心の吐露に、私は小さく息を飲んだ。
いつだって涼しげな顔をして、弱音を吐く私を励ましてくれていた彼の、私が知らなかった想いに胸が熱くなる。
不器用で真っ直ぐで真面目で、ただ一途な彼の葛藤はいかほどだったのだろうか。想像もつかないが、彼の気持ちを聴いたことで私の心は温かくなる。傍にあれないことに悩み苦しみ、この日を待ち続けていたのが私だけじゃないと感じられるだけで、幸せな気持ちが溢れ出していく。
「私も、喜之と一緒。不安で淋しくて…でも喜之が待っていてくれたからここまで来れたの。喜之がいたから頑張れた。だから、この日を待ち焦がれていたのは喜之だけじゃない。私もずっと、同じだったよ」
喜之と私、一緒だね。
彼の胸に頬を摺り寄せれば、抱き締める力が強くなる。
「これからは二人だね。もう淋しくないよ」
小さく震える大きな体を、そっと抱き締め返す。頭上から聞こえ漏れる嗚咽を聞きながら、私は目を閉じた。
一緒に幸せになろうね。
まだ先のことは分からない。けれど、二人でいればどんなことも乗り越えていける。そしてきっと笑顔でいられる。
これからもよろしくね。
そっと囁き、私を抱き締めて離さない未来の旦那様の鼓動に耳を傾けるのだった。
やっとこれで完結です。長い間ありがとうございました。
二人の恋が実って、無事に結ばれて良かった。結婚しても二人はマイペースに愛し合って、幸せな家庭を作るんだろうなぁと思うと胸がほっこりします。
完結マークはつけますが、これからも番外編は増えていきますのでよろしくお願いします。




