第十九話
真実を知りたい。そう思い行動したことは、一斗自身拙速だったかもしれないと感じ始めていた。だが、兄の無実を信じる有希子は藁をも掴む思いで一斗の記憶に賭けている。
たった一度会っただけの、記憶が戻る保証もない自分しか頼りにできない焦り、希望と不安。真相究明はまだ始まってもいないのだ。今から張り詰めていたら、ちょっとしたことで切れてしまいそうな有希子の気持ちを和らげたい。怒らせてしまう可能性も高いが、それでも構わない。肩の力を抜いてもらいたいし、怒った顔や困った顔が見たいという子供じみた気持ちもあった。
「本当に自分に賭けてるつもりなら、賭け金が欲しいですね」
有希子の体をチラッと見てから言った。
「代償?」
有希子の頬がほんのり赤くなり、狙い通りの勘違いをしているのが分かる。
「そう、そこのカフェでランチを。もうお腹がペコペコなんです。苦学生にお昼を奢ってください」
一杯食わされたことに気づいた有希子は顔を真っ赤にして怒り、ぷいっと横を向いた。
「一斗の馬鹿っ!」
初めて呼び捨てにされたが、悪い気はしない。
「悪い冗談を言ったことは謝ります。でも今の有希子さんは張り詰めていて、いつか切れてしまわないか心配なんです。ほんのちょっと、力を抜きませんか」
僅かな間のあと、背中に有希子の重みを感じた。
「一斗の馬鹿……。女の子を泣かせた責任を取ってもらうから」
「責任?」
「そう、少しだけこのままでいて」
背中から有希子の手が回され、一斗をぎゅっと抱きしめる。
一斗も自分の手を重ねて指を絡ませると、首筋に有希子の唇が触れた。
「お昼にしようか」
気持ちが落ち着いたのか、十分ほどで有希子が抱擁を解いた。
二人の間に気まずい雰囲気が流れた気がするが、それを感じているのは一斗だけのようだ。
「大人をからかったんだから、少し反省しなさい」
「自分だってもう子供じゃないです」
アレンを連れてずんずんと先を歩く有希子に追いついて反論した。
「私の方が六歳もお姉さんなんだから口答えしないの」
「えっ?」
一斗の反応に、有希子がしまったという顔をした。
「どうして自分の年を知っているのですか?」
最初に会った日も今日も、一斗は自分の年齢を話していない。大学生と言っただけだ。事件当時も二十代の大学生としか報道されていないのを、二年前の資料で確認している。
初対面の時、有希子の表情が一瞬固まったのを一斗は思い出した。あの時は自分が例によって不自然な態度だったためと思っていたが、有希子も間違いなく自分を知っていたのだ。
事件前から一斗を知っていたのなら、記憶を探る意味でも隠す必要はない。知ったのは事件後、そして思い当たる理由はただ一つだった。
「よく考えれば、あんな都合の良いタイミングで角膜提供者が現れるはずはないし、移植待ちの順番を飛ばして研究名目で提供が受けられたのは不自然な話ですよね。つまり、自分に角膜を提供してくれたのは……」
「兄貴よ」
それにしても分からないことがある。
「だけど、普通は誰に提供したかは分からないはずです。なぜ知っているのですか?」
座ろうか、そう言って有希子は近くのベンチに腰かけた。
「あの日、兄貴と一緒に高牧総合医療センターの救急救命室に搬送された患者さんが、両目に化学熱傷を負って失明寸前だって聞いたの。兄貴はアイバンクに登録していなかったから、何もしなければ移植はされずに終わってた」
一緒に搬送されたのは間違いなく自分だ。
「有希子さんが提供を申し出てくれたのですか?」
「最初は断られたわ。提供するなら名簿順に待っている患者さんが先だって。でも当時、兄貴は加害者みたいに言われていて、そのせいで無関係の人が失明するのは耐えられなかった。それに、同じ景色を兄貴と見られそうな気もしたし。だから、あなたに移植しないのなら提供しないって粘ったら、研究目的なら何とかできるかも知れないって言われて……」
有希子の言っていることが本当なら、移植のガイドラインに触れる行為だ。そんな危ない橋を渡る医師がいるとは信じられなかった。
「私はあくまで治療実績の少ない事例の研究用という名目での提供に同意して、あなたは運よく提供を受けた角膜を実験的に移植されただけ。私は誰に提供されたかは知らないことになっているし、あなたと接触しないのはもちろん、このことを口外しない。それが条件だったの」
入院初期に聴取した警察官は別にして、仁木が一斗の目のことを知らなかったのはそのためか。移植した医師にしても、移植のガイドラインに触れる自分の行為をわざわざ警察に言うことはしなかっただろう。
だが、そのお陰で今の一斗は光を取り戻している。
「ありがとうございました。有希子さんとお兄さんのお陰で、自分はまたこの世界を目にすることができています。それに、有希子さんと逢うこともできた」
一斗は立ち上がると深々と頭を下げた。
「気にしないで。その代わり、兄貴の分までたくさんの世界を見てね。それに、私からは接触できなかったけど、あなたは私を見つけてくれた。感謝するのは私の方よ」
「でも、頂いたものの大切さを考えたら代償を払うのは自分のようですね」
一斗は笑いながら言った。
「そこはお姉さんに任せなさい」
有希子も笑って歩きだした。




