87.叩く前の手
乾物屋の裏口は、夜より朝の前のほうが冷える。
人がいないからじゃない。
いる人間が、音を殺すからだ。
アークは板戸の正面に立たない。
三歩外して、桶の縁が見える位置。
叩く場所が見える位置だ。
ミラは洗い場の陰。
リオは荷縄置き場の影。
三人は、同じ呼吸をしない。
「叩かない」
ミラが小さく言う。
アークは頷く。
「叩く前の手を見る」
待つ。
鐘のない刻が、少しずつ薄くなる。
足音が一つ来た。
役所の小使いじゃない。
歩幅が揃っていない。
重さを隠している足だ。
男は板戸の前で止まり、桶を見ない。
先に袖を整えた。
指が白い。
粉じゃない。
紙の糊を触った白さだ。
リオが喉の奥で笑った。
「受けに来る手だな」
男は桶の縁へ指を伸ばさない。
その代わり、板戸の下の隙間へ細い紙を差し込んだ。
合図じゃない。
通行だ。
板戸が内側から少し開く。
棒を落とす音ではない。
開けたまま、人を通す音だ。
ミラの目が変わる。
「中の人が、待ってました」
男は入る。
入った瞬間、板戸が閉まる。
棒が落ちる。
乾いた音。
アークは動かない。
動けば、紙になる。
板戸の向こうで、縄がほどける音。
結び直す音。
次に、紙を数える音。
指先で端を揃える音だ。
リオが、いつもの軽さで言った。
「数える音まで、癖だな」
軽い言い方だ。
でも目は笑っていない。
板戸がまた開く。
男が出てくる。
手に持っているのは薄い木箱。
箱の側面に、欠け印。
右上。
ただし、押しが浅い。
縁だけが立っている。
ミラが息を吸う。
「見せる印」
アークが短く返す。
「顔だ」
男は木箱を抱えたまま、桶へは触れない。
叩かない。
叩く必要がない。
もう中で通っている。
男が角を曲がる。
そのとき、袖口から紙片が一枚落ちた。
落としたんじゃない。
落ちた形を作った落ち方だ。
リオが先に動いた。
拾わない。
踏む。
足裏で止めて、紙片が風で流れないようにする。
そして、何でもない声で言う。
「落としたぞ」
男は振り返らない。
振り返れば、紙になるからだ。
代わりに、板戸の内側で小さく棒が鳴った。
合図だ。
リオが鼻で笑う。
「返事は中かよ」
ミラが桶の影から半歩だけ出る。
紙片を拾うのは、ミラだ。
傷めない手つきで、端だけ取る。
アークに渡す。
アークはその場で開かない。
外で読むと、外の紙になる。
外套の内へ入れて、言った。
「戻る」
「帳場で読む」
リオがいつもの軽口を戻す。
「やっと“読む”が来たな」
ミラが小さく返す。
「でも、先に落ちました」
アークは歩き出しながら言う。
「落ちたのは紙じゃない」
一拍置く。
「落としたのは、手だ」




