屋敷は檻になる
鉄格子が開く音は、思ったより小さかった。
派手な音を出さない。民に聞かせない。
“公爵を出した”という事実まで、紙にしたくないのだろう。
腕章の男が廊下に立っていた。牢の前ではなく、少し離れた場所。こちらを迎えに来た形を作らない距離だ。
「公爵殿。こちらへ」
命令じゃない言い方を選ぶ。丁寧な言葉で、首輪を締める。
俺は立ち上がり、歩いた。
歩けることが、自由とは限らない。
窓のない通路をいくつか越えたところで、男が足を緩めずに言った。
「釈放ではない」
「分かっている」
男は続ける。
「今夜、中央広場で“沈静化”の声明を出していただく」
「あなたの口からだ。あなたが黙れば、街は黙らない」
沈静化。
きれいな言葉だ。きれいな言葉は、だいたい誰かを黙らせる。
「条件がある」
男は紙を出さない。ここで紙に残せば、あとで誰かが拾う。
口で言う。口で縛る。
「セレナの名を出すな」
「事故の原因に触れるな」
「調査に触れるな」
「質問には答えるな。読み上げるだけでいい」
読み上げるだけ。
公爵に求められているのは、言葉じゃない。声だ。紙の代わりに、声を使う。
「……従わなければ」
男は淡々と言った。
「あなたの屋敷が燃える」
「そして、それも“民意”と紙に書ける」
脅しは直接言わない。
事実として言う。
事実の形をした脅しが一番効く。
俺は頷いた。
従うふりをする。今は、それしかない。
外へ出ると、夕方の光が眩しかった。
牢の石の暗さに慣れた目には、街が白く見える。
馬車が待っている。
派手な家紋はない。護衛はいる。だが護衛だと分からないように立っている。
見せない監視だ。
俺は馬車に乗った。
車輪が回り、街の音が遠ざかる。
代わりに、遠くで号外の声が聞こえた。
「通報せよ」
「協力者を――」
その声はもう、事故の話をしていない。
相手探しをしている。狩りの準備だ。
屋敷の門が見えた。
石の門柱。黒い鉄の扉。いつものはずなのに、今日は違う。
門は迎える形じゃない。閉じる形に見える。
門が開く。
馬車が入る。
門が閉まる。
閉まる音が、やけに重い。
玄関に灯りが点いていた。
必要以上に明るい。客のための灯りだ。
出迎えの列がある。使用人たちが並ぶ。
だが、誰も顔を上げない。目を合わせない。
合わせた瞬間、何かを言ってしまいそうだからだ。
執事だけが一歩前に出た。
背筋がまっすぐで、声も揺れない。
「お帰りなさいませ、旦那様」
“ただいま”と言える空気じゃないのに、執事はそれを言う。
屋敷が崩れないための言葉だ。
俺は短く頷いた。
「中は」
「整っております」
「……そして、本日中にお客様が参ります」
“参る”。
執事は宰相府と言わない。言えば紙になる。屋敷の中でも紙は走る。
俺は靴を脱ぎ、廊下を進んだ。
絨毯が足音を吸う。静かすぎる静けさが、逆に怖い。
途中、壁に掛かった絵の前で足が止まった。
先代の当主。
正しい顔をした肖像だ。正しい顔ほど、何を隠しているか分からない。
執事が一歩だけ近づき、声を落とした。
「旦那様。お戻りの道中、書面は渡されましたか」
「……いや。口頭だけだ」
「承知いたしました」
執事はそれ以上聞かない。
聞かないことで、屋敷を守る。
俺は自室へ向かうはずだった足を止め、逆の廊下へ折れた。
執事が、すぐに気づく。
「書庫でございますか」
「……場所を確かめるだけだ」
場所。
その言葉で誤魔化せるほど、軽いものじゃない。
書庫の前に立つと、空気が少しだけ変わった。
紙の匂いが濃い。古い革の匂いも混じる。
ここは屋敷の中で、いちばん“紙が生きている”場所だ。
鍵を回す音が小さく響いた。
扉が開く。
灯りを点けないまま、俺は中へ入った。
棚は黙って並んでいる。
背表紙の色は揃っているのに、揃いすぎていて気味が悪い。
あの事故の報告書と同じ匂いがする。
俺は奥へ歩いた。
壁際に、ひときわ古い棚がある。
ここだけ、床板の鳴り方が違う。
何度も踏まれて、何度も止まった場所だ。
俺は指先で棚の端をなぞる。
触れると、わずかに冷たい。
木じゃない。木の奥に、別のものがある。
呼吸が浅くなる。
――あそこにある。
誰も知らない場所に。
誰も知らないものが。
俺は、棚の一角に手を置いた。
押すわけじゃない。叩くわけでもない。
ただ、確かめる。
壁の向こうが“空”だと分かる、微かな響きが返ってきた。
俺は手を引いた。
まだ開けない。
今、開ければ、俺は公爵じゃなくなる。
公爵でなくなった瞬間、今夜の声明が紙に負ける。
背後で、執事が静かに言った。
「旦那様。――玄関の灯りを増やしてよろしいでしょうか」
客のための灯りだ。
俺は目を閉じた。
「……増やせ」
「承知いたしました」
執事は去る。足音が吸われていく。
書庫に一人になると、紙の匂いが強くなる。
この匂いの中で、俺は初めて理解した。
屋敷は家じゃない。
今夜のための檻だ。
そして檻の奥に、“もう一つの檻”がある。
開けるのは、今夜だ。
廊下の向こうで、玄関のノックが鳴った。
丁寧な音だった。
丁寧な音ほど、強い。
執事の声がする。
「――いらっしゃいませ」
俺は書庫の扉を閉めた。
紙が走る前に、呼吸を整える。
声を整える。
今夜、俺は公爵として話す。
俺の言葉ではない言葉を。
そして、夜が深まったところで――
あの壁の向こうへ手を伸ばす。




