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昨日登校時にいわれた七海の言葉が、翌日になっても脳内にこびり付いて離れなかった。しかもその可能性が自分でも予想以上にショックだったらしく、今日は平日だというのに学校を休んでしまった。
一応大学進学予定の受験生なんだけどなあ。困ったと思うものの、けれどまったく行く気が起きなかったのだから仕方がない。
護に彼女がいるなど、思ってもみなかった。そうなればなおのこと結婚しているなど、思うわけもなかった。
正直なところ、初めての一目惚れだったということに、きっと彼が運命の相手だと思ったことに、完全に浮かれていたといわざるを得なかった。けれどあの七海の言葉で少しは冷静になった今、そういったことがあり得ないことじゃないと一瑠は思い始めていた。
「せんせーにかのじょ…、かー…」
自室のベッドに寝っ転がりながら、一瑠はぽつりと呟いた。思わず護の隣に誰かが立っているところを想像してしまえば、勝手に顔が顰められた。そんなの嫌だと、はっきりと思ってしまう。だけど。
すでにいるかもしれないのだ。一瑠が望む護の隣に、自分ではない誰かが。一瑠はぎゅっとシーツとともに、胸に広がる苦い想いをも握り潰す。
たぶん、護はモテる部類の人間だ。今まできちんとした男性経験はゼロの一瑠だが、そう思う。
たしかに彼は皆が皆目を惹くようなイケメンではないけれど、地味ながらも密かに整っている顔立ちをしている。加えて180cmを優に越す長身で、かつ空手をやっているらしく全身に筋肉が程よくついている体格。性格はあっさりさっぱりとした、男女関係なく好感を持たれるタイプだ。むしろここまで長所があってモテない理由がないだろう。
さっきよりもより現実的に、護の隣に誰かが立つ想像が出来た。気分は一気に滅入った。
「…………、あー…やだやだっ」
むくむくと膨れ上がる苛立ちのような焦りのようなものに、一瑠は勢いよくベッドから起き上がった。このままベッドの上にいたら、気持ちも身体も腐ってしまいそうだった。出かけよう、と思った。
時計を見たら13時前。今日は17時から塾があるから、それまでどこか買い物にでも行こうか。そうだ、まだ食べていなかったお昼は、せっかくだしどこか外で食べよう。娘の仮病を信じた母は今日も仕事でいないし、たしか昼代にとリビングにお金を置いていくと朝いっていたっけ。
いそいそと着替え終えた一瑠が1階のリビングに行けば、カウンターテーブルに置かれていた現金一万円とメモ用紙。食べたいものがあったらコンビニで買ってください、と母の字で書かれていたそのメモ用紙は一瞥した後捨てた。
洗面所で髪を梳かし高いところで一本に結い、またリビングに戻ってきて軽い化粧を施す。靴を履きながら、玄関にある姿見で最終チェック。
今日のポイントは胸元についたフリルが可愛いデニムブルーのロングチュニックだ。インナーには線の細い、黒ストライプの長袖。チュニックの裾から見えるのは、しっかりと編み込まれたレースをあしらったベージュのショートパンツ。そしてお気に入りのアーガイル柄のニーハイソックスに、フリンジ付きのショートブーツ。
うん、悪くない。ポニーテールにもよく似合っている。
己の姿にまあまあだと採点した一瑠は、大きめのショルダーバッグを手にする。中身は塾で使う教科書一式だ。たしかに学校はズル休みをしたが、塾は休む気はなかった。
とくに今日は英語の授業がある。護に会える。
でもまずは腹ごしらえかなと、一瑠は家を飛び出した。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
これを運命といわずになんというのか。
駅前のファーストフード店でポテトを齧りつつ、これからどうしようかと外を眺めていた一瑠の目に、黒のセダンが向かいの本屋駐車場に入っていくのが見えた。
とはいえ、黒のセダンはそこらにどこにでもいる。とくに車種の区別がつかない一瑠にとっては、彼の車との違いなど分かるわけもない。———でも。
銜えたポテトの存在などすっかり忘れた一瑠は、ただじっと車を見る。その扉が開き、降りてくるであろう運転手の姿を待つ。
護なのか、それとも別人なのか。ごくりと生唾を呑み込んだ瞬間、待ちに待ったその扉が開く。果たして降りてきたのは———。
「護せんせーだッ!!」
一瑠は勢いよく立ち上がった。また多少残ったポテトが乗ったトレイごとささっと始末して店を飛び出した。はやる気持ちに、赤信号のわずかな待ち時間でさえもどかしいと思う。青になった途端走り出して、一瑠は護が入っていった本屋の入り口で待ち伏せた。
1分、2分とじわじわと過ぎていく時間がとんでもなく長く感じる。護はまだか、何度そう思ったことだろうか。やきもきしながら3人目の客を見送った直後、ようやく護が出てきた。
「せんせー、護せんせー!!」
「———え?」
「本当にすっごい偶然! あたしのこと、覚えてますー?」
一瑠は思い切り護の腕に抱きついた。筋肉質の腕は堅く太い。顔を上げれば、それはもう驚いたといったばかりの護がいた。
「………ええと、一昨日城島進学塾にいた子、だよな?」
「いましたいました! 覚えていてくれたんですか、嬉しいなぁー!」
どうやら護はたった1回の授業だったとはいえ、一瑠の顔を覚えていてくれたようだった。あの日はけっこう受講者がいた、にも関わらずだ。
堪らず一瑠は満面の笑みを浮かべる。護の腕を掴む手にも、知らずに力が込められた。
「あたしの名前は一瑠でーす!」
「イチル…?」
護に名前を呼ばれて、一瑠の心臓は大きな音を立てた。
あえて名字ではなく名前をいってみたわけだが、ぐっと胸にくるこの衝撃はなんだろうか。男の人に、好きな人に名前を呼ばれるということが、こんなにもドキドキすることだったなんて知らなかった。思わずどぎまぎしてしまう。今絶対顔紅いはずだ。嫌だな、恥ずかしい。
「ですです、一瑠です! 美空 一瑠〜!!」
「美空 一瑠、な。覚えたよ」
「ふふ、しっかりと覚えてくださいねー」
でも嫌いじゃない。ちっとも嫌じゃない。むしろもっと呼んでほしいと思う。このままずっと名前で呼んでくれる仲になりたいと心底思う。
ふと七海の言葉が脳裏をよぎる。
『なら彼女とかいてもおかしくないんじゃないの?』
『だってそこそこにいい歳じゃない? 別に既婚者だっておかしい話じゃないでしょ』
こんな風にこの人に名前を呼んでもらえるような人がすでにいるかもしれない、そう思った途端に喉が引き攣ったように痛んだ。
———ともかく確かめねば。直接聞いてやるんだ、護に。
「ねえ、護せんせー」
「ん?」
意気込んではみたものの、これはまずいやばい、想像以上に緊張する。顔が勝手に強張るが分かる。一瑠はごくりと唾を飲み、一呼吸をおいた後ゆっくりと口を開いた。
「彼女、いるのー?」
「はァ?」
いないっていってよ。そんな人なんかいないって、いって。必死にそう、護を見つめる視線で一瑠は訴えた。この想いは届くのか。いや、届いてほしい。護の返事を待つ間に、一瑠は彼の左手を見る。よかった、指輪はしていない。
やがて、きょとんとしていた護が口を開いた。
「いるわけねえだろ、そんなもん」
当然だとばかりのはっきりと口調だった。
一瑠は「よかったー!!」と叫びたい気持ちをなんとか抑え、「あ、やっぱり? そうだと思ったー」と誤摩化す。
護が寄越す視線に、自分が彼に向けるような熱は今のところない。なのにそんなにがっついたような反応をすれば、護がきっと引くと思ったからだ。
一瑠は男子と付き合ったことこそないが、告白をされたことは何度かある。とくに好意を抱いていない相手からの過激なアピールは対処に困ることを知っていた。だからまだ気持ちが向いていない今は、護が戸惑うかもしれないと思った。だけどいずれは……。
一瑠はにっこりと護に笑顔を向けた。
大丈夫、すべて上手くいく。
きっと護こそが、運命の相手なんだから。