第20章
翌日の夜。俺は、眩いシャンデリアの光に目を細めながら、豪華絢爛な舞踏会場の隅で、完全に置物と化していた。
滑らかな大理石の床、流れるような優雅なワルツ、高価なドレスや宝飾品を身につけた貴族たちの談笑。
何もかもが、俺の住む世界とはかけ離れている。
なぜ俺がこんな場所にいるのか。
それは、昨日の元凶、クライド貴公子から、リィンの実家を通じて、半ば脅迫のような形でこの舞踏会の招待状が送りつけられてきたからだ。
断れば、リィンの実家にどんな嫌がらせをされるか分からない。
リィンは「私一人の問題よ」と言ったが、俺が「護衛としてついていく」と押し切ったのだ。
今日の主役であるリィンは、昨日とは違う、背中が大きく開いた漆黒のドレスを身にまとっている。
その姿は戦場の女神というより、夜の女王のように妖艶で、多くの貴族たちが、欲望に満ちた視線を彼女に送っていた。
やがて、ワルツの曲が終わり、広間の中心にスポットライトが当たった。そこに立っていたのは、勝ち誇ったような笑みを浮かべるクライドだった。
「皆様、ご静聴願いたい!」
彼の声が広間中に響き渡る。
貴族たちの視線が一斉に彼へと集まった。
「今宵は、我がクライド家の栄光を祝う、素晴らしい夜だ。そして、その栄光の証として、一人の女を皆様にお披露目しよう」
クライドは、値踏みするような視線をリィンに向けた。
「元王都騎士団、リィン・クリムゾンブレード! 今日この時より、彼女は我が『奴隷』となったことを、ここに宣言する!」
奴隷、という直接的な言葉に、広間が大きくどよめいた。
侮蔑、好奇、そして興奮。粘つくような視線が、リィンに突き刺さる。
彼女は、顔を真っ青にして、わなわなと唇を震わせていた。
誇り高い彼女にとって、これ以上の屈辱はないだろう。
俺は、拳を強く握りしめた。
ダメだ。ここで俺が前に出ても、平民の俺の言葉など誰も聞かない。
それどころか、リィンの立場をさらに悪くするだけだ。
分かっている。分かっているが――!
「待った」
俺の口から、自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
俺は、人垣をかき分け、クライドとリィンの前へと進み出る。
「彼女は、誰の奴隷でもない」
広間が、しんと静まり返る。
クライドは、俺の顔を見て、顔を怒りで真っ赤に染め上げた。
「……貴様、昨日の平民か! 誰の許可を得て、この神聖な場に足を踏み入れている! 身の程をわきまえろ!」
「あんたこそ、人の心をわきまえろよ」
俺の言葉に、クライドの理性が飛んだ。
「この無礼者めが!」
彼は、腰に差していた装飾用のレイピアを、怒りに任せて引き抜いた。
「平民の分際で、この私に逆らうとはな! その命、ここで終わらせてやる!」
切っ先が、俺の喉元に向けられる。
その時だった。
「――蒼真を傷つけるなッ!」
リィンが、俺を庇うように、クライアントの間に割り込んだ。
彼女の、俺を想う、その強い、強い意志。
それが、引き金だった。
――ズキンッ!
脳を灼く、鋭い衝撃。
リィンの瞳から、恐怖と怒りの色が消え、代わりに、蕩けるように甘く、絶対の服従を示す光が宿った。
彼女は、クライドが振りかざした剣を、素手で、いともたやすく掴み取った。
「なっ……!?」
「その汚れた鉄屑で、我が主を傷つけるなど、万死に値する」
リィンは、掴んだ剣を、まるで小枝でも折るかのように、へし折った。
そして、広間中に響き渡る、どこか熱っぽい声で宣言する。
「よく聞け、愚かな者たちよ。私の身体も、私の心も、その魂の一片に至るまで、すべては我が主様のもの。今宵、この場で、その揺るぎなき証を、皆様にお見せしましょう」
彼女は、俺の前に進み出ると、大勢の貴族たちが見守る中、その場に跪いた。
そして、うっとりとした表情で俺を見上げ、挑発的に、そして献身的に告げる。
「我が主がお望みとあらば、私はこの場でドレスを脱ぎ捨て、はしたない四つん這いの姿となり、皆様の前で、主の靴を舐めることすら、至上の喜びと感じましょう。さあ、我が主よ。最初の、ご命令を」
その、あまりにも倒錯的で、官能的な光景。
広間は水を打ったように静まり返り、貴族たちの息を呑む音だけが聞こえる。
驚愕、ドン引き、そして一部の者の目に浮かぶ、暗い興奮の光。
俺は、顔から火が出るかと思うほど真っ赤になりながら、そして、目の前の光景への恐怖と、抗いがたい興奮に震えながら、叫んだ。
「ち、違う! 俺はそんなこと望んでない! 俺の命令は一つだけだ! その男の前から離れて、俺のそばに来い!」
「――御意」
リィンは、恍惚の笑みを浮かべ、優雅に立ち上がった。
そして、呆然とするクライドを一瞥し、虫けらを見るような目で言い放つ。
「主が、お前のような汚物を視界に入れることをお望みでない。消え失せろ。二度とその面を見せるな」
◇
舞踏会からの帰り道。月明かりが、俺とリィンの姿を静かに照らしていた。
俺は、何度も、何度も彼女に頭を下げた。
「すまなかった、リィン。俺のせいで、あんな、恥ずかしい真似を……」
「ううん、謝らないで」
リィンは、穏やかな声で俺の言葉を遮った。
その頬は、まだほんのりと赤く、瞳は熱っぽく潤んでいる。
「……すごく怖かった。すごく恥ずかしかった。あんなこと、正気の沙汰じゃない。でもね……」
彼女は、一度言葉を切り、震える声で続けた。
「それと同じくらい……いいえ、それ以上に、ゾクゾクしてしまったの」
「え……?」
「大勢の前で、あなたの『奴隷』だと、私のすべてがあなたのものだと証明されることに……背筋が痺れるような、とてつもない快感を覚えてしまったのよ」
彼女は、俺の腕をぎゅっと掴み、すがるような目で見つめてくる。
「私……もう、普通じゃいられないかもしれない。あの快感が、あの屈辱が、頭から離れないの。ねえ、蒼真。私は、どうすればいいの……?」
助けを求める彼女の瞳の奥に、自らを貶められることを求める、新たな欲望の炎が揺らめいていた。
俺は、彼女を救ったつもりで、その実、彼女の魂のもっと奥深くにある、決して開けてはならない扉を開いてしまったのだ。
そのあまりにも甘く、危険な事実に、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。




