36.薄箱の戻り道
夕刻の帳場では、紙の匂いより先に報告の順番が立つ。
アークは机の上に木片を五つ置いた。
《役所前》
《南札屋》
《倉庫横》
《配給所》
そして何も書かれていない一枚。
「見た順で」
アークが言う。
先に話したのはミラだった。
今日の主役を自分だと分かっている顔で、余計な前置きを入れない。
「配給所の帳面役が、青線の札を木箱に落とさず右手で受けていました」
「補助役が声を置く前に、帳面の欄を先に作ってます」
「欄に《戻し》があります」
リオの目が細くなる。
軽口はない。
ミラは続けた。
「役所裏で見た若い文官が紙を持ち込みました。帳面役は中身を見ず、結びを見て帳面の下へ」
「札屋と倉庫横と同じ通し方です」
「あと、札を戻す箱を二つに分けていました。薄箱だけ裏口へ回ります」
最後の一行で、アークの指が止まる。
机の上の《配給所》の木片を、何も書かれていない札の近くへ寄せた。
「薄箱の先が机か」
アークが低く言う。
「まだ入口です」
ミラは言い切る。
「でも、配給所から外へ出る“別の戻し”があります」
アークは頷き、次にリオを見る。
「港前」
短く促す。
リオは壁に背を預けず、机へ手を置いた。
今日もその癖は崩さない。
「火付け役の一声目のあとに、二声目がいる」
「仕事は調整だ。怒りを広げるんじゃなく、向け先を整える」
「“役所も困ってる”“相談は先に通る”を足して、通報と相談の列へ寄せる」
アークが《役所前》の札を叩く。
「列の順番に戻す声、か」
「そう」
リオは肩をすくめる。
「善人の顔でやるから、余計に厄介だ」
その言い方に、ミラの目が少し動く。
反論ではない。
同じものを見た頷きだ。
アークは五枚の木片を並べ替えた。
役所前、配給所、南札屋、倉庫横。
最後に空白札を中央へ置く。
「火付け役は点じゃない」
「一声目、二声目、補助役、帳面役、運び手で回してる」
リオが小さく笑う。
「ようやく“口”から“手”に降りてきたな」
アークは返さず、空白札を指で押さえた。
「ここがまだ見えてない」
「薄箱の戻し先を決める机」
ミラが即座に言う。
「配給所の裏口から追えます」
「今夜は追うな」
アークが遮る。
ミラが一瞬だけ黙る。
反発ではない。
理由を待つ沈黙だ。
アークはその沈黙を見てから続ける。
「今日は配給所で目を数えられた」
「帳面役が一度、お前を見た」
ミラの視線がわずかに揺れる。
気づかれていたことは分かっていた顔だ。
それでも、言葉にされると重い。
「はい」
「だから今夜は入口だけ取る」
アークは言う。
「中へ入る手じゃない。運ぶ手の癖を取る」
リオが口角を上げる。
「得意分野、来たな」
アークは首を振る。
「今回はミラだ」
リオが眉を上げる。
「俺じゃないのか」
「配給所の薄箱は、昼の顔で運ばれる」
アークは短く答える。
「お前が追うと、相手は追われたと思う」
「ミラなら“見られたくない相手”の側に入れる」
ミラは何も言わなかった。
ただ背筋が少しだけ伸びた。
任されたときの反応だ。
アークは机の引き出しから古い港の見取り図を出す。
修繕小屋、荷縄置き場、配給所裏へ抜ける小道。
父の代の流通図だ。
《配給所》の札から港端の修繕小屋へ、指で一本線を引く。
「夕方、人が帰る刻に薄箱は動く」
「昼の列が終わり、札が戻る刻だ」
「修繕小屋の前は、荷の出入りに紛れやすい」
ミラが地図を見て頷く。
「遠回りに見える道で行きます」
アークの目が一瞬だけ細くなる。
その言い方で、もうミラの中に絵ができていると分かる。
「近道は使うな」
「狩りに追いつかれる」
ミラは短く「はい」と返した。
リオが机の端を指で叩く。
「俺は港前に残る。火付け役の受け取りと、二声目の顔を拾う」
「必要なら、靴磨きの子も使う」
アークは頷く。
「あの子には“最初の声”だけ見せろ。深追いはさせるな」
リオの顔から一瞬だけ軽さが消えた。
「分かってる」
帳場の外で、刷り場の乾いた音がひとつ鳴る。
次の朝の紙だ。
アークはその音を聞きながら、空白札を裏返した。
まだ何も書かない。
「今夜、机の脚を三本目まで見る」
「名前はまだ要らない。入口だけでいい」
ミラが外套を手に取る。
リオも同時に動く。
別れる前、アークがミラを呼んだ。
「ミラ」
「はい」
「道具を作る手を見ろ。点じゃない、手だ」
ミラは一拍だけ目を開いて、すぐ頷いた。
「……はい」
その言葉を胸に入れる顔だった。
帳場の灯りの下で、見取り図だけが机に残る。
配給所から港端へ伸びる一本の線。
まだ細い。
だが、切れてはいない。
次に見るのは、薄箱そのものじゃない。
それを“ただの荷”に見せる手の入口だ。




