4話 狐の窓
外界の喧騒に酔った千鳥足で帰宅した。
おばあちゃんは既に外出しているようで、家はいつも通り俺ひとり。
ほっとした。……けど同時に、誰もいない部屋の静寂が胸を締め付ける。
靴を脱ぎ散らかして自室へ戻る。
――静かだった。
誰もいない部屋。目新しさも、音もなく。
いつも見ている自室の景色も、いつにも増して静かに思えた。
疲れた。今は何もしたくない。
カーテンを閉めて太陽光を遮断し、学生服のままベッドに身を投げ出す。少しだけ心が軽くなった。
「……っ」
すると、それまで動きのなかった心がざわつきだす。
気づけば、目尻に涙が溜まり、視界が滲んでいた。慌てて袖口で目を隠す。
「ふ、ぐっ……」
本当に、怖かった。外の世界の何もかもが。
人の目が、ガスの匂いが、歩いている道が。
すべてが、全部が、俺の心を塞ぎに掛かって来ているようだった。
誰も俺のことなんて見てないのに。誰も責めていないのに。自意識過剰な自分が気持ち悪い。
勝手に怯えて、勝手に逃げて、勝手に泣いている俺が、心底気持ち悪い。
吐き気がする。虫唾が走る。
気持ち悪くて涙が出る。
カチ、カチと秒針は進む。
カタ、カタと奥歯が軋む。
止まった心と対照的に、世界は今も進んでいる。まるで、俺だけが置き去りにされているようだ。
「……ああ。グゾ……」
呟いた無念は、誰に聞かれることもなく溶けた。
◆◇◆◇◆
コンコン、と何かが叩かれた。
疲労で眠りかけた頭が一気に覚醒する。
同時に、おばあちゃんが出てくれるだろ、と怠惰な感情が湧いてくるが、そういえば今は不在なんだった。
「生協か?」
いつも昼後に来ている印象がある。もう数時間経っていたのか。
……今日だっけ?
などと思いつつ、ベッドから立ち上がる。
というか、扉を叩くならインターホンを鳴らせよ。聞こえなかったらどうするんだ。
再び、コンコンと叩かれる。
「……え、窓?」
方向は一階の扉からではない。部屋の窓からだ。遮光しているカーテンの向こう、部屋の窓が叩かれている。
頭が再起動する。
そして強盗か泥棒の類が脳裏を過ぎった。一気に心に恐怖の色が広がる。
何か武器になる物を探す。
左手にシャーペン、右手に鉛筆削りを構え、そろりそろりと窓に近づいた。
ゆっくりとカーテンに左手を掛けながら、右手に力を込めて戦闘準備を整える。
シャッ! とカーテンを開け放つ。
「えっ……?」
誰も、いなかった。
青い空を流れる白い雲。
周囲はすべて、家前の道路を通る人も車もなく、いつも通りの光景が広がっている。
「……?」
窓をさらに開いて、外の様子を確認する。
冷気が部屋に入ってきて、生温かった空気を換気した。沈んだ気持ちが解放されるが、今はそれどころではない。
「ほう、質素な部屋じゃな」
声の主は背後にいた。
自分だけだと思っていた部屋の中に、いつの間にか入り込んでいた侵入者は、本棚を物色しながら言う。
「あれは何処じゃ? ほら、えろほん? とかいう風俗絵巻」
「えっ……え、え?」
「男は皆持っておるんじゃろ? ほれ、見せてみぃ」
きつね色の髪と巫女服を外の風に揺らし、顔を狐面の下に隠した長身の女性。
「な、い、いつ、いつの間……!?」
「お、動揺しておるな。まさか本当に持っておるのか? 見せろ見せろ、わしが当代の美人を鑑定してくれるわ」
狐面の女が、俺の部屋に土足……素足で上がり込んだ。
◇◆◇◆◇
「なんじゃ。持ってないのか、つまらん」
一頻り俺の部屋を物色し尽くした狐面の女は、ベッドにドカリと座って「ふむん」と鼻を鳴らす。
そんな狐面の前で正座をしながら、俺は気になっていることを問いかける。
「あの、なんでウチが……?」
「其方、道端で蹲っていたろう? たまたま見かけてな、帰るのを上空からちょちょいと、な」
ストーカーじゃねぇか。
いや、まぁ、道端で蹲っているのを見かけたから、家に着くまで見守っていたという線もある、のか。だとしたら整合性も取れる、か?
「お恥ずかしい、ところを……」
「本当じゃな。近くにいたのが女子な分、すかぁとの中を見ているのかと勘繰ったぞ」
「そ、そんなことしませんよ!?」
「わかっておるわ、うつけめ」
漫画のページを捲りながら、吐き捨てるように言われた。バトル漫画、読むんですね。
「其方は、良くも悪くも清廉じゃからの。不思議に思うて追ったのよ」
「そう、ですか……」
信頼はあるようで助かった。もし警察にでも連絡されていたらと思うと……ゾッとしないな。
「なぁ、テンよ。この絵巻のここ……なにゆえ右目が疼いてるのじゃ?」
「え? ああ、右目に大きな力が封印されてて、解放しようとしてるから、ですかね?」
「なぜ、それを口に出す必要があった? 言わん方がいいじゃろ絶対。隙を晒しとるだけじゃろ、これ」
さすが古代から生きる妖。戦闘経験もありと見た。というか……
「……あの。テンって、俺のことですか?」
「天と書いてそらじゃろ? ならテンの方が呼びやすい」
「あ、はい……」
もう好きにしてください。部屋に上がり込まれた時から、既に諦観に苛まれていた俺は、もう自由にさせることにした。
「それで? なにゆえ、蹲っておったのじゃ?」
「……?」
一瞬、なんの事かと迷ったが、すぐに問いの意味に辿り着く。
「ああ、俺、その、心の病気を持ってまして」
「ほう? 心の?」
「はい……少しだけ。外が、怖いんです」
それから、過去の事について話した。
事故に巻き込まれたこと。
目の前で両親が死んだこと。
以来、人や車、その音や匂いすらも、俺にとって恐怖の対象となったことを、つらつらと語る。
聞き終えた狐面は「ふむん」と鳴いた。
「なるほど。わからん」
「でしょうね……」
他人に共感なんて求められない話だ。
ましてや妖相手では、もっと無理な話だろう。
俺は息を吐いて感情を吐き出す。怒りも諦観も無くし、心に平常心を作り上げた。
そんな俺の様子を見た狐面は、ぱたんと漫画を閉じる。
「人の生き死になんぞ、飽きるほど見たが……まぁ、幼少で頭に焼き付けられたら、たしかに心の傷にはなるか」
ベッドの上に漫画を置き、パンっと掌を叩いた。
「よし、ならば少し、手伝いをしてやろうかの。なに、気にするな。引き続き、めんたるけあというやつじゃよ」
すると、刹那の間だったが、狐面の姿がブレた気がした。
錯覚かと思って目を擦り、再度狐面を見ようと顔を上げると――
「【浮上狸】」
ガシッと腕を掴まれ、背負われた。
いい年して、女性に背負われたことに恥ずかしさを覚える。
……いやあの、本当に恥ずかしいんですけど。
――そして、次に覚えたのは、浮遊感。
狐面が、浮いていた。
「え? ……え、ええっ!?」
「さぁ行くぞ、掴まっていろよ!」
そういえばさっき、すっかり聞き流していたけど。この人、「上空から見ていた」って言ってなかった?
「うわはははは!!」
「ぎゃああああ!?」
天地がひっくり返る感覚を味わいながら、俺は狐面に連れられて、空を滑空するのだった。




