第47話:暗黒海峡の怪異
アルカディア中央駅の最上階、陽光が降り注ぐ総裁室。
黒檀の広大な執務机の上には、西方全土の鉄道路線図に代わり、未知の領域が描かれた巨大な羊皮紙の海図が広げられていた。
その海図の中央を、まるで大陸を真っ二つに引き裂く巨大な爪痕のように縦断しているのは、濃紺のインクで塗り込められた絶望の海――『暗黒海峡』であった。
「……ハルト様、本気なのですか? あの海に、鉄の道を敷くなど……」
副総裁のアステリアが、気品ある緋色の瞳をかすかに揺らしながら、海図の中央を見つめていた。
薄紅色のショールをまとったその立ち姿は優美であったが、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいる。
隣に立つチーフ車掌のミュウも、三角の耳をピクピクと伏せ、不安そうにフサフサの尻尾を丸めていた。
「うにゃあ……暗黒海峡といえば、船乗りたちの墓場ニャ。ミュウの故郷の港町でも、あの海へ出た船が無事に帰ってきた話なんて、十隻に一隻も聞いたことがないニャ……。みんな海の底に引きずり込まれて、骨も残らないって恐れられてるニャ」
「おうよ、嬢ちゃんの言う通りだぜ」
ドワーフの鍛冶棟梁バロックが、丸太のような太い腕を組んで深い唸り声を上げた。
その顔には、職人特有の難工事に対する警戒感が色濃く刻まれていた。
「暗黒海峡は、ただの海じゃねえ。太古の大崩壊の際、地脈が海底で引き裂かれてできた『魔力の断層』だ。年中吹き荒れる超大型の魔導暴風雨、船を一呑みにする巨大な逆巻く渦潮、さらには海竜や大王イカの巣窟だ。木造船どころか、帝国の最新鋭鉄甲艦ですら、あの荒海に突っ込めばひとたまりもなく竜骨をへし折られて海の藻屑だぜ。そんな場所に線路を敷くなんざ、神話の巨神でもなけりゃ無理な相談だ」
三人の言葉は、決して誇張ではなかった。
東西数千キロにわたって広がるルミナス大陸は、この暗黒海峡という絶望の海によって、東と西に完全に分断されていたのだ。
東方大陸には、数千万、数億の民が暮らす広大な穀倉地帯や高度な絹織物・陶磁器の文明が存在すると伝えられているが、海峡の障壁によって交易は途絶え、互いに御伽噺の向こう側の世界として隔絶されていた。
だが、ハルトの表情には一切の気後れもなかった。
青年は手元の真鍮の定規とコンパスを海図の上に置き、静かに顔を上げた。
「船で渡るのが不可能なら、海の上に『道』を架ければいいだけの話です」
平然と言い放たれたその言葉に、バロックの顎髭が跳ね上がった。
「海の上に道を架けるだと!? 海峡の幅は一番狭いところでも三十キロメートルはあるんだぞ! 水深は深いところで数百メートルだ! 荒れ狂う大波の中で、どうやってそんな深い海の底に柱を立てるってんだ!」
「深礎工法――『魔導ニューマチック・ケーソン工法』を用います」
ハルトは机の引き出しから、極細の烏口で緻密に描かれた断面設計図を取り出して広げた。
そこには、従来の土木工学の常識を根底から覆す、未知の巨大構造物が描かれていた。
「地上で巨大な円筒状の耐圧魔導鋼ブロックを建造し、それを浮力調整しながら海峡の海底へと沈下させます。ブロックの内部に高圧の空気を送り込んで海水を押し出し、ドワーフの作業員と削岩ゴーレムが海底の岩盤を直接掘削して、海底下数十メートルの強固な基盤層まで基礎を打ち込む。その頑強なケーソン橋脚の上に、ミスリル耐食鋼で編み上げた長大連続トラス橋を架け渡すのです」
「な……海の中に潜って、海底の地面を直接掘るのか……!?」
バロックが目を丸くして図面を食い入るように見つめた。
「さらに、橋の上にはただレールを敷くだけではありません」
ハルトは図面のレール部分を指差した。
「全線にわたって『整流結界導体』を組み込みます。暗黒海峡の荒波と暴風雨の原因は、海底の断層から漏れ出す濃縮マナの乱流です。ケーソン橋脚が海底の龍脈に深く突き刺さることで、大地の乱れた魔力を吸収し、レールを通じてアルカディアの蓄電炉へと整流・回生させる。つまり――橋を架ければ架けるほど、海峡の嵐は鎮まり、海竜すら近寄れない安全な航路へと変わるのです」
「ば、化け物じみた発想ニャ……!」
ミュウが感嘆の声を上げた。
自然の脅威に怯えて避けるのではなく、インフラそのものを巨大な調律器として機能させ、荒れ狂う自然環境そのものを手懐けてしまう。
それはハルトがエルフの樹海で成し遂げた『共生型インフラ』の、海への拡大適用であった。
――その日の午後、ハルトたちは暗黒海峡の西岸に突き出た切り立った断崖――通称『絶望岬』へと現地視察に赴いていた。
見渡す限りの鉛色の海。
天を衝くような黒い大波が、轟音とともに断崖絶壁に叩きつけられ、白い飛沫が霧雨のように舞い散っている。
冷たい潮風とともに漂うのは、濃厚な海水と、魔力の焦げ付くようなオゾン臭。
崖の下の波間には、時折、巨大な黒光りする鱗に覆われた海竜の背びれが、不気味に海面を裂いて蠢いていた。
「……酷い荒海ですね。これほどの大波が年中続いているなど、自然の猛威とは恐ろしいものです」
アステリアが防寒外套の襟を合わせながら、崖下を見下ろした。
「だが、海の底の地層データは極めて良好ですよ」
ハルトは崖の縁に膝をつき、携帯型の音波魔導測深器を海面に向けて起動した。
カチ、カチ、カチと高周波の反響音が手元の液晶魔導板に波形を描き出す。
「水深七十メートル地点に、太古の硬質玄武岩層が存在します。この岩盤なら、ケーソン基礎を打ち込めば百トン級の列車が十両編成で疾走しても、ミリ単位の沈下も起きない。潮汐の周期と波浪のピークも完全に規則化できる。ダイヤグラムに組み込むことは十分に可能です」
その時、崖の向こうの寒村から、ボロボロの漁師服を着た年老いた村長が、腰を抜かさんばかりの足取りで駆け寄ってきた。
「あ、貴方様たちは……! こんな危険な絶望岬で、一体何をなさっているのです!? 今すぐお引き返しなさい! 海竜様がお怒りになれば、津波が押し寄せて命を落としますぞ!」
「村長さんですね。心配いりません」
ハルトは立ち上がり、懐から一本の試験用アース杭を取り出すと、崖の岩肌に深々と突き刺した。
キィィィン……と澄んだ魔導共鳴音が鳴り響き、足元から海面へ向けて、淡い青い光の輪が波紋のように広がっていった。
その光が海面に触れた瞬間――。
崖下で荒れ狂っていた大波が、まるで奇跡のように凪ぎ、水面が鏡のように静まり返ったのだ。
近づいてきていた海竜の巨躯も、清浄な魔力波に驚いたように身を翻し、深海へと逃げ去っていく。
「な……な、波が鎮まった……!? 海竜様が逃げていく……!?」
老村長は信じられないものを見るように地面にへたり込んだ。
「私たちはアルカディア鉄道です。この海に、東の大陸へと続く鉄の橋を架けに来ました」
ハルトは海峡の彼方、水平線の向こうを指差した。
「もうすぐ、この岬は絶望の果てではなく、世界中の人々と物資が行き交う『希望の港駅』へと生まれ変わります。楽しみにしていてください」
青年の静かな確信に満ちた声が、潮騒の向こうへと吸い込まれていく。
不可能な海を、人と文明を繋ぐ鉄路へ。
人類史上最大の海上土木大作戦が、いま幕を開けたのであった。




