38.水路の裏路
港の裏道は、灯りが少ない。
灯りが少ない分、影が濃い。影が濃い分、足音がはっきりする。
石壁が近い。水路の匂いが上がる。魚と泥と、冷えた金属。
ミラは水路の手前で立ち止まった。
濡れる場所を、紙は嫌う。
だから運び手は、ここを避ける。避けるなら、必ず“この道”を通る。
整備士の言葉が、まだ耳に残っている。
――紙は濡れたら終わる。
――避ける道は、決まってる。
ミラは裏道へ入らない。
入口の外、灯りの届く角に背を預ける。
そこなら、見られても「帰り道の人間」に見える。
歩き出す理由がなくても不自然じゃない。
袖の内側で、手袋の指先を擦った。
煤の匂い。
町の煤じゃない。油が混じった、刷り場の煤。
“匂いで分かる”。
紙を読むより前に掴むやり方だ。
遠くで鐘が鳴った。
港の時刻を告げる鐘。働き手が引く合図。
その合図のあと、荷が動く。荷が動けば、紙も動く。
ミラは呼吸を整えた。
走らない。
追わない。
追えば、狩りが追いつく。
――足音。
石を軽く擦る音が、裏道の奥から来た。
一人分。だが、荷の音が混じる。紙束の端が擦れる、乾いた音。
ミラは顔を上げない。
顔を上げた瞬間、目が合う。
目が合った瞬間、名が欲しくなる。
名が出た瞬間、紙になる。
足音が近づく。
ミラは、自分の足元の水たまりを見た。
水路の脇にできた浅い溜まり。踏めば音が鳴る。
鳴った音は、運び手に「気づいた」と伝わる。
だから踏まない。
代わりに、ミラは石壁の突起に指先を当てた。
出っ張りの角。欠けた石。そこに、白い粉が薄く残っている。
粉は、石灰だ。
港の壁を補修したときに使う粉。
――運び手は壁を擦っている。
通るたびに、荷が壁に当たる。
当たるたびに、角が削れる。
削れた粉が、ここに残る。
ミラは動かないまま、背中だけを壁から少し離した。
紙束が当たらない距離を取る。
足音が角を曲がる。
運び手は、顔を上げない。
帽子の縁が目元を隠している。手袋をしている。
それでも分かる。
持ち方が、慣れている。
紙束を胸に抱えない。濡れないように、脇に挟んで身体から離す。
紙を守る持ち方だ。
ミラは、運び手の靴底を見た。
黒い粉。
煤。刷り場の煤。
ここだ。
ミラは、わざと一歩だけ動いた。
水たまりを避けて、乾いた石の上へ。
“コツ”。
小さな音。
小さすぎて、気づく人間だけが気づく音。
運び手の肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
跳ねたのに、振り向かない。
振り向かないのは、慣れているからだ。
慣れているのは、追われることに慣れているからだ。
ミラは、追わない。
運び手が通り過ぎる、その瞬間だけ狙う。
紙束の端が、石壁の欠けに触れた。
触れた端が、ほんの少しだけ裂ける。
裂ける音は、紙を扱う人間には分かる。
ミラは、その裂けた端を“見た”だけで拾わない。
拾えば持ち物になる。
持ち物になれば、狩りが追いつく。
ミラは、低い声で言った。
「……濡らすつもりはない。止めたいだけ」
運び手は足を止めない。
止めないまま、声だけを落とした。
「止めたいなら、名前を呼べ」
ミラの喉が、ひゅっと鳴りそうになる。
だが、飲み込む。
名前は、罠だ。
名前を出した瞬間、狩りは“相手”を得る。
ミラは答えを変えた。
「名前じゃない。手を見たい」
運び手の歩幅が、一瞬だけ乱れた。
乱れた瞬間、紙束が壁に軽く当たる。
壁に当たった部分に、白い粉が付く。
ミラはその“付いた場所”を目で掴む。
運び手は、振り向かないまま言った。
「手を見たら、何が変わる」
ミラは短く返す。
「紙の外に戻せる」
運び手が、鼻で笑った。
「外なんてない。……この国じゃ」
その言い方は、知っている人間の言い方だ。
脅しじゃない。諦めでもない。
“仕組み”の話をしている。
ミラは、歩幅を合わせない。
合わせたら並走になる。並走は仲間に見える。
仲間に見えたら、狩りはミラも切る。
ミラは一拍だけ遅れて、同じ方向へ歩いた。
同じ方向だが、別の人間に見える距離。
裏道の出口が近づく。
出口には灯りがある。
灯りの下は、人の目がある。
目がある場所で、運び手は“普通”に戻る。
ミラは、そこで勝負をしない。
勝負をすると血が出る。血が出れば、紙が強くなる。
強い紙は、セレナの空白を“消し”に変える。
ミラは、口を閉じたまま手袋の指先を擦った。
煤の匂いを、もう一度。
運び手は出口の灯りへ出る直前、紙束を持ち替えた。
ほんの一瞬、手袋がずれる。
指先が見えた。
爪が短い。
皮膚が荒れている。
紙で荒れた荒れ方じゃない。油で荒れた荒れ方だ。
刷り場の手。
運び手の手。
ミラはその指先を覚えた。
覚えるだけ。
ここで掴まない。
運び手が灯りの下へ出る。
途端に、歩き方が“港の人間”になる。
誰が見ても疑わない歩幅。
ミラは出口の角で止まり、壁の欠けを見た。
白い粉が、さっきより広がっている。
粉の上に、黒い煤が薄く混ざっている。
――通った。
ミラはそこへ指を触れない。
触れずに、袖の内側の布で壁を“軽く拭く”。
拭くのは、取るためじゃない。
匂いを移すためだ。
布に、油の混じった煤が移った。
これなら、整備士が嗅げる。
匂いで“場所”が絞れる。
ミラは布を丸め、手袋の内側へ押し込んだ。
押し込んで、姿勢を正す。
そして、何でもない顔で港の灯りの下へ出た。
追っていない。
見ていない。
ただ、帰る人間の顔。
その頃、宰相府。
乾いた部屋で、紙が束ねられていた。
白い紙。硬い紙。丁寧な文字。
文官が言う。
「港の混乱を抑える文面を整えました。……“理由”を一つに寄せます」
宰相は紙束の端を揃え、角を指で押さえた。
揃える仕草が上手い人間ほど、揃えた裏を知っている。
「理由を一つにすると、人は楽になる」
宰相は穏やかに言った。
「楽になると、手が動く。……狩りの手だ」
文官が息を呑む。
宰相は続ける。
「だから、手が動く前に、手を疲れさせなさい。――配給を回しなさい。列を保たせなさい」
文官が頷いた。
「その上で、“敵”の形だけを整えます」
宰相は、紙束の角に小さな黒点を打つ。
ずれた黒点。
「港は、明日から静かになる」
静かになる、はずだ。
紙の上では。
港の灯りの下で、ミラは歩いた。
布の中の煤が、まだ匂う。
匂いは、嘘をつきにくい。
――入口は見えた。
捕まえられなかった。
だが、次は捕まえる必要がない。
手がかりがある。
匂いがある。
ミラは胸の奥で言った。
――空白を、消しに変えさせない。
そして、布を握り直した。




