第66話:暗黒海峡横断鉄道、試運転
大平原の決戦から一ヶ月。
アルカディア大平原は豊かな穀倉地帯へと息を吹き返し、帝国軍の解体と秩序回復が進むなか、アルカディア鉄道の現場は、人類史上最大とも言える土木事業の最終局面を迎えていた。
『暗黒海峡横断鉄道プロジェクト』。
西方大陸の東端『絶望岬』から、荒波渦巻く暗黒海峡の中央に浮かぶ『神棄島』を経由し、未踏の東方大陸へと至る、全長四十キロメートルにも及ぶ前人未到の海上・海底連結ルートである。
かつて、魔の海域と呼ばれた暗黒海峡を渡るには、頑丈な外洋船を用いても最低で一週間を要した。
頻発する大嵐、海竜やクラーケンといった巨大海洋魔獣の跳梁跋扈により、三隻に一隻は海の藻屑となると恐れられていた海である。
だが今、その荒海の上には、ドワーフの重厚な橋梁技術とエルフの古代結界工学が融合した、白銀の巨大高架橋『アルカディア・オーシャンブリッジ』が架けられていた。
海上部二十五キロメートルを貫く白亜のアーチ橋。
そして神棄島から東方大陸へと潜る十五キロメートルの海底シールドトンネル『アステリア・チューブ』。
二つの巨大構造物が遂に昨日、最後の一本のロングレールで結ばれたのである。
「本日午前九時零分より、暗黒海峡横断鉄道・全線試運転を開始します!」
絶望岬に新設された『絶望岬中央ターミナル駅』のホームに、チーフ車掌ミュウの澄み渡るアナウンスが響いた。
ホームには、ピカピカに磨き上げられた白銀の流線型超特急――『創世号』が、静かにその巨躯を横たえていた。
古代の海底ドックから覚醒したこの奇跡の列車は、いまやアルカディア鉄道の技術陣によって完璧に整備され、一般営業用の豪華展望サロン車両や食堂車、最新の自動列車制御装置(ATC)を組み込んだフラッグシップトレインへと生まれ変わっていた。
「いよいよですね、ハルト様……!」
先頭車両のパノラマサロンで、アステリアが海を見つめながら感慨深げに呟いた。
彼女の身に纏うのは、従来の重々しい皇族のドレスではなく、アルカディア鉄道の副総裁章が胸元に輝く、洗練された紺碧の制服であった。
その緋色の瞳には、かつて追放された頃の不安の影は微塵もなく、未来を見つめる誇りと希望が満ちている。
「母の形見の歯車ペンダントが、神棄島の古代ドックを開き……そして、その奥で眠っていた創世号が、こうして二つの大陸を繋ぐ一番列車になるなんて。まるで、夢を見ているようです」
「夢ではないよ、アステリア様。これは、何万人もの保線員、ドワーフ、エルフ、そして君が流した汗と努力の必然だ」
ハルト・クゼは静かに微笑み、白い手袋を整えた。
「鉄道とは、奇跡に頼るものではない。一ミリの狂いもない軌道、一分一秒を厳守するダイヤグラム、そして日々の安全点検の積み重ねによってのみ成り立つ、現実の勝利だ」
サロンのボックス席には、この試運転に招待されたプロジェクトの中核メンバーたちが顔を揃えていた。
「がっはっは! 見ろよあの橋脚のケーソンを!」
ドワーフの棟梁バランが、分厚い胸を張って海上の巨大なコンクリート橋脚を指差した。
「水深百メートルの激流に、ドワーフ特製の超高強度魔導セメントを流し込んで固めたんだ! 海竜が全力で頭突きを食らわせたところで、ビクともしねえぞ!」
「あら、無骨なコンクリートだけでは風情がありませんわ」
隣で優雅に紅茶を啜るのは、エルフの賢者セレスティアであった。
「橋の全域に張り巡らせた『風精霊の整流障壁』があってこそです。秒速五十メートルの暴風雨が吹き荒れようとも、軌道上の風速は常に微風レベルに保たれますの。これぞ自然と科学の調和というものです」
「へへっ、足回りのレールチェックは俺たち保線隊の十八番ですよ!」
通路側で作業日誌をめくっていたのは、保線主任となったアーノルドであった。
その隣には、救護キットを膝の上に置いた聖女エレナが、穏やかな笑みを浮かべて座っている。
「三交代制で二十四時間、レールの超音波探傷検査を済ませました。継ぎ目板のない連続溶接レールだから、揺れはこれまでの客車の十分の一以下のはずです。総裁、いつでも走らせられますぜ!」
「よし」
ハルトは胸ポケットから銀の懐中時計を取り出した。
文字盤の秒針が、定刻の九時零分を指し示す。
「午前九時零分。試運転一番列車・創世号、出発進行」
ファァァァァァァァン――!!
澄み渡る、神聖な汽笛の音が絶望岬の空へと響き渡った。
ガタゴトという振動は一切ない。
超電導磁気浮上システムが作動し、車体がレールからわずか十ミリ浮上すると、創世号は音もなく滑るようにホームを離れ始めた。
時速三十キロ、五十キロ、百キロ――。
驚くべきスムーズさで加速していく。
テーブルの上に置かれたアステリアのティーカップの水面は、波紋一つ立っていなかった。
「……すごいです! こんなに速いのに、まったく揺れません……!」
アステリアが歓声を上げ、窓に顔を近づけた。
列車は岬の崖を抜け、一気に海の上へと突き出た白亜の大橋梁へと躍り出た。
視界のすべてが、群青の海とどこまでも続く青空で埋め尽くされる。
時速二百キロのスピードで、創世号は荒波を眼下に見下ろしながら、海の上を飛ぶように疾走し始めたのである。




