二校の未来
9
常楽斜陽高校は夏の甲子園に向けての地区予選、第一回戦を突破した。その事実を、未だ僕は現実として受け入れることができていなかった。結果は1-0という僅差だったが、勝ったことに変わりはない。だが、夢でも見ているのではないか、夢だからこんなに物事が調子よく進むのではないか。そんな疑念が僕の中でしつこく居座っていた。
「何呆けとんねん、友哉」
バスに乗り込んで、ぼけっと流れる木々を眺めていると、唐突に貴浩が僕の視界に割り込んでくる。どうやら、後ろの席から前かがみになっているらしい。
「……そんな体勢取ってると、怪我してまうよ」
「大丈夫やって、お前は心配性――うわっと!!」
僕の忠告を軽くあしらおうとした貴浩は、突然の揺れにバランスを崩す。前かがみの体が僕の席までなだれ込んできそうなぐらいに、一瞬は傾いた。しかし、体幹を使って何とか立て直す。
「……言わんこっちゃない」
僕が呆れて苦笑すると、貴浩もようやく落ち着いたか、少しだけ腰を沈めた。
「それで? 何でお前は一回戦突破した後やっちゅーのに、そんなくらい表情しとんや? もしかして体調悪いんか?」
「いや、体調は全く問題ないから大丈夫。ありがとう。そんな深刻な問題やないよ。僕の……内面的な問題かな」
貴浩になら言っても良いだろうが、ほかのメンバーもいる。聴かれたら少し恥ずかしい、という理由もあって、僕は適当にはぐらかした。しかし、
「もしかして……友哉、今日勝ったことが信じられんくて悩んどる、とか言わんよな? な、友哉?」
どうやら、僕の心の内は、彼にはお見通しらしい。僕は肯定するのもなんだか負けたような気がして癪にさわったので、何も言わずに窓ガラスに映る自分の顔を見る。
「ははっ、何ともお前らしい悩みやな。よっしゃ、えーこと教えたるわ」
僕の無言など全く気にしていない様子で、貴浩は勝手に話を進める。僕は視線だけ窓の外に向け、耳は一応貴浩の声に傾けておく。
「……まぁ、これまでこの学校の野球部に対して全力で取り組んできたお前のことやから、もしかしたら俺たちよりも常楽高校野球部に関して知っとるかもしれん。それは先輩としてはちょっと悔しくはあるけど、同時に誇らしくもあるで。一つ下の後輩が、そして幼馴染が、みんなの事を思って部を再建しようとしてくれたんやからな」
僕は何もしてないよ。もしそう思っているのなら、それは周りのみんなのおかげだ、と心の中で呟く。結果的に、僕一人で成し遂げたことは何一つない。一人で結果を出すことが全てとは思わないが、少なくとも、全力を出して物事に取り組めたのは、葵や瑠璃、俊介に亮輔、良太、石崎先輩、そしてもちろん貴浩もいてくれたからだ。
「やからかもしれんけど、どうもお前は敏感になっとるように見える。チーム事情や、結果、戦績について、必要以上に上を求めんとして足掻いてるように、俺には見える。普段から馬鹿やってる俺が言うんも変な話やと思うかもしれんけどな、そんなに肩肘張らんでええねん。何も、お前の双肩にチームの命運の全てがかかってるわけやない。俺らは勝った。それは先発したお前が、きっと一番よーわかっとるはずや。何せ、相手を零点に抑え、そして自ら決勝点のホームを踏んだ。あれだけの歓声と砂を浴びといて、まだ今のこの状況が夢やと思とるんか? お前らしいっちゃらしいけど、それは俺たち選手にも、相手校にも失礼やと、俺は思うで」
「……うん」
力なく僕はうなずく。確かに、僕は野球部を変えようと尽力してきたつもりだ。烏滸がましいが、ある時は先輩よりも頑張っていたかもしれない。だから、知らずのうちに自分がこのチームのリーダーなのだと、心のどこかで勘違いをしていたのだろうか。自分のわがままを満たすために、僕は余計な疑念を持ち、他人に間接的な迷惑をかけていたのだろうか。
貴浩の言ったことは、僕の悩みの核心をついているように思えた。そう、僕は相手を完封し、試合の中で五角形を踏んだ唯一の人物なのだ。だから、僕たちは勝った。あの感触は、確かに夢ではなかった。
「……俺の話聴いてもまだこれが夢やと思うんやったらな」
いつの間にか貴浩が僕の席の横にまで来ていた。そして、なぜか良太と葵までいる。瑠璃はと言うと、やはり眠っていた。
「友哉、わしゃ自分の頬をつねったら、痛い。これが夢やないってこと、教えたるで」
「ふっ、友哉! 覚悟!!」
「そういうことや」
三人そろって僕に襲い掛かってくる。
なるほど、確かに、いま僕に伝わってくる感触は、実体を持っている。頬をつねられる痛みと共に、ベンチからの、そしてスタンドからの歓声が蘇る。それらが、僕に訴えかけるように音量を増していくのを、静かに感じていた。
「おはよー」
僕たちはすれ違ったクラスメイト達に軽く挨拶を交わしながら、朝の廊下を歩く。しかし、今日の学内はいつもより雰囲気が違うように感じた。みんなが一つの話題に陶酔している感じだった。
「あ、楠木! 一回戦突破おめでと!」
その違和感を疑問に思いながら自分の席で荷物の整理をしていると、不意に近くにいたクラスメイトたちがそんな言葉を掛けてきた。「ありがと」と僕は簡単に返す。
「聞いたんやけど、楠木が先発して完封したんやって? お前すげーな!」
「しかも、決勝のホーム踏んだんもお前やとか」
「うわ、完全にヒーローやん!」
周りのみんなは、僕の話題で勝手に盛り上がっている。我がことのように喜んでくれている。中学校の時は、地元の小さな大会しかなく、こんな風にみんなに労われたり、祝福されることは多くなかった。だから、共に喜びを共有してくれる人がいるというのは、少し慣れない感覚だった。
「もしかして、みんなそのことで盛り上がっとるん?」
クラスを見回して、彼らに問う。普段からクラスメイトと接しない数人を除いては、クラスの人たちのほとんどが野球の話題で燃えていた。一年生だけではない。いわば、学校中にその話題は広まっていた。
「あぁ、せやで。去年まで部員数足りんくて出場できてへんかったんや。それが、今年連合校として出場して、しかも一回戦突破。これで野球好きが盛り上がらんわけがないやろ?」
「……まぁ、確かにね」
苦笑して曖昧に返す。自分が誰かの話題に上がるというのはもちろん嬉しいのだが、同時に恥ずかしさも込み上がってくる。葵や瑠璃は女子生徒に囲まれ、良太たちも輪に交って何か会話を交わしていた。
それだけ、この学校にとって、野球部の勝利とは大きなものなのだ。みんなが関心を持ってくれていることを僕は嬉しく思う。
ただ、気になったのは誰かの会話の中から聞こえてきた一言。
『常楽だけでいつかは甲子園に行きたいね』
近い将来、それは実現するかもしれない。甲子園には行けなくても、常楽だけでの大会出場は、僕たちが卒業するまでに果たせるかもしれない。だが、不安はある。そして、それは斜陽との連合校の解体を意味している。一般生徒から見れば、他校がその勝利の中に混じっているというのは、今一つ気分の良いものではないのかもしれない。それも、何気なく口にした一言に過ぎないのだろうが……。
僕は、気づけば二校の未来のことについて、深く考えを巡らせていた。
昼休み、自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰を下ろしていた。朝休みのあと、結局昼休みまで話題が潰えることはなかった。僕たち野球部員はそのたびに引っ張っていかれ、質問攻めに遭った。そのため、疲弊しきってしまい、今は一人になれる場所を求めて、ベンチへとやってきたというわけだ。
はぁー、と一つため息を吐き、空を見上げる。どこまでも高く伸びるような、夏の足音を感じさせる空だった。
「あ、友哉。こんなとこにおったん?」
聞きなれた声に顔の位置を元に戻す。僕と同じく、缶ドリンクを持った葵が立っていた。
「ん、まぁね。みんなから質問攻めに遭ってたら疲れてしもて。葵も?」
「私もそんなとこ。女子にも意外と野球ファンって多いんよねー。みんなの活躍についてめっちゃ聞かれたわ」
苦笑しながらそんなことを漏らす。持っていたミルクティーを開缶して口をつける。
「葵ってミルクティーとか好きやったっけ?」
「いや、正直言うとコーラとかのほうが好き。でも今日は売り切れやってなー。しゃーなくミルクティーにしたんよ」
今は木陰ができているから暑いといっても、耐えきれない、というようなものではない。だが、ふとした拍子に飲みたくなる人が増えているのだろう。夏のコーラとは、抗いがたい魅惑があるのだ。
「でも……もう夏なんやな」
先ほど見た景色をもう一度映す。変わらない雲の流れが、間違いなく季節を移ろわせているのだと実感させる。
「そう。もう夏なんだよ。またあの『アツい』季節がやってくる……」
去年のテレビ越しの風景を思い出す。あの輪を為す瞬間を笑って楽しめるのはどこになるのだろう。しかし、その権利を、今年の僕たちは持っている。
「今日、みんなの話を聞いてさ」
また一口、液体をのどに流し込んで、葵が話し出す。
「みんなが私たちの野球部に大きな期待を寄せてくれてるんだ、ってことが分かった。みんな本当に嬉しそうで……。私は実際にグラウンドに立ってプレーした身やないけど、それでも、自分が大きな何かを果たしたような感覚に陥るほど、みんなは喜んでくれた。友哉もそうちゃう?」
短い頷きを返す。それを見て、葵はまた嬉しそうに破顔した。
「でも……でもね、これももしかしたら友哉も聞いたかもしれんけど、『うちの高校だけで出れんのん?』って声も多くあったんだ。私は今のチームでも悪くないと思う。やっと統率がとれてきたし、バランスも悪くない。誰かのミスを誰かがサポートできる状態になっとる。前の近松高校との試合がそれを表しとった。なぁ、友哉はどう思う? そのことに関して……」
朝休みを終えてからしばらく考えに耽っていたが、気持ちはやはり変わらない。僕も、今のチーム状態に不満はない。不安はあれども、みんなで解決できるだけの力を持っている。
「僕は……やっぱり常楽高校だけで何れは出たい。斜陽とのチームを解体するんは少しさびしいけど、いつかは僕たちだけで自立せなあかんと思う。きちんと、一つの『野球部』として認めてもらうためには、それは義務やと僕は思うよ」
葵は黙って僕の話を聞く。やがて漏れたのは「そっか」という一言だけだった。
「やっぱ友哉もそう思うかー。それじゃあ、今はまだ何もできんけど、来年は頑張らなあかんね、新入部員。今年、常楽から抜ける先輩はおらへんから、最低三人かな。守備位置にもよるけど」
「来年の事を言ったら鬼が笑うよ」
「うっさいわ」
くすくすと二人で笑いあう。そう、来年の事も考えなければならないが、今はそれ以上に大事なことがある。次の試合まで、そう時間はない。