第八十八話 悪魔の契約
あの方はまずい。
ウコバクだけでなくインプも『あの方』と呼ぶ存在。
後ろではフラム子爵が扉を開けようとしているが、ぴたりと閉まった扉が開く様子はない。何度も蹴ったり、叩いたりしているが扉はびくともしなかった。
ヒミカさんはそんなフラム子爵を守るように立ち、いつでも魔法が使えるよう警戒している。
魔法陣の中には、渦巻く魔力が一箇所に集まり始めている。吸い込まれるように集まった魔力は球となり徐々にその大きさを増していく。そこにある変化が訪れた。ピシリ、ピシリと、球体に無数のヒビが入リ始めたのだ。そのヒビの隙間からは吐き出すように黒い霧のようなものが漏れだし、徐々にその量は増えていった。
ビキィッ。
一際大きな音が部屋を揺らした。
その振動とともに音をたてて魔力の球体は崩れ、黒い霧が一気に吹き出す。手の先も見えないほど濃密な霧が部屋いっぱいに広がったが、それも一瞬のこと。瞬く間にその霧は魔法陣の中へと吸い込まれていった。
束の間の静寂が部屋を支配する。
すでに僕たちを飲み込んだ黒い霧はない。
霧が吸い込まれた魔法陣に目をやると、そこには先ほどまで影も形もなかったにも関わらず、一人の男が浮かんでいた。
「な、なんだ、あいつは……あの魔力! あの気配! ただ者ではない! 姫! 私の後ろにお下がりくだされ」
フラム子爵の悲鳴にも似た声が部屋に響く。
僕はヒミカさんを子爵に任せ、その男に集中する。
細かい部分を除けば、間違いなく美形の類に入るだろう。悪魔に年齢があるかは不明だが、見た目は人族換算で侯爵様より年上の三十代前半といったところか。
細身ではあるが痩せすぎているわけではない。肌は白く、身長は二メートル程だろう。黒い髪をオールバックでまとめており、下品さは感じられなかった。
金糸で装飾された漆黒の神官衣のような服を着ており、その身を宝飾品で飾っている。尖った耳にはピアス、首には複数のネックレスをかけ、節くれだった指には指輪がいくつもはめられており、爪は長く鋭く尖っていた。
これだけを見れば、少し派手な黒好きの神官に見える。しかも僕が着ている執事服と同じ黒ということで趣味は悪くない。
異様なのは、その背中には生えているボロボロになった四枚の羽だ。向こう側が透けるほど薄い羽は先ほどから全く動いていない。そのことからも、この男が浮いているのは羽の力ではないことがわかる。
金色に輝く上品な片眼鏡の奥にある目は、瞳のない真っ黒な目をしており、どこを見て、何を見ているのかわからない。
だが、その黒い瞳は男が悪魔であることを示していた。そして湧き出る魔力から見ても、インプやウコバクよりも上の悪魔であるのは間違いない。
「やあやあ」
魔法陣の中で浮かんでいる男は、ひさしぶりに会う友人に話しかけるような気軽さで声をかけてきた。僕、ヒミカさん、フラム子爵、最後にインプへと順番に目を向けた男は、口元に笑みを浮かべている。
ヨヨさんの姿がどこにもないが、いち早く妖精界経由で部屋から逃げ出すことができたのだろう。今頃この事態を大神官様らに知らせに行ってくれたに違いない。
隣に並ぶインプは目を見開き、男から目が離せないようだ。体は震えており、『あの方』と呼ぶ男を恐れているかのようだ。
いや、実際恐れているのだろう。
「おやぁ? 君はインプくんを使い魔にしているのか。しかもずいぶんと変わったインプくんだね。インプくん、こっちの世界を楽しんでるかい?」
声をかけられたインプは目を向けたまま返事をしない。いや、返事ができなかったのだ。
「返事もなしか。しつけがなってないね。死ねばいいのに」
その瞬間、魔法陣の外から槍のように鋭い魔力の気配を感じた。それは不可視のままインプの頭をめがけ、真っ直ぐに向かっていくのがわかる。
だがインプを狙った魔力の凶刃は彼の手前でピタリと止まった。
「勝手に人の使い魔を教育しないでいただきたい」
インプを狙った魔力は、僕が生み出した『執事箱』に刺さって止まり、空中に溶けるように霧散していった。
「あ、ごめん、ごめん。そりゃそうだよねぇ」
にへらと笑う男は悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にする。神官衣らしい服を着ていてもそこに厳格さの欠片もない。実にフランクな態度だ。
(魔法陣の中からこちらを攻撃できる、と。とりあえずは――)
「申し遅れましたが、私はアルクと申します。お嬢様の執事をしております」
やはり執事たるもの、いついかなるときも挨拶を忘れてはならない。
挨拶ができない執事など、お嬢様の品位を疑われてしまう。
男は呆気にとられていたものの、すぐに姿勢を正し、挨拶を返してくる。
「これはこれはご丁寧に。私はベルゼブブと申します。悪魔の世界で上級悪魔してます」
ベルゼブブ。
なるほど、前世でも聞いたことがある名前だ。こっちの世界でも同じ名前ということは悪魔が住む世界というのは共通なのだろうか。
それにしても思っていたより――。
「ア、ア、アルク様! 何、落ち着いて自己紹介しているんですか! 相手は悪魔の中の悪魔、ベルゼブブ様ですよ。ハエの王、糞の王、七つの大罪のうち『暴食』を司る偉大な悪魔。絶対の悪魔。落ち着いている場合ではございません!」
恐怖から立ち直った饒舌なインプの声に思考が止まる。
行くところまで行ってしまうと吹っ切れるのは人族も魔族も悪魔も同じだった。
「そうかー? でも上級悪魔も悪魔だろ?」
「そうかー、じゃありません! ベルゼブブ様はその中でも上位に当たる方です」
「えー、アルクくん。もしかして僕のこと舐めてる?」
言葉のあと、ベルゼブブの魔力が一気に膨れ上がった。
その魔力の巨大さは、上級悪魔の中でも上位というだけあってすさまじいものだ。膨張していく魔力の中、後ろで何かが倒れたような鈍い音が聞こえた。何事かと後ろを振り返ってみると、フラム子爵が扉にもたれるように倒れている。どうやらベルゼブブからあふれる魔力に耐え切れなかったようだ。気絶したフラム子爵をヒミカさんが床に寝かしているが、彼女自身は平気なようだ。さすがは巫女だけのことはある。まあ、身近にもっとすごい方がいらっしゃるからね。
それにしても本気を出していないのか、手を抜いているのかわからないがこれくらいならどうということはない。
ベルゼブブは、魔法陣の外にある魔力に干渉してこちらを攻撃することができた。ただ、こちらも警戒を怠らなければ対処するのは難しくない。
インプは『執事箱』の中から、平気な顔をしている僕とヒミカさんを見て、戸惑いとともに感動した様子だ。「なんという豪胆な方々だ。一生ついていきますぞ」とか言ってるが、大神官様と比べたら大したことはないのだ。そもそも君もいたでしょうに。
大神官様がどれほど規格外なのか、比較対象が現れたことで、よりはっきりと理解することができた。「悪魔より 警戒しよう 大神官」である。
それにしてもベルゼブブがこれだけの魔力を放出しているにも関わらず、屋敷から誰かが降りてくる様子はない。不思議に思い周りを見渡すと、あることに気がついた。違和感を覚えたのは魔法陣の周りにあるろうそくの炎。多少なりとも揺らめいているはずの炎は、その全ての動きを止めていたのだ。
「あ、あれ? 平気なの?」と焦るような声でベルゼブブが言う。
「おや? 何がでしょうか?」
あっさりした返事を返すと、彼はあごに手を当ててしばらく考えこんでしまった。その姿はなかなか様になっている。さすがはイケメン中年といったところか。
「ま、いっか。舐めてるとか生意気なこと言ってごめんね。僕、アルクくんとそちらのお嬢さんのこと気に入っちゃったよ」
「それは光栄です」
「あと気がついたみたいだけど、この部屋では時間の流れが止まっている。だから誰も来ないし、出ることもできない。意味がわかるかい?」
ニヤリと口角を上げ、ねっとりした笑みを浮かべるベルゼブブ。
そんな彼に、同じような笑みを返す。
「ええ。では、ゆっくりお話しできますね」
「え? お話? 僕と? あ、う、うん。そうだね」
戸惑ったような表情を浮かべたベルゼブブだが、聞きたいことはいくらでもある。時間が止まっているなら、お嬢様の昼食時間に十分間に合うだろう。それに明後日には王都を出て侯爵領に向かうのだ。その準備だってしなくてはならない。時が止まる部屋バンザイ。なんて都合の良い空間なんだろうか。 たっぷりと有効活用してやろう。今までの会話で、主導権はこちらに傾いているのだから。
それにしても時間を止める魔法か。
時が止まるなら進めることもできるかもしれない。
そうなれば食材を育てる時間が大幅に短縮できる。
あれ? そう考えるとものすごく便利な魔法じゃないか。
この魔法、是が非でも教えてもらいたい。
うん、そうしよう。何が何でも聞き出さないとね。
ナニガナンデモ。
「アルク様! ハエの王の前で何、ぼーっとしてるんですか! ハエの王ですよ? 糞の王ですよ? 油断しないでください。危険が危ないんですよ! 危ない危険ですよ! わかってますか? アルク様! クソがっ! ハエがっ! ブンブーン!」
「誰がクソでハエやねん」
とりあえずインプの頭を叩いておく。『執事箱』は僕の手を遮ることなく、インプの頭に直撃した。通したいものを通し、ツッコミも入れ放題の便利魔法『執事箱』の本領発揮である。「メキョッ!」という音が聞こえてきたが大丈夫だろう。悪魔だし。ベルゼブブが痛そうに顔をしかめているのは気のせいだ。
「あ……も、申し訳ありません。気が動転しておりました」
うん。落ち着いたらしい。興奮気味だったインプに、「執事たるもの、常に冷静でなくてどうするのですか」というセイバスさんのありがたい教えを伝えておく。インプは、「さすがはセイバス様のお言葉です」とうなずいていた。
「えーと。ベルゼブブさん。お茶いります?」
「お、お茶? いや、いいよ、いいよ。それよりもお茶を勧められたの初めてだよ」
可哀想に。
一緒にお茶を飲める相手もいないらしい。
思わず目頭が熱くなる。
「ちょ、ちょっと! アルクくん。なんで涙目になってるの? そんな憐れむような目で僕を見ないでよ」
「あ、すいません。ちょっと思うところがありまして」
「ハエの王、糞の王たるベルゼブブ様。お話ししてもよろしいでしょうか」
「うん。大丈夫。さっきは殺そうとしてごめんね」
「とんでもございません。それより偉大なハエの王ベルゼブブ様。昔はもっと、ぐぁっはっはっは、とか、全ての魂を貪ってやるぅぜー、とか言っておられませんでしたか? まるで悪魔が変わったように思えるのですが」
「そーおー? たぶん時代の変化ってやつかな」
今更だが、三十代に見える中年の話し方とは思えない喋り方だ。子供のような可愛らしさをにじませてくる。話しやすいのだが、見た目とのギャップがすごい。
それはともかく、さすがにこれ以上は我慢できない。
「インプ! ちょっと、そこに正座!」
「は、はい!」
『執事箱』の中で、正座をするインプ。
何か悪いことをしたのだろうかという上目遣いで僕を見る。その目はまるで捨てられた子鬼のようだ。子鬼を捨てたことはないのであくまで想像だが。
「あのねぇ。インプ。さっきからベルゼブブさんに対し、失礼だよ。ハエとか糞とか。どれだけひどいこと言ってるのか、わかってるの?」
「え? いやいやいや、アルク様。もともとベルゼブブ様はハエの王であり、糞の王なのです。悪口なんかじゃ……」
「だからそれが失礼だって言ってるんだ。わかる? それがどれだけベルゼブブさんを傷つけていることか。いくら悪魔でも、世の中には言っていいことと悪いことがあるんだ」
「い、いや、アルク君。べ、別に僕は――」と口を挟んでくるベルゼブブ。
「ベルゼブブさんは黙ってください。貴方が言ったように、これはしつけです」
「あ、はい。すいません」
空気の読めないイケメンである。
「いいかい。細かいことは省くけど、もともとベルゼブブさんはバアル・ゼブルって呼ばれてた。『気高き王』、『高き館の主』って意味だ。恵みの雨を降らせ、豊穣を司る神様だったんだ。それをちょっと自己アピールに失敗して、邪神扱いされちゃっただけ。しかもベルゼブブさんの姿として描かれたラクガキが広まったせいで、ずっとハエの王扱いだよ。こんなに見目麗しいのに、なんてひどい話だ。でもそれが人族や魔族からならわかるさ。ベルゼブブさんの巨大な力は、畏怖や恐怖の対象だ。それにやっかみもあるだろうし、嫌う人もいるだろうさ。だけど同じ悪魔から、ハエだ、糞だと言われて嬉しいはずがないだろう。なんなら今日からインプのことをゲッゲッゲのインプって呼ぼうか? 短縮してゲップだよ?」
「いえ、それはちょっと」
「だろう? しかもベルゼブブさんは悪魔の中でも暴食を司っている。七つの大罪の一柱なんでしょ? 悪魔の中でも実力派だ。エリートだ。それがハエの王、糞の王って失礼にもほどがあるだろう」
「はい。アルク様。私が間違っておりました」
「うん。だからこれからは変な名前でベルゼブブさんを呼ばないように。さぁ、ベルゼブブさんに謝ろう。僕も一緒に謝ってあげるからね」
「アルク様ぁ……」涙声のインプ。
僕はインプに優しく微笑みながら頭をなでる。
「いいんだよ。使い魔の罪は僕の罪だ。さぁ、ベルゼブブさん――って、ベルゼブブさん!? どうしたんですか!」
振り返るとベルゼブブが黒い涙を大量に流しながら大泣きしていた。
「ぶえぇぇ、えっぐ。ぶふっ。えぐえぐ」
魔法陣の中に貯まった黒い水はベルゼブブの涙だ。
不思議なことにその涙は魔法陣から漏れてくることはなかった。そのせいで円柱状の水槽のようだ。魔法陣の外周沿いには魔力でできた見えない壁のようなものがあるのだろう。
今の彼は魔法陣の中で体操座りをしていた。そのため自分の胸の辺りまで黒い涙に浸かっている。その姿はドブ川に落ちて泣いている子供に見え……ない。どこからどう見ても身長二メートルを超すオールバックの中年だ。
「ぶおっふぉ。ひっく。あぁ、ごべんね。僕のごどを親身に考えてくれる子に会っだごどないがら。……えっぐえっぐ」
僕の前で黒い涙を隠すこともなく、鼻水を垂らしているせいで、みるも無残な顔になっている。あまり量産したくないのだが、「残念シリーズ」に彼を加えるしかあるまい。今、ここに残念悪魔の誕生を宣言しよう。
ちなみに鼻水は黒くない。美形もここまでくると色々と台無しだ。むしろ台無し度はイケメンほどダメージが大きい。服の袖口で涙を拭っているが、自分の涙で服も濡れているので全く意味がない。黒い服のおかげで涙のシミが目立ちにくいのが唯一の救いだろう。
しばらくして貯まっていた涙も体操座りをするベルゼブブの足首の位置まで引いていた。床に染みこんだような跡もなく、どこに流れていってるのか全くわからない。
「ひっく。昔からみんなが僕のこと、ハエの王様だ、糞の王様だってキラキラした目で嬉しそうに言うんだよ。尊敬の眼差しを向けてきた召喚者だっている。本人らは崇めてるつもりなんだ。それを今更やめてくれって言えないでしょ? 言えないんだよ。……ひっく。僕だって頑張って豊穣の神様やってたのに、今じゃ信者がほとんどないから力だって上級悪魔並さ。上から三本の指に入るって言われても昔とは雲泥の差だよ。ひっく」
「それはお辛かったでしょうに」
ベルゼブブの愚痴を僕とインプは魔法陣の見えない壁を挟んで聞いている。インプも反省したようで、ハンカチを目に当てながら、「おいたわしや。ベルゼブブ様」と涙を拭いていた。
落ち着くまで魔法陣の外に出て話をしないかと提案したが丁重に断られた。ウコバクに描かせたこの魔方陣はあくまで連絡用で、基本的にはこちら側に出ることはできないらしい。
もともと悪魔が実体化しようとすると魔力が必要だ。特に上級悪魔、しかもベルゼブブともなると膨大な魔力が必要となる。今は魔法陣の中に悪魔界から魔力を供給し、存在を維持しているらしいが、こちらで自由に活動するのは簡単ではないという。魔力不足のままこちらで実体化すると、「こんにちわ」の、「こん」辺りで終了らしい。簡単に実体化する方法もあるそうだが、大幅な力の低下は避けられないという。いわばこの魔方陣は生命維持装置とかシェルターみたいなものだ。
あと、僕らのほうから魔法陣の中に入ることはできるそうだ。確認のため手を入れてみたが魔力の壁の抵抗もない。なんでも気に食わない召喚者を魔法陣の中に誘い込んで、「えい♪」ってするための罠らしい。本人は可愛く言ってるがその姿はおっさんである。ちなみに、「えい♪」の掛け声のとき、首に親指を当て、真横に引く仕草をしていた。どうみても、「えい♪眠」です。
「アルクさん。大丈夫ですか」
声をかけてきたのは子爵の看病をしていたヒミカさん。
子爵は気絶しているだけで体に影響はないとのこと。
「よろしければ使ってくださいな」
聖女のような慈愛に満ち溢れた笑顔を向けたヒミカさんは、涙を流すベルゼブブにそっと真っ白なハンカチを差し出した。そのハンカチとヒミカさんを交互に見比べるオールバックの美形中年は目に大量の涙を浮かべ、またもや魔法陣を水槽へと変えるのだった。
「ハンガヂなんで、ざじだざれだごどながっだー」
色々と残念な中年悪魔だが、ハンカチなんて差し出されたことなかった、と言ってるようだ。誰だ! ベルゼブブをここまでボッチにさせたのは。あっ、それすらいないからボッチなのか。
ハンカチは彼の涙で真っ黒に染まっていった。まるで墨汁である。
「ところでベルゼブブさん。そろそろ本題に入りたいのですが」
「わかった。なんでも聞いて」
一瞬のうちに態度を変え、もとの美形に戻ったベルゼブブは背筋を伸ばして立ち上がる。魔法陣に残っていた黒い涙もすでに消え失せ、彼の服もすっかり乾いていた。さっきまでのぐちゃぐちゃな彼はどこにもいない。悲しみと涙にさよならできた彼は、威厳を感じさせるポーズをとっている。だが痴態を見た今となっては正直言ってもう遅い。貴方は正真正銘、残念悪魔なのだ。
ヒミカさんのハンカチも真っ白な状態へと戻っていた。ヒミカさんにお礼を言って返すベルゼブブは、「僕、洗濯は得意なんだ」と得意気に言っていた。
洗濯も自分でやってるらしい。
「お聞きします。ヒミカさんを暗殺しようとしたのは貴方ですか」
「ん? ヒミカ? ヒミカ……ヒミカ、あー、魔族のもとに生まれた巫女だっけ? 僕が暗殺を指示したわけじゃないよ。ウコバクを喚んだのは確かに僕だけど、ウコバクと契約を結び、ウコバクに命令したのは人族さ」
思わず隣にいるヒミカさんと目を合わせる。
「僕らは人族から依頼されただけ。受注しただけで人族の魂千個分だよ」
受注って、営業か!
そういえばお嬢様がスノーンと契約をしたとき、ヨヨさんが契約を取るまでが悪魔って言ってたな。まさかノルマとかあるのだろうか。
ベルゼブブは当時のことを楽しげに話しだす。
「いつぞやか人族が我々悪魔を喚んでいたのさ。で、気まぐれで僕が顔を出してやったの。そしたら面白いことに、僕の姿を見てガタガタ震えちゃってさ。『魔族の巫女を暗殺しりょー』とか噛み噛みで言うわけ。ウケるよねぇ。だけど、僕みたいな上級悪魔が、人族の言うこと聞くわけないじゃない? だから僕がウコバクを喚んで、契約を結ばせたのさ」
「ウコバクを呼んだのはベルゼブブさん、と。で、そのウコバクと契約を結び、暗殺を命じたのはその人族、ということですか」
もともと高位の悪魔を喚び出すつもりがなかったところに、ベルゼブブが出てきたらそりゃ驚く。
「そゆことー。しかもね、暗殺が達成できたか証拠の提示を要求しないし、期限も指定しないというザル契約。いやぁ、美味しいですわぁ」
「人族がヒミカさんを狙う理由をご存知です?」
「さすがにそこまでは知らないなー。それに一応、契約だから契約者や契約内容については守秘義務があってあまり話せないんだよ。ごめんねぇ」
さらに話を聞いていくとインプにシュリーカー族の畑を荒らすよう命令した悪魔がわかった。
この件にもベルゼブブが一枚噛んでいたのだ。これも人族が悪魔を召喚していたところにベルゼブブが顔を出したようだ。
ベルゼブブが人族から言われたのは、魔族の畑を荒らすことだったそうだ。畑を荒らすならと、ベルゼブブはほかの上級悪魔の所から使えそうな中級悪魔を派遣してもらったそうだ。この中級悪魔こそが人族と契約し、インプを呼び出し、畑を荒らした張本人だ。
余談ではあるが、ベルゼブブはその中級悪魔やインプと所属が違うらしい。悪魔にも勢力争いとか担当部署みたいなのがあるのだろう。
その後、インプは僕の使い魔となるまで巨大なイノシシであるチョトツに取り憑き、シュリーカー族の畑を荒らした。しかもその契約はすでに完了しているという。なんでも荒らす規模までは契約に入っていなかったようで、足あとを一個つけて、「はい、荒らした。契約完了」にしたそうだ。悪魔といい加減な契約を結ぶとこうなりますよという事例である。
中級悪魔について、改めてインプに確認してみたが全く覚えがないとのこと。ソウルイーターで斬ったとき、知能が著しく低下していたし、もしかしたらそのときに記憶が飛んでしまったのかもしれない。インプが言っていた王都にいる悪魔というのは、その中級悪魔とベルゼブブなのだろう。
ベルゼブブのおかげでいろいろなことがわかった。
まずひとつ。今、この場にいるはずの守秘義務は旅行中だ。たぶん帰ってこないだろう。さっきから結構しゃべっていることに本人は気がついてない。嬉しそうに話しているのをみると、誰かと話すのもひさしぶりなのかもしれない。
そしてヒミカさん暗殺を命令した人間とシュリーカー族の畑を荒らすよう中級悪魔と契約した人間は違う人物だった。
だが、二人とも同じ国の人間だという。
ただ、さすがに契約した人族の名前は言わなかった。目的も不明だ。だが巫女暗殺とシュリーカー族の畑を狙うという契約に差がありすぎる。畑を狙われたシュリーカー族にとっては死活問題だが、事実、せこい契約としか思えない。まあ、荒らす規模を指定してないことから、魔族の食料を狙えとか大雑把な契約だったと推測しておく。
ヒミカさん暗殺を企てたのも人族。
シュリーカー族の畑を荒らすよう言ったのも人族。
そしてその人族らは同じ国に所属している。
これは偶然だろうか。
もしかしたらその国が魔王国に何かをしかけているか?
可能性は捨てきれないものの、人族との戦争は世界中を巻き込んで行われた『魔王と勇者の戦い』以降、千数百年も行われていない。それがなぜ今になって魔王国にちょっかいをかけてくるのだろうか。
この件に関しては、アルティコ伯爵経由で魔王様に報告してもらうとしよう。さすがに一介の執事には手が余る。
それにしても、なんだかんだでベルゼブブが関わっていたことに違いはない。しかも人族との契約をウコバクや中級悪魔に結ばせており、本人は誰とも契約を結んでいないのだ。まったくもって迷惑極まりない悪魔だった。
少し教育が必要なのではないだろうか。
「ところで悪魔の契約ってどんな感じなんですか」
「えっとねー。基本は紙に書くんだけど――」
そう言ってベルゼブブが袖から取り出したのは一枚の紙。見せてもらうと契約内容とか契約者の名前を書く欄があった。おまけに担当悪魔の名前を書く欄まである。この紙に魔力を込めながら念じることで契約内容が記載され、契約者と担当悪魔の両者が自筆でサインすれば契約成立だ。ちなみにサインはインクでも血でも読めればいいらしい。よく自らの血で書くという話を聞くが、それは雰囲気を高める演出だそうだ。
ただ紙自体が心臓のように鼓動しているような感覚があり、ほんのり温かい。
「いろいろ試してもいいですか?」
「うん、いいよー」
僕が試す間、ベルゼブブさんをお待たせしないようインプには彼の話し相手をしてもらう。
その間に僕は『執事ボックス』を開き、中に入るか確認してみた。すんなり入ったことから、生き物というわけではなさそうだ。さすがは悪魔の紙。不気味さでいっぱいだ。僕は『執事ボックス』を開いたまま、契約書を挟むようにして左右の手で持ち、勢いよく引っ張った。
「おお! かなり丈夫な紙ですね」
「もちろんだよ! 神聖魔法の浄化の炎で燃やさない限り、にじまない、破れないという優れものさ」
「サイン偽造とか大丈夫なんです?」
「大丈夫。偽名を書こうが書いた本人が当事者となるから偽造できない。魂を偽ることはできないのさ」
「うーん。さすがは悪魔の契約書。ありがとうございました」
僕は左手に持っていた契約書をベルゼブブに渡し、『執事ボックス』を閉じた。
ベルゼブブも契約書を袖の中にしまう。
そういえばあの契約書、涙を拭いた袖から出していた。思わず鼻水とかついてないか、自分の手を思わずじっと見る。うん、大丈夫だな。
「そういえばウコバクってアルクくんが捕まえているんだよね」
「ええ。お返ししましょうか?」
インプに言って、ウコバクを喚び出す。インプによると悪魔の世界に閉じ込めておく場所があるそうだ。
インプに連れてこられたウコバクはすっかり元気をなくしていた。もともとないのだが目に光は感じられず、インプより大きかったはずの身体は半分ほどの大きさに縮んでいる。まるで魔力を吸い取られたかのようだ。世の中には不思議なことがいっぱいである。
「ううん。いらないよー。暗殺も失敗したことだし、使えないからそっちで処分しちゃって」
非情な判断は実に悪魔らしい。完全に使い捨てだ。だがウコバクはその言葉に反応することはなかった。ショックなのだろう。決して昨夜のことが原因ではない。
「人族は、またヒミカさんを狙ってくるのでしょうか」
「どうかなー。まだ六年だし……あっ、人族にすれば六年は長いんだっけ? あれから向こうからも音沙汰ないし、もうないと思うよ。それに僕が許さない。なんと言っても、まだ『契約履行の途中』だしね」
ベルゼブブは、いたずらが成功したように片目をつぶる。その笑いは美形中年悪魔にふさわしい妖艶さを感じされる笑みだ。惜しいことに先ほどの痴態を見ているため、何の感情も沸かない。
契約の途中というのは、暗殺した証拠の提示もないし、期限を指定されてないから、か。きっと契約者が死ぬまでが期限だろう。契約者が死ねば、契約は無効となる。何もしなくても契約成立。必死だったのはウコバクだけだったということか。
さすがは上級悪魔。言葉を曲解するのが得意なようだ。
僕も見習わなければ。
「だそうですよ、ヒミカさん。理由はわかりませんが、これ以上狙われることはなさそうです」
その言葉に、ヒミカさんを大きく息を吸い込んだ。
今まで溜め込んでいたもの吹き飛ばすように息を吐いた彼女は、安堵の表情を浮かべ、笑っていた。その笑顔はとても美しかった。お嬢様に匹敵すると言ってもいいだろう。
「……アルクさん。いろいろありがとう。これでようやく安心して過ごすことができそうです。これも全てアルクさんのおかげ」
僕の隣で目尻に涙を浮かべながら微笑むヒミカさんは、僕の手を両手で握る。僕は空いているほうの手で彼女の頭をそっと撫でた。そんな彼女は僕の肩に頭を預けてくる。暗殺の恐怖に必死に耐えてきた十歳の女の子。そんな彼女にようやく安息の日が訪れるのだ。
うん、食材探し終わったら契約した人族を、「えい♪」してもいいんじゃないかな。
「あのぅ。アルクくん。お取り込み中、申し訳ないんだけど聞いてもいいかな」
「はい? いいですよ」
ベルゼブブの声にヒミカさんが慌てるようにして一歩下がった。彼女の頬は夕日のように染まっている。
風邪だろうか?
「えっと。ハンカチを貸してくれたそこの天使……じゃなかった、心優しい女の子の名前だけど……」
おい、悪魔。
天使ってなんだ。
悪魔と対を成し、常に敵対する天使に例えるとか、悪魔としての矜持はないのだろうか。
「彼女はヒミカ=アルティコさん。伯爵家の令嬢、白の賢者様に仕える巫女ですよ」
「……え? その子がヒミカ……さん? 本当に? マジで? 偽りなく?」
ベルゼブブの目が泳ぐ。真っ黒だからどこを見ているのかわからないが、間違いなくその目は、鳴門の渦潮に逆らうことなく泳いでいる。溺れているといったほうがいいだろう。
どうやら目の前にいるのがヒミカさんだと知らなかったらしい。
「はい。ベルゼブブさんが間接的に暗殺しようとしたのが彼女です。いやぁ、さすがは悪魔ですね。悲しむ悪魔にハンカチを差し出すような優しさを持つ天使のような彼女を暗殺しようだなんて。あ、もしかしてアレですか。先ほどヒミカさんを『天使のような』って言いましたけど、悪魔のベルゼブブさんは最初から敵対するおつもりでしたか。いやぁ、ハンカチを貸してくれた子に、恩を仇で返すとかマジ引きますわー。ひどいっすわー。よっ! 悪魔の中の悪魔。さすがは上級悪魔ベルゼブブさん」
そんな僕を見たヒミカさんは、眉間を指で押さえながらため息をついた。
ひさしぶりですね、そのクセ。
数秒後、僕たちは白い顔をより白くしたベルゼブブの土下座を見ることになった。
「このたびは申し訳ございませんでした」
「い、いえ、頭を上げてくださいな。ベルゼブブさん。私、気にしておりませんから」
今日会ったばかりの大の大人に土下座され、狼狽たえるヒミカさん。どうも本当に困っているようだ。しかも服装は神官衣だから同業者に土下座されているようにも見える。いやぁ、美形中年を跪かせるヒミカさん、さすがです。森林管理局の職員に多数の『狂信者』を生み出しただけのことはあります。
「それだけでは気がすみません」
「ですからっ、気にしないでくださいっと……。アルクさーん」
珍しいことにヒミカさんは困った顔をしながら僕に助け舟を求めてきた。普段なら自分で解決するだろう彼女の性格を考えると、本気で嫌がってることがわかる。うん、わかるよ。ベルゼブブ、うざいもの。
これ以上は彼女に申し訳ないし、そろそろやるか。
「ベルゼブブさん。お気持ちは十分通じていると思いますよ。どうしてもって言うなら謝罪文でも書けばいいじゃないですか。誠意を示せますし、それで終わりにしましょう」
僕は魔力を込めながら『執事ボックス』から半分に折った紙を取り出す。
「それだけでよろしいのですか」
「そもそも謝罪文もいりませんけどね」とヒミカさんが疲れた顔をする。
紙には、『この謝罪文が書かれた紙をもって水に流す。これによって全てを終わりとし、以後の責任は消滅する』と書かれている。
うん、問題ない。これでいいだろう。
「インプは紙の端っこをちゃんと押さえておいて。あっ、名前書くとこ作っておきましたんで、そこにサインをお願いします。……はい、そこです。ここにベルゼブブさんの名前を書いてください」
顔を上げたベルゼブブは土下座のまま、床に置いた紙に自分の名前を書いた。僕とインプは紙がずれないよう手で押さえている。
「へぇ。これがベルゼブブさんのサインですか。達筆ですね」
「いやぁ、それほどでも」
紙には誰が見ても褒めてくれるだろう綺麗な文字でベルゼブブと書かれていた。その紙を見てヒミカさんが驚いていたけど、僕は気がつかないふりをする。
僕はその謝罪文を左右の手で挟むように持って、何回か引っ張ったあと、『執事ボックス』の中にしまった。これは折を見てヒミカさんに渡すとしよう。
サインしたあと、「よっこいしょ」と言いながらベルゼブブが立ち上がったが、まだどこか浮かない顔のままだ。
「どうしました?」
「うーん。これだけだとなんかスッキリしないんだよね。一応、僕も上級悪魔だし、手土産のひとつくらい贈っておきたいのさ。営業の基本でしょ、基本。アルクくんとヒミカちゃん、何か欲しい物ない?」
完璧に営業モードに突入しているベルゼブブ。立場からすれば取締役レベルだというのに自ら営業とは悪魔の世界も世知辛い。
僕とヒミカさんも最初は断ったのだが、結果的に僕たちが折れることになった。
「ヒミカさんは何かある?」
「うーん。毒を無効化することはできないのでしょうか」
「できるよ。回数制限付きだけど」
「使いこなせるなら僕は時間を操作できる魔法かなぁ」
「時魔法ね。そっちも制限さえつければ大丈夫かな」
今もこの空間は時が止まったままだ。
使いこなせるかどうか確認を含めて聞いてみると、制限付きなら可能らしい。もはや手土産レベルを完全に超えているように思える。
「さすがに毒への完全耐性とか、完璧に時を止めるのなら対価がいるけどね」
「ちなみに対価ってなんです?」
僕が聞くとベルゼブブは、「待ってました!」と言わんばかりの笑みを浮かべ、両手を広げながら言った。今にも揉み手をしそうな勢いである。
「アルクくんとヒミカちゃんには、思いっきりサービスするよ! そうだなぁ、……ヒミカちゃんの両親の魂とこの家にいるユリアナとかいう女の子の魂。それにアルクくんなら仕えているお嬢様とメイドの魂だけで手を打とうじゃないか!」
ベルゼブブがそう言い終えた瞬間、白く輝く二つの光の帯が彼を貫いた。
帯状の光は魔法陣の見えない壁を次から次へと粉砕し、幾度となく反射を繰り返しながら敵とみなしたベルゼブブの体に無数の穴を穿っていく。
あまりの速さにベルゼブブは身動きがとれない。
二つの光はうねる蛇のように絡み合いながらベルゼブブの体を魔法陣の外へ弾き飛ばすと、飛び出した僕とすれ違いながらゆっくりと消えていった。
ベルゼブブが『お嬢様』と口に出したとき、すでに『執事ボックス』からソウルイーターを取り出していた僕は、ベルゼブブが魔法陣の外に弾き飛ばされた時点で床を強く蹴っていた。消えゆく二つの光とすれ違いながら、弾き飛ばされて落下中のベルゼブブの首に向かって、短剣を突き刺す。その勢いのまま、ベルゼブブの腹に膝蹴りを入れ、床に叩きつける。攻撃の手を休めることなく素早く立ち上がった僕は、ベルゼブブの胸を思いっきりかかとで踏みつけた。
「おい、ベルゼブブ。お嬢様の魂だと? ふざけたことぬかすとお前の喉にソウルイーターぶちこむぞ? 糞野郎」
(ベルゼブブさん。お嬢様の魂ですって? あまり失礼なことを言うとさすがの僕も許すことはできませんよ。わかってますか?)
満身創痍のベルゼブブを睨みながら足に力を入れる。
ベルゼブブの喉に刺したソウルイーターは、彼の魔力をじゅるじゅると美味しそうな音を立てながら吸い続けている。その刀身はまるで生きているかのように震え、色艶も良くなっているようだ。
それにしても僕もまだまだだ。
執事としての修行が足りない。
インプに冷静さが大切と言いながら、心の中では自分自身が冷静になれていなかった。自分の未熟さを反省しながらインプを探すと、彼もまた何かの植物でできた三叉の槍でベルゼブブの腹を突き刺していた。
「アルク様のお怒りは、私の怒り。主のため上級悪魔の一人や二人屠ってこそ使い魔というもの。上を減らせば私もひとつ、上に上がれます」とニヤリと笑う。
うん、きみは立派な悪魔なれるよ、インプ。
ヒミカさんに目をやると、彼女は両手を胸の前で合わせ、いつでも次の魔法が撃てるよう意識を集中している。その周りでは、昨日ビザー伯爵の別邸でも見た光の玉が淡い光を放ちながら、彼女を守るよう八の字を描いていた。この光の玉は大神官様の使い魔で、ヒミカさんを影から守るよう命じられている。
先ほどの帯状の光もヒミカさんとこの光る玉から発動された神聖魔法だ。奇しくも同じ神聖魔法だったのは大神官様の影響だろうか。
ヒミカさんは、今初めてその光の玉の存在に気がついたようだが悪いものではないと判断したようだ。嬉しそうな笑みを浮かべていることから、大神官様が関わっていることを察したのだろう。
ヒミカさんと光の玉による神聖魔法により、魔法陣の紋様はあちこちが焼き切られていた。魔法陣から放たれていた光もすでにない。だがベルゼブブによる時魔法はいまだに解かれておらず、魔法陣の周りにあるろうそくの炎のゆらめきは止まったままだ。
「ゴボッゴボボ」
咳き込むベルゼブブが、口から血のような黒い液体を吐き出している。何か言ってるようだが、さっぱりわからない。僕は彼からソウルイーターを引き抜き、足をどける。インプにも後ろに下がるよう命じておく。
「何かおっしゃいましたか? ベルゼブブさん」
「………………」
「はい?」
わずかな時間の経過とともにソウルイーターで裂かれた喉はみるみるうちに塞がっていった。体にあいた穴もほとんどが塞がっている。脅威の回復を見せるベルゼブブは咳払いしながら、声が出るか確認していた。
「んっんっ。あーあー。えーとね、アルクくん。本音と建前が逆じゃないかな?」
「ん? ――おっとこれは失敬。お口が過ぎたようです」
先ほどベルゼブブに言った言葉を思い出す。言われてみると、心の中は冷静だったが、口から出てきたのは少々汚い言葉だった。こういう場合、冷静であったというべきだろうか、冷静ではなかったというべきか悩むところだ。
「それに刺してから、ぶちこむぞって言われても返事できないよっ」
「確かに。じゃあ今からもう一度刺しましょう」
「いいから! それはもういいから! なんでソウルイーター持ってるのさ! 執事だよね? 執事って言ってたよね?」
「ソウルイーターは執事の嗜みですよ」
「初耳だよ! 嗜む前に、君を窘める上司はいないの?」
「その上司から拝領したものに何か問題でも」
「……ありません」
「ところでベルゼブブさん。僕は先ほど、この世の中には言っていいことと悪いことがあるとインプに言いました。聞いてましたか? ましてやお嬢様の魂? たかが上級悪魔のくせに、崇高で、清廉で、純情で、秀麗で、聡明なお嬢様の魂を対価とはなんたる侮辱。何事にも代えがたいお嬢様に匹敵するものがこの世にあるとでも? ちょっとそこに正座してください。いや、正座しろ」
「あ、はい」
そこからベルゼブブへの説教が始まった。
なあに、時間は問題ない。今もこの部屋の時間は止まっている。
しばらくお待ち下さいのメッセージすら流れない。
説教しながら、なぜ魔法陣から出ても消えることがないのか話を聞いた。
するとベルゼブブは、トカゲの尻尾切りのようなものと笑っていた。ということは本体は無事と白状したのも同然である。さすがは上級悪魔。往生際が悪い。
そのトカゲの尻尾である目の前の彼は、魔法陣の残存魔力で形を成すだけの分身体にすぎないそうだ。どうやらこれが魔法陣もなくこちらの世界で簡単に実体化する方法らしい。
本体は悪魔界へと戻っているため、時を止める魔法も維持できなくなり、しばらくすればその効果は切れるという。本体と意識を共有しているため、今もこうして会話することができるし、簡単な魔法なら行使できるそうだが、かなり弱くなっているらしい。当社比千分の一だと言っていたが、いつ製品になったのかは聞かなかったことにする。その代わりにこの状態であれば魔力が続く限り、こちらで過ごすことも可能だそうだ
だがそんなベルゼブブも今はすっかり反省していた。
「アルクくん、ヒミカちゃん、ごめんね。今回のお詫びとして二人には少しだけ毒に強くなる指輪を差し上げるよ。あと『アルクくんの可愛いお嬢様』には、ネコニャンのぬいぐるみを。ユリアナちゃんには、鏡をお詫びとして渡してね」
「はい。これで今回の件はなかったことにしましょう」
袖の中からいろいろと取り出したベルゼブブ。
あれも空間魔法みたいなものだろう。
(ふむ、本体と分身体でも物のやり取りも可能なようだ。覚えておこう)
げっそりとした顔のベルゼブブから、いろいろ受け取った僕は満面の笑顔を彼に向ける。体感で二時間ほどお嬢様の魅力について話をしたのだが、ようやくベルゼブブもお嬢様の魅力と素晴らしさに気がついてくれたようだ。「お嬢様サイコー」、「お嬢様カワイイ」と何度も口ずさんでいる。分身体への影響は本体にも影響を及ぼすそうだから本心なのは間違いない。
時魔法に関しては残念ながら教えてもらうことはできなかった。
本体が離れた今、対価なしで力を分け与えることは無理だという。
残念だが、こればかりは仕方ない。
僕たちの後ろでは、ヒミカさんがレジャーマットを敷いた床の上に座り、お茶を飲んでいた。火魔法が得意なウコバクがお湯を沸かし、インプが給仕を担当している。お湯を沸かしたあと、ヒミカさんにお礼を言われたウコバクは、「俺、生きてていいんだ。俺にもできることがあるんだ!」と涙していた。
ベルゼブブに見捨てられた彼は、自信を取り戻すことができた。昨夜、誰かとお話ししたことによって、彼の存在意義が全否定され、自暴自棄になっていたわけではない。悪いのは全部、彼を見捨てたベルゼブブである。言っておくが僕は悪くない。
ベルゼブブに致命傷を与えた光の玉は、隠れることをやめ、今はヒミカさんの周りを楽しげに動いている。
そんな光の玉を視界に入れないよう、びくびくしているのはインプとウコバク。二匹揃って光の玉を目で追う姿は、猫じゃらしをガン見する子猫のようだが、その立場は狩るほうではなく、狩られるほうである。ベルゼブブを貫いた光は下級悪魔ではひとたまりもないだろう。
フラム子爵は今も気絶したままで起きてくる様子はなかった。
「あのぅ。アルクさん。悪魔から物をもらっても大丈夫なのでしょうか」
「問題ないでしょう。ベルゼブブさんは間違いを犯しましたが、仮にも上級悪魔。約束を破ることはないでしょうし、自分の仕事にプライドも誇りもお持ちの方です。偽物を渡したり、呪いの品を渡したりという姑息で幼稚で短慮なことをするような悪魔ではありません。ねっ?」
「え、ええ。も、もちろんですとも!」
「ね?」
「大丈夫! 何もしてないから! ねっ? 短剣しまおうね!」
嘘を言ってる様子はない。
そんな彼は、暴食の王と呼ばれている。決して紡織の王ではない。確かにお嬢様用にもらったネコニャンのぬいぐるみは愛らしさで満ち溢れていたが、あくまで彼は暴食である。
ちなみにぬいぐるみの見た目はどう見ても猫である。たぶんネコニャン=猫という認識でいいのだろう。ウサギン同様、また見たことのない動物が増えてしまった。
「そういえばベルゼブブさんは、暴食の王ということですが、やはり美味しいものがお好きなんですか?」と聞いてみた。
「美味しいものだって? そりゃあもう大好きさ。美味しいものがあれば一人でも幸せだね。あれ? ま、魔族って味わからないんじゃなかったっけ?」
たびたび僕を泣かせてくるベルゼブブ。
一人で食べるより大勢と食べるほうが美味しいと教えてあげたくなる。
「僕とヒミカさんは大丈夫です。もし良かったら今度一緒にいかがです?」
「ええ!? すっごく嬉しいけど悪魔の僕でいいのかい? さっきはずいぶんと失礼なこと言っちゃったのに」
誘われたことが信じられないような顔で彼が言う。
少し頬を染めながら、まるで初めてデートに誘われたようなキラキラした目が実にまぶしい。美形ゆえに頬を染めた顔には色気があふれているが、おっさんであることを忘れてはならない。
「反省してくれましたし、二度とこちらに敵意を向けなければかまいません。それにご飯は大勢で食べたほうが美味しいですよ。分身体ならこちらで存在できるんですよね」
「うわぁ! うわぁ! 誓う! 誓うよ! もう君たちに怒られるようなことはしないとも。ありがとう! 喜んでお誘いを受けるよ!」
両手を上げながら子供のようにはしゃいでいるベルゼブブは、心の底から喜んでいる。やはり一緒に食事をしてくれる仲間がいないのだろう。もしかしたら今日、姿を見せた理由は寂しかったからかもしれない。今も部屋の周りをスキップして喜ぶ彼を見てそう思う。ただ、喜ぶ態度にも歳相応の方法があると思うんだ、僕は。中年のスキップとか見ていて悲しくなる。
「あ、そうそう。食材が採れてからになりますから、すこし時間かかりますけどいいですか?」
「ん? どういうこと?」
僕はベルゼブブに魔王国の食材について説明する。
毒を含む食材ばかりで僕たちが食べられないこと、僕が知っているレシピにはまだ見つかっていない食材が必要であること、さらには見つけたとしてもそれを育てる時間が必要であること、などだ。
「そういうことね。だから時魔法かぁ」
ベルゼブブは僕の説明を聞いたあと、顔を少し下げ、腕を組んで悩んでいる。しばらくしてから、彼はこれまでにないほど真面目な顔をしていた。どこを見ているのかわからない真っ黒な目だが、今は僕の瞳を真っ直ぐに見ているのは間違いない。
「アルクくん。分身体の僕と契約してみるかい?」
「というと?」
「僕の本体と契約するのは今の君では力が足らない。だけど分身体なら問題ないだろう。もちろん使い魔とかの契約じゃない。僕と契約してくれたら、僕は君に時魔法の使い方を教える。家庭教師みたいなものさ。その代わり、暴食の王たる僕に君の作ったご飯を食べさせて欲しいんだ」
真っ赤な顔をしながら僕の前で片膝をつくベルゼブブ。
君の味噌汁が飲みたい的なニュアンスだが、まだ味噌は見つけていない。
目を潤ませた美形の恥ずかしげな顔はなかなか絵になるのだが、相手は何度も言うようにオールバックのおっさんである。おっさんの照れる姿などあまり見たいものではない。
「まさか毎食とか一時間起きとかじゃないでしょうね」
「そんなこと言ったら、また刺すよね?」
「ええ。今度は地獄の果てまで追いかけ、消滅させます」
「なにそれ怖い。もう絶対に敵対しないことを神様に誓うよ。君の可愛いお嬢様に誓ってもいい」
「ふう。たまにならいいですよ」
「本当に!」
まあ美味しいものが好きならいいだろう。
あくまで時魔法のお礼として食べさせればいい。
「なっ! ダメです! アルクさんのご飯は私が食べるです。それにベルゼブブさんは男性ですじゃない。神と生命の営みが許しません」
思わぬ所からダメ出しが出た。
ティーカップを放るように置いたヒミカさんが大きな声を上げる。慌てているし、言ってることもかなりおかしい。ベルゼブブのご飯まで食べるとか、とうとうヒミカさんが食いしん坊になってしまったようだ。
赤くなった顔でベルゼブブの提案を一刀両断である。それはもうバッサリと。
「ヒミカさんの分もちゃんと作りますから大丈夫ですよ?」
「ヒミカちゃーん。勘違いだよ。大丈夫。僕はリリスちゃんとかグレモリーちゃんのような女性が好みだ」
「勘違い? 誰もベルゼブブさんの好みなんて聞いてませんよ?」と僕は思わずため息をつく。
確かリリスもグレモリーも美しさを誇る女性型の悪魔だったはず。
ぼっちのくせに理想が高い。
「いいんだよ。アルクくん。ヒミカちゃん、ただの契約だよ、契約。婚約じゃない」
「こ、こん、にゃんにゃくー!?」
ヒミカさんがベルゼブブの言葉に両手をバタバタと回しながら叫ぶ。さっきから彼女の様子がおかしい。お腹が減っているのだろうか。そういえば、すぐに地下室に降りてきたため、軽食として用意した卵サンドを口にしていなかったな。
「こんにゃくですか? こんにゃく芋も見つけてませんけど?」
どうやら僕のこんにゃく芋発言はどうやら無視されたようだ。
ベルゼブブがヒミカさんのもとに近づき、耳打ちを始める。最初は警戒した様子の光の玉だったが、ベルゼブブが耳打ちを始めるとなぜかヒミカさんの耳元へと近づいていく。
うん、あれは聞いてますわ。どうやらあの光の玉、こちらの言葉が理解できるらしい。
何を話しているかわからないが、ヒミカさんはうなずいたり、真面目な顔になったり、顔を赤くしたりしていた。光の玉まで点滅を繰り返している。
そんな二人と一玉は、互いに納得いったようだ。
悪魔と密談とか一番危ないような気もするが、大神官様の使い魔である光る玉も参加しているから大丈夫だろう。問題があれば大神官様にも報告が入るはずだ。
「というわけでアルクくん! 契約を結ぼうか!」
「三人で密談しておいて、わけもなにもあったものじゃないんですが」
「いいじゃないか。時魔法で食材うっはうっはだよ!」
「ハァ……まあ、便利そうですしね。では、今度はちゃんと契約しましょうか」
「ん? 今度は? 一体何の話だい?」
僕は『執事ボックス』から、先ほどベルゼブブに書かせた謝罪文を取り出すと、紙を広げて彼に見せる。
その紙には、『この謝罪文が書かれた紙をもって水に流す。これによって全てを終わりとし、以後の責任は消滅する』という文と、『以後の責任とは、ベルゼブブ本人の意味とする』という文が追加されていた。
「あれ? さっきの謝罪文……じゃないね!? これ! 契約書じゃないか! しかも担当悪魔に僕のサインまで! どういうこと?」
「先ほど契約用紙を見せてもらったときに『執事複写』で複写したんですよ。お返ししたのは、複写したほう。そしてこっちが本物の契約用紙」
契約用紙を見せてもらったとき、僕は『執事複写』を使って原本を複写し、バレないよう素早く『執事ボックス』へとしまっておいた。さすがのベルゼブブも気づいていなかったようだ。謝罪文にサインが書かれたあと、ヒミカさんは気がついていたようだけど。
慌てて契約用紙を取り出したベルゼブブは、紙を手に持って左右に引いた。僕が渡した複写した契約用紙は本物と違い、何の抵抗もなく左右に裂け、簡単に破れてしまう。
二つに破れた契約書を持つベルゼブブの手が震えている。
「ええー! じゃあ僕は契約内容を決める前にサインしちゃったってこと!?」
「はい。条件は書き放題。こっちに有利な内容を書くだけ書いて、あとは僕のサインを記入するだけ。確か両者のサインがなされたときに成立であって、それまでは成立しないんですよね。サインが揃っていない場合でも、契約内容の追加ができることは文を追加することで確認済みです」
付け加えた文を指差しながら指摘すると、ベルゼブブの顔が紫色になっていく。
謝罪文を書かせるときに、契約用紙を半分に折っていたのは形状を変えることによって誤魔化しやすくするため。これが意外と気づかれない。僕とインプが手で紙を押さえていたのは契約内容や契約者、担当悪魔の文字を隠すためだ。
ベルゼブブのサインは当然、担当悪魔の欄にするよう誘導してある。
いやぁ、契約書はちゃんと見ないといけませんなぁ。
そして重要なのは、『以後の責任とは、ベルゼブブ本人の意味とする』と追加した文だ。
この一文の追加により、『この謝罪文が書かれた紙をもって水に流す。これによって全てを終わりとし、以後の責任は消滅する』という文は、『この謝罪文が書かれた紙をもって(持って)水に流す。これによって全てを終わりとし、ベルゼブブ(=以後の責任)は消滅する』という意味になる。
「む、無茶苦茶だよ。へりくつだよ! そんな契約は無効だ!」
「やだなぁ。僕の名前が書いてないからまだ契約書じゃないですよ」
「ぐっ」
「そんなに言うなら、僕がサインしたあとで試してみます? この契約書を水に流したときにベルゼブブさんがどうなるか楽しみだなー」
「え? それは待って! そんなことしたらさすがの僕でも消えちゃう!」
「あ、この契約でも有効なんですね。教えてくれてありがとうございます。いやぁ、契約内容書き放題のザル契約、美味しいですわぁ」
「お、鬼! 悪魔!」
悪魔に悪魔と呼ばれるのは褒め言葉だと受け取っておく。
この契約書は、まさに金額の書いていない白紙小切手のようなものだ。チェックライターがない時代、金額を改ざんされないよう、壱、弐、参のように漢数字の大字を使っていた。ほかの文字だと、一は十にできるし、十は廿にもできる。1は4にできるし、3も8にできるのだ。そんな白紙小切手は好きな金額が書けてしまう。信用してない相手に白紙小切手を渡すとどうなるか言うまでもない。
そんな小切手が今僕の手の中に一枚あるのだ。
頭の中で文章を浮かべ魔力を込めると、ベルゼブブに見せている契約書に文字が浮かび上がる。
・契約者をアルクとし、担当悪魔はベルゼブブ本体である。
・アルクに時魔法を伝授し、使いこなせるようにする。担当悪魔に対する対価は、たまの食事とする。但し、強制はされないものとする
だがこれだけでは終わらない。
・アルクの命令は絶対である
・魔族に危害を加えない、アルクの知り合いに敵意を向けない、アルクの知り合いにあらゆる敵対行為をしない、アルクを不快にさせない、これらはいずれも直接、間接を問わず、適用されるものとする。
・アルクが望むまで契約は続く
・アルクが望む場合、契約は譲渡される。譲渡された場合、契約者はアルクから譲渡された者へ無条件で変更される。譲渡された場合でも契約内容に変更はない
次から次へと浮かび上がる契約内容に、ベルゼブブは震えが止まらない。なにせ契約の多くがアルクの気持ちひとつで決まるのだ。「不快にさせない」などまさにその一例だろう。契約の期限もアルク次第。際限なく増える契約内容。アルクがサインしてからが本当の地獄だ。
ベルゼブブの黒い瞳がくすみ始めていた。
漆黒の黒だった瞳に生気はない。
僕はそんなベルゼブブを尻目に、ヒミカさんに声をかけた。一つお願いをするためだ。僕のお願いに、彼女は深いため息をついたが、どうやら願いは聞いてくれるらしい。「悪い方ですわね」というつぶやきのあと、心を浄化するような詠唱が流れる。詠唱が終わり、彼女の打った心地良い柏手が耳をくすぐる。
その柏手に呼応するかのように、僕が持っていた契約書は白い炎に包まれ、一瞬のうちに灰と化した。悪魔の契約書が神聖魔法の火で浄化されたのだ。
「ふえ?」
ベルゼブブが信じられないものを見たという顔で灰になった契約書を見つめている。僕は手を払いながら、呆然としている彼に笑顔で話しかけた。
「まあ、こんなことをする必要はありません。僕はベルゼブブさんに美味しいものを提供する。ベルゼブブさんは僕に時魔法を教えてくれる。せっかく友達になったのに契約だなんておかしな話です」
「え? と、友達だって? 友達って契約しなくてもできるものなの?」
いちいち泣かせに来るベルゼブブ。
すがるような目で僕を見る彼に、やれやれと首を振る。
思わず涙が浮かんできたがここは我慢だ。
「何言ってるんですか? 友達になるのに契約なんていりません。しいていうなら約束でしょうか。僕とベルゼブブさんはもう友達でしょ。ケンカもしたけど仲直りしたじゃないですか。十分、友達ですよ」
止められていた時の時計が動き出す。
その後、いち早く部屋から抜けだしたヨヨさんと、彼女の助けに応じた大神官様らが部屋に駆け込んできたとき、そこには大泣きするベルゼブブと彼を慰める僕とヒミカさんの姿があった。何事かと大神官様たちが首をひねる中、彼の黒い涙は部屋の床を濡らしていった。
セイバスさんに教えてもらった『執事複写』は本当に便利な魔法だ。侯爵様にも仕事に欠かせないと評価される魔法。いつか僕もお嬢様のために使う日が来るだろう。初めて教えてもらったときは失敗の連続だったが、その後の練習により完璧に習得することができた。この魔法は、本や書類を左右の手で挟むように持ち、引っ張ることでそれらを複写するものだ。複写すると、右手側に原本、左手側に複写したものが現れる。
ベルゼブブは気づいていない。
神聖魔法に浄化され、燃やされた謝罪文が本物ではなかったことに。
『ベルゼブブのサイン入り契約用紙の原本』は、今も僕の『執事ボックス』の中に眠っている。
最初に白紙の契約用紙を複写して本物を手元に起き、サインさせる。謝罪文だと言って本物の契約用紙にサインさせたあと、さらに複写して、複写したほうを取り出し、燃やしてもらう。もちろんベルゼブブに見せたように、「複写したベルゼブブのサイン入り契約書にも追加で文字が書ける」ことは確認済みだ。
この契約書にサインすることがないといいな、と思いつつ、僕は心のなかで彼に謝っておいた。
(いやぁ、美味しいっすわぁ)
謝罪の言葉はそれぞれである。
気持ちとしては謝っているので問題ない。
だがアルクも気づいていない。
ベルゼブブがティリアお嬢様にお渡しくださいと言ったネコニャンなるぬいぐるみがアルクの心を乱すことに。




