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あなたと巡る、愛しい雨旅  作者: 七賀ごふん
葉越しの候

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#7



わざとおどけて言うと、彼は相好を崩して鞄を置いた。

「じゃあ、この部屋でお世話になろうか」

「了解ですっ」

網戸を閉め、風が入るように窓を開ける。

部屋に置いてるものは学生の頃のままで、ちょっと気恥ずかしかった。

「明るくて優しそうなおふくろさんだ」

「そうですね。本人には言えないんですけど、本当に……俺にはもったいないと思ってます」

彼に椅子を示して、自分は学習机の椅子に座った。

「命の心配も、お金の心配もない。色んな経験もさせてもらえた。こんなに幸せな家に生まれさせてもらったのに、何やってんだろ。って思うことがたくさんあった」

「……都築」

景さんは複雑そうに呟いた後、腰を上げて俺の前に佇んだ。


「生まれ変わったことに罪悪感を覚えてるなら、それは大間違いだ」


前髪を優しく持ち上げられ、顔を上げる。


「俺が証明してやる。こうして巡り会えただけで、お前は充分立派なんだって」

「景さん……」


濁った泉に、あたたかい光が射し込む。

こんなにも嬉しいことを言って、どうしようもない心を救ってくれるのは、世界で彼だけだ。

「好きです。景さん」

「知ってる」

目を合わせ、二人で笑う。白い球が橙から青に変わるまで、俺達は互いの手を繋いでいた。



夕食は母が腕をふるい、お祝い事の日のように豪勢な献立だった。

「さあ、食べて食べて。地味なご飯で申し訳ないけど」

「すごい。こんなにたくさんの山菜、食べられるお店はあまりありませんよ」

景さんが笑いかけると、母は尚さら気を良くし、瓶ビールを開けた。

「母さん、父さんに声掛けようか?」

「あ、そうそう! 多分お部屋で食べるから、都築ご飯持って行ってあげて」

「そんなに動けない状態なの? やばいな……」

久しぶりに顔を合わせるから色々緊張するけど、お盆を持って奥の居間へ向かった。

昔はよくここで稽古されたっけ。辛いこともたくさんあったけど、……昔を思えば耐えられた。

結局、死を目前にするより辛いことはない。足を止め、縁側から声を掛ける。


「父さん。俺……都築。……ただいま」


物音は聞こえたけど、返事がない。しかしお盆は部屋に置きたいので、襖に手をかけた。

「勝手に入りますよぅ……」

開けると、以前より少し痩けた父が、ベッドの上にいた。てっきり横になってるかと思ったけど、端座位をとって本を読んでいた。


「腰、大丈夫? 母さんが、その……心配してたから」


帰ってきた、と告げて卓にお盆を置いた。

自分も心配した、とは、恥ずかしくて言えなかった。父からすれば家を飛び出した息子だ。ふらふらしてるように見えて、言いたいことはたくさんあるだろう。


今さら帰ってきたのか……と言われるかもしれない。

でも、父は何も言わずに湯呑みをとり、お茶を飲んだ。

「向こうが騒がしいが、友人を連れて来たのか」

「あっ、うん。紹介したいから、後でここに連れてきてもいいかな?」

「いい。私から行く」

「歩けるの?」

「もうほとんど痛みはない」

聞けば、雨漏りしていた屋根を見ようと梯子を運ぶ際にやってしまったようだ。保険に未加入だったから費用が掛かるのが嫌だったみたいだけど、次からは見る前に業者に頼むと言って、父は腕を組んだ。


今回のことはともかく。今までできてたことも、これからはできなくなっていくだろう。

人は老いて、弱っていく。“今”が永遠に続くことはない。


当たり前過ぎて忘れがちなことだ。だからこそ、後悔したくない。


「屋根の補修はできないけど、物の移動とか庭の手入れとか、できることは俺が全部やる。迷惑じゃなければ、前より帰るようにするから……無理しないで」


俯き、か細い声で零した。

拒絶されることが怖くて、目を合わせることはできなかったけど。父は仏頂面をやめ、驚いたようにこちらを向いた。

「お前、前は米十キロ持つだけでもピーピー泣いてただろ」

「それすごく小さい時の話……!」

さすがに物申したくて、火照る顔を隠しながら答えた。

「力仕事も大丈夫だよ。東京に行ってから、応募できるものなら何でもやったんだ。工場も配達も引っ越し業者のバイトも。フォークリフトだって乗るし」

「驚いたな」

父は顎に手を当て、かすかに口元に笑みをたたえた。

「……今は楽しいか?」

卓上のスモールライトが、頼りない明かりを灯している。

俺はそれを見て、再び父に視線を戻した。


「楽しいよ」

「そうか」


湯呑みを置き、父は腰を上げた。慌てて彼の体を支え、一緒に歩く。

「逞しくなったじゃないか。……楽器しか触ってなかった手が」

昔より幾分細く、皺ができた手に包まれる。

うん、と短く答えて、縁側を歩いた。

「ごめん、父さん。楽器が嫌なわけじゃないんだ。ただ、他にやりたいことがある」

「もういいさ。お前が昔からなにか探し回ってるのは知ってたからな」

歩幅を合わせ、随分軽くなった体重。その重さを胸に留めながら、ゆっくり頷く。

「誰かと一緒に、やりたいことを見つけたんだろう? それなら最後まで貫いてやれ」

「うん」

どう接したらいいのか。分からなくてひとり悩んでいたけど、父は俺を応援してくれていた。

それにようやく気付けて、胸の中がいっぱいになった。


「ありがとう、父さん」


この家に生まれて良かった。

突然そんなことを言ったら心配させそうだから、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

もう少し時が経ったら、躊躇いもなく言ってしまうだろう。

その日を少し楽しみにして、母と景さんが待つ部屋へ向かった。




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