第七十八話 精霊の願い
「君に、ひとつ頼みがある」
ヒミカさんと、もふもふ話をしていたときのような軽い態度ではなく、真剣な表情を浮かべ、僕に頼みがあると言う大神官様。
「なんでしょうか」
「あの子を守ってやって欲しい」
「……例の暗殺者の件ですか」
僕の言葉に、黙ってうなずく大神官様。
犯人の目星はある程度ついているが、証拠となるようなものが何一つない。以前、この神殿にも犯人と思われる者が放った使い魔が、ヒミカさんの部屋に忍び込み、水入れに毒を仕込んだと聞いている。
今、もっとも疑われているのは、フラム子爵だ。
ヒミカさんの親であるアルティコ伯爵と同じ一族で、アルティコ伯爵の後継者候補になっている娘の親である。
ことは、ヒミカさんが養女になる前の話に遡る。
高齢で、子供のいなかったアルティコ伯爵の後継者を決めるべく、伯爵の一族では争いが絶えなかった。そんな争いを止めるべく、伯爵が出したのが、『一族の中で一番優秀な子供に家督を譲る』という宣言だ。それでも争うものは追放する、という条件も付け加えた。その宣言のおかげで争いは静まった。
その宣言のあと、伯爵の養女となったのがヒミカさんだ。
もともと捨て子だった彼女は、大神官様に保護され、大切に育てられた。そして三歳のとき、子供のいなかったアルティコ伯爵の養女となった。
ヒミカさんが狙われるようになったのは、伯爵の養女になってから行われたお披露目パーティ後の話だ。
当時、アルティコ伯爵と良好な関係を築き、子供のいなかったフラム子爵は、伯爵家の後継者が決まったことを心から喜んでいた。
しかし、そのフラム子爵主催のお披露目パーティで、彼女は毒によって死にかけた。
原因は、パーティで出された料理だった。
だが、そのときは暗殺とは関係なかった。
ヒミカさん以外の魔族も同じ料理を口にしていたからだ。
もともと魔族の料理に使われる食材には毒が含まれているものが多い。それでも多くの高位魔族は、ほとんどの毒を無効化し、魔力にして変換して吸収してしまう。
しかし、魔族の料理に毒があることを知らなかったヒミカさんは、その毒入り料理を食べてしまった。そして最悪なことに、彼女は僕と同じ、毒に対する抵抗力がなかったのだ。
養女になる前の彼女は、大神官様の作った『いつも同じ料理』によって、毒の影響から運良く逃れていた。逆に、いつも同じ料理のせいで極度の偏食になってしまったため、これについては運が悪かったとも言える。
だが今回、初めて見る貴族の料理の鮮やかに目を奪われ、興味から口にしてしまったのが災いした。
毒で倒れていたヒミカさんを救ったのは、第一発見者であるフラム子爵と大神官様だ。一命を取り留めたものの、毒に弱いということが親族中に知れ渡ることになった。魔種族から弱点を探られることもある高位魔族にとって、非常に危険な事態である。
またこの日、生死をさまよったヒミカさんは白の賢者様から巫女になるよう天啓を授かることになる。
その日以来、アルティコ伯爵は様々な手を講じた。
捨て子だったヒミカさんを、後継者としてよく思わない一族の手から守るため、伯爵は養女となったばかりの彼女を巫女修行と称して神殿に住まわせた。養女だとはいえ、幼き娘と離れて暮らすのは、普段のヒミカさんへの溺愛ぶりを見ると、苦渋の決断だったと思う。
その後、しばらくしてからフラム子爵夫人の懐妊が発表された。子爵家の後継者でもあり、新たな伯爵家後継者候補の誕生である。
それからというものフラム子爵は、憎悪の目でヒミカさんを見るようになり、敵意を向けるようになったという。
それ以降、彼女の部屋の水入れや、彼女宛の贈り物などに毒が混入していることが度々確認された。そしてその毒は、ヒミカさんが倒れる原因となった毒が使われている。
「すまないと思ったが、念のため君の素性を洗わせてもらった」
「かまいませんよ。何かわかりましたか」
「侯爵家に仕え、セイ坊に師事しているくらいで、侯爵家からはほとんど何もわからなかった。どうなっとるんだ、あの家」
さすがはセイバスさんをはじめとする使用人の皆さんだ。
侯爵家の情報を外に漏らさないための手段は完璧である。
「侯爵家からは、ということは、ほかにも?」
「うむ。ヒミカ本人には言ってないが、うちの使い魔を常時つけておる」
ヒミカさんが狙われているとわかったときから使い魔を護衛役としてつけているそうだ。
なるほど。
そうであれば大神官様には、僕とヒミカさんの会話は筒抜けだろう。
「それもまた悪趣味ですね」苦笑交じりに僕はつぶやく。
「必要なことしか把握しとらん。知ってるのは、君がヒミカとよく似た境遇であり、毒に弱く、味がわかるということくらいじゃ。さすがにそこまで悪趣味ではない」
「彼女を守るためですか」
「もちろんじゃ。うちはヒミカを守るためならなんでもする」
だが、と言葉を詰まらせた大神官様の表情は固く険しい。
「……限度がある。うち一人では、な。だからこそ――」
確かに、誰かをたった一人で守るには限界がある。それに大神官様はお忙しい立場だ。ずっと付きっきりというわけにもいくまい。
僕に彼女を守って欲しいと言い出したのは、一人よりも二人という判断だろう。
だが、続く大神官様の言葉が僕を戦慄させることになった。
「だからこそ前世の記憶を持ち、白の賢者様から前世の知識と技能を授かった転生者のお主を頼りたい」
(え! なんで?)
僕は、ごくりと息を飲む。
僕が前世の記憶持ちの転生者であることは、ティリアお嬢様以外、侯爵家のみんなが知っていることだ。
しかし、白の賢者様からもらった『前世の知識や技能』のことを知っているのは、妖精族のヨヨさん、巫女、それに女王の三人だけのはず。
それに僕が転生者であることは、ヒミカさんには言ってない。
それなのに、なぜ大神官様が知っている?
どうやって知った?
誰から聞いた?
まさか妖精女王から?
いや、当時と同じ女王とは限らない。
では、どこが情報源だ?
頭の中を様々な疑問が駆け巡る。
しかし、その疑問に対する答えは出て来ない。
僕は動揺を隠しながら、お茶に手を伸ばした。
すっかりぬるくなったお茶を、震える手を隠しながら、ごくりと一口飲み込む。
確信があって言っているようだし、誤魔化すのは……無理か。
「どこでそれを?」
平静を装いつつ、再度お茶を口に運びながら大神官様に問う。
対面に座る大神官様は、ただ淡々と真面目な顔で答えを返してきた。
「白の賢者様から啓示があってのぅ」
(ぶっ)
その返ってきた意外な答えに、僕は思わずお茶を吹き出しそうになる。
……あ、あの邪神め。
何が、「前世に存在する知識と技術のことは他言無用ね」、だ。侯爵家のみんなにも話していないのに、神様自ら吹聴してるじゃないか。
あれか? 記憶力も真っ白か。
だから白の賢者と呼ばれてるのか。
はじめは、妖精の女王様や巫女がしゃべったのかと思った。
妖精の女王と懇意にしているという大神官様であれば、今も妖精たちと交流があっても不思議ではない。
しかし、それは早合点だった。
妖精の女王や巫女、それにヨヨさんは、僕のことをほかの連中に話さぬよう妖精の神様に誓っている。その誓いは破られていないということだ。
疑ってすいません、女王様と心のなかで謝罪しておく。
「まあ、白の賢者様の啓示があった次の日、懇意にしている女王がこっそり会いに来てな。嬉しそうにべらべら喋っていったわ。アルクくんの話題は、うちに限って解禁になったと言っておった。我慢するのが辛かったとこぼしておったの。いやぁ、共通の話題で話せる友人というのはいいものじゃな」
こら、僕の謝罪を返せ、女王様。
なんだ、我慢するのが辛かったって。誓ってからそんなに経っていないだろうに。しかも、今のところってどういう意味ですか。
それにしても大神官様の言っていた、懇意にしている女王とは現女王のようだ。大神官様といい女王といい、いったいいくつなのだろう。
「神に誓って君の秘密はヒミカに言わないと約束しよう」
その神様が一番信用できないのです。
でもいつかはヒミカさんに話す日が来るのだろうか。
それに今は幼きお嬢様にも。
「でも、なぜ僕なんです?」
大神官様に聞いた。
執事見習いである僕より、適任者は大勢いるはずだ。
「あの子は、君を心から信頼している」
あの子。
そう言った大神官様の目は慈愛にあふれていた。身体は小さくて幼女のようであっても、ヒミカさんを三歳まで育てた親でもあるのだ。大神官様が言った、あの子という言葉には、心からの愛情が感じられた。
「だからこそ、アルクくんに頼りたい。君ならその知識であの子を守ってくれるじゃろ。どうか頼む」
そう言って、僕に深々と頭を下げた。
その姿勢は、紛れもなく子を心配する親の姿だった。
「頭を上げてください。僕でよければ力になります」
「本当か! ありがとうアルクくん」
嬉しそうに顔をあげる大神官様。
だが、もともと彼女から暗殺の話を聞いたときから力に貸す気でいた。それに今では彼女は大切な友人であり、隊商の仲間なのだ。なによりお嬢様が、ヒミカさんをお姉ちゃんと言って慕っている。
「だが、もしヒミカを裏切るようなことがあれば――」
嬉しそうな顔から一変、僕を睨む大神官様。
「――あれば?」
「神ノ意思ニ背イテモ、魂マデ焼キ尽クシ、二度ト転生デキヌヨウニシテヤロウ」
その途端、武装してこいと言ったときと同じように、大神官様の瞳の色が金色に変わり、赤く輝く魔力があふれだした。先ほどよりも鋭く飛ばされる魔力のせいで、また何冊かの本が飛ばされるように落ち、そのページが乱暴にめくれていく。
それに先ほどとは全く迫力が違っていた。
鋭くあふれる魔力に混じる大神官様の殺気だ。
僕に向けられたのは、一瞬だったが、炎を纏った槍で心臓を穿たれたかのような錯覚に囚われる。
あるはずのない幻の傷穴から炎が噴き出し、生きながら周りの肉をじゅくじゅくと焼き焦がしながら、僕の身体を溶かしていくような感覚だった。全ては殺気が見せた幻だが、僕の身体はその幻痛に震え始めている。焼けたような喉の痛みに呼吸するのも苦しいほどだ。
ただ、身体に感じる熱は気のせいではないらしく、執務室の中の温度は確実に上がっているのだろう。じりっとした熱気は、目の前の大神官様から伝わってくる。
あれ? 僕お願いされたほうだよね、という疑問は、殺気によってすでに瞬殺済みだ。
椅子に座ったまま目を離さない僕を見て、大神官様はニタリと楽しげに笑った。
「一瞬とはいえ、うちの殺気を受けて意識を保っているだけでも大したもんじゃ」
「わ、笑いごとじゃありませんって」
冗談じゃない。
あんな殺気を食らい続けたら、間違いなく死ぬ。死んでしまう。身体的には大丈夫かもしれないが、先に精神が壊れる。当セイバスさん比、三倍というところだろうか。いつぞやかの朝に感じたセイバスさんの殺気には、楽にしてやろうという愛情すら感じたが、大神官様の殺気に感情はなかった。無機質で作業的な殺気だ。故にことさら恐ろしい。神官ではなく、手練の暗殺者と言ったほうがしっくりくる。
この大神官様を本気で怒らせたらまずい。
見た目幼女でも油断ならない。
本人は感心してくれているが、椅子に座ったままなのも、目を離さなかったのも、ただ単に動けなかっただけだ。
今日ほど蛇に睨まれた蛙の気持ちがわかった日はない。
「成長が楽しみな逸材じゃな。うちの目に狂いはなかった。15歳を超えたら勝負しよう」
「結構です」
あと五年でどうこうできるレベル差ではないだろう。
魔族が強いのは、体質や魔力の量だけが理由ではない。例外はあるものの、歳を重ねながら、自らを鍛え、学ぶからこそ魔族はほかの種族よりも、強く、賢い……いや、強くなれるし、賢くなれる。
長命な魔族だからこそ、その努力はどの種族よりも積み重ねられる。
生きているだけでは、強さは身につかないのだ。
それは生まれながらして膨大な魔力を持つ高位魔族であっても同じこと。他種族が使えないような強力な魔法が使えたとしても、努力しなければ魔力の持ち腐れである。
だからこそ立派な執事になれるよう、日々修行を重ねているのだ。
「たった五年では、セイバスさんのような執事になれるとは思えません」
「……何を言っておるんじゃ、君は」
「執事の話ですよね」
「言っておくがヒミカを守ってくれといったのは、彼女の執事になってくれと言ったわけではないよ?」
「やだなぁ、それくらいわかってますよ?」
大神官様の目が痛い。
殺気の混ざった視線よりもなぜか痛い。
まあ高位魔族の場合、生まれながらにして力や魔力が大きいため、ほかの種族のように努力しなくてもかなり強い。努力とはなんだったのだろうか、というくらい強い。例外という言葉は、高位魔族のためにある。もはや笑うしかないレベルだ。その高位魔族が努力すれば、エルフや龍族以外の種族たちなど太刀打ちできるものではない。
ごめんね、ほかの種族たち状態である。
「そういえば、神殿で毒のない食材を配りたいって?」
元の幼女モードに戻り、足をぷらぷら揺らし始めた大神官様が、突然話題を変えた。こちらはじっとりとした嫌な汗がまだ引いてないというのに、なんともマイペースな方である。
「はい。ぜひ許可をいただきたいのですが」
「いいよー。ヒミカから聞いてる」
随分、あっさりと許可が出た。
前もって話を通しておいてくれたヒミカさんのおかげである。これで僕たちの計画は順調に進むことだろう。
「これもヒミカのためだし。毒に対するトラウマとうちの料理が原因となった偏食も、君のおかげで良くなっているみたいだしね。もちろん、神殿にも分けてくれるよね」
「お分けするのは構いませんが、ご自分の料理が原因でヒミカさんが偏食になったことに自覚はあるんですね」
「結果的に良かったのか悪かったのか悩ましいところだよ。ヒミカが毒に弱いと知ってからは、良かったと思うようにしているけど」
「朝、昼、晩と毎食決まったスープというのもどうかと思いますが。三種類しかありませんよね」
「ほ、ほら。うち、大神官やってるから忙しいし、料理にあまり興味ないし、パンもふもふだし、忙しいし」
(忙しいって二回言ったな)
言い訳をする声がだんだん小さくなり、しょぼーんとした顔をする大神官様。
「はいはい。料理するのが苦手なんですね」
「苦手じゃないし」
(まあ、戦闘狂だから仕方ないか。包丁の扱いは得意そうだけどね)
「今、『戦闘狂だから、包丁で食材を切るより、敵を斬り刻むほうが得意なんだろ? この戦闘狂神官め! 俺と勝負だ!』とか思ったじゃろ」
「思ってません!」
斜め上どころか、次元すら超えてきた。
完全に僕が喧嘩を売ったことになっている。
本気で五年後、闘うつもりだろうか。
感情的になると老女モードに突入するようだが、かぶっていた猫を脱ぐといったほうがしっくりくる。
作るのが苦手かどうかはともかく、普通の魔族に料理をさせると、色合いが綺麗な毒入り料理が出てくるだけだ。そこに味は関係ない。
そう言った意味では、むしろ大神官様の料理は、味覚を持つヒミカさんが食べていたし、食べることができた。そのことからも、まずいわけではなさそうだ。
ただ、ヒミカさんから聞いた大神官様のスープは、どちらかというと旅の途中で食べる野営食や簡易食の印象が強い。干し肉も干し魚も塩漬けの魚も全て保存食だ。
「話に聞いた大神官様のスープって野営食みたいですよね」
「ぎ、ぎくぅ」
……今、ぎくぅって言ったな。
わざわざ口に出して。
「きょ、今日は天気がいいのぅ」
明後日のほうを見ながら、露骨に話題を変えようとし始めた大神官様。
まぶしそうに薄暗い部屋の天井を見上げたり、雲のようにあちこちに視線をさまよわせたり、意味なく腕を上げたり下げたりしている。口笛のつもりなのか、すぼめた口からは、ふしゅーふしゅーと空気が漏れたような音が聞こえてくる。
その態度はどうみても不審者だ。
そこに大神官という肩書きを持った方の姿はない。
「野営食みたいとはいえ、ちゃんとスープが作れるのですから、そこまで料理下手ではないと思いますが」
「うち、下手とか言ってないし。修行時代に作っていたスープとかじゃないし。それに、忙しいだけだし。パンだって、もふもふだし」
必死で言い訳をする子供のような大神官様。
しれっと事実らしい言葉が紛れていた。どうやらヒミカさんが毎食飲んでいたスープは、大神官様が修行時代に作っていたものと同じスープだったようだ。朝、昼、晩と同じスープだったのも、修行に明け暮れ、料理をおざなりにした結果に違いない。朝昼晩と三食同じスープでなかったことは、奇跡とも言えるだろう。
だが、パンを『もふもふ』と表現する意味は未だにわからない。
「なにが苦手なんです?」
料理が苦手にも関わらず、「違うし、苦手じゃないし」と言う大神官様に、言い訳という名の理由を聞いた。
大神官様が作るスープの料理方法は簡単に言えばこうだ。
『干し肉や野菜などの食材を切る』、『鍋に入れる』、『水を入れる』、『火にかける』という単純なもの。あとは干し魚や干し肉から塩気が出るし、ダシも出る。
問題は、最後の火にかけるという工程。
大神官様が料理を苦手とする理由、それは『火加減』だった。
しかも『火を使わない』のに、火加減が苦手という意味のわからないものだ。
「意味がわかりません」
「なんで? 鍋を持つじゃろ? 魔力込めるじゃろ? スープが煮えるじゃろ?」
「そこです!」
詳しく話を聞くと、大神官様は火を使うのではなく、魔力を熱に変えて料理するそうだ。
そういった意味では火加減ではなく、熱加減と言うべきだろう。
方法は簡単だ。
鍋やフライパンなどに触れるだけでいいらしい。
まさにIHクッキングヒーターのようなものだ。
しかも熱を通すものなら鉄である必要はなく、なんでもありというチート仕様。もちろん融点(個体が液体に変わる温度)を超えれば溶けるものは溶けるし、発火点(火源がなくても火が出る温度)を超えれば燃えるものは燃える。
ところがこの大神官様。持ってる魔力がハンパではない。
そのせいか、ちまちまとした魔力を流すのが苦手らしく、集中を乱すといろいろとやらかすらしい。
「料理以前に、魔力制御が苦手なんですね」
「苦手じゃないし。石窯や鍋は大丈夫だし」
「鍋、溶かしてますよね」
「ちっ。ヒミカめ」
余計なことを言いおって、と舌打ちする大神官様。
鍋を溶かしたという話は、以前、ヒミカさんから聞いていた。
スープを作っていた大神官様が、食材に紛れ込んだファンガスの声に驚き、鍋ごとファンガスを溶かしたという話だ。集中を乱すとどうなるか、よくわかる一例だった。
ほかにも、野菜を切っているときにひょっこり出てきた虫に驚いて野菜炭を作ったり、鍋に入れる水の冷たさに驚き、あたり一面を水蒸気で視界不良にしたり、リンゴやバナナを切っているときに信者のくしゃみに驚いてドライフルーツを作り上げたり、とそれはもういろいろとやっている。
驚いた理由もいちいち子供かと思うほど単純なものばかりだ。
これはもはや料理が苦手というレベルではない。
料理以前の問題である。
このIHクッキングヒーターこと大神官様だが、間違いなく強火しかない。しかも鉄製の鍋をも溶かす超々強火機能付きだ。安全という言葉と最も縁遠い機能である。料理を作っていたら鉄を製錬していましたということになりかねないのだ。
IHの略は、【Infernal Heat(地獄の熱)】に間違いない。
「頑張れば大丈夫だし」
「頑張ったら、ますます溶かしちゃいそうですね」
「頑張るのは鍋だし」
鍋も災難である。
「それはともかく、ヒミカのことは任せたよ」
「お任せください。なにがあろうとも一生――「懸「へっくちん」命」――彼女を守ります」
大神官様が変な『くしゃみ』をしたあとのことだ。
グワァーン! ガラン――ウアン――ウァン――ァン――
執務室の扉の向こうで響く、甲高い金属音。
ひょいと、椅子から飛び降りた大神官様が扉を開く。
そこには、顔を赤く染めたヒミカさんが、床にフライパンを落としたまま固まっていた。
災難が起きたのはフライパンのようである。
「一生……一生……」
固まったままのヒミカさんが何かをつぶやいている。
「ヒミカか。どうした」
「に、にゃんでもありましぇんわ」
「なんでもって……あー、なるほど」
フライパンを拾いながら大神官様と僕を交互に見て顔を赤くするヒミカさんと、ヒミカさんに声をかけたあとニタァとした顔で僕を見る大神官様。
「アルクくん」と大神官様。
「はい、なんでしょう」
「最近のヒミカはね、アルクくんからもらった食材を嬉しそうに食べるんだよー」
「喜んでいただけたようで、僕も嬉しいです」
「料理の腕も上達しているようだし、いいお嫁さんになると思わないかい?」
「ええ。きっと素晴らしい奥さんになるでしょう」
「でもせっかく上手に料理しても、魔族じゃ味わかんないよね」
「もったいないですよねぇ」
「味がわかる魔族がいるといいね」
「そうですね」
「にゃぁぁあ」
ニタニタと目を細める大神官様の隣で、ヒミカさんは熟したリンゴのように真っ赤になって変な声をあげていた。先ほども大神官様がくしゃみをしていたし、もしかしたら風邪でも流行っているのだろうか。熱が出ると挙動不審になるというし、大丈夫かな。
「スープしか作れない大神官様よりすごいですもんね」
少しばかりの皮肉を混ぜてみる。
関係ないが、スープに炒めたひき肉を入れると味に深みが出て美味しくなる。
「君は例外だけど、普通に毒食ってる魔族に言われたくないし。まあ、確かにヒミカが作った料理は、どれも美味しそうだったけど」
「え? 美味しそうって……? 味わかるんですか!」
「わかるよ。うち、魔族じゃないし」
「え?」
「え? 聞いてないかい?」
二人してヒミカさんを見る。
リンゴのように顔を真っ赤にさせていたヒミカさんは、熟したトマトくらいの赤になっていた。うん、あまり変わっていない。
そういえば、トマトって見つかってないよなぁ。
大神官様と僕の視線に気がついたのか、ぼーっとしていたヒミカさんが我に返る。
「そんなに見つめないでください」
照れたように、ヒミカさんが身をよじる。
あまりよじると、イーラさんみたいにクネクネしそうだ。
できるなら手遅れになる前にやめたほうがいいと思う。
やはり風邪なのだろう。挙動が不審だ。
「それより、うちのことアルクくんに話してないの?」
「え? フライパンを溶かしたときのことですか?」
巫女の口から出た衝撃の新事実。犠牲者(?)は鍋だけではなかった。凶刃に溶ける調理器具たち。戦慄の実話が今、明かされる。生き残りの調理器具はいるのか! 「お前だけは!……お前だけは無事でいてくれ」と言い残した彼。最後の言葉を聞いた鍋のフタの激白。パートナーを失った茫然自失の日々。崩れていく未来予想図。彼女に幸せは訪れるのか。
大神官様の目が点になっている。
「なるほど。鍋だけでなくフライパンも犠牲に……次は石窯でしょうか」
僕は、取り出したハンカチで目頭を抑える。
「よおし、アルクくん。その喧嘩買った。覚悟を決めて武装して――」
「それ、もういいですから」
「ぐぬぬ」
あれ? という顔をするヒミカさんだが、どうやら勘違いに気がついたようだ。
「大神官様が精霊様だというお話ですか」
てっきり調理器具たちのことかと、と照れ笑いをする彼女。
たち? まさか鍋とフライパン以外にも?
いや、本題はそこじゃない。
魔族の神様に仕える大神官様が精霊だって?
それかなり重要な話ですよ、ヒミカさん。
「味がわかるのに、作れる料理が三種類のスープだけとは。なんという宝の持ち腐れ」
「まだ言うか。よし、わかった。問答無用で燃ヤシテヤロウ」
しまった。重要なのはそっちじゃない。
ついつい料理ができないというほうに舵が傾いてしまう。
即座に謝罪して、ちらりと顔を出した殺気のご機嫌をとっておく。
「前は食べられるだけで十分っておっしゃっていたのに」
「ヒミカの作る料理がどれも美味しそうなんだよね」
なるほど。
魔族とか精霊とかは別として、以前の大神官様は味にこだわりのない方なのだろう。美味しいとか、美味しそうとか思うことはあっても、味を重要視していなかったようだ。そうでなければ三食同じスープでも平気なはずがない。
「今度、大神官様にもごちそうしますわ」
「ほんとかい! 絶対だよ!」
ヒミカさんの言葉に喜ぶ大神官様。
この態度を見る限り、今までの意識も変わってきたのだろう。
食の力は偉大である。
ヒミカさん曰く、「食べられるだけ十分」と言っていた大神官様でさえ、卵サンドに興味を示しているし、毒のない食材もわけて欲しいと言っている。
これもヒミカさんの影響だろう。自分が可愛がっている子が、美味しそうに食事する姿を見て、味への意識が変わってきたに違いない。単純に、ヒミカさんが作った手料理を食べたいだけかもしれない。我が子が初めて作った手料理を喜ぶお母さんのように。
味に興味がある、ということは美味しいもので釣れる可能性があるということだ。『大神官様、美味しいものを作ってきたよ! だからお願い!』作戦を考えなくてはなるまい。そういった意味では、味のわからない魔族を説得するよりも簡単そうだ。
「ところで、大神官様が精霊というのは本当ですか」
「本当だよ。その話は準備しながら話そうかね」
にこにこしながら、よっこいしょ、と椅子に座る大神官様。
部屋に入ってきたヒミカさんは、荷物を一旦下ろすと、床に落ちていた本や書類などを拾い始めた。落ちているのは、大神官様の悪ふざけのせいで本棚から落ちた本たちだ。犠牲になったのは、鍋やフライパンなどの調理器具だけではない。
「アルクくんとの話が面白くて拾うの忘れてたよ」
ヒミカさんにお礼を言う大神官様。
本気で殺気飛ばしておいて、面白いもなにもない。
「もう、しょうがないですね」と笑うヒミカさん。
なんて気の利くお嬢さんだろうか。
間違いなく素晴らしいお嫁さんになるに違いない。
拾い上げた数冊の本をテーブルの隅に置いたヒミカさんは、卵を焼く準備を始める。僕も手伝いながら、テーブルの上に調理器具や大神官様が焼いたというパン、それに卵を並べていった。
今朝焼かれたという大神官様のパンは、パンそのものが輝いているかのようだ。こんがりとムラのない焼き目が食欲をそそり、とても美しい。趣味で焼いてると言ってたわりには、素晴らしい出来である。伊達に神官全員分のパンを焼いているわけではなさそうだ。
(フライパンを持ってきたのは、大神官様がいれば火がいらないからか。便利だなぁ、大神官様)
大神官様の能力に感心しつつ、本題に入る。
「大神官様が精霊だったとは驚きました」
「あまり驚いたようには見えないけどね」と大神官様が笑う。
「どのような精霊か、聞いてもいいですか」
「うち、火を司る精霊フェニックスだし」
まさかの不死鳥だった。
不死鳥とは、まさに死なない鳥。
死んでも火があれば復活するとか、火山から生まれるとか、焼き芋焼かせたら世界一と言われる、あのフェニックスだ。
精霊であれば確かに長生きしているだろうし、寿命の概念もあいまいだろう。
僕の隣ではヒミカさんがパンを切っている。
大神官様は答えながら、パンから目を離さない。
僕の話、聞いているのだろうか。
「そんなフェニックスである精霊が、なぜ魔族の国で神官を?」
「当時の魔王に頼まれたからかなー。フルボッコしちゃったお詫びも兼ねてるし、そのとき暇だったから」
軽く握った両拳を口元に当てながら、きらきらした目で首をかしげながら、テヘッっと笑う幼女。その姿は火の鳥フェニックスではなく、サギである。
(魔王さまをフルボッコねぇ)
魔族の頂点であり、最も強い者が君臨するというその魔王様をフルボッコしたという大神官様は、悪びれた様子もなく、今も料理の準備をするヒミカさんのほうを見ている。
その目の先には、綺麗に切り分けられたパンがあった。
暇だったというのが本音だろうが、そんな精霊を神官に据えるとは、フルボッコされた魔王さまも大したものである。
「でも精霊が魔族の神様の最高責任者というのは違和感がありますね」
「そう? うちら精霊にだって信じるものはあるよ。そこに種族の壁は関係ないし。それが物だったり、自然だったり、神様だったりね。今、うちは目の前にあるパンの味を信じてる」
キリッとした顔で、神様とパンを同列に扱われても困るのだが、彼女の顔は至って真面目だ。
「精霊も食事するんですね」
「当たり前だよ! 魔族と一緒で食材から魔力を吸収してるし」
なるほど。精霊が食事をとる理由は魔族と同じのようだ。
しかも魔族と違って味を理解していると。
「どんなものが好きなんです?」
「なんでも食べられるけど、特にうちは火を通した料理が大好き!」
だからパンとかスープなのだろうか。
本当に料理が苦手なら、「オマエ、アタマカラ、マルカジリ」とか言いながら、ナマニクを食べるだろう。……いや、さすがにそれはないか。
火を通した料理が好きなのに、火加減が苦手とは、なんとも切なくなる話だ。
「そんなことより卵を早く焼いてよ」
幼女モードに入っている大神官様の関心は、すでに卵に移っている。精霊であることや魔王様をフルボッコにしたことを、そんなこと扱いとは、当時の魔王様も涙目である。
「早く焼くし!」
徐々に目が殺気立ってきた大神官様。その様子から、これ以上話を聞くことは不可能だと判断した僕は、ため息をつきながら卵を焼く準備に取り掛かった。
全てが終わったとき、時刻はすでに夕方にさしかかっていた。
結局、お嬢様のおやつの時間にも間に合わなかった。
お嬢様成分が日に日に、枯渇していく。
(それにしても大神官様、たくさん食べたな)
大神官様にせがまれ、何度となく卵を焼くハメになった。ヒミカさんも練習がてら焼いており、すでに完璧な焼き加減だ。
ミノスさんからもらったバターを溶かしたとき、バターの香りに大神官様とヒミカさんの二人が幸せそうな顔をしていたのが印象的だった。
大神官様にフライパンを持ってもらいながら料理するという違和感はあったが、火加減は問題なかった。もう一度言おう。火加減に問題はなかった。
バターは焦がすと美味しくなくなるという説明に、大神官様は相当集中したのだろう。大神官様が、魔力制御という名の中火を覚えた瞬間である。まあ、明日には忘れている可能性が高い。
それにしても大神官様の焼いたパンが、あんなに柔らかくふわふわだったとは思わなかった。まさに『もふもふ』である。最高品質の羽毛布団に手を押し当てたかのような柔らかさ。もちっとした食感。噛むと歯に適度な弾力を与えつつ、溶けるようなその味わい。大神官様のパンは、小麦の甘さと香ばしさを存分に引き出していた。
大神官様、恐るべしである。料理が苦手でもパンの味は絶品だ。これが味のわからない普通の魔族である神官連中の口に入ると考えると、もったいないと叫ばずにはいられない。
侯爵家で出されるパンも素晴らしく美味しいのだが、このパンはそれ以上に素晴らしかった。お嬢様のおみやげ用に、いくつか包んでもらったくらい美味しかったのだ。
そんな素晴らしいパンで作った卵サンドは、言わずともわかるだろう。ふわふわのスクランブルエッグに、ふわふわのパンの組み合わせは最強である。
ほかにも大神官様から、紹介してもらった食材があった。
それはもふもふパンにも使われていた食材だ。僕にとってはなつかしく、馴染み深い食材。何百という品種が作られ、最も愛すべき穀物だ。
そう。お米だ。
もふもふパンには、この米粉が使われていた。
どこで作っているのか聞くと、知り合いの水の精霊が作っていると教えてくれた。もふもふのために送ってもらっているそうだ。
侯爵領でもぜひ育てたいと話し、種籾が手に入らないか聞いてみる。熱の入った僕のお願いに、若干引いたような大神官様だったが、手配してくれることになった。
今回の件で、少しだけ大神官様の扱いがわかってきた気がする。大神官様は、間違いなく体育会系の姐御肌に違いない。頼まれると断れなかったり、熱血という言葉に弱かったりするはずだ。
手配には少し日数がかかるそうで、手に入り次第、侯爵領に送ってやると言ってくれた。
僕も味覚を意識するようになってから、さほど日が経っていないせいか、米を食べなくても禁断症状までは出ていない。だが、あるとわかった以上、食べないと落ち着かないのも事実だ。前世でお米が主食だった僕としては、大神官様には感謝しても感謝しきれない。
侯爵領にお米が届いたら、毎日、炊きたてを大神官様にお供えして、お祈りしようと思う。
……あれ? これはご供養のときだったっけ?
なにはともあれ、またひとつ食材が手に入ることになった。
お米は、お嬢様の離乳食に使える素晴らしい主食となる。
神殿から帰る途中、ヒミカさんを家まで送っていった。
侯爵家へと帰る僕の手には一冊の本が握られている。それほど厚い本ではない。タイトルには、『魔種族たちの歴史』と書かれていた。この本は大神官様からいただいたものだ
そのときのことを歩きながら思い出す。
それは思い出すだけで落ち着かない話だった。